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  • 春のエネルギー

    日下実行委員よりバトンを受け、本日より一週間担当いたします。

    よろしくお願いいたします。

     

    ハナミズキが咲いています。

    触れてみると、花びらと葉では違う感覚をあじわうことができます。

     

    今回のテーマ、おさめ。

    操体を学ぶようになり、この言葉を意識するようになりました。

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    「おさめ」「おさめる」「おさまってくる」

    おさまっていない状態の時に、からだは異常を訴えてくる。

    その異常を訴えているからだを「おさめ」ていくと、

    からだは自然と「おさまってくる。」異常は軽減したり、治癒していく。

    臨床を通して、からだが自然と「おさまってくる」ように、手助けをする。

     

    強制的にバランスをとるのではなく、

    からだが「おさまる」ような見立てが、臨床には大切なのだと感じる日々です。

     

  • おさめ⑦

     最終日は、呼吸に深く関わっているカラダの酸素欠乏について述べてみたい。

     

     呼吸の第一目的は酸素の摂取である。 心臓からの動脈血はカラダ全身に五百兆を超える細胞に、酸素と栄養分を与えたのち、静脈血に入って心臓に戻ってくる。 心臓から出て戻ってくるまでは、僅か二二秒であるが、血の色は一変している。

     

     健康を維持するために、血液が悪戦苦闘の末、静脈血として見るも無残な姿で戻ってきたのを知れば、ねんごろな呼吸をもって迎えてやらなければならない。 ありとあらゆる悪性腫瘍、いわゆる癌という病気は、酸素の欠乏が素因である。 その原因を理解せずに、オペだ! コバルト照射だ! 抗癌剤だ! といって真因を無視するのはいかがなものか。 

     

     それは癌だけではない、心臓疾患も、高血圧も、神経痛一般の筋肉痛も、素因はすべて酸素の欠乏である。 それなら酸素吸入すればよいなどと、安易な考えを起こしてはならない。 近頃、そういった類のものが商品化されているようだが、緊急時以外は使用すべきではない。 そのような単独な酸素は必ずカラダにとって毒になる。

     

     たとえば、未熟児用の保育カプセルに新生児を入れて酸素を流したために、一生涯視力を失った児がどれほどいることか。 自然は、酸素のほかに、窒素をはじめとする幾十の元素を配合して、地球上の生物に最も良い空気を作ってくれたのである。 その自然から戴いた空気という供給のありがたさを知らずにいたのが、癌であり、高血圧であり、神経痛なのである。 

     

     しかし肉体の疾患よりもっと酸素の緊急を要するのが頭脳である。 酸素が乏しくなると、カラダよりも先に脳をやられてしまう。 つまり、大脳をやられて思考力が鈍ることもさることながら、間脳以下の自律神経が犯されて血行が止まってしまうことになる。 これが難病といわれるものの素因である。 

     

     脳はカラダと比較してはるかに小さいが、酸素を要求する率は、同量の筋肉の十倍といわれており、恐ろしいほどの酸素消費量である。 そのような酸素は脳にとって一番の食べ物であるから、世間に存在するすべての健康法において、呼吸法を含んでいない健康法は、健康法に値しないものということになる。

     

     そんな健康を左右する呼吸法には、さまざまなものがある。 たとえば一般にいうヨーガ(ハタ・ヨーガ)を柔軟体操のように思っている人が多いが、ヨーガの中心にあるものは呼吸である。 その呼吸において、「調息法」(プラーナ・アーヤーマ)という基盤を確かめてから、カラダが必要とするビタミン、ミネラルなどの「食事法」や血液循環に最も寄与する「皮膚法」、それに筋骨の動きである「体位法」(アーサナ)をたどって、瞑想という「精神法」(ディヤーナ)に到達する仕組みになっているのだ。

     

     ヨーガは、伝統的に調息法をとても大切にしてきた。 それは、呼吸のあり方が、心やカラダの状態と深く関わっているということを既に知っていたからだ。 呼吸が浅くなっていると、自律神経のバランスが狂いやすくなって、血管も収縮して血行不良になり、全身が酸欠状態に陥ってしまう。 すると、脳にも十分なエネルギーが行き渡らず、内臓の働きも低下し、カラダは重く感じてくる。 それと、心の働きにも粘着性が出て、イライラしやすくなって、不安感を覚え、思考も消極的になってくる。

