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  • 2015年 操体と愛の旅4

    目に見えている「現象」は単独孤立して存在しているわけではないようで
    その現象の源となる「潜象」という目に見えない支えが、たしかに在る。
    潜象と現象は母から子へ。真理のへその緒で繋がっている。

    ここに来て今更ながら(恥ずかしながら)
    操体には一貫して「愛」が貫かれているのではないか
    という予感がしてきました。

    操体における「診断」。そこには「良い、悪い」という見方、捉え方
    意識感覚が働く要素はまったく出て来ない。

    「伏臥位にやすんだときに、右の背中が膨隆している(から)」
    「仰向けにやすんだときに左右の手のひらき具合が違う(から)」
    「立位にとったときに左肩が下がっている(から)」

    「だから良い、悪い」というような判断は、ほとんど。
    いや、少なくとも身近な御縁のある操体臨床家の口からは聞いたことがない。

    余計な思考判断を働かせず、「変化」をありのまま受け取る。
    こうした姿勢が一貫して操者に貫かれていること。
    そして、それはそのままクライアントのからだにも伝わり、
    クライアントが、自身のからだの「変化」をありのまま受け取ることにも繋がっている。

    操体では初診の場合、必ずと言っていいほど、触れて診る「膝窩(ひかがみ)」
    というポイントが在る。

    熟練の操者にこの「ひかがみ」の触診をしてもらうと
    「はっきり」とした逃避反応をからだが示していることを
    「第三者的」に見届けている自分がいることに気付く。

    そのときクライアントである自分の意識には
    「からだの歪み」の現れである圧痛硬結「シコリ」に対して
    「こいつが悪いんだ!」や
    「こいつが原因か!」
    というようなイメージは不思議と現れていない。

    色眼鏡を外して「診る」、自身の変化。
    触れられていることで、ありのまんまの「シコリ」と対面し
    それが寧ろ「コロッ」として「愛しい存在」であるように思える。
    愛を貫くことで、そんな「間」を操者は演出しているのかもしれない。

    「2015年春季東京操体フォーラム」開催決定
    4月29日(祝)に開催いたします。
    『目からウロコ』のプログラムを企画しております。
    詳細は以下、「東京操体フォーラムHP」をご確認ください。
    http://www.tokyo-sotai.com/?page_id=980

  • 2015年 操体と愛の旅3

    愛を廻る旅の最中、昨日の朝のこと。
    愛からのメッセージを受け取るような体験が訪れる。

    我が家には、俗にいう「ぬいぐるみ」と呼ばれている存在
    が大小含めて「数体」同居している。
    御縁があって、なぜか我が家にやってきたモノたち。

    別にぬいぐるみが大好きというわけではないけれども
    不思議と語りかけてくるものがあるので
    何となく「妖精」の一種のようなものとして、接している。
    また、時に自分自身の「良心」を写す、「化身」のように見えてくることもある。

    昨日の朝のこと。
    身支度をして、部屋を出るその刹那
    何気なく、「彼ら」に目を向けたとき、
    「彼らの『目』をちゃんとみているか」
    という意識が働いた。

    この時、自分自身のイメージでキャッチした「目」は
    現象としてぬいぐるみに縫い込まれているあの「目」のことではないようで、
    目には見えない「彼らの本当の『目』」というイメージに近かった。

    「せっかく目を向けるなら、その『目』に意識を合わせてみたらどうだろうか。」
    そんな「だれか」からの提案だった。

    「現象」の目ではなく、「潜態」している目。
    そんなイメージに目線を合わせる。
    それに伴って、私自身の意識も
    「見ている自分」から、「見られている自分」へと変化していた。

    この意識の質が変化するような感覚は
    「愛」の一言で、意識感覚がチェンジしてしまったときのそれと似ているものだった。

    ふっと、思い出す。
    2015年1月8日に岩吉実行委員から届いた「手紙」。
    締めくくりにはこう書き記されていた。
    http://d.hatena.ne.jp/tokyo_sotai/20150108

    『愛とは感性の方向性であり、
    相思相愛とは感性の方向性の
    重合である。』

    私たちは操体をとおして
    大いなる方向性に「重合」していく生き方を
    学問しているのではないだろうか。

    「2015年春季東京操体フォーラム」開催決定
    4月29日(祝)に開催いたします。
    『目からウロコ』のプログラムを企画しております。
    詳細は以下、「東京操体フォーラムHP」をご確認ください。
    http://www.tokyo-sotai.com/?page_id=980

