自分と「自分のからだ」の間に
からだを「自分の」をつけずに捉えていく。
その関係性を良好にし続けるために
日々学んでいるのだとしみじみと思う。
からだと自分のあいだに良い距離感を実感できるような
体感を持ちたちと思う。
それがからだに対する正義ではないだろうか。
自分と「自分のからだ」の間に
からだを「自分の」をつけずに捉えていく。
その関係性を良好にし続けるために
日々学んでいるのだとしみじみと思う。
からだと自分のあいだに良い距離感を実感できるような
体感を持ちたちと思う。
それがからだに対する正義ではないだろうか。
昨日のつづき
最終日は、昨日に引き続いて、正義に関して最も核心部分である真と偽について述べてみる。 生における真と偽の相関関係を理解するためには、自己の内の虚偽を、また絶えず自分につき続けている嘘を理解しなければならない。
これらの嘘は自己の内にある緩衝システムがつくりだすものである。 無意識のうちに他者につく嘘とともに、自己の内部でつく嘘をも打ち壊すためには、緩衝システムを破壊しなければならない。
ところが人間は緩衝システムなしでは生きることができない。 自己の内にある緩衝システムは機械的に人間の動作、言葉、思考、感情をコントロールしているからである。 もし緩衝システムが破壊されれば、コントロールはまったく効かなくなってしまう。
人間はコントロールなしでは、たとえそれがただの機械的なコントロールであっても、存在することはできない。 意志を、すなわち意識的コントロールをもっている人間だけが緩衝システムなしでも生きることができるのである。 この緩衝システムのない状態こそが正義なのである。
したがって、自己の内の緩衝システムを壊し始めるなら、同時に意志を発達させなければならない。 ところが、意志は注文に応じて短期間に発達させることができないために、自分は、破壊された緩衝システムと、まだ十分に強くなっていない意志とともに置き去りにされることになるかも知れない。
最後に、この緩衝システムという言葉について、補足説明をしておきたい。 緩衝システムは人間の内部に自然によってできたものではなく、無意識的にとはいえ人間自身によってつくりだされたものである。
それができた原因は、人間内部の多くの矛盾・・・・・・感情、共感、言葉、動作などの矛盾にある。 もし自分が生涯にわたって自己の内部のあらゆる矛盾を感じるとしたら、今そうしているように平静に生き、行動することはできないだろう。 人々は絶え間ない摩擦と不安をもつことになる。
我々は、自分の人格の中の異なった 「私」 がいかに矛盾し敵対し合っているかを見逃している。 もしこれらの矛盾をすべて感じたら、人は自分が本当は何者であるかを感じることだろう。 人々は自分が、気が狂っていると感じるに違いない。 誰しも自分が気違いだと感じるのは気持ちのよいことではない。
それ以上に、このような考えは人から自身を奪い、自分のエネルギーを弱め、自尊心を奪い取る。 自分は何とかしてこの考えを消してしまわなければならない。 矛盾を打ち壊すか、矛盾を無視し、感じないようにしなければならないのである。 ただし、人間は矛盾を破壊することはできない。
そこで、もし緩衝システムが自分の内部につくられたら、矛盾を感じるのをやめることができ、相反した見解、矛盾した感情、言葉の衝突からくる衝撃などを感じないでもすむようになるからだ。
明日からは香実行委員に 「正義」 のバトンがわたります。 お愉しみに!
昨日のつづき
正義に関して、人々が自分のものだと思っている多くの特質があるが、それらは現実には、発展と進化において低い下層の人間より高次の段階にある人たちにしか属することはできない。
個体性、単一で恒久的な 「私」、意識、意志、為す能力、内的な自由の状態・・・・・・
これらはすべて普通の人間が所有していない特質である。 善悪の観念もこれと同じカテゴリーに属しており、その存在そのものは恒久的な目標、恒久的な方向、恒久的な重心と結びついている。
善悪の概念は時として真と偽の観念に関連している。 しかし、善悪が普通の人間にとって存在しないように、真と偽も同じように存在しない。 恒久的な真と偽は恒久的な人間にとってのみ存在しうるのである。
もし人間自身が変わり続けるなら、自分にとっての真と偽もまた変化し続けるだろう。 また、もし人々がみな瞬間ごとに違った状態にいるなら、人々の真に対する概念は自分の善に対する概念と同様、多様であるに違いない。
昨日偽りだと思っていたものをどのようにして今日は真だと考えるようになるのか、またその逆の変化に、人は決して気づくことがない。 人々は、ちょうど自分の中の 「私」 があるものから別のものへと移っていくのに気づかないように、この変化に気づかないのである。
普通の人間の生活の中では、真と偽はいかなる道徳的価値ももっていない。 なぜなら、人間は決してある一つに真実を固守することはできないからである。 自分の真実は変化する。 もしある期間変わらないとすれば、それは単に自己の内にある「緩衝システム」 で保たれているからにすぎない。