     

     このようなとき、意識的に呼吸を調えることによって、心の働きも安定し、鎮まってくるのである。 しかし、そのように呼吸を収めるだけでは十分ではなく、呼吸を収めると同時に、心とカラダの動きも合わせたつながりを収めることが重要だ。 それを実感することで、心とカラダの一体感や統合感も感じとれるようになる。 ハタ・ヨーガのアーサナ(体位法)が発達した理由はここにある。

     

     疾患を持つと、心身ともに不快になってくるものだが、そこで快適感覚を収めることにより、疾患を治めて快癒に導くというのが操体だ。 それには操体操法のみならず、息・食・動・想に加えて皮膚や環境の快意識も相乗することになる。 そしてこれらすべてに共有して働いているのが呼吸であり、共通意識なのである。 すなわち息をはじめとするすべてのつながりを総合的に収めてもらうことをカラダは必要としているのである。

     

     

     明日からは〝皐月のそよ風〟香実行委員の担当です。

  • おさめ⑥

     病気のありとあらゆる原因は、血質の低下と血行不良であると、すでに述べたところである。 その原因として、呼吸が浅くなって、食べ物が乱れると、血質が落ちてしまう。 その血質が落ちると、血液が粘りついてくるので、必ず血液の循環が悪くなる。 また、皮膚が弱くて、姿勢が歪んでくると、やはり血液の循環も悪くなる。 その血液循環が悪くなると、血液が澱んで腐敗するので、やはり血質も落ちてしまう。

     

     そんな血液でも、呼吸を深くして酸素が十分に入ってくると、粘りついた血液がたちまちサラサラとしたきれいな良い血質に変身してしまう。 また、生野菜のようなアルカリ性食品を摂取すると、どす黒い血がたちまち鮮やかな色の血に変えてくれる。 結論として、血液を清めるには、呼吸と食べ物とを同時に収めていくことにより、どんなに濁った血であっても必ず健康な血に変えることができるということだ。

     

     血液の循環についても、血質と同様、血の流れを良くするには、必ず皮膚の鍛錬と、筋骨の調整とを同時に収めていかなければならない。 皮膚が弱くなると血の流れが悪くなる。 また、筋肉に凝りができて、骨格が崩れても、血の流れが悪くなる。 このことは、肩を堅くして、腰を前に突き出しているような人が病気になりやすいことでもよくわかる。

     

     皮膚を丈夫にすることと、筋骨をやはり同時に調えることで、血の流れは良くなる。 長年、血が滞り続けて、癌などの腫瘍ができたとしても、それを治める方法は、さし当りそこに血の流れをつけることにある。 しかしそれには余ほどの強い血液循環の力が必要になってくる。 そのためには、皮膚からの血流と、筋骨からの血流とを、同時に収めなければならないということだ。

     

     呼吸と食事は、血の質を良くし、筋骨の動きと皮膚の鍛錬は、血の流れを良くする。 血の質と血の流れは、一枚のコインの裏表であるという所以はここにある。

  • おさめ⑤

     カラダにおける血液の粘稠度は、水の五倍といわれている。 そんな血管は柔軟であることから、水流の原理である「水量の六乗」、いわゆる二倍の水量では六四倍の力が働くことになる。 しかし、水と同じ法則ではないものの、流れとしての流末は血液も同じである。 

     

     たとえば今、心を明朗にしたとしよう。 すると自律神経の働きが活発性を加えることによって血液の循環がよくなってくる。 その血液循環が良くなると、それが知覚神経を通して心を明朗にする。 その心が明朗になると、今度は健康が増してくる。 健康が増してくると、心がもっと明朗になってくる。 このように心とカラダとは、無限に跳ね返していくものである。 このことは、嬉しいときには顔が紅潮して、空腹感が起こってくることでもよくわかる。 これがもし、カラダの方が不健康であったり、あるいは心の方が不明朗であったとすれば、片方の努力も空しく消えていくしかない。

     

     さてそれと同時に、心地いい風呂に入ったとする。 すると水温の刺激が効いて血行がよくなる。 心とカラダとの両面から同時に、血液の循環を良くしたわけである。 血行の路は、まったく同一の血管であるから、二面からの良い刺激が、同じ一本の血管を洗っていくことになる。

     

