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  • 「環境とおさめ」

    先日、藤川球児選手の独立リーグ高知への入団会見を見たのだが、私はこれも一つの「おさめ」だと思った。

     

    大リーグから日本のプロリーグに帰ってくる選手が思うような活躍が出来ていない中、ネットでは藤川選手の決断を賞賛する声が多く見られ、私も同じ思いだが、それ以上に彼の決断は「おさまるところ」に帰ってきたという印象が強かった。

     

    私は巨人ファンであり、野球を一番観ていた頃の藤川選手は天敵とも言える存在で、彼がマウンドに出てきた時は試合終了のように思っていた時があった。それだけ巨人ファンからすれば、彼は「目の上のタンコブ」であったのだが、心のどこかで彼が投げる「火の玉ストレート」に惹かれていたのも偽りのない思いがあった。

     

    そんな彼が阪神を出て大リーグにいった時は野球の一ファンとして応援していたが、怪我もあり中々ファンの期待に応えられない成績のまま退団した時はガッカリしたが、今回の四国に入団を決断した彼の野球に対する姿勢、思いは野球ファンとしてだけでなく、同世代の男として素直に見習いたいと思う。

     

    またこの会見を見て思ったことは人間にとって環境がいかに大切であるかということである。

     

    どういった環境で自分のやっていること、取り組んでいること、また命の営みを全うしていくかで心のバランス、調和がいかようにも変わる。きっと自分の身心がおさまる環境に自分の身を置くことが命にとっても自分にとっても必要なことではないだろうか?

    もちろん厳しい環境に身を置くことも必要だと思うが、その厳しい中にも自分をおさめられる場所が必要なのだと思う。

     

    今回、彼が決断したことは自分が操体の臨床家として、いずれ訪れる決断するべき時に大きな力になると思う。

    お金や地位以上に大切なことがある。自分がおさまるところにおさまるような生き方の選択をしていきたい。

  • 「操体をおさめる」

    ご存知の方も多いと思うが、東京操体研究会が講習を行っている三軒茶屋のターミナルビルの出入り口には橋本先生の写真が飾られている。

     

    三浦先生は入る時、そして帰る時に必ず橋本先生の写真に向かって一礼をしている。

     

    それを見る度に三浦先生は橋本先生にその日学びで得たことを報告しているように見え、自分も無意識に橋本先生にその日学んだことの報告と感謝を告げることが習慣になった。

     

    こういった三浦先生と橋本先生の師弟関係はとても素敵だなと思う。

     

    またそれと同時に、操体を学ぶことにおいて「好き勝手」は出来ない、許されないということを強く実感することが出来たのである。

     

    三浦先生は常々橋本先生に「操体をお借りし、お返しする」と言われているが、それは操体を学ぶことにおける三浦先生の「おさめ」のように見える。

     

    操体を学ぶという事は橋本先生にしっかりとお返し出来るようにおさめなければならないということであり、こういった姿勢は何にでも共通して言えることである。

     

    おさまらない、おさまりのつかないような学び方には真理は姿を現さないように思える。

     

  • 「真の治療とは何か?」

    操体を学んでいく中で様々な治療法と触れ合い、交流する機会がある。

     

    最近では春のフォーラムにもお越し頂いた腱引きの小口先生の治療をDVDで観る機会があったのだが、戦場医学というだけあり、臨床のスピード、触診の正確さはとても勉強になる。

     

    操体の臨床とは相対する臨床を見ることで自分の臨床に新たな気付きと治療という行為の目的を考えるきっかけを与えてくれたのである。

     

    「真の治療」とは一体何なのか。一般的な治療には薬物療法、外科的療法、理学的療法、鍼灸療法、指圧療法、整体療法等、医術を通して様々な治療が行われている。

     

    いずれの治療法も結果的に患者の「壊れたカラダをどうにかしてほしい」という要求に応えることが最大の目的としているが、果たして患者のそういった一方的な要求に応えることで互いが救われるのだろうか?またカラダを治すことだけが真の治療なのだろうかと疑問に思う。

     

    この問いの答えを模索していく中でこういったコトバと出会った。

     

    「(施術者する人間は)的確な効果を収めて治療となるためには、これらの医術を受ける患者側において、日々(受ける)療法を身に実践することによって、患者の無意識に、よくなる、治って行く、という連想が働くから治るのであります」(医学博士岡田一好著「生命の医学 P161より」

     

