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  • 愛と言葉・・・2

    こんにちは。

     今回のブログ担当も、今日で最後となります。今週は雪がチラついたりして、底冷えした日もありましたが、ようやく春の足音が感じられるようになりました。風も少し暖かくなり春の匂いを感じます。紅梅のつぼみも、知らぬ間に膨らみ、ようやく花開いてきました。

     春の匂いのする風というのは、なんだか気持ち良いですね。そういえば、やさしい言葉のことを「春風心」と言うそうですね。春風のように、ふんわりと人を包んであげる言葉という意味だそうです。せっかく春がすぐ近くまできているのですから、そんな言葉を心掛けたいですね。

     鎌倉時代の禅僧、道元は「正法眼蔵」という書物を遺されました。「正法眼蔵」の菩提薩埵四摂法に愛語の項というのがあります。
     ここで、それを書き出すということはしませんが、道元の「愛語」に感銘を受けて、その愛語の精神を生きる指針とし、身をもって実践した人が、江戸時代の良寛和尚だといいます。
     やはりココロにヒビク、コトノハというのは、時代を経てもイノチをもち、新たな現象を生じさせるのですね。
     

     また、現代では酒井大岳という方が「正法眼蔵の愛語に学ぶ」という本を出されています。冒頭の「春風心」という言葉は、この本からでした。春風心は母の愛だといいます。
     
     父の愛はというと「秋霜心」。こちらは、きびしい言葉。身が引き締まり、目覚めさせ、変えてゆく力をもつ言葉。

     父の愛の言葉は、その時は反発もあるだろうが、将来の発展につながる言葉でなければならない。そして母の言葉も、その時はほっとしても、後々怠惰につながってしまうようではいけない。
     母の愛の言葉も父の愛の言葉も、その場しのぎとか、その場限りの言葉ではないということ。時空の間を超越して、より良くなるものなのだ。

     母の愛と父の愛、2つ揃えば功徳は無尽蔵。そしてそれは、イノチを紡ぐ自然のなかに在る。母親と父親の親の親の、そのまた親。陰(−)と陽(+)を設定し、おおいなる自然を創りたもうた、おおもとの親の愛にある。
     それは太極であり、その理念である愛と調和なのだ。そしてそれは、自然法則の内に在る。

     酒井大岳氏は「正法眼蔵の愛語に学ぶ」の中で、このようにも書いています。
    「真実の愛語は、自然の法則、宇宙の法則に反する世界にはないのです。人間だけでなく、一切のかかわりあいの不思議にしっかり目を向けたうえでの『愛語』でなければなりません」

    「真の愛語は、自然の法則の外にはなく、たとえその場でうらまれても、先の先へいってかならずほんとうの喜びをもたらすものです。そしてその愛語は、決して1対1のことにとどまらず、いつの時代(永遠)の、だれの心(普遍)をも、しっかりとうなずかせるちからをもつものでなければなりません」

     道元良寛橋本敬三も、おおもとの親の愛の学びに、その生涯をささげていたのだと思います。

    正法眼蔵の愛語に学ぶ

    正法眼蔵の愛語に学ぶ

     
    今回は、このへんで終わろうと思っていたのですが、今朝、新聞を見ていて素敵な詩があったので紹介します。

     産経新聞朝刊より、朝の詩。


                  東京都杉並区
                   松崎 義行 50
    私の手を包んでくれた
    あなたの手
    私の手が
    おぼえている
    あなたの
    冷たい手の温かさ
                 (選者 新川和江
                         *敬省略

    一週間どうもありがとうございました。
    明日からは中谷さんの担当となります。
    来週もどうぞよろしくお願い致します。

    「2015年春季東京操体フォーラム」開催決定
    4月29日(祝)に開催いたします。
    『目からウロコ』のプログラムを企画しております。
    詳細は以下、「東京操体フォーラムHP」をご確認ください。
    http://www.tokyo-sotai.com/?page_id=980

  • 愛と言葉。

    おはようございます。

     昨日は、操体の創始者、橋本敬三先生を想い、その歩まれた道のりをちょっとだけ書きました。その中で「この世は現象による『報い』が成立する世界なのだ。愛はあっても、それを現象に反映させなければ物事は始まらない」と自分自身で書いたのですが、読み返していて、「そうだよなぁ」と自分で妙に納得していました。