     水流のように水量の六乗の力になるというのではないが、血液もそれと同じ流末が働くものと見ることができるのである。 カラダと心とを同時に、強化すれば、濁った血液を浄化する力は、血行の量が二倍になったのと同じ六四倍ぐらいの高水準になりうるはずである。

     

     治療の原理は一元であって、それは血液を清めればよいのであるが、その清め方というのは、心とカラダの二者が拮抗して助け合うことで、相乗効果が発揮されることになる。 長年、あらゆる医療の努力を重ね、心理学に基づく心の転換にも努めてみたものの、ついに治めきれなかった疾患が、快適感覚を収めることによって、いとも容易に回復する事実を、目にすることができる。 そのような快適感覚は、カラダの健康についても、心の健康についても最高度の道を開き、最頂点の境に達していると思える。

  • おさめ④

     昨日述べたように、心の不快感を治めようとすれば、カラダの姿勢の悪い癖ばかりではない。 呼吸についての悪い癖や食事についての悪い癖、それに皮膚についての悪い癖などがある。 これらの悪習慣を改めない限り、心の不快感を治めることは不可能なのである。

     

     酒やドラッグや泥棒の悪癖までも、感化、懲戒だけで直そうとしても納めきるものではない。 カラダの方に間違った習慣がついている以上、それをまず納めてやらねばならない。

     

     心の形は、すぐカラダの形になり、カラダの形は、すぐ心の形になるという自然法則がある。 だから、心はカラダであり、カラダは心であるといえるのだ。 それを別々に切り離して、カラダだけの病気を治そうとか、心のみを矯正しようと、いくら努力をしてみたところで、効果があがるはずはないのである。

     

     心はカラダを支配し、カラダは心を支配するという仕組みはこうである。 心で笑うと、顔の筋肉もすぐ笑ってくれる。 それは今おかしく感じて、明日になってから顔が笑い出すというのではない。 一瞬にして、大脳~間脳~中脳~小脳~延髄~脊髄を介して、運動神経が働き、顔の筋肉が動かされて笑いにつながってくる。

     

     顔にハエがとまってウザいと感じるのも、一瞬にして、知覚神経を通して、大脳にまで伝達されたからである。 運動神経と知覚神経は、カラダと心の中間にあり、その両者を完全に一者にしているものである。

     

     カラダには、知覚神経や運動神経という意識的な神経のほかに、無意識的な神経である自律神経が働いている。 就寝時には、意識的な神経は休むことになるが、無意識的な神経である自律神経はむしろ活発に働き出す。 眠っていても心臓は拍動し続け、胃腸も蠕動し続けている。 そんな自律神経は、交感神経と副交感神経の二つの系統によって成り立っている。

     

     自律神経は、心臓ならば、交感神経系が縮めて、副交感神経系が拡げる役目を担っており、 胃腸ならば、交感神経系が拡げて、副交感神経系が縮める作用を受け持っている。 このように二つの対照的な神経系が、ひとつの器官を拮抗関係にして協力しながら動かしているのだ。 そして、大概の血管や内臓の不調は、この交感神経と副交感神経の拮抗関係が乱れて起こることが多い。

     

     その自律神経の中枢は、大脳の下にある間脳であるが、 この間脳が大脳に起こる感情をまともに受けて、不快な感情を持つとたちまち自律神経に不調を引き起こすことになる。 高血圧症や糖尿病などは交感神経系の失調であるし、胃潰瘍や癌などは副交感神経系の失調であるとみてよい。

     

     この自律神経も、知覚神経や運動神経と同じく、心とカラダとの二つを一者にしてしまう接着剤の役目をしている。 そんな自律神経の失調を起こす要因は、食事の悪い癖としては、動物性食品などに偏った食べ方をしていると、交感神経失調を起こして、怒りっぽくなってしまう。 また、加熱調理した煮野菜などばかりを食べていると、副交感神経失調に陥って、クヨクヨした性格になってしまう。

     

     他にも、カラダの不自然な使い方として、背部の椎骨に関わる運 動ばかりしていると、交感神経系を刺激して暗い性格になり、逆に腹部の筋肉に関わる運動ばかりをすると、副交感神経系を刺激して落着きのない性格になる。

     

