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  • ヒヨコとおさめ その6

    ○ 「修める」

    ・正しくする・ととのえる……身を修める

    ・学び習う……学業を修める

          『ビミョ~な言葉研究所』より

     

    宮本武蔵の『五輪書』には

    「千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を練とす」という記述があります。

     

    ムズカシイことはワタシにはわかりませんが、

    まぁきっと「地道にコツコツやんなきゃだめよ」って感じなんでしょう。

     

    万日っていうと、だいたい30年。

    やっぱり本気で「修める」には、

    それくらいやんなきゃダメなんですね。

     

    幸いなことに橋本先生は

    操体は一生たのしめるぞ」って言われていたそうですから、

    もしかしたら万日なんてあっという間かもしれませんね。

     

     

    中谷祐祥

  • ヒヨコとおさめ その5

    ○ 「治める」とも「収める」とも書くケース

    ・整えてもとの状態にする……騒ぎを治める/収める

                  丸く治める/収める                      

                 『ビミョ~な言葉研究所』より

     

    「整えてもとの状態にする」って、何となくワタシらの仕事に

    通じるものがあるような気がしないでもないですよね。

     

    でも、例えば「からだを整える」って

    一体どこをどう整えれば「正しいもとの状態」なんでしょうか?

     

    足の長さが左右で違って見える場合、

    短いほうと長いほうではどちらが悪いんでしょうか?

    どちらに合わせてそろえれば正しく整うんでしょうか?

     

    いろいろな見方があるのかもしれませんが、

    操体法ではそれを気持ちのよさで決めるんです。

     

    単に見た目の形だけで判断せず、

    気持ちのよさというからだの要求を通してあげることで

    自然にバランスが整うように導いてあげるんですね。

     

    短かろうが長かろうが気持ちのよさを味わうと、

    からだそのものがちょうど良いバランスへと勝手におさまってしまう。

    操体法の面白さと奥深さはそんなところにあるんだと思います。

     

     

    中谷祐祥

  • ヒヨコとおさめ その4

    ○ 「収める」とも「納める」とも書くケース

    ・中にきちんと入れる……刀をさやに収める/納める

    ・一定の枠に入れる……原稿用紙に収める/納める

    ・受け取って自分のものにする……権力を手中に収める/納める

                    『ビミョ~な言葉研究所』より

     

    「元のさやに収まる」という言葉は別れた男女が復縁するという意味に

    使われることが多いようですが、最後には何となくおさまるべきところに

    おさまってしまうってことは結構ありますよね。

     

    もし人智をこえた大いなる力というものがあるならば、人があれこれと

    何かしたところでどうにかできるものではないのかもしれません。

     

    それに宇宙の大きな流れの中で

    物事はおさまるべきところにおさまってしまうということならば、

    なるべく余計な力を抜いて過ごしたほうが気持ちがいいと思いますしね。

     

    操体では「60点で間に合っていればいい」と説いていますが、

    あまり右往左往せずに大きな流れを味わうくらいの

    ゆとりをもったほうが健やかで愉しく生きられるのかもしれません。

     

     

    中谷祐祥

  • ヒヨコとおさめ その3

    ○ 「治める」と書くケース

    ・(国や地方などを)支配する……国を治める 

    ・病気を治す……痛みが治まる

            『ビミョ~な言葉研究所』より

     

    橋本先生は『からだの設計にミスはない』の中で、

    「大自然の原理として、人間は誰でも健康で幸福に一生をおくれるように、

    チャンと設計されているのだ。それが実現されないのは生き方の自然法則から

    はずれているためで、この法則にそむくと身心の姿と動きに歪みが生じ、

    身心のバランスがくずれて病気になるのだ、そして又、その歪みを正して

    バランスをとり戻せば、病気は治るのだ」と書かれております。

     

    人間のからだはそういうふうに出来ているみたいですね。

    橋本先生の言葉をお借りすれば「そうなってんだ」っていうところでしょうか。

     