     操体について何か書いているときというのは、何か自分以外のものに突き動かされて書いていると感じる時があるのです。自分以外のなにかとは、やはり自分と共に在るイノチなのではないでしょうか。
     自分なんてのは、ほんとにちっぽけな存在だ。しかし、自分と共に在るイノチというのは、あらゆるものにつながりを持つ事ができ、無数の記憶を包含していると感じる。
     そういうイノチと、皆、誰でも共に歩んでいる。これは人間に限らず万物、万象につうじるものだと思います。そして、イノチとイノチは時空を問わず、表在的にも潜在的にもつながりをもっている。だから、皆、個性的ではあるが奥底にある良心は同質なのだと思う。イノチとイノチをつなぐもの、それは愛しかないのではないでしょうか。

     「愛はあっても、それを現象に反映させなければ物事は始まらない」自分自身で書いた、この言葉を反芻してみる。そして、愛を現象に反映させるものとは、と考えてみる。色々と突き詰めていけば、言葉しかないことに気づく。
     綺麗な花や高価な宝石のプレゼントがいいと言う人もいるだろう。しかし、それらは持っていける範囲が相当狭く、自分の行動範囲に限られてしまうだろう。そして、花は時が経てば枯れるし、宝石だって磨かなければ、ただの石ころのようになってしまうのだ。
     愛は時空を超えている。それに見合うものとなったら言葉しかない。
     

     創始者は言葉の持つ力、言葉の重要性というものも、広く人々に解ってもらおうと啓蒙した人であった。よく「言葉は運命のハンドルだ、善きことを想い、善きことを述べよ」と言っていたと聞きます。
     また、著書の中には度々、ヨハネ伝から「最初に言葉あり、言葉は神と偕に在り、言葉は神なりき。万の物これによりて成る」という文章の引用がみられる。引用ではあるが、この文章には創始者のこだわりというか、想いが感じられる。
     「言葉は神と偕に在り」という文言を見て感じたのだが、想いを込めずに単に引用しただけだったら、「偕に在り」という漢字の使い方はしないと思う。「偕に」の偕は人偏に皆、人は皆ともとれる。そして「在り」は存在にも自在にも共通してある漢字だ。
     「言葉は神と偕に在り」創始者の想いを察すると、言葉は神と一緒に人間皆がもっている、万物、万象とつうじ合っている人間のイノチがもっている、という様に感じられる。

     考えてみれば、言葉で表現できるのは人間だけであり、言葉で表現できるから人間は色々な文化、文明を創造、構築できた。文明を構築できるという事は、自然環境に手を加える事ができるということでもある。他の動植物では自然環境に、これ程までに手を加えられない。他の動植物に多大な影響を与えているのだ。
     万物、万象のイノチは平等であり、それぞれに尊い。しかし、法位は違う、人間の法位は特別なのだ。言葉をもつことによって、神と偕に同じ創造主の役割を担っているのだとも感じる。責任重大だ。

     しかし、言葉はただ単に発するだけでは、文化、文明を創造するような力は持たない。時空の流れの中で、ぱっと出て、すぐに消えてしまうだろう。理念の無い言葉というのは創造力を持たないのだ。イノチにヒビク、コトハでないと。
     神が理念を宣言して宇宙を創生したように、人間も理念をもって言葉を発しなければ創造性は発揮されない。人間の理念と神の理念が近しいほど、創造性は発揮され、それぞれのイノチにヒビキ、人のココロに何年、何十年、いや永遠に刻まれるものとなったり、末永い文化、文明の構築、発展につながるのだと思う。そう、愛と言葉は時空を超越するのだ。 

     神(創造主)の理念、それは「愛と調和」である。愛と調和への導き、それは自然法則の内にある。
     自然法則を学び、愛の本質を感じていくことこそ、愛と調和という理念を学ぶ事につうじる。人間が特別の法位にあるといっても、万物、万象全てに生かされて生きているのだから。
     そして、自分自身の置かれた時空環境の中で、より良い愛の波動を偕った言葉を、意識して発していく。これも一生ものの、実践をとおしての学びなのだと思います。

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  • 愛からの道程。

    おはようございます。

     昨日はちょっとだけ操体について書きましたが、操体の創始者、橋本敬三先生ほど愛と共に人生を歩んだ人は、いないのではないかと思っています。愛について感じ、考え、悩み、そしてまた愛から気づきを得、観の転観を迎え、大いなる安心と大いなる自信を得、真理の追求に邁進し、自然法則の応用貢献の土台を築き、その成さんとした事を愛を持って次世代にバトンを渡した。
     それは、創始者の著書にも表れており、我々はその愛に触れながら操体に親しむことができる。また、その真意を一人の高弟に愛をもって託した事で、私達は創始者の成さんとした事を、道を踏み外すことなく、愉しみをもって学んでいける。