     このように、自律神経を仲介として、心とカラダというものは離すことのできない表裏一体のコインになっている。 どこを、どう押そうとも、心とカラダにおいては、密接な関係というよりも、一者の両面というほかはない。 それが恐るべき身心相乗の原理を収める機転なのである。

  • おさめ③

     心の不快感が、種々の病気を引き起こすメカニズムは、随分と解ってきた。 そして統計的には、カラダが主原因となっている病人と、心の方が主原因となっている病人は、それぞれ半数であるという。 ということは、カラダと心を分けずに、同時に処方すれば、パーフェクトに好転するということがいえるのである。

     

     心の病気のためにカラダの病気が起きるように、カラダの病気のために心の病気も起こってくる。 病気の原因を分析すると、カラダでカラダの病気を起こすものと、心で心の病気を起こすという同側系と、カラダで心の病気を起こすものと、心でカラダの病気を起こすというふうに区分できる。

     

     カラダの病気が、「心構え」を変えただけで好転することは実際に多い。 それと同じように、心の病気も、「カラダ構え」を改めたことによって治ってしまうことが多い。

    カラダと心とは、一枚のコインの裏・表のように、離れることができない一枚であるからだ。

     

     心の不快感としては、 怒り争ったり、不平不満を言ったり、怖れ悲しんだり、妬みや憎しみなどの暗い感情を抱くと、その感情が直ちに間脳から大脳以下に伝達されて、そこにある自律神経の中枢が錯乱されてしまう。 各内臓や血管もすべて、自律神経の支配下にあるので、自律神経中枢の異常はすぐに内臓と血管の乱れとなって影響を及ぼすことになる。 

     

     血管の乱れというのは、怒ると赤くなり、怖れると青くなり、嫉むと紫がかり、嫌がると黄色がかるというように、感情がすぐに皮膚の色を変えてしまう。 これは血液の循環が乱されたということだ。 このように神経伝達の速さは、毎秒120m、ほぼ瞬間的なものといえる。

     

     カラダの不快感としては、 肺が堅くなると頑固になり、 骨盤が曲がるとひねくれ者になり、 肩が捻じれるとカンシャクになり、 頸が堅いと疑い深くなり、 カラダの重心が前に傾くと傲慢になり、顎が前に出ると干渉好きになり、 腰が前に出ると臆病な性格になる。 このような性格を治したいのなら、必ずカラダに着いた悪習慣である癖を納めなければならない。 それを知らずに反省とか教育といった努力をいくら重ねても、無駄な時間に終わってしまうことになる。

  • おさめ②

     健康を定義するのにとても難しく考える人たちがいる。 しかし、健康とは、質の良い血液が、全身の隅々までより良く巡っているということに尽きるのである。 このほかには、何も難しく考える必要はない。 要するに、血質を良くし、血行を良くすればいいだけのことである。 血質と血行を良くして、治らなかった疾患は未だかって一つもない。 これは極めて重要なことなので、しっかり理解することが必要だ。

     

     腰痛が鍼をうってもらって治った、という人がいる。 しかし、本当に治ったのではなく、実は腰の痛みだけを隠したのである。 その人の腰痛は天から痛みが降って来たのではない。 その人の悪い生活習慣が、腰痛を作り出したということだ。 たとえば、砂糖類の過度の摂取が、腰の骨を溶かしてしまい、腰椎が歪んで神経を刺激し、痛くなってくるのであろう。 そして鍼をうったために、砂糖の悪習慣が止んだというのなら、本当にそれは治ったと言える。 そこではじめて、腰痛は起こりえなくなるからだ。 

     

     胃潰瘍で胃に痛みのある人が、西洋医学の化学薬品を服用して治らなかったのに、自然漢方薬で治ったという。 それについても本当に治ったのではなく、痛みが散っただけのことである。 胃潰瘍も、偶然に起きたわけではない。 やはり、原因と結果の法則に従って生じたものである。 怖れる、悲しむ、嘆く、というような感情を長い間持ち続けていると、誰でも簡単に胃に潰瘍を作ることができるはずである。 そんな胃潰瘍漢方薬を飲んだことで、そのような暗い感情をもった心の日常習慣が解消したというならば、それは治ったと言ってもいいだろう。

     

