ブログ

  • 〜操体と愛(1)〜

    優しさの香りに包まれていた一週間でしたね。
    香さんからバトンタッチ。今週担当の瀧澤です。
    東北は岩手県から「愛」についてお送り致します。
    一週間よろしくお願い致します。

    今年は例年に比べ降雪量が少なく
    「暖冬だね〜」と思っていたのですが昨日ドカッと
    降ってまいりまして(雪やコンコン♪じゃちょっと可愛すぎる?)
    東北の冬を改めてしみじみと味わっております。

    東北に居て操体を学ぶというのもご縁というより言いようが
    ありません。
    三浦先生も仙台の定禅寺通りを汗水垂らしながら雪掻きしていたと
    思うと「東北」、「操体」、「雪掻き」を通してつながっている感じが
    致します。

    さて、今から二十年以上前でしょうか。
    小学生の頃、家に聖書があったので読んでいた記憶があります。

    「読んでいた記憶」があるだけで
    肝心の内容に関しては多少記憶している程度。
    ノアの箱船やモーゼの十戒、キリストの復活等々、メジャーどこくらいです。

    同時期に母から「アガペー」を教わったこともあります。
    アガペー」はキリスト教において「無償の愛」とか「神の愛」と
    呼ばれているものです。

    いわば見返りのない愛。
    give and give

    小学生の頃にこんなことを教わったからなのか
    昔から「愛」と聞くと男女間のそれよりも「アガペー」を思い出します。
    男女間だと「愛」というよりはもう少し直接的な香りがしなくもないです。
    太陽のようにカラッとしているのか、しっとり湿り気を帯びているのか
    といったニュアンスの違い。

    見返りといえば
    give and take

    やるかやらないかの判断は
    努力に見合った報酬を受け取ることが出来るかどうか。
    または、これだけ時間をかけたから、これだけお金を費やしたから
    努力したからそれに見合うだけの結果が欲しい。

    至極真っ当で常識的な感覚ですし、
    割とマッチョ的思考で生きてきました。

    操体に出会ってからは見返りとは違う世界があることに気づきました。
    手に入れる愛(モノ)、降ってくる愛(モノ)、両方とも必要だと。

    小学生の頃は「アガペー」と聞いてもピンときませんでした。
    思春期の頃は記憶の片隅に追いやられていました。
    (消去はされていませんでした)。
    今は少しずつ、感覚を通して「アガペー」を分かり始めています。

    「2015年春季東京操体フォーラム」開催決定
    4月29日(祝)に開催いたします。
    『目からウロコ』のプログラムを企画しております。
    詳細は以下、「東京操体フォーラムHP」をご確認ください。
    http://www.tokyo-sotai.com/?page_id=980

  • 2015年1月

    今日で2015年1月も終わりです。
    うぐいすの声も
    そろそろきこえてくるでしょうか。

    真摯に、
    何かに向き合っている人には、
    とても大きなエネルギーが流れているようです。
    その流れには、優しさがあります。
    優しさは、自然と調和するなかでうまれるのでしょう。

    優しく、力強い流れに、
    からだは、
    引き寄せられていくのだと感じています。
    そのエネルギーが、自然治癒力を高めてくれるのではないでしょうか。
    優しく力強いエネルギーである愛に、
    からだは引き寄せられるのです。

    一週間、ありがとうございました。
    明日から、岩手のてまり堂temaridoより
    お届けいたします。

    「2015年春季東京操体フォーラム」開催決定
    4月29日(祝)に開催いたします。
    『目からウロコ』のプログラムを企画しております。
    詳細は以下、「東京操体フォーラムHP」をご確認ください。
    http://www.tokyo-sotai.com/?page_id=980

  • 2015年1月

    近所に綿の木を育てている方がいて、
    11月頃になると、綿が吹き出しています。
    『ふわふわ』したものが枝についている光景は、
    なんとなく、優しい気持ちになります。
    今朝は、その綿の上にも雪が積もり、いつもより少し大きな綿になっていました。
    急ぐ気持ちに、つかの間の休息を与えてくれます。

    あせをかきながら、学問に取り組む師の姿を感じながら、
    わが身を置き、学ぶことのできる環境は、

    どんなに幸せなことでしょう。
    どんなに嬉しいことでしょう。
    こころの豊さに包まれた日々は、創造性に富んでいます。
    追いつくことのない目標を、追いかけている時間は、
    集中をこえて、
    熱中しています。

    宮大工、小川三夫さんの著書『棟梁』という本があります。

    棟梁―技を伝え、人を育てる (文春文庫)

    棟梁―技を伝え、人を育てる (文春文庫)