     創始者は著書の中でも書いておられるように、18歳の時に山室軍平先生の「神は愛なり」という説教を聴き、いたく感激し、それから頻繁に某キリスト教会に出入りするようになったという。しかし、その教会で説いている内容に次第に不安を感じるようになったという。
     なぜ不安になったのか。その教会では、人間は神の前に罪悪を犯しているものであるから、そのままでは赦してもらえない、キリストの愛を信じ、そのような行いをした者だけが救われる、といった内容に重点を置いて教えを説いていたからだ。

     創始者は、こう書いている「自分が罪悪深重の凡夫であることはよくわかる。神の愛もわかる。キリストの贖罪もわかる。しかし自分はキリストを救主と信ずることによって、一旦赦されても、また繰り返し繰り返し、罪を犯すことから脱出できないのである。懺悔して悔いあらためても、またまた罪を犯すのである。この生身の体をもち、五官の貪欲な本能がそれぞれ頭をもたげてくると、どうしてもこれを制しきれないで、つい悪いと知りながら、負けてしまい、次から次へとさまざまな罪を犯すのである。」

     この中の五官の貪欲な本能がそれぞれ頭をもたげてくると、というのは一つには食欲があるだろう。一番身近なものだと思う。人間だって他の動物のように、食べなければ生きていけないのだ。つまり他の生物の生命を奪わなければ生きていけない。
     そういったようなことに、純真な青年期の創始者は罪悪感を感じ、霊と肉体の板ばさみにあって苦悩してしまったのだと思う。食欲に関したことに限らず、こうした罪悪意識に苦悶し、そんな自分でも救われる道はないものかと5年間苦しんだという。

     そして23歳の或る日、盛岡の牧師・平野栄太郎先生から、エペソ書の第1章より創世以前の久遠の生命の観念の提示を受け、自分は生まれぬ先から、聖別され祝福された神と同格の永遠の生命そのものであるとの自覚を得た。そして「救い」と「報い」の区別をはっきり教えられたという。
     そして、創始者は観の転換による悟りを得たという。つまり、霊、イノチは元々救われているという事であり、5年前の自分は肉体を有してからの現象としての肉体しか見ていなかった自分であり、肉体の心は見ていなかった。肉体の細胞を構成する原子にだって意志と意識があるのだ。肉体の要求を現象だけで、罪な欲求と決め付けていた。自分のイノチも、自分自身の細胞のイノチも、その法位は違うが、生まれぬ先から聖別され祝福された神と同等の永遠の生命そのものなのだ。といった観の転換があったのではないだろうか。

     観の転換。自分を捨てる事で、自分の心を覆っているオブラートのようなものが溶けて、本来の心の在り方が見えてきたのだと思う。身ではなく、我を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ。
     「おれが、おれ我」と自分が、どう生きるかという観点ではなく、どう生かされている自分なのかという観点への転観。生かされて生きているという自覚。

     観の転換によって、大いなる愛に気づき、大安心を得た。愛によって開眼されたのだと思う。自分自身のイノチへの自愛と慈愛、そして自己責任。自分のイノチも自身に宿るイノチも神と同等の永遠の生命そのものだが、法位は違う。
     自分には、自分自身の調和を保ち、より良い方向へ導く役割がある。現世での自分の歩み方であり、これには自己責任が伴う。この世は現象による「報い」が成立する世界なのだ。愛はあっても、それを現象に反映させなければ物事は始まらない。

     報いの成立する世界で、どのように救いを実すか。自分の欲ではなく、身心(みこころ)が悦び、からだ全体と心が調和に向かうもの。自分自身が生命活動を営む上で、必要最小限、自己で責任を持って営まなければ活動を絞り込んでみた。「息」「食」「動」「想」となる。
     そして人間は「環境」の中で「息」「食」「動」「想」を営んでいる訳であるから、環境に適応しなければならない。「息」「食」「動」「想」それぞれに自然法則が自在してある事がわかった。自然法則が自在してある事も救いだし、自然法則は愛の結びにもなっている。