また人は真実を言うことも決してできない。 あるときには真実が語られ、またあるときには嘘がつかれるのである。 その結果、自分の真と偽は価値をもつことができない。 そのどちらも自分にではなく、偶然に依存しているからである。 これは、自分の言葉、思想、感情、真偽の概念に関しても同じく真実なのである。
明日につづく
昨日のつづき
正義は、倫理道徳という善悪についての恒久的な観念により、恒久的な目標と恒久的な理解との関連においてのみ形成することができる。 もし自分が眠っていることを悟り、目覚めたいと望むなら、そのとき自己の覚醒を助けるものはすべて善であり、自己を妨害するもの、自己の眠りを長引かせるものはすべて悪であることになる。
それとまったく同様に、自身は他の人々にとっても何が善であり何が悪であるかを理解するようになる。 自らの覚醒を助けるものは善、それを妨害するものは悪なのである。
しかし、これは目覚めたいと思っている者、つまり自分が眠っているということを理解している者にとってのみあてはまる。 自分が眠っていることを理解していない者、覚醒への欲求をもつことのできない者は善悪を理解することはできない。
そして圧倒的多数の人々は自分が眠っているということを自覚していないし、これからも決してしないであろう。 それゆえ、自分には善悪は実際に存在しえないのである。
これは一般に受け入れられている考えとは相容れない。 人々は、善悪はすべての人にとって同一であるに違いなく、それ以上に善悪はあらゆる人に存在すると考えることに慣れているからである。
しかし現実には、善悪はほんの少数の人々、目標をもち、その目標を追求する者にとってのみ存在するのである。 真実は、この目標の追求を妨げるものが悪であり、助けるものが善なのである。
しかしもちろん眠っている人々は、自分は目標を持っており、どこかに向かって進んでいると言うだろう。 自分は何の目標ももっておらず、どこへも向っていないという事実の認識こそが、覚醒に近づいていることの、また覚醒が本当に可能になりつつあることの最初の徴候なのである。 覚醒はどこにも向かっておらず、またどこに向かえばよいのかわからないということを認識するときにこそ初めて始まるのである。
明日につづく
昨日のつづき
一般に正義は道徳的な正しさであるというが、道徳という観念は良い行い、悪い行いという観念に結びついている。 しかし、善悪の観念は人によって常に異なり、自己の内に緩衝システムをもつ者においては常に主観的で、しかもある時点あるいは状況にのみ関連している。 主観的な人間は普遍的な善悪の観念をもつことはできない。 主観的な人間にとっては、悪とは、自分の欲望や興味や善の概念に反するすべてのものだからだ。
主観的な人間には悪は存在しない、ただ異なった善の概念が存在するだけだと言えるだろう。 悪のために故意に何かをやる者は一人もいない。 誰もが自分の理解する善のために行動するのである。 しかし誰もがそれを違ったふうに解釈しており、その結果人々は、善のために互いに足を引っ張ったり殺し合ったりしているのだ。 原因はここでもまったく同じ、つまり人がその中で生きている無知と深い眠りにある。
このことは、今までに人々が一度もこのことを考えたことがないのが奇妙に思えるほど明白である。 しかしそれでも、人々はこれを理解せず、誰もが自分の善こそ唯一の善であり、他のすべては悪であると考えたのだという事実は残る。 人々がいつかこのことを理解し、善についての普遍的で同一の概念を発展させるだろうと望むのは素朴すぎるし、無意味でもある。
しかし善と悪は、人間から離れてそれ自体で存在している。 ただこの問題は、我々からは非常に離れており、今すぐ理解しようとしてもあまり意味がない。 ただ一つのことを覚えておく必要がある。 それは、人間にとって、善悪についてありうるべき唯一の恒久的な観念は進化の観念と結びついているということだ。
だが、もちろん機械的な進化の観念とではなく、意識的努力、自己の存在の変化、内的創出、そして恒久的な 「私」 の形成を通じての人間の進化という観念と結びついているのである。
明日につづく
昨日のつづき
宗教的な人々は正義や道徳について話すのが大好きだ! しかし道徳は自己暗示にすぎない。 本当に必要なのは道徳ではなく良心である。 賢い人は子どもたちに道徳などは教えない。 いかにして良心を見つけるかを教えるのである。
こう言うと人々はあまりいい顔をしない。 世間の人はそれに対して 「愛」 がないと言う。 そう言いたい気持ちはわかる。 宗教の教えのように人の弱さと偽善を勧めないばかりか、反対にすべての仮面を取り去ってしまうからである。
真実を求める者は愛や宗教については話さない。 自分がそれらからいかに離れているかを知っているからだ。 宗教の教えは信者のためのものだ。 仏教徒とは、仏教の教えに従って生きる、つまり教えに従ってすべてを行なう者のことである。
愛や道徳を語る人は本当にイエス・キリストの教えに従って生きることができるだろうか。 もちろんできっこない。 しかしこの類の会話は常にあるだろうし、また、言葉が何よりも大事である人たちがまわりに常にいるだろう。 これは間違いようのない