ブログ

  • 歪み その1 

    本日からお題は「歪み」。

    歪んでいた私。

    歪みをテーマに今回は私の操体に出会ってから現在までの話をさせていただきたいと思います。

     

    私はいつから歪んでいったのだろうか?操体を知る前の私はだいぶ歪んでいた。当時は本当にからだを酷使していた。特に30代は酷かった。仕事は夜遅くまでパソコンはつけっぱなし。仕事を途中でやめるとこが出来ずに頑張り過ぎ。と同時に土日はスポーツ。長年続けているバスケと習い始めたばかりのグレーシー柔術という格闘技を平行に行っていた。一番酷いときは午前中にグレーシー柔術の練習に行き、一眠りした後に夜バスケの練習に行ったこともある。今、あの頃と同じように過ごすのは無理だろう。想像もできない。まさに体に鞭を打って生活していた。週に最低2回はマッサージに行っていた。あの頃は本当に欲で行動していた。欲しいものを何も考えずに食べ、マッサージでは愚痴を吐き、営業中暇があれば鍼、足裏マッサージ、整体に通っていた。しかし一向にからだの痛みが消えない。消えないどころか痛みが増すばかり。何でも人の所為にしていた。すぐに体が歪み、痛み戻るのはマッサージ師にテクニックがないのだと思っていた。

    そしてどうしようもなくなって母から聞いた三浦先生のところへ訪問することになったのだ。

    つづく

  • 治める 3

     家政と言うが、家治とは言わない。

     

     やはり、家庭も祭り事なのか。

     

     「男は統治するが、女は支配する。」と、昔、西洋の偉い人が言ったそうな。

     

     祭り事と言っても、アドレナリンばかりではない、ドーパミンの出る類のものもある。

     

     カーニバルがそうだ。

     

     橋本敬三は、「セックスは、神を交えた祭り事だ。」と言った。

     

     では、この場合「治め」とは何か?

     

     良い食事と、良いセックスのために、日常生活がある、と考えてはどうか?

  • 治める 2

    療治  いやし、おさめる

     

    治療  なおし、いやす

     

     

    やっている事の内容が違ってくる。

  • 修める

    修業(しゅうぎょう):学校や、特定の師のもとで、決まった段階を踏んで

               学業、技芸を学び、身につけること

     

    修行(しゅぎょう)

    仏教徒が、より高い悟りの境地を目ざして所定の戒を保ち苦行を重ねること

    ・より高い学術・技芸をもって一本立ちが出来るまで年限にかかわらず日夜くふうを凝らし、自己を鍛えること

     

    私は、「修行」と書くのが好きです。 

  • 収める

    収拾(をつける):混乱した状態を、うまく収めること     

              元の鞘に収まる

     

    収穫:農作物の取り入れ

       意図したとおりに採取できたもの

        実りを得る

  • 治める

    政治

    政と治

    祭り事と治め

    血湧き肉踊る時と平穏な時

    動乱と治平

     

    世の中は、この繰り返しだ。

  • 納める

    納税:毎年やって来るイヤな時期

       年貢の納め時

     

    納会: 歌い納め など

       締め括りを付けること

     

    収納:収まるところに、納まること

  • おさめる

    納める

     ・決められた期限に、決められただけのものを渡す。

     ・今まで続けて来たものを、それでしまいにする。

     

    治める

     ・再び混乱や災害などが起こらないように、必要な手段を講じて処理する。

     

    収める

     ・そのものを本来あるべき場所に入れて、望ましい状態にする。

     ・望ましい状態のものとして手に入れる。

     

    修める

     ・自分を高めるための努力をする。

     

     辞書を引くと、こういったものが出て来ます。それぞれに想いがあります。

  • 『「自分らしさ」という器におさめる』

    大抵の人は人生で一度は「自分らしさ」というのを考えたことがあるだろう。

     

    自分の長所、または短所、自分がどういった性格なのか。ここまでは考えたことはあると思うのだが、そこから更に踏み込んで、自分にはどれだけの可能性があるのか、またはどれだけの器量があるのかまで考えてみたことはあるだろうか?

     

    意外とここまで自分を自己分析する機会はあまりないと思うので、これを読んでいる人はこれを気に考えてみてほしい(特に自分と同じ30代の人には)。

    まだ自分が10代の頃に描いていた自分と重なるのか?20代になり社会と現実の生活の中でどう変化していったのか?

    周りの人が気付く自分の変化に自分自身が気付かないことがある。そういった自分の変化に気付かずに今日という日を過ごしてしまっている人が多いように思う。

     

    私自身もここ数年の間で自分の中にどういった変化が起こっているのかをよく理解出来ていない気がする。よく友人から「昔から全然変わっていないね」と言われるが、それも何か違うような気がする。確実に何かが変化している。

    一日一日、瞬間、瞬間で何か実感することが出来ない些細な変化があるのは確かなのだが、それが何なのかは分からない。

    今日に至るまで「自分らしく」生きてきたつもりであったが、その「自分らしさ」は不思議なことに自分以上に他人の方がよく分かっていたりもする。

     

    ただ自分の成長というか、これが変わったというのが一つある。それは「自分の器」である。

    特に操体を学び始めてからの6年間の学びで得た知識や技術というのは、それを生かすための「自分らしい器」作りだったのだと思う。

     

    命の営みや自然法則を学び実践していくこと、それに繋がる数々の知識、情報にしても操体を学んでいくプロセスの中で「自分らしい器」を作り、得たものを一つ一つ取りこぼしのないように無意識の内におさめているのだと思う。

    それは何を学ぶにしても同じ事が言えて、知識や技術を租借し実践していく中で自分自身の中におさまる様に自分の器を皆が作っていっているように見える。

     

    みなさんも今一度「自分らしさ」とは一体何なのかを見直してみてほしい。それが分かると知識や情報の入り方も変わってきて、新たな自分自身と向き合うことが出来る。そうすれば自分と自分自身が調和し、自分という器に上手くおさまってくるように思う。

     

    一週間ありがとうございました。明日からは半蔵さんです。お愉しみに。

  • 「動物のおさめ、植物のおさめ」

    人間の生き方には大きく分けて2通りの生き方があるように思う。

     

    動物のように本能のまま「何かを求めていく」生き方と、植物のように静観しながら環境と上手く調和しながら生きていく生き方が人間にもあるように見える。

     

    どちらが良い悪いという概念はないのだが、日々操体と向き合っていると自然に植物のような生き方に自分がおさまってくる。

    f:id:tokyo_sotai:20150618132330j:plain

     

    この写真はターミナルビルのテラスにある植物である。

     

    三浦先生や寺本実行委員が愛情を込め育てていき、ここまで育った。

     

    その愛情とは水以外にも命が悦ぶコトバや臨床から産まれる波動であり、彼らはそれらをありがたく受け取りながらも目には見えない波動で私達に恩返しをしてくれている。

    それは生きる活力なのかもしれないし、または臨床を手助けしてくれているのかもしれない。

    この植物達を見ていると、彼らは彼らなりに「おさめている」ように見える。

     

    そういった彼らの姿勢を見ていると、橋本先生が言われる「人間の生き方が間違っている」というのもよく理解出来る。

     

    人間が人間らしく生きていくには「俺が、俺が」というように自分が主語になってしまっては彼らのようにおさまりがつかない。求めず、与えられた恩恵に対しておさめ、そのおさめたものは見返りを求めず返していく。

     

    そんな生き方が出来れば、きっと病と戦わないでありのままに生きていけるのだと思う。