     自然法則の応用貢献。創始者は自然法則の追求、追求した中から更に原究するといった学びの中から、愛をもって自分自身の生命バランスをより良い方向へ導いた。その過程で「気持ちよさで、良くなる」という事を識った。この世には、救いが貫通している事を自らが体現できた。
     しかし、一個人だけ良くてもしょうがない。愛をもって他の人達にも識って貰わなければ。自分が学んできた自然法則を応用し、人々に貢献する。

     創始者の成してきた道のりには、常に愛があった。操体の看板を掲げ、創始者の成さんとしたことを引き継ぐ我々も、常に愛をもって道を歩むべきだと思う。

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  • まずは自分自身で。

    おはようございます。

     昨日のブログを書いていて思ったのですが、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」という言葉は、そのまま操体の学びにつうじるものがあります。
     操体を学ぶ者としては、自分のからだにききわけるという実践をとおして、より良い生き方生かされ方を追求している訳なのだから、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」という言葉には、実践を伴った日々の学びが進行形としてイメージされてきます。

     やはり、自分自身が気持ちよく感じた事でなければ、なかなか自信をもって人様には提供できないのです。このあたりが症状疾患に対するテクニックと違うところでもあります。
     操体は感覚重視。なぜ感覚重視なのかというと「気持ちよさで治る」「気持ちよさで良くなる」からだ。どんな症状疾患現象も、からだの歪みと異常感覚の継続的意識存在がある。

    異常感覚には色々あるが一言で言えば「気持ちが悪い」ということであり、この気持ち悪さをすぐに解消できていれば、ボディに歪みがあってもバランスは間に合っている。ストレスに対応する為に、ボディを歪ませているという事もあるのだ。
     しかし、気持ちの悪さが継続することで、ボディの歪みそのものが、新たなストレスとなり、様々な症状疾患現象の元となってしまうのだ。

     たかが肩こりといっても、気持ちの悪さの継続がある人は、メニエール症候群とか頸肩腕症候群とかをはじめ、腰、膝、足、内臓までの色々な症状疾患現象や精神疾患を抱えている場合がある事は、臨床家であればいつも経験している事だと思う。
     カルテに書き込んでいただけば、書き込めないぐらい多くの症状疾患名を書き込む人もいる。その一つ一つの症状疾患現象に対して施術しても埒が明かない。多くの臨床家は、その根本原因に目を向け、そこから主訴の解消へ導こうとする筈だ。操体は、その根本原因の根本まで突き詰めている。ボディの歪みと異常感覚。

     ボディの歪みは、からだのツクリと動きに歪みが生じている事を指す。客観的に診た形態の変化だけを指しているのではない。その動きによって歪体化が進行したり、元に戻ったりする訳だから、その動きの感覚というものが非常に重要になってくる。
     気持ちのよさで治る、気持ちのよさで良くなるとは、根本原因であるボディの歪みが気持ちのよさを味わう事によって正され、結果的に症状疾患現象も良くなるという事なのだ。

     気持ちのよさの質というものも重要になってくる。からだの要求している質の高い気持ちのよさほど、快復に向かう原動力となる。だから、気持ちのよさはききわけるものなのだ。
     本人がからだにききわけ、からだの要求に則した気持ちよさを十分に味わう。ここにも、操体が単なるテクニックとは違う所以がある。操体は自力自療なのだ。

     気持ちよさはききわける事に意義がある。だから操者は「気持ちよさがききわけられますか」と問いかけねばならない。決して決め付けでもって「これ、気持ちいいでしょう」とか言わないことだ。
     これだと何かテクニック自慢のような感じだし、心とからだのアンバランスを抱える人には対応できなくなってしまう。ボディの歪みと異常感覚の継続を抱えた人は、自分の心と身心(みこころ)のアンバランスも抱えているのだ。だから気持ちよさを本人がききわける必要がある。どんな感じなのか、からだの感覚をききわける意識行動によって、自分の心と身心との接点、接触が生じる。これを蔑ろにしてはならない。
     気持ちよさには、からだからのメッセージが含まれている。人によっては、それを感じると、思わず両手を合わせる人もいる。無条件の愛。からだに貫通する宇宙現象創生の中心理念である「愛と調和」に触れた瞬間でもあると思う。

     これに触れる、これに気づくと、その人は素直にからだに向き合え、やさしくなれる。そして、心とからだの調和をとおして自然良能作用は更に増す。そして不快な状態に戻りづらくなる。
     からだに貫通する無条件の愛の有り難さを感じ、調和が密になり、バランスがより良くなっていくという事だ。この事は、操体の臨床は精神疾患に対しても、非常に有効だという事も示している。