  • 2015年操体と愛の旅2

    「愛」、その一言によって
    「何かが足りない」と感じていた空間の質が変化してしまう。

    この状況を変えたいと思い
    その為に「足りないもの」は何なのか。

    身体運動の法則、
    三法則一相関性
    さらに、進化した四法則三相関性
    自然法則…。

    その法則と相関性を応用貢献している「つもり」でいても
    「愛」の一言でバケの皮がはがれてしまうような経験を、何度もしている。

    「愛だな」と、そのことを照らし出される度に
    「足りなかった」のではなく
    「求める」必要もなかったことを思い出す。

    ずっと、その空間に「在る」のに
    気づかず、無視してしまっていただけ。
    その度に、なんだか「ゴメンナサイ」という気持ちになる。
    何に対して、「ゴメンナサイ」と感じているのだろう…。

    「自然法則」も、そこから紡ぎ出される
    「身体運動の法則」、「相関性」も
    「自在」と繋がっていることを、愛は思い出させてくれる。

    「2015年春季東京操体フォーラム」開催決定
4月29日(祝)に
    開催いたします。
『目からウロコ』のプログラムを企画しております。
    
詳細は以下、「東京操体フォーラムHP」をご確認ください。

    http://www.tokyo-sotai.com/?page_id=980

  • 2015年「操体と愛」の旅1

    おはようございます。
    東北から毎日届く、操体と愛の息吹き。
    瀧澤さんからのバトンをいただいて今日から7日間
    寺本がブログを担当します。宜しくお願い致します。

    「実行委員リレーブログ」今回の一巡は
    2014年12月28日から「操体と愛」というテーマを繋いでいます。

    愛。これは今までの人生の中で、あまり使われることのなかった言葉であり、
    なんとなく「避けて」きたような言葉でもあり、
    そして、きちんと「言葉」にしてこなかったテーマでもあります。

    私自身にとっては「未開の地」。
    すでに何名かの実行委員は、「愛」をテーマに各々の「旅」に出発。

    愛か…。

    何か、愛について言葉にできることがあるだろうか。
    とりあえず、半歩。踏み出してみることにします。

    操体と愛。
    そういえば…、私にも「愛」について、身に覚えのある経験、
    「痛感」するような出来事が、「度々」あります。

    それは、こんなコト。

    動診と操法の営みにおいて、
    今まで学んできたことを、自身の「からだ」に通し
    また相手ではなく、相手の「からだ」に問いかけることを忘れず
    「楽」ではなく、「快」という意識で相手を前にしていたとしても、

    「相手」も
    「相手のからだ」も
    そして「自分自身」も
    「何か足りない」と本音の部分で、感じとっている瞬間。

    「何が足りないのか…」、考える。
    そして、またその「考えたこと」をからだで表現する。

    それでも、イマイチ…という触感は改善されず、
    よりその「イマイチな感じ」は増していく。
    アタマの中はその状況を打破するべく
    「足りないもの」を求めて思考し、さらに繰り返しのドツボにハマっていく。

    そんな声なきアタマのなかの「声」は
    しっかりと空間に伝わっていて、
    「感覚、感覚…」と思い留めながらも
    思考が見事にフル回転している。その「様」を見かねるように

    充実した、しばしの「間」。
    そして、空間を照らしだす一言。

    『愛だな。』

    「2015年春季東京操体フォーラム」開催決定
    4月29日(祝)に開催いたします。
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    詳細は以下、「東京操体フォーラムHP」をご確認ください。
    http://www.tokyo-sotai.com/?page_id=980

  • 〜操体と愛(7)〜

    先日、三浦先生の著書「快からのメッセージ」が
    再版されました。

    快からのメッセージ―哲学する操体

    快からのメッセージ―哲学する操体

    操体を志すきっかけとなった一冊です。

    それまで専門学校の卒前講習や、鍼灸接骨院時代に同僚が
    臨床で使っているのを見たことを除けば操体とはご縁がなく、
    操体法?動かして抵抗掛けて力抜かせるやつでしょ。
    一時的に特定の筋肉を緩ませて動きがよくなるんでしょ。」
    という理解しかしておりませんでした。

    いやはや無知って恐ろしいですね。
    過去の自分に「お前さんねえ…」と突っ込みたくなります。

    月日は流れて、新たに治療法を勉強したいなあと思いつつ
    神保町のたにぐち書店にふらっと立ち寄った時にこの本を
    手に取ったのです。

    パラパラとページをめくってみると
    「自然法則」、「快適感覚」といった見慣れない言葉があり
    さらには「経絡治療」についても書かれており、
    極めつけは「皮膚」…