    そして、そのわけさえわかってしまえば健康の維持、増進、回復の

    全てに役立つ大事なポイントとなるのかもしれません。

     

    操体(法)が単なる治療法(技術、テクニック)ではないということが、

    そんなところからも何となくイメージできます。

     

     

    中谷祐祥

  • ヒヨコとおさめ その2

    ○ 「納める」と書くケース  

    ・(金品を)渡すべき相手に渡す……税金を納める・月謝を納める  

    ・おしまいにする……歌い納める・見納め・聞き納め・仕事納め

                      『ビミョ~な言葉研究所』より

     

    所得税事業税、消費税・・・。

    それなりに経営がうまくいっていれば、

    それなりに税金を納めなくてはならないわけなんですが、

    オツムの弱いワタシなどは経営なんてチンプンカンプン。

     

    まぁよく今まで潰れずにやってきたな~なんて思っちゃいます。

     

    とりあえず心がけていることといえば

    「来てくれた方を一生懸命やる」ということだけ。

     

    あとはホントにテキトーなんですけど、

    もう1つ心がけていることがあるんです。

     

    それは三浦先生からアドバイスしていただいた、

    「治療院は自分の居心地のよい空間であること」ということです。

     

    これを伺ったとき、すごく納得しました。

    患者さんはもちろん、自分自身も心地よい空間。

     

    気持ちのよい治療(操体法)をするってことは、

    すでにそういうところから始まってるんですね。

     

     

    中谷祐祥

  • ヒヨコとおさめ その1

    今週は操体法東京研究会のヒヨコちゃんこと中谷の担当でございます。

    一週間よろしくお願いいたします。

     

    今回のブログテーマは「おさめ」ということでございますが、

    昨日のブログで友松さんが書かれていたように、

    「おさめる」を漢字にすれば

    「収める」「納める」「治める」「修める」といろんな形があるようです。

     

    ○ 「収める」と書くケース

    ・よい結果を得る……成果を収める・勝利を収める

    ・中に取り入れる……目録に収める・カメラに収める

                   『ビミョ~な言葉研究所』より

     

    ワタシらの仕事の成果といえば、

    施術(治療)をして患者さんが治ってくれたってことになります。

     

    一生懸命に覚えた技術を駆使して、困っている患者さんのからだを治す。

    すると「ありがとうございます!」なんて言ってもらえて、

    そのうえお金までいただける。

     

    だから一般的に手技療法家は「治せる人」になりたいわけですよね。

     

    ワタシもなりたいですよ。「治せる人」に。

     

    そしたら感謝されて、お金がガッポリで、

    女の子にもモテモテで・・・ウシシ・・・なんてね。

     

    でもね、操体の橋本先生はこんなことを言われていたようなんです。

     

    「治すことまで関与するな!」。

     

    手技療法家の仕事は治すことが大切なはずなのに、

    「治すことまで関与するな!」って一体どうゆうことなんでしょう?

     

    操体を学ぶはじめの一歩は、きっとそんなところから始まるんだと思います。 

     

     

    中谷祐祥

  • 最終日。

    おはようございます。

     今日は朝から、ウグイスの鳴き声が響いています。ウグイスというと早春の鳥として有名ですが、私の住む地域ではこの時期に鳴いていることが多いです。

     「ホ~~  ホケキョ」ホ~は吸気、ホケキョは呼気。このように鳴くのは、この時季特有のもので、秋になると「ケキョ ケキョ ケキョ」と鳴くのだそうだが、なにか「ホ~」で充満する色々なエネルギーをいっぱいに吸いこみ、生命力を表現しているように感じられる。この時季の姿と秋の姿では、随分と違うと思うのだが、なかなかその姿を目にすることはできない。

     「ホ~ ホケキョ」「ホ~ キケヨ」「法~ 聴けよ」すぐ近くで鳴いているのはわかるのだが、御身は隠し給いき。目で見ることばかりに捉われず、聴いた感覚、音がからだにヒビクことで感じるものが大切と諭されているような気がする。音は目には見えない。見えないゆえに、より真実を伝えているような気がする。