     より質の高い気持ちよさ、より心とからだの要求に則した気持ちよさを、相手にききわけていただけるよう、操者も質の高い気持ちよさを識る必要がある。
     識る必要とは、見たり聞いたりして知っているではなく、実践して体感をとおしての蓄積が必要という事。自分自身に宿る原始感覚と向き合い、より快へと舵をきって行く、その実践のなかで、からだに貫通する無条件の愛の有り難さを、幾度となく感じることだろう。これが相手に、より質の高い快をききわけていただきたい、という感恩奉仕の原動力になる。また、それに対する自分の精進にもつながる。
     操体法はテクニックではない、とよく言うがテクニックを超えているのだ。超えたところに、からだがより良くなる本質がある。愛と調和の、その本質と真理の追究こそが操体臨床であり、操体臨生の学びなのだ。

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  • まずは自分自身から。

    おはようございます。

     昨日は最後に、まずは自分自身からという言葉で結びましたが、キリスト教にも「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」という言葉があると聞きます。マルコの福音書の12章からですが、わたしは昨日挙げた福音書のものより、こちらの方が安心するし、慈愛ということに関しても、こういうものだという結論ではなく、生涯をとおしてその意味を自分自身で学んでいくものなのだよ、と諭されているような、そんな感じを受けます。

     まぁ、「自分を愛するように」と訳す人もいるでしょうが、それだと何だか自分勝手とか、そういうイメージも浮かんでしまいます。やっぱり「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」の方がシックリくるし、一番身近でいつも一緒にいて、一生付き合っていかなければならない自身を愛せなければ、隣人も愛せないと思うのです。

     自身つまり自分のからだ。自分のからだは自分で支配しているわけではない。からだにもパーソナリティがある。身心(みこころ)であり、身だけの物ではないということ。自分の心と身心(みこころ)は本来、1は2であり2は1であるものだと思う。
     しかし、現代人は身心の心は隅に追いやり、表面的自我優位の自分の心だけで、からだは自分の物としてしまうところが多分にある。自分のものは自分のものかもしれないが、自分自身は2であり2は1である、という捉え方が必要だと思う。生かされて生きている。自分自身は愛と調和の賜物である。

     自分が自身を愛せて、はじめて他人様を愛して調和することが出来てくるのではないだうか。自分自身を粗末に扱っていて、それが普通と感じていれば、自分以外のものや他人様も粗末に扱ってしまうのではないだろうか。まずは自分自身から。自分自身を愛する事が出来て、利害関係なしで隣人も愛する事が出来る。

     そうは言っても、なかなかそう出来ないのも、五官の本能や欲を有する人間の性(サガ)だと思う。だから学んでいくものなのではないだろうか。生命活動をとおして一生学んでいく。
     その度ごとに反省して、懺悔して、気づきを得て、感謝して、その繰り返し。繰り返しといっても、堂々巡りのようなものではなく、循環して渦を巻き、渦が大きくなるように生長していく。そんな感じなのではないだろうか。

     イエスは慈愛の規範を示してくださったが、そのとおりにしなければいけないというものではないと思う。イエスの教えが、人間を縛っているとしたら、イエスも悦ばないと思う。
     それぞれが、生かされて生きていく中で自分自身で愛を学び、学んだ中から愛を提供し、慈愛をかたちにしていく。それが個性真理体としての、イノチを授かり生まれてきた、それぞれの人の使命なのではないだろうか。

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  • 花言葉より。

    おはようございます。

     上州名物の空っ風が一休みしている穏やかな時間に、外に出て散策していると、どこからともなく甘く芳しい香りが漂ってきました。人工的でなく、この季節にシックリくるようなかほり。指先が冷えて思わずスリスリしている時に、いつも匂っていたようなかほり。見渡してみると、黄色い花を咲かせた木がありました。ロウバイのようです。

     近づいて花を見てみると、ミツバチの羽を幾重にも綺麗に並べて、こじんまりと整えた、そんな可憐な花です。ロウバイは蝋で作った梅のようだから蝋梅と書くそうですが、そういうのを聞くとなんだか和菓子にも見えてきてしまいます。
     2月というと、すぐに梅を思い浮かべてしまいますが、梅の前にもこんな花が咲いていたんですね。かほりは無意識に嗅いでいても、いつも寒いとか忙しいとかで、こんな可憐な花がこの時季に咲いているとは気づいていませんでした。心の豊かさが足りないですね。