    操体って一体何なんだ?」
    哲学的要素が含まれた内容に圧倒され、むくむくと
    興味が湧いてきたのを覚えています。

    その後のことは以前ブログに書いた通りです。

    当時は目新しい言葉を目にし「ワクワク」と言う感じで拝読しましたが
    今読み返すと「ああ、これは『からだ(イノチ)に対しての愛の指南書』
    なんだ」と思えるようになりました。(性愛ではありません)

    「からだ」への細やかな愛が一つひとつ記載され、
    どのように自分自身の「からだ」と向き合ったらよいのか、
    そのことが「からだ」の目線で書かれています。

    愛でたくなるような、愛着が湧くような「からだ」との
    向き合い方。
    なぜそういった向き合い方ができるようになるのかというと
    そこには「自己責任」があるからです。

    操体でいう「自己責任」とは決して人を突き放すような冷たい言葉では
    ないと思っています。

    「自己責任」だからこそ自分の「からだ」を愛することができる。
    「からだ」が愛でたい存在に、愛着が湧く存在になっていく。
    自らの行為であるがゆえにここまでの愛が発生するのです。

    そして
    「自らの手によって『からだ』を愛することができるイノチのシステム」は
    さらに大きな愛(太極の意志)によって包まれている。

    改めて、愛なくして操体は語れないと思った一週間でした。
    お付き合いありがとうございます。

    明日からは寺本実行委員です。
    感性をくすぐるブログですのでお愉しみに。

    「2015年春季東京操体フォーラム」開催決定
    4月29日(祝)に開催いたします。
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  • 〜操体と愛(6)

    誰でも訪れる反抗期。
    中には「そういえば私、反抗期なかったかも」と
    おっしゃる方もいらっしゃるかもしれませんが
    私は通過儀礼のような反抗期をしっかり(?)経験
    してまいりました。

    私の場合は非行や手を挙げる方にはいかなかったのですが
    とにかく親とコミュニケーションを取らなかったのです。
    (しかも波があってコロッと態度が変わるんです)
    要はあまり干渉されたくなかったんだと思います。
    何をするにも親の助けが必要な時期に、その親とろくに
    コミュニケーションを取らないのですから、
    親からすると「何考えてるのか」といったところだったでしょう。
    いくら親子でも全て以心伝心というわけにはいかないですから。

    干渉と言えばアドラー心理学にもそのことについて
    触れています。
    それは「自分の課題」と「他者の課題」を区別すること。
    自分が発したこと(自分の課題)に対して
    相手が思う(他者の課題)ことは別々の課題であるから
    相手に求めすぎるのは課題をごっちゃにしていることに
    つながります。
    「人は人、自分は自分」というとなんだかクールな感じも
    致しますが、相手を突き放すといった意味ではありません。

    必要以上に相手に(ああだこうだ)干渉はしないけれど
    助けを求められれば、その時、「自分の課題」として応じることが
    出来れば決して個人プレーと言うわけではないと思います。
    むしろこれだって一つの愛だと感じます。

    三浦先生にもよく
    「からだは干渉されたくないんだから、あまりオレがオレがで
    臨床通すなよ」とおっしゃっていただいておりますが、
    「からだ」が何を要求しているのかちゃんと分かって、
    謙虚にしていれば、必要以上にお世話しなくても「からだ」のほうで
    「自分の課題」をクリアしてくれるのです。

    「でも、治療って第三者(医師や治療家)がやるもんでしょ?」

    そんな声が聞こえてきそうですが、
    そこが操体臨床の特徴でもあるのです。

    「きもちよさを味わいたい」というのが「からだの要求」で、
    その要求を満たせば「からだ」は癒えるのですから、この過程を
    治療と捉えることができます。
    そうすると、きもちよさを味わっているのは果たして誰?ということ
    になり、答えは「からだ」ということになります。
    つまり「からだ」が「自分の課題」として自らを癒しているのです。

    「じゃあ、操体では治療者は何をやっているの?」

    そんな声も聞こえてきそうですが
    そのとっておきの内容が今回の春季操体フォーラム(4月29日)で
    明かされます。操体の臨床的効果を検証してまいります。
    是非、お愉しみに。

    「2015年春季東京操体フォーラム」開催決定
    4月29日(祝)に開催いたします。
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  • 〜操体と愛(5)〜

    相手が何を欲しているのか、
    確認しなくても察することが出来たら
    言うことありません。

    以心伝心とか阿吽の呼吸とか。

    大概は言葉を用いてお互いにコミュニケーションを図ります。
    言葉にすればお互いに何を考え、何を望んでいるかが分かります。
    反対に察しているとばかりに、良かれと思ってしたことが
    実は見当違いで後々困るケースがあります。