     

     今回のブログのテーマは、「おさめ」でした。そのヒビキは重奏にして濃厚、そして神聖的な感じすらする。

     漢字も、「収め」「納め」「治め」「修め」と、その場の状況に応じたものが色々とある。通常はこれらの語に「る」とか「た」をつけて、「収める」「納めた」といった使い方をするのが一般的であろう。

     「る」とか「た」と付け加えると、たちまち人間の行為を意味するものになってくるが、「る」や「た」をつけても、敬いや感謝、なにか目に見えないものに献上するような、そんな含みを帯びている。

     単に人間の行為を意味するものであれば、わざわざ「おさめ」という言葉を使わなくても、他にも言葉は色々ある。「収める」は「しまう」でもいいし、「納める」は「支払う」でも意味はとおる。しかし、それではとおらない、ということは誰でも知っている事だと思う。

     

     例えば、神社の神主さんに、玉串料を渡す時、「支払う」とは言えないだろう。納めるでなければ、社会的にとおらないし、なにより自分の気持ちとの大きな隔たりを感じる。

     まぁ、税金だったら支払うでもいい様な気もするが、支払うという意味を何かの対価に対してと考えれば、税金も納めるということになってくる。昨今の政治や政治家の事を思い浮かべれば、ちょっと癪にさわる感じもするが、公共の為と気持ちを切り替えれば、癪にさわっても、気分はおさまってくる。

     存在にこだわり相対的に考えると、どうしても見返りとか損得のつり合いとかが先行して対立が生じやすくなるが、より自在性の高いものを想えば、平静を取り戻してくる。誰かに水をぶっかけられれば、頭にもくるが雨だったらしょうがないではないか。雨も降らなければ逆に困る。

     

     こうして例え話を書き出していくと、「おさめ」とは相対的なやりとりを超えた言葉だと感じられてくる。現象だけを論じる言葉でもなく、絶対的な自在につうじる言葉でもあるという事。

     「治め」であれば、病気を「治す」という言葉が浮かぶが、実際は人間が人間を治しているわけではないですもんね。その人のからだが十分に治癒力を発揮してくれなければ、どうにもならない。本当は相対的なもので治っているわけではない。投薬でも、外科的処置でも手技療法でも、からだが応えてくれなければどうにもならない。からだが応えてくれるよう、その要求感覚に施術者も被験者も一緒になって耳を傾ける。からだの要求感覚は「気持ちよさ」なのだ。「気持ちよさ」をききわけ、とおす。ききわけた「気持ちよさ」を味わう間というのは、自在する中心理念「愛と調和」へとおる間なのだ。この太極とか祖神(親の親の神)とか呼ばれる中心理念へとおすことこそ「おさめ」だと思う。

     

    今回はこれにて筆をおさめさせていただきます。 お付き合いありがとうございました。

    来週は中谷さんの担当となります。 来週もどうぞ宜しくお願い致します。

     

    友松 誠。

  • 滋養より。

    おはようございます。

     「目に青葉、山ほととぎす、初鰹」自然が奏でる美しいものを見、美しい音色を聞き、旬のものをいただく。初鰹も良いですが、大地の営養を吸い込んだ旬の地のものをいただくのも良いですね。

     キャベツにレタスに筍、アスパラガス。この時期のものは、みずみずしくて、歯ごたえもシャキシャキ、シャリシャリ、そしてすっきりとした甘み。キャベツなどは冬場に食べたものとは別物といった感じさえします。

     旬の地のものって良いですね。からだにもやさしい感じを受ける。口や舌だけでなく、お腹でも味わうという意識を持つと、お腹で有り難さを感じ、優しい気分になっていくのがわかる。

     滋養という言葉があるが、滋養の滋はしげることであり、草木が繁り育つ、うるおすという意味があるという。また、滋という字は糸が2つ並んでいるが、これは2つの糸束をあらわしており、染色する時に、それが水を吸ってゆったりと膨らんでいく状態をあらわす字であり、滋養につながり育むといった意味にもつながり、そのような心情を慈しむという意味になるという。