     蝋梅の花言葉はいくつかあって、その中に慈愛というものがあります。
     慈愛。辞書では、親が子を慈しみ、かわいがるような深い愛情、とのこと。キリスト教では、キリストの純粋な愛だという。宗派によってキリストの純粋な愛についての解釈や、重点をおいて啓蒙したい部分というのは、それぞれだと思う。たとえば、キリストの慈愛の頂点を成すのは、その無限の贖いだとして、ヨハネ福音書の15章にある「人がその友のために自分の命を捨てること。これよりも大きな愛はない」という言葉を挙げている宗派もあると聞きます。

     この言葉を聞き、私は大変立派な事だと思う反面、捉え方によっては恐さも感じるのです。友と友のあいだであったなら崇高な事だと思う。しかし、権力を持った人間が、こういう言葉を支配とか領土拡大の為に利用するとなったら話は別になってくる。それは西洋の歴史を振り返ってみてもあきらかだ。この教えが悪いというのではない。あくまで捉え方の問題であり、状況によってはそういう捉え方をされてしまう要素があるということなのだ。

     その要素とは、一つには、この教えの愛は無条件の愛ではなく、条件付の愛だという事。
    先程挙げた一文だけではわかりづらいが、この教えの前の部分と後の部分もつなげると、このようになる。
     「わたしのいましめはこれである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい(15章12)。人がその友のために自分の命を捨てること。これよりも大きな愛はない(15章13)。あなたがたにわたしが命じることを行なうならば、あなたがたはわたしの友である(15章14)」

     つまり、崇高な愛の教えではあるけれども、極端な見方をすればキリストが人類を愛したように、愛し合う事ができなければ、友ではないということになってくる。キリストの愛がどの様なものかを知らなければならないし、そうなるとクリスチャン以外は友ではないということにもつながる。宗教上の対立や宗教と政治が絡み合い、宗教戦争のような争いが起これば大義名分に利用される恐れもある。そういった時、真っ先に犠牲になるのは純真な若者なのではないだろうか。

     一神教の中の、条件付の愛の教えというのは、道徳観や倫理観を育む上では大切だと思う。しかし、ややもすると縛りになったり、その道徳観からの比較対称が生じ、排除、対立の方向性も出てくるということなのだ。
     最近、中東の方では大変な事になっている。宗教の名を語り、対立を深める事に邁進し、その宗教の教えを捻じ曲げて解釈し、自分達の組織の正当性を主張し、領土の拡大をはかる。そうするためには、自爆テロも辞さない、また、それを友、同志に求める、強要する。自分達に賛同しない、友になれない人達の生命を、生命と思わぬ蛮行をする。そんな事が許されるはずはない。名前を使われた宗教も、本当に迷惑していると思う。

     宗教が支配の道具にされるという事は、あってはならないことだと思う。神は支配主ではないのだ。神が支配するために、人間を創造したとは思えない。私達の悦ぶ姿、歓喜に満ちた姿を見たくて、愛と調和という理念にもとに、自分(神)に似せて創造したのだ。だから私達の本質的な悦びは神の悦びであり、本質的な快は神の快でもあるのだと思う。

     この世に生まれた時点で、もうすでにその前より神の聖別と祝福とを受けている。もともと救われているのだ。そこから、より良く生き、より良く神と悦びを共有するには、自己責任の果たし方によって報いがあるということなのだ。その自己責任の果たし方は自然法則の内にある。自分ひとりで生きてるわけではないのだから。生かされて生きている。
     いきなり、他人様のためではなく、自分と一生を共にする自身との向き合い方からなのだと思う。まずは自分自身から。

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  • 2月の景色より。

    こんにちは。

    今週のブログは、友松の担当となります。
    どうぞよろしくお願い致します。

    前回の担当の時は、紅葉真っ盛りで日一日と寒さが深まる頃だったのですが、今回は寒さは残るけれども、日一日と春の訪れの予感を感じさせられる、そんな頃合のようです。
     梅の花の便りも聞こえてきそうな時節ですが、まわりを見渡せば、まだまだほとんどの木々は葉っぱを落としたまま、眠っている状態のようで、茶色い景色が広がっています。