    この本、このコトバは自分がどういった臨床家を目指すのか、どういった臨床をしていきたいのかを考えていく上で、私に大きな指標を与えてくれた。

     

    前日のブログでも少し書かせて頂いたが、患者が体感する痛みも体が治る過程において必要なものであり、その痛みも患者のカラダが悦ぶヒビキとなり、やがてカラダの治癒力、意識、生き方が変わってくるのである。

    そういった臨床を成すには岡田一好氏が言われるように療法を実践していくこと、これは自分とカラダと向き合うことであり、患者自身がいかに自己責任と向き合い付き合っていくか、カラダの治癒力に繋がる命の営みを無意識に全う出来るかということである。

     

    操体と他の医療行為の大きな違いには「カラダに感覚を聞き分けること」、それに連結して「自己責任との向き合うこと」が挙げられる。それを結ぶキーワードとして患者自身が自分自身のカラダの治癒力を他人任せにはせず、向き合っていけるかということである。そういったことを気付き、実践していき、それによって「おさまるところにおさまる」ように手助けすることが「真の治療」ではないだろうか?

  • 「臨床のおさめ」

    昨日書いたことは臨床でも同じことが言える。

     

    視診・触診・動診、それぞれ一つ一つをおさめていかなければならない。

     

    治しぱなしの臨床では治るものも治らないし、施術する側も後味が悪い。

     

    やはり臨床もお互いが「ありがとうございます」と素直に頭を下げられるような臨床を行っていかなければならないと思う。それには臨床の中でお互いの信頼関係を構築していくことがとても大切になってくる。

     

    そういったことを考えていく中で、私自身が操体の臨床家として、最近大切にしているのが「痛み」との向き合い方である。

     

    どの臨床でも施術者と患者は共通して「痛み」と向き合わなければならないのだが、どの手技を見ていても「痛み」とは自らの生き方、行いに対しての「報いの痛み」のように見える。つまりカラダを壊した代償を痛みとして払わせているのである。

     

    施術する側の観点からすれば、患者に「痛み」と向き合わせることでカラダの構造を正し、「もうこんな痛い思いはしたくない」と思わせることで患者自身の生き方を正していくことも一つの臨床であるのかもしれない。

     

    しかし私達操体の臨床家は「きもちのよさで体は治る」という創始者のコトバがある以上は患者にそういった代償を払わせるような「報いの痛み」と向き合わせるべきではないと思う。

     

    ではどうしていくべきか。それは「痛みも体にとっては必要なもの、またはカラダが治す過程で必要なもの」という「救いの痛み」として捉えるべきである。

     

    こういった捉え方をすれば、「痛み」もただ痛いだけで留まらず、快へと変化し、やがてカラダが悦ぶ治癒力へと変化する。

     

    そういった捉え方で痛みと向き合っていくと臨床も治しぱなしということにはならず、おさまるところにおさまる。臨床が互いにおさまれば施術者と患者自身もきもちがよいし、良い信頼関係が築けるように思う。

  • 「おさめとコトバ」

     

    みなさん、おはようございます。

     

    一週間よろしくお願い致します。

     

     小十郎君ごくろうさまでした。捨て猫であんなに小さかった小十郎君がブログを書けるほど大きくなったのも、彼の生きたいと いう強い意志と2人のご主人様の寛大な愛があったからだと思います。シモン君の兄貴(笑)としては嬉しく思います。

     

    今回のテーマである「おさめ」について各々の思い、考えを見て思ったことは「おさめ」とは私達の普段の命の営みの中で常に行っているということ。

     

    「ありがとうございます」

    「ごめんなさい」

    「おはようございます」

    「おやすみなさい」

    「いただきます」

    「ごちそうさま」

     

    こういったコトバを自然とコトバにすることで命の営み一つ一つが丸くおさまり、キレイに循環するようになる。

     

    私達が普段さりげなく口にしているコトバには生かされていることへの感謝の気持ちを込めるのと同時に一つ一つの行為を自分自身にある神性におさめているのだと思う。

     

    一日が始まりは生かされていることへの感謝のコトバから始まり、終わりを迎えることにまた感謝を告げて一日をおさめる。

     

    人生はこのように「おさめ」で始まり、「おさめて」終えることの繰り返しなのだろう。

     

    このように当たり前に口にしているコトバの意味を租借していくと、当たり前の事の中にとても大切な事が隠されているようにみえる。

     

    昔の人たちはきっと普段から使っている言葉を自分自身の中に在る神性に響くように、そして丸くおさまるように改正していき現在のコトバがあるのだと思う。

     

    私達はこういった祖先の遺産を大切に使わせて頂けることに感謝しなければならない。

  • なのかめ。

    最初、シモン兄ちゃんは
    ボクのことを「うるさいヤツ」だと思っていたみたいです。

     

    今でもうるさいかな?

     

    遊んでほしくて近くに行くと
    ねこぱんちされることもあります。

    今でもボクがたまに「遊んでよ~」って
    寄っていくと、
    「うるさいなぁ」って言われます。

     

    でも、最近は一緒によくねています。

     

    あめが降っているひや、
    お留守番している時は、
    大抵一緒です。

     

    お兄ちゃん大好き。

    15歳か16歳だけど、元気でボクといっぱい
    あそんでください。

     

    いっしゅうかんありがとうございました。

    またね。

     

    小十郎

     

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  • むいかめ。

    おとーたまは「そうたい」ということを勉強しているそうです。

     

    なんのことかな?

    おとーたまは空を指さして
    「からだのことと、あっちのことの勉強」っていいます。

     

    あっちのことってなんだろう?

    ボクにはわかりません。

     

    でも、おとーたまがずっと
    勉強しているんだったら、おもしろいことなんだろうな。

     

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    ★それって、おいしいのかな??

     

    おとーたまのセンセイは、
    お医者さんだったんだ。

    で、やってることが先を行きすぎていて
    みんなついてこれなかったんだ。

    「自分のやってることは60年先を行ってるから、
    今理解されなくてもいい」って、
    おとーたまに話してくれたんだって。

     

    すごいね。

     

  • いつかめ。

    おとーたまはこの前、めがねを買いました。

    「マツオカセイゴウ先生(猫好きの先生だそうです)みたいな、
    丸い縁か、ジョン・レノン・モデルみたいなのが似合う」とか、
    色々話を聞いて、新宿伊勢丹のメンズ館で買ったらしいです。

     

    これはリーディング・グラスというヤツだそうです。
    近くが見えなくて遠くが見えるヒトが読書するときにかけるメガネです。

    伊勢丹のメンズ館には、サロン・ド・シマジという
    シングルモルトと葉巻のバーがあります。

    そこのバーマスターのシマジ先生は
    本を書くひとなんだけど、
    おとーたまの患者様でもあります。

    シマジ先生、首が痛くて辛かった時、
    たまたまサロンに来ていたおとーたまの
    応急手当で良くなったんだって。

    シマジ先生の本にもおとーたまが出てきます。

    さらに、おとーたまは、サロン・ド・シマジで売っている
    ハヅキグラス」というメガネもかけています。

     

    これは文字が大きく見えるメガネです。

     

     

    おとーたまは本を写したり、
    毎日万年筆で日誌を書いているので、あると便利なんだって。

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  • よっかめ。

    こんにちは。

    ボク、小さいころはとっても暴れん坊だったんです。

    走り回ってモノを割っておとーたまに叱られたりしました。

     

    特におとーたまはガラスとかお皿が好きなので、
    割ったりすると困るから、って、ボクはケージに入れられてました。

     

    そうすると、イライラしてきて「出してよ~」と暴れたり、
    おねーちゃんに噛みついてみたりしました。

    あるとき、おとーたまが
    「ケージに入れておくのは可哀想だから、出してやろう」と
    出してくれました。

     

    「いたずらするなよ」

     

    出してくれたら、イライラしなくなりました。

    あと、お兄ちゃんはアメリカン・ショートヘアのハーフなので、
    高いところには登りません。

    ご先祖がアメリカの砂漠に住んでいたので、
    高いところには登らないんです。

     

    なので、ボクも登らないことにしました。

     

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  • みっかめ。

    こんにちは。

     

    ボク、小十郎です。

    でも「チビちゃん」って呼ばれてます。
    お兄ちゃんが大猫なので、チビに見えるからです。

     

    そして、ボクはニャーって鳴けません。

    どうしてだろう。
    お兄ちゃんは「にゃ」とか「うにゃ」とか「にゃ~ん」って
    鳴いていますが、ボクは「うき」「ききき」っていう声が出ます。

    おとーたまは「猫じゃないんだろ」と言いますが、

    猫だと思います。

     

    そのうちれんしゅうしたら鳴けるようになるかな。

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