     鍼や、薬品で、疾患が一時的に消えたように見えることは確かにある。 それは、鍼がその刺激でもって血行を作り出すことができるし、また、薬品はその化学作用で血質を一時的に改めることができるからだ。 しかし疾患の原因は、鍼を打たなかったから、薬品を飲まなかったからではない。 本当の疾患の原因は、本人の常平生の悪習慣につきるのである。 その原因たる悪習慣を納めたときにはじめて、その結果たる疾患は、消えていくしかない、ということになる。

     

     だからといって、薬や、鍼などが、まったく無用であると、一概には言えない。 薬や鍼によって一時的にも元気を取り返し、その勢いで、悪習慣を改めていくというのなら、それらの医療も、立派な貢献価値になりうる。 しかし、そんな医療によって、それで治ったと思い込ませ、本人の悪習慣を自ら矯正する機会を失わせてしまうところに、医療の危険性というものが潜んでいる。

     

     元々、医療で悪習慣が治ったというのではないから、しばらく経つと、また病気が起こってくる。 それを何回も繰り返しているうちに、疾患はますます悪化して慢性化いくことになるのだ。

     

     悪い生活習慣を納めるのは、あくまでも自力のみであり、他力ではなし得ないものだ。 それには本人の意識的な心が求められる。 そんな意識的な心から起こる行動は、外の空間に悪習慣を納めることなのである。

  • おさめ

     今回のリレーブログ、テーマは 『おさめ』 。 

     

     操体の「おさめ」に関する私的な定義としては、「快適感覚を収めて、疾患を治める」ことにある。 具体的に言うと、操体操法による快適感覚によって拡がっていた意識を自分のからだに戻す。 そして、その快適意識を下腹部丹田に収めることで、からだを自然身に戻し、疾患を治めることである。

     

     まず、「疾患を治める」ということにスポットをあててみたい。 疾患を治めるとは、病気を治すことなのではあるが、それを治すには、病気そのものを治そうとしてはいけない。 病気というものは苦痛であり、不快であるものだ。 ならば、そこに逆の「快」を作ってやればよいのである。 快適感覚ができれば、もはや病気は消えてしまったも同然である。

     

     病気は、本来的に言って、無いものである。 それはただ、快適感覚が足りていないということだ。 このことは、操体の臨床において、「快」を増すことができたなら、早々と疾患が消えていくのを目にすることができる。

     

     快適感覚ができれば必ず不快は消えることになる。 しかし、不快が訪れて快が消えるということはないのである。 「快」と「不快」とは、一見、相対峙した二者のように見えるかも知れないが、本当のことを言うとそこには「快」しかないのである。 苦痛が感じられる所は、不快があるのではなくて、快が薄いというだけのことである。 それが証拠に快を強くすれば、不快は必ず消えるしかないからだ。

     

     しかし、消え去ったからといって、不快がどこかへ移動したのではない。 本来は無いものであるから、見えなくなっただけのことである。 だから不快を強くして快を消し去ろうとしても、できるものではない。 

     

     健康と病気というのも、相対峙した二者ではない。 健康は実在するが、病気は実在しないものである。 病気とはただ健康が薄いということであり、だから健康を増すことで、病気は必ず消え去るしか無いのである。 未だかって、健康なカラダに、病気があった例はない。 だから、健康にならないものは、病気を治そうと思ってはならない。 ただ、健康を増すことだけを考えればいいのだ。 そのように病気を治めればいいのである。

     

     ここまで理解が深まれば、病名の詮索など、まったく無用なことになってくる。 健診センターなどへ出向き、精密検査などといって、すべての検査をしつくしたところで、それで病気が治ったためしはない。 また、いくら早期発見されたところで、それで快癒したことにはならない。 国立癌研究所の所長殿が代々癌で死んでいっているのを見れば、それが何よりの証拠だ。

     

     

    すなわち、病気を治めることは、病気を深刻に見つめる仕草ではなく、健康を作り出すことに真剣に向き合うことである。

  • 死生観を収める

     仏教的解釈では、人間は生まれて来るときに、四百四の病気を抱えてくる。

    だから、発症させないように生きていかなくてはならない・・・という。

     

    基礎医学臨床医学のギャップ紡ぐ架け橋、「操体」は未病治の医学である。

    今週のテーマ「おさめ」のなか、私自身と「操体」がどのように結ばれたのか。

    17年前に「操体」の門を開け、私たちひとりひとりに、三浦理事長が私たちに

    放った問いかけた「信仰(宗教観)」は、強烈そのものだった。

     