     眠るときというのは、余計なものは取り去り、余計なことも考えず、ただただ自然の恩恵に委ね、英気を養う。そんなことを、枝をむきだしにして、シルエットをさらけ出している木々達から教えてもらっているような気がします。

     自然は確かに自然良能作用を与えて下さっている。それも万民、万物平等に。それを受け取るか、受け取らないか。
     ありのままをさらけ出さないと、与える方も何を与えたら良いのか解らないのではないか。少なくとも自然と向き合う時は、浮世の鎧は脱ぎ捨て、ありのまま素直に向き合う事。変に取り繕ったり、企んだりしても仕方がない。いつも見られているのだから。
     

     木々達の眠りを妨げないよう、お日様もまだ少し遠慮がち。真昼に照っても、夕近づけば雲を纏って控え気味。なんだか太陽が木々に合わせているような印象となってしまったが、一般的に考えれば、逆になる。
     地球の地軸には少し傾きがあり、自らも自転し、太陽の周りを一年かけて公転しているから、日本には四季がある。その気候に合わせるように、木々や他の動植物も冬の間は、眠りにつき、英気を養うのがほとんどだ。木々達が自然環境の法則性に合わせているといえよう。現象だけ論ずれば、それが正論だと思う。

     しかし、その現象はどうやって生じるのかといったら、また違ってくる。太陽系の形成は46億年前に始まったとされるが、偶然が度重なり今のようになったとは思えない。その根源には何があったか。物理的には巨大な分子雲の一部の重力による収縮とされているが、その元の元の働きかけというのは何なのだろうか。
     唯物論では限界がある。現に質量が何から生じているか、といった事が解明できてはいない。しかし、唯心論の立場に立てば、それは愛だと言えるのではないだろうか。

     根源に愛と調和という創造主の理念があるから、それがカタチづくられる。その理念の元では皆平等なのだと思う。自然環境を現象のみで考えれば、太陽が支配者で木々は従者という見方もできるが、そうではないと思う。
     ただ、それぞれの個は、それぞれ意志と意識を持ち、その法位に準じている。太陽には太陽の、木々には木々の役割があり、それを全うするイノチがある。生命という現象(有機だけでなく)がイノチを全うするためには、それぞれに自然法則が自在するが、太陽だって例外ではない筈だ。

     宇宙の中の太陽が、どんな自然法則の元に、イノチを全うしようとしているのかは、解らない。ただ、自然法則は個を支配するために自在するのではなく、個がより良くそのイノチを全うする為に自在して在るのだと思う。そして、それぞれの自然法則の根底にあるのは愛と調和だ。
      
     愛と調和の元では、それぞれの個のイノチは尊重されるべきであって、甲乙をつけられるものではない。そして様々な面で、それぞれがつながりをもっている。地球という生命体のそれぞれの有機生命体のイノチの躍動が、太陽の生命活動にも影響を与えているという事もあると思う。みんなお互い様なのではないだろうか。

     そうやって考えていくと、太陽が木々達の為に気を使っているように見えても、おかしくはないと思うし、そう感じられた事に「有難う御座います」なのだ。

    「2015年春季東京操体フォーラム」開催決定
    4月29日(祝)に開催いたします。
    『目からウロコ』のプログラムを企画しております。
    詳細は以下、「東京操体フォーラムHP」をご確認ください。
    http://www.tokyo-sotai.com/?page_id=980

  • 2015年 操体と愛の旅7

    操体から学んでいることには、すべて「愛」が貫かれている。
    「愛と調和」という「太極の意志」に基づき、成し、成されてきた学問。
    そう思えば、とても素直な結果なのだと感じられる。

    橋本敬三先生の著作を読んでいると、先生が「生涯の道楽」として様々なものに興味をもたれ、
    原究されていたことを知ることができる。
    「生命哲学」がどんな土壌で育まれてきたのかを、知ることができる。

    そのひとつに「ホツマツタエ」という古代大和ことば(ヲシテ文字)で綴られた「叙事詩」がある。

    この古文書の存在を知ってから、もう数年になる。
    橋本先生がどんなことに興味をもたれていたのか。
    知りたくて、ときたま「ホツマツタエ」にも触れてみていた。

    昨年末、師匠が「写経」を始めたと聞き、
    それがきっかけで、「このヲシテ文字も写経してみよう」という
    今まで私自身のなかになかった発想が生まれた。

    このヲシテ文字で、「操体でよく耳にする言葉」を写経しているうちに
    興味深いコトが「降って」きた。

    快(カイ)
    神(カミ)
    はい!(ハイ)
    そして
    愛(アイ)