    言葉の力というと「言霊」とか「波動」といった
    スピリチュアルな方向性もありますが、
    重要なコミュニケーションツールであることに違いはありません。

    確認作業は問いかけです。
    察していると思い込んで、確認作業を怠ることは
    無視していることとなんら変わりはありません。

    それは「からだ」にとっても同じこと。

    「『からだの声』を聴かずに良かれと思ってやっていることは
    本当にからだが望んでいることですか?」

    「……」

    以前であれば即答は出来ません。
    そもそもそこまで考えて臨床を通していませんでした。
    治療者の技量があれば症状、疾患が改善すると思っていました。
    「『からだの声』なんて…ましてや自分が良かれと思って
    やっていることが回復とは逆の方向に向っている…?」

    操体を学んでから気づいたのです。
    臨床には「からだ」とのコミュニケーション、
    つまり「からだにききわけて」が必要であると。
    「察する前に確認が必要なんだ」ということを。

    確認作業を繰り返し、「察する」ということが皮膚を通して
    「からだ」で感じることが出来てくれば、あるいは確認作業は
    行わなくても良いかもしれません。
    しかし、怖いのは「察しているつもり」です。
    せっかく「想い」があっても、向こうに通じていなければ
    相手は返答しようがないばかりか逆効果になってしまいます。

    それはもはや愛とは呼べない…

    「自己満足の愛」に陥らないように気をつけねば。

    「2015年春季東京操体フォーラム」開催決定
    4月29日(祝)に開催いたします。
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    詳細は以下、「東京操体フォーラムHP」をご確認ください。
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  • 〜操体と愛(4)〜

    「対象をどうにかしたい」という思いは愛の原動力かも
    しれませんが「相手がしてほしいことを施す」というのも
    愛の一つの側面です。

    ということは相手が何を要求しているのかを
    把握する必要があります。

    臨床を通すうえで欠かすことが出来ないものの
    一つが「クライアントの要求」です。
    腰の痛みを訴えてきたのに肩を揉んでもしょうがありません。
    (肩を揉んで腰の痛みがとれれば、また別ですが…)
    腰の痛みがとれるように診断し、治療を施します。
    まずは腰が痛ければ腰を診ますし、腰以外のところを診る場合も
    腰痛と関連付けて追っていきます。
    治療法のほとんどは症状、疾患別に対処しています。

    そのように対処して「クライアントの要求」が満たされれば
    万々歳ですが上手くいかない場合はどうしましょう?
    マニュアル通りにはなかなかいかないものです。

    では、「クライアントの要求」を満たすためにもう少し視野を広げて
    みましょう。
    「腰の痛み」を発しているのは果たして誰なのか?まずはそこから。
    声を辿っていけば分かることですが、それはクライアントではなく
    クライアントの「からだ」です。
    クライアントの「からだ」が発信している「痛み」を
    クライアントが受信して治療者に訴えているのです。

    これが分かると「クライアントの要求」とともに
    「からだ」にも要求があることが分かります。

    操体を学んでいる、耳にしたことがある方々にとっては
    既知の事実ですが、「からだ」は「きもちよさ(快)」を求めています。
    クライアントは「痛みをとってくれ〜」と要求しますが
    「からだ」は「きもちよさを味わいたい〜」と要求します。
    きもちよさで「からだの要求」を満たすことが出来れば
    「からだ」が発する「痛み」は治まり、結果的に
    「クライアントの要求」は満たされます。

    逆に「からだ」が要求していないもの、拒否しているものもあります。
    それは「不快」という感覚です。

    いくら「クライアントの要求」のためと言え、
    それが「からだ」にとって「不快」なことあれば、
    「なんで一生懸命やっているのに結果が出ないんだよ!」ということ
    にもなりかねません。

    もし、愛を定義するうえで「相手がしてほしいことを施すこと」という
    項目があるのならば操体臨床は「からだ」にとっての愛なのです。

    「自分がされて嬉しいことを相手にする」
    「自分がされて嫌なことは相手にもしない」

    「からだ」にとって、前者が「きもちよさ(快)」となり、
    後者が「不快」となるのです。

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  • 〜操体と愛(3)〜

    対象をどうにかしたいという思いは自然に発生します。
    「どうにかしてやろう」というほど強くなくても
    「なんとかしてあげたいな」と思う気持ちは皆持っている
    と思います。

    臨床においてもクライアントに対して
    「痛みを取って楽にしてあげたい」
    「不自由なく生活が出来るようにしてあげたい」
    ほとんどの臨床家はそんな思いを抱いて治療します。