    「(君たちにとって)神仏とは何か?」

    余命一ヶ月の人間に(むかって)なんと言うのか?」

    「ゆっくりでいいから、自分の遺言状を書くこと」

    これらを五年ごとに書いてみるレポートは、自分自身を知ることになる、と。

     

    そう!「操体」を学ぶことは「私自身が生きてきた証」そのものなのである。

     

    覚えてきたこと・・・腑に落ちていること・・・。

    生かされて生きている

    操体創始者橋本敬三師の哲学思想、「救い」とはなにか。

     

    もともと生命が生まれながらにして救われているという、絶対的な神生

     師もこのように語ったという。

    「この世は極楽でした・・・私は先に祖神の里、その元にかえります・・・」

     

    師の若き日のサトリ。

    もともと生まれながらにして、「救い」が成立しているのが人間。

    その人間には、「想(念)」が宿り、神性相続権がある。

    ゆえに、一番きもちがいいところから生まれ、またそこに還(かえ)る

     

    真の生命医学とは、最先端の医学をさらに生かす礎(いしずえ)となる。

    故に「操体(法)」とは、最小エネルギーで最大の効果をもたらす

    生まれながらにして備わっている、その「快」を充分に味わうこと。

     

    「本人」が忘れても「からだ」は悪くなった箇所を記憶しているのだから、

    そのあとの、治すことは「からだ」に任せなさい

     

    死生観を学ぶ。この世では試してみればみる程に価値がある。

    過去形の意味を嚙みしめてみる・・・「この世は極楽でした」・・・の意味。

     言霊を、私たちひとりひとりの個性で味わいつつ、生まれし理由を、

    日々嚙みしめ、生かされつつも、今を生きてゆく。

     

    そのうえで「宇宙意識」に触れてみる。

      ある事に懐き強く思い、

      かくあるべしと語るなら

      必ず具現する 心の振動により共鳴し 

      さらに根を共にする多くのものたちを振動させる

                     ~御言霊より~

     

    私たちは一人であっても一人だけなのではない。

    真理を感じとる仕組みさえも、原始感覚として備わっている。

    「からだ」とわたしたちひとりひとりで、収めていけばよいのだ。

     

    そして孫世代に受け渡す頃には、私自身「確かに極楽でした」と、

    師に語りかけ語られつつ、安心して息を引き取るのだと決めた。

     

    それでは、一週間のお付き合いを頂きまして有難うございます。

    明日からは、慧眼の師でもある日下実行委員の登場です!                    

                            岡村郁生

     

     

     

     

  • いのちの要求に適う、その修めかた

    どこまで修めるのか?

     

    「本人」は悩める力を持ち、「からだ」は治る力を持つ

    この「環境」条件は、私たちひとりひとり違っている。

     

    本人の治る力は「本人」に備わっていても、長年の癖や、様々な思い込みによって「ボディーの歪み」をきたすことが多いのである。

     

    ボディーの歪み」こそ、私たちひとりひとりの「環境」となり、さまざまな症状や疾患と言われる現象変化と深く関わっているのである。

     

    この場合に、「からだ」の治す力を最大限に発揮できるようにすること。

    つまり、「からだ」のお手伝いをするのが「操体の指導者」である。

     

    「からだ」にシンプル、「からだ」に優しく、「治る」介助補助をするのだ。

     

    「治る」とは何か?

     

    そもそも、治るのは「本人」以外の誰でもないのだから、その究極体験を言えば、「死」であって、いつか私たちひとりひとり、この世を去るときがやってくる。

     

    その自分自身の「死」も「本人」だけが体験するのである。

    変わってあげることができない、故に「自己責任」の分担範囲なのだろう。

     

    このような考え方のない治療体系には、私自身全く興味が湧かない。

     

    ここまで引きつけられるのは、「操体」独自の哲学思想と相まって、「からだ」本位であってこそ宇宙の真理に適う「生命医学」として成立している。

    言うなれば「操体」は、生命分析に至る最高学府の学問体系でなのある。

     

    しかも、創始者橋本敬三師曰く「体系付けてきたものの、いまだ完成していない」

     

    ・・・故に底が見えない・・・。

    深く学べるからこそ面白い。

    しかも、”腑に落ちる”体験を、”何度でも味わいつつ”、学問にできるのだ

                                岡村郁生