     滋のさんずいが心のつく慈しみに変わる。みずみずしさは、水っぽさとは違い生気の充実にこそ意味がある。水も質が重要であり、水分量を満たしていれば、それで良いというものではない。水には、あらゆるものを変化させる力がある。エントロピーの増大に向かう変化もあれば、その逆の変化もある。生気の宿る水なのか、ただの水なのか、それによって化学変化の仕方も変わってくると思う。

     水は言葉に反応するという。正確には言葉の波動に反応するのだろう。同じ言葉をはいても、ヒビキ方は人それぞれ違う。この言葉を使えばこうなる、という思考的ハウツーは通用しない。思考は嘘をつくのだ。しかし、感覚は嘘をつかない。感覚が嘘をつくとすれば、それは思考が誤魔化しているからであろう。嘘をついても見透かされてしまう。水は液体としてからだの隅々まで浸透し、空間にも気体として融合し、常に自分達の内と外に在るのだから。ありのままの良い感覚と良い感動を言葉の波動として、とおせばヒビク、そして現象も良い方向へ変わるのではないだろうか。

     みずみずしい精気に満ちた旬の地のものをいただき、口や舌だけでなくお腹でも味わう。何故お腹でも、ききわけと味わいをとおすかというと、口や舌は欲と結びついて騙されやすいからだ。舌の極楽、腹地獄という言葉もある。お腹でもききわけをとおし、味わってみる。そうすると結構、からだに良いかそうでないか、良いものでもどのくらいが良いかが解りやすくなる。生気のあるものを食べ、お腹で味わった感覚と感動を言葉にすれば、現象は変わってくると思う。「うぁ~ 身体の毒が抜けていくようだ」「おぉ~ 元気がわいてくる」感覚はそれぞれだと思うが、感覚を素直に口にすることで大なり小なり現象は変化しているのだと思う。

     しかし、その現象が継続して良い事がより大きくなるかというと、そうは上手くいかない。生命現象はバランス現象だからだ。腹に収めただけでは不十分で、それをより良くアウトプットしていかないと。その指標は自然法則の内にある。「息」「食」「動」「想」。全部大事なのは言うまでもないが、まずは食べ物から生気をいただいたのだから「いただきました」「ご馳走様でした」「ありがとうございました」といった想念を言葉に出し、意識を食物だけでなく、そのおおもとの天地に向ける、ということも大切だと思う。

     そうすることで現象だけの収めが、自在にもつうじるおさめとなる。他の生命のイノチをいただいて、生きているわけですから、天地におさめてあげたいですよね。自分達だって、いつかは肉体を地に還し、天に帰る時がくるのですから。

  • 以前の記憶より。

    おはようございます。

       このところの陽気のせいか、気がつけば部屋の片隅の観葉植物も随分と大きくなってきて、瑞々しく光を反射させています。葉っぱに触れてみると、若々しい肌のようです。
     これから段々暑くなってきますから、葉っぱの感触を確かめながら、土が乾いてしまわぬよう、波動の質の良い水を与え、土壌のバランスを保ってあげる事も大切ですよね。この観葉植物とは、かれこれ10年以上の付き合いとなります。

     

     ふと、随分と前に、この観葉植物を見て「みどりって、みどりなんですね」と言っていた人の記憶が甦った。操体の臨床を終えた後、ありのままを見て、感じたまま、ありのままに素直に口にした言葉だった。
     こうして文字にして書き出して読めば、意味不明かもしれないが、その時の少女のようにキラキラした瞳から、何を言いたいのかが、直ぐに伝わってきた。

     その方によれば、今まで木々の葉の緑も、トタン屋根のペンキの緑も、同じ緑という感覚だったという。ちょうど今ぐらいの草木が生長し、瑞々しさを湛えながら様々な緑が溢れる頃合だった。濃い緑、薄い緑、黄緑、硬そうな緑、やわらかそうな緑、それらがサラサラとした風を受け、幾重にも折り重なるようにして、生命力の輝きを放っているのに、いつもと同じのペンキの緑と一緒にしてしまったのでは勿体無い。