    以前に、小川さんのお話を聞く機会があり、その時に出会った一冊ですが、
    そのなかに「早く言葉というもんから離れないと、頭も体もいうことをきかんぞ。」
    「体から体に技や考えや感覚を移すのが職人の修行だ。」という文章があります。
    ひとつひとつの文章を噛み締めながら読みました。
    技を伝え、人を育てる、愛を感じる一冊でした。

    「2015年春季東京操体フォーラム」開催決定
    4月29日(祝)に開催いたします。
    『目からウロコ』のプログラムを企画しております。
    詳細は以下、「東京操体フォーラムHP」をご確認ください。
    http://www.tokyo-sotai.com/?page_id=980

  • 2015年1月

    今朝、自宅前の花壇に、霜柱が立っていました。
    こどもの頃、霜柱を踏み、
    あの感触と音を楽しみながら、
    学校へ向かったことを思い出します。

    しかし、今朝は、踏まずに、美しい結晶を眺めました。土の中から、真っ直ぐに伸びる霜柱。この美しい結晶のように、私も、真っ直ぐで透き通るような美しい心で、何事にも取り組みたいと思いました。

    「2015年春季東京操体フォーラム」開催決定
    4月29日(祝)に開催いたします。
    『目からウロコ』のプログラムを企画しております。
    詳細は以下、「東京操体フォーラムHP」をご確認ください。
    http://www.tokyo-sotai.com/?page_id=980

    快からのメッセージ―哲学する操体

    快からのメッセージ―哲学する操体

    からだが答えてくれる、
    『快適感覚』『生体感覚情報』は、
    からだの要求であって、
    患者の自我でもなく、
    操者(治療者)の要求でも、ないのです。
    操者(治療者)が欲張ると、
    からだは、答えてくれなくなります。
    「バルの戒め」を忘れてはいけないのです。

    生体の歪みを正す オンデマンド版―橋本敬三論想集

    生体の歪みを正す オンデマンド版―橋本敬三論想集

  • 2015年1月

    今日もサボテンは、
    光を浴び、太陽に向かい、
    いきいきとしています。

    「2015年春季東京操体フォーラム」開催決定
    4月29日(祝)に開催いたします。
    『目からウロコ』のプログラムを企画しております。
    詳細は以下、「東京操体フォーラムHP」をご確認ください。
    http://www.tokyo-sotai.com/?page_id=980

    尊い、いのち。
    『からだは尊いいのちである』という意識をもつと、
    からだは、診断することを許可してくれるようです。

    快からのメッセージ―哲学する操体

    快からのメッセージ―哲学する操体

    「快からのメッセージ」
    現在、第7刷が増刷されているようです。
    ずっと欠品で、入手ができなかった皆さま、
    たにぐち書店からお買い求め可能です。

    からだに真摯に向かい合うと、
    からだは、素直に答えてくれるようです。
    『生体感覚情報』『快適感覚』を答えてくれます。
    からだは、尊く、敬う愛に真摯に答えてくれます。
    愛に真摯に答えてくれます。

  • 2015年1月

    窓際に置いてあるサボテンは、
    太陽に向かい微妙に傾斜しながら、成長しています。
    自然のおりなす、エネルギーを感じながら、
    春が待ち遠しい毎日です。

    東京操体フォーラムの春の活動である、
    「2015年春季東京操体フォーラム」の開催が決定致しました。
     4月29日(祝)に開催いたします。
    詳細は以下、「東京操体フォーラムHP」をご確認ください。
    [http://www.tokyo-sotai.com/?page_id=980

    操体には、「動かして診る」動診という診断法があります。

    操体臨床への道しるべ―快適感覚に導く診断と操法

    操体臨床への道しるべ―快適感覚に導く診断と操法

    正しく診断をするためには、
    からだを愛することが、必要だと思います。
    誤解がないように記載しますが、
    ここで私がいうからだを愛するとは、
    肉体的に愛することではなく、
    尊い命であるからだを敬う、尊ぶという愛です。
    真摯にからだと向き合い、
    尊い命を敬う愛があり、心があり、
    診断はできるのだと思います。

  • 2015年1月

    大寒を過ぎ、肌にしみるような寒さを感じることが
    減ってきたように思います。
    寒さが、「ここちよい」と思う日もあれば、
    「あ、寒いな」と感じる日もあります。

    目を地面に向けると、
    フキノトウが顔を出し、
    着実に準備をしています。
    春の香りがたのしみです。

    昨日、「バルの戒め」について書きましたが、
    愛するには、
    本当に「頑張るな、威張るな、欲張るな、縛るな」が、
    大切です。
    愛するということは、必ず対象となるものがあります。
    それは、物や環境であったり、人や自分だったりします。

    「頑張るな、威張るな、欲張るな、縛るな」を
    意識の中におくことで、
    私は、
    愛することに、
    必要以上の悩みが発生しなくなってきたと
    感じています。

    対象が何であっても、
    ともすると行き過ぎになってしまう、愛。
    それにより、
    愛が、
    苦しみや悲しになり、
    物はあふれ、本当に必要なものがなにか、
    わからない。どうしよう…。

    ふと、「頑張るな、威張るな、欲張るな、縛るな」を。
    きっといい方向性を導いてくれると思います。

  • 2015年1月

    ”愛”のバトンを受け、
    今日から一週間担当いたします。
    よろしくお願いいたします。

    空を見上げると、三日月が
    光を放っているのに気づき、
    足を止めていました。

    心落ち着く、ひとときです。

    「我々は愛については多くの情報を得ることができる。
    しかし、それは愛を知る手助けには決してならない。
    愛は唯一、現実に愛することによってのみ知ることができるものだ。」
    日下実行委員の文章に、
    橋本敬三先生のおっしゃられた、「バルの戒め」を
    思い出します。

    頑張るな、威張るな、欲張るな、縛るな
    愛は、頑張るな、威張るな、欲張るな、縛るなです。

  • 愛 7

     愛とは、我々の存在の内奥無比の核心におけるラディカルな変化であり、それは、一つの経験であり、実存的で味覚のようである。
    そしてまた、本当の食べものは実際に愛のシンボルでもある。
    我々はなぜ自分が母親を愛するのか観察したことがあるだろうか?
     
    なぜ母親と子どもの間にはあれほどに強い愛が存在するのだろうか?
    それは、母親というのは子どもにとって、胎児にとって最初の食べ物であるからだ。子どもは母親を食べてきた、子どもは母親の胎内に入ってきた。そして子どもは母親を、最初の愛の源泉というより食べ物の源泉として自覚する。後になってから、子どもが意識の上で成長してゆくようになると、当然のことのように母親への愛を感じるようになってくる。

     食べものが最初で、その後に愛が続く。そして食べ物と愛とは、それが同じ源泉からくることからいっしょに結びついて考えられる。だから、もしどこかの家を訪問して、何も食べるものを出されなかったらいい気持ちがしないのはこのためだ。我々は拒否されたように、愛を与えられなかったかのように感じる。その家の人たちにとってあなたは客ではなかったのだと・・・・・・。

     もし食べ物や飲み物を出されたら、たとえその人たちがどんなに貧しく、たいしたものは差しだせないにせよ、その人たちの持っているものを何であれ出してくれたなら、我々は好感、安心感を抱く。我々は快く迎えられたのだ、その人たちは食べ物をあなたと分かち合った・・・・・・。というのも食べ物は愛を連想させるものだからだ。

     女性が男性を愛するときには、必ず男性のために食事を用意したがる。彼女は食事を差しだしたい、彼に食べてもらいたい。もしそうすることが許されなかったら、女性は不安を感じる。そのように愛は食べ物を通して流れてゆく。

     愛は眼に見えない。だが、愛には眼に見える乗物が必要だ。それによって食べ物の質自体が即座に変わる。もし彼を愛している女性が彼の食事を用意するとしたら、それは違う質をもつ。その質は化学者が分析できるようなものではない。が、とにかく違う質をもつ。

     もし怒っている人が、あるいは敵対してあなたを憎悪している人が食事を用意するとしたら、それはすでに毒されている。なぜなら、怒り、憎悪、嫉妬などは血の中にあるからだ。それらには独特の放射力があって、手を通して食べ物に入ってゆく。

     もし本当にあなたを憎悪している女性があなたの食べ物を用意するとしたら、彼女は知らない間にあなたを殺すことさえできる。が、どこの裁判所も彼女を裁くことはできない。あなたの食事を用意する女性が本当にあなたを憎悪しているとしたら、彼女と暮らすのは大変に危険なことだ。それは効き目が遅い猛毒薬になる。

     だが、もしあなたを愛している女性なら、彼女は食べ物を通じて自分の生命を与える、彼女は食べ物を通じて自分の愛を与える。彼女は食べ物を通じてあなたの方に動いてゆく。

     このように食べ物は非常に基本的なものであり、それは分かち合うことができる。そして分かち合いを通して我々は自分の動物性を背後に置き、本当の愛ある人間になれる。

     今回は最終日まで操体につなげることができなかった。振り返ってみると、テーマ「愛」にこだわりすぎたのかも知れない、たまにはこういうこともある。操体へのつながりは明日から担当する香実行委員に期待したい。

  • 愛 6

     愛はオーガズミックであり、我々の生命エネルギーは絶えず流れている。そのように実存もいつも途切れることなく流れてきた。これら二つの流れが出会い、互いに混ざり合って溶け合うと、一つのより高い統合が生まれる。それは部分が全体の中で出会い、全体が部分の中で出会うことによって、部分と全体を一緒にした以上の何かが生まれることになる。そのように出会いが起こったら、その何かが愛というものであろう。

     だから、愛こそ、人間の言語の中で最も意義深い言葉の一つだと言えるのではないだろうか。というのも、愛は実存的な言語だからである。しかしどういうわけか、子どものときから我々は不具になってしまった。それは感性につながる我々の根が切断されてしまったということであろう。我々は頭脳に向かうよう強制され、感性に向かって進むことを許されなくなってしまった。それは、長い間人類が苦しんできた一つの惨禍である。つまり人間は依然愛とともに生きることができないということになる。

     なぜなら頭脳は結果指向であるが、愛にとって、未来は存在し得ない。愛には、ただ現在だけが存在する。我々はこの瞬間に在ることはできるが、次の瞬間について考えることはできない。そのように愛においてはどんな計画も可能ではない、それは予測不可能だ。

     しかし、社会、文明、文化、学校のすべてが子どもたちに対してもっと論理的になるよう強制している。それは子どものエネルギーを頭脳にもっと集中させようとする。そしてひとたびエネルギーが頭脳に集中してしまったら、その同じエネルギーが感性に向かって移動するのは極めて難しくなってくる。

     事実、子どもはすべて大いなる愛のエネルギーとともに生まれてくる。子どもはすべて愛のエネルギーの中から生まれる。子どもは愛と信頼で満ちている。そんな幼児の眼の中を覗き込んだことはないだろうか? 子どもたちはどんなに信頼していることか。だから子どもは何でも信頼できる。子どもは、毒蛇とだって楽しく遊ぶことができる。子どもは、誘拐犯であっても一緒について行くことができる。子どもは、危険なほど火のすぐ近くに行くことができる。なぜなら、子どもはまだ、どう疑うかを学んでいないからである。

     それから、我々大人たちが疑い方を、懐疑主義を、論理を子どもたちに教えるのである。どうやらこうしたことは生存していくための尺度のようだ。我々は恐れを教え、用心を教え、思慮分別を教える。そして、これらが一緒になって、愛の可能性を完璧に殺してしまうのだ。

     そして大人になった我々が他人を愛せなくなるのは、その大人たちが偽るからである。大人らは物を愛し始める。というのも、物を愛する必要は大いにあるからだ。我々は代用品を探し続ける。ある人は自分の家を愛している。ある人は自分の車を愛している。ある人は自分の服を愛している。ある人は自分の金を愛している。もちろん家は我々を騙すことはできない。その愛は危険ではない。我々は車を愛することはできるが、車はリアルな人間よりあてにできる。我々は金を愛することができるが、金はすでに死んでおり、いつも我々の管理下にある。

     なぜ、こんなに多くの人々が人間より物を愛するのだろう? それに、たとえ我々がときには人間を愛したとしても、その人間を物に縮めようしてしまう。もし男性が女性を愛したなら、即座に彼女を妻に縮小する用意がある。つまり、男性は彼女をある役割に、妻の役割に縮小する用意があるということだ。なぜなら、妻であったなら、愛する人のリアリティーよりずっと予測可能だからである。

     同じように女性が、もし男性を愛したら、彼女は彼を物のように所有する用意がある。彼女は、やはり彼が夫になることを望んでいる。というのも、恋人の間柄ならもっと流動的であり、それはどうなるものかわかったものじゃない・・・・・・。恋人より夫のほうがずっと堅実に見える。少なくとも婚姻の制定が民法にあり、法廷があり、検事も警官もいる。また、夫に一定の堅実さを与えてくれる政府もバックに控えている。

     しかし、恋人というのはまるで夢人のようだ、あまり実質的ではない。だから人は恋に落ちると、すぐに結婚したがる、その用意がある。こんなにも愛に対する恐怖が存在しているということなのだ! そして、誰を愛したとしても、我々は相手をコントロールし始めることになる。これが、妻と夫の間で、母親と息子の間で、兄弟と姉妹の間で、友達との間で続いている葛藤であろう。誰が誰を所有するのか? これの意味していることは、誰が誰を限定するのか、誰が誰を物に変えるのか、誰が主人で誰が奴隷になるのか? というようなことに尽きるのではないだろうか。