    これらをヲシテ文字で書いてみると、なんとなく似ているように見える。
    ヲシテ文字の成り立ちからみれば、この「アイ」というヒビキが
    これらの言葉の「母形」になっているように見えてくる。
    ヒビキの面から捉えてみても、「アイ」は貫通しているのだと知る。

    「楽」や「欲」はどうだろうか。
    並べてみると、「アイ」とはヒビキの「母形」が異なるように感じられる。
    ヒビキの面から捉えてみても、「楽」や「欲」のなかに
    「愛」は貫通していないようなのだ。

    そういえば今日は「愛」を送る日ですね。
    「快」という名の「愛」を届ける一日にしたいと思います。

    一週間のお付き合い、ありがとうございました。
    明日からは愛と操体の語り部、友松さんへバトンタッチします。
    お愉しみに。

    「2015年春季東京操体フォーラム」開催決定
    4月29日(祝)に開催いたします。
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  • 2015年 操体と愛の旅6

    愛の自覚か…。

    フッと、年に数回呼ばれるように足を運ぶ「骨董屋」の事が思い出される。
    一年のうち数回、無性に訪れたくなる空間。そんな不思議な「骨董屋」がある。

    別に何か欲しいものがあって訪れるわけでもなく。
    決して広くない一部屋に、店主曰く「御縁」のあるモノが
    一見、無秩序に。でもそれが不思議と心地よく、無邪気に並んでいる。
    そこでの時間と空間を味わいたくて、足を運ぶ。

    訪れると、店主が奥の部屋からするするとオモテに出て来る。
    「ちょっと、待ってろ」と言って
    絶妙な間合いで、缶コーヒーを出してくれる。

    この空間にあるものは、みんな愛しいもののように見えてくる。
    この店主の魔法がかかっているのだろうか。
    以前魔法にかかって、真剣に年代物の「十手」を買いそうになったこともある。

    缶コーヒーを飲みながら、そんなモノたちに囲まれて
    何でもない話から、何でもある話まで。
    時間を忘れた空間のなかで
    気付くと私自身にも、魔法がかかっているかのように、心地よい。

    自分自身、30年モノの「からだ」という器。
    ひとりひとりの人間の「からだ」も
    本来は一点モノの骨董品のようなものなのかもしれない。
    御縁という目に見えない波動の渦のなかで
    心地よさを味わいながら、何かが充電される。

    からだはちゃんと覚えていて、愛を自覚する機会を
    ことある毎に提供してくれているのかもしれない。

    「2015年春季東京操体フォーラム」開催決定
    4月29日(祝)に開催いたします。
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  • 2015年 操体と愛の旅5

    操体と出会い、御縁を感じながら学んでいる人は
    どこかのタイミングで必ず、ある「メッセージ」と
    出会うことになるはずである。

    操体法〜生かされし救いの生命観〜(たにぐち書店)」
    の冒頭に刻まれている「メッセージ」のことである。

    操体法 生かされし救いの生命観

    操体法 生かされし救いの生命観

    詳細は同書「第一部 イノチの生命線」の中の「生命線」にエピソードが書かれている。
    御縁を感じた方は、本書と「出会って」いただきたい。

    初めてこの「メッセージ」に触れた時から
    ずっと気になっていた一節がある。

    愛の自覚は時にはその反対をも行なわなければならない

    前後の文脈もあるなかで
    この言葉は私自身に妙に語りかけてくる一節となっている。

    幾度口にしてみても、その度に味わいが変化する。
    「ミ」のつまった問いかけである。

    「愛の自覚」。
    操者は、クライアント自身が「快適感覚」という糸口から
    「からだにききわけ」、そのききわけた感覚にゆだねる機会、
    「間(マ)」を全面的にサポートしている。

    見方を変え、言葉を変えれば、
    クライアント自身の「愛の自覚」をサポートしている、とも言えるかもしれない。

    その大前提としてまず
    操者自身どれだけ「愛」を「自覚」できているのか。
    旅の途中、何度となく自分自身に問いかけることになるのだろう。

    「2015年春季東京操体フォーラム」開催決定
    4月29日(祝)に開催いたします。
    『目からウロコ』のプログラムを企画しております。
    詳細は以下、「東京操体フォーラムHP」をご確認ください。
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