      色は反射する光の波長によって決まるが、目にうつるものがどういう印象を与えるか、どう認識するかは、その人の都合によって決まるという。
     緑とは、こういう色なのだとはじめから決め付けてしまえば、忙しい人には都合がよく、合理的なのかもしれない。しかし、思考による合理性は、自分の我ばかり増大させ、からだのことはお構いなしといった状態を招きやすい。心とからだのアンバランスも生じ、この方が怒り交じりに訴えていたように「からだがいうことを聞いてくれずに、あちこち痛む」という様な状態ともなりやすい。
     からだのパーソナリティを尊重し「からだにききわける」ということは、本当に大切な事なのだ。

      この方は、こちらの指示(お願い)と介助があったにせよ、自分自身で動きを表現し、その感覚をからだにききわけ、ききわけた気持ちよさを十分に味わった。そうすることで、からだ全体の調和が密になり、心とからだのバランスを取り戻していった。快によって調和が成り、からだがおさまった。そして、そのおさまった感覚を天の中心におさめた。
     本人には、そういった顕在的な意識はなかったと思う。本人に宿る神性が無意識的にそうしたのだと思う。有り難い事だと思う。
     そして本来の自分自身を取り戻していった。そこにはもう、からだの不快感はなく、からだが感じたことに素直になれる自分がいた。そうして出た言葉が「みどりって、みどりなんですね」だったのだと思う。

  • 土台から。

    おはようございます。

     麦畑の麦にも、ようやく穂がついてきたようです。麦一本一本が黄緑色のなかに黄色い穂を掲げ、風の向きに逆らうことなく、いっせいに穂を揺らすその姿は、大地の雄大さや恵みを象徴しているかのようです。

     何事にも土台が大事だとは、よくいわれる事です。
     操体操体法
     操体法は、創始者である橋本敬三医師が、日々の治療として行なっていたものを指すが、はじめのうちは名称などなく、創始者自身も「名称なんてどうだっていい、真理が大切なんだ」と名称が無い事を意にも介してなかったという。

     そのうち、その治療効果の高さが評判となり、テレビやラジオなどのメディアが、どっと押しかけるようになり、名前が無ければ紹介しようがないということで、つけたのが操体法という名称だったという。

     操体法という名称の方が先に世間に知れ渡ってしまったわけだが、それによって「○○病には、どういった動きをすればいいんですか」といったような方法論を得たくて、訪れる人も非常に増えたという。

     しかし、操体法の法というのは方法論の法ではなく、法則の法なのだ。法則とは自然法則の事であり、創始者が治療として行っていたものは、自然法則を応用し、向き合った一人一人を快復に導く為の貢献にあったのだ。

     見方を変えれば、自分自身が生涯かけて自然法則の解明、そして究明といった取り組みで得たものを、向き合った人のからだの要求に応じ、からだと共にその神性におさめていたのだと思う。だから晩年は「気持ちよさをききわければいいんだ」という様に、変わっていった。

     

     創始者、橋本敬三先生の思想、哲学、生命観、死生観を含めたものを操体と呼ぶが、本来、土台とするべきものは、こちらなのだ。

     こちらを土台にしなければ、楽から快へのシフトチェンジはなかったと思う。いつまでたっても、ツライ方から楽な方に動かし、楽にする為の方法論に終始していたと思う。

     しかし、楽では、からだの要求に応えることが出来ないのだ。もしかしたら、土台であるべき操体も自然消滅していたかもしれない。

     

      成してきた事を学ぶのではなく、成さんとした事を学んでいく。

     操体を土台にして、創始者が解明、究明してきた事を含め更に耕すように、それぞれが体感をとおして原究していく。

     そして、それぞれが臨床の場だけでなく、自分自身のおかれた環境の中で、自然法則の応用、貢献という生きた柱を立て、生長させていく。

     天の中心に帰一していった創始者へのおさめだと思います。