    クライアントはクライアントで
    「病気を治してほしい」
    「症状を取ってほしい」
    「痛みのない状態に戻してほしい」
    そんな思いを抱えて来院されます。

    だから結果を求めて一生懸命になります。
    時には悪戦苦闘したり、結果に対して一喜一憂もしたり。
    当然と言えば当然。それが臨床家の業だからです。
    結果が伴わなければ次はない。
    「終わりよければすべてよし」という言葉がありますが
    臨床においても一つの側面を表していると思います。

    結果的にお互いの利害が一致。その時点で相思相愛。
    そのために研鑽し続ける。

    操体以外にも素晴らしい臨床テクニックはあります。
    操体臨床家でなくても達人、名人はいます。
    結果に胡坐をかかず、自分の業と真摯に向き合う臨床家もいます。

    ではなぜ操体を選択し、学び続けているのでしょうか?

    対象をどうにかしたいという想いは
    大きかろうと小さかろうと「欲求」でもあります。
    対象をどうにかしたいという「欲求」は
    その後自分に返ってくる結果(金銭や賞賛といった報酬)によって
    満たされます。

    もしもそれのみを求め続けるのなら、操体でなくてもよかったかも
    しれません。そもそも臨床家でなくてもよかったかもしれません。

    臨床家という道を選択し、ご縁があって操体と出会い、
    その中身を体感すればするほどパラダイムシフトは起きました。

    ずっと、結果を出すには「欲求」が必要だと思っていました。
    「欲求」こそ、結果を出すうえでの原動力だと思っていました。

    けれども「結果」を出すうえで「欲求」が邪魔になることがある。
    人のからだが良くなるうえで施術者の思いが邪魔になることがある。
    「欲求」に善悪は無いが何か大事なものが見えなくなることがある。

    操体はそんなことを教えてくれます。
    テクニックではないモノを教えてくれます。

    イレギュラーを包み込む「愛」は
    「終わりよければすべてよし」では見えてこないのです。

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  • 〜操体と愛(2)〜

    商取引の観点からすると、
    努力に対する報酬が支払われるのは当然です。

    そこからすると、修業程先の見えないものはない。

    「ここまでできるようになる」の「ここまで」が
    どういう地点なのか修業中にはわからないからです。
    ゴールを設定して猛ダッシュという世界ではないからです。
    ですから「努力に見合う報酬」といった概念もありません。

    「ここまで」の地点に来た時に初めて「ここまで」がわかる。

    実際に一つのことを学んでいるとそういうことがよくあります。
    「ここまで」が分かるようになると、それ以前に「ここまで」だと
    思っていたことが、実は「分かったつもり」だったなんてことも。
    そして、人それぞれ「ここまで」に到達するスピードは違います。

    「同時期に始めたあの人は三か月で到達したけれど、私は一年経って
    ようやくわかる(できる)ようになった」等々。

    上記に関して記載された本がこちらです。

    修業論 (光文社新書)

    修業論 (光文社新書)

    皆同じじゃないからこそ、期間が決まっていないからこそ
    続けられるということもあるのです。

    臨床で思うような結果が出なかったとき、藁をもすがる思いで
    様々なテクニックに飛びつきました。結果が欲しかったのです。

    その結果、期待通りになることもあればならないこともあります。
    「なんでこんなに一生懸命やってるのに結果が出ないんだよ!」
    矛先はテクニックそのものや、テクニックを教わった人に向く。
    とんでもない勘違いですよね。今思うと恐ろしい。
    でも当時はそんなこともわかりませんでした。

    「こんなに愛しているのに、なんで愛してくれないの」
    愛もgive and takeで語るとこんなことになりかねません。

    等価交換の価値観のみになってしまうと方程式に当てはまらないものは
    ともすると自分の理解を超えて憎しみの対象になってしまいます。

    橋本先生がおっしゃっている「愛と調和」(太極の意志)の「愛」とは
    方程式には当てはまらないイレギュラーをも認める懐の深い「愛」だと
    思っています。

    臨床において人のからだはイレギュラーのオンパレードです。
    方程式通りにいかないことの方がはるかに多い。
    それぞれにgive and takeしていたら間に合いません。

    イレギュラーに対してどのように間に合わせていくか?

    操体を学ぶってそういうことだと思っています。
    全てのイノチの営みに当てはまると思っています。

    すぐに結果は出ないかもしれませんが、
    時間をかけてゆっくりと取り組んでいくことのできる
    学びだと思っています。

    「2015年春季東京操体フォーラム」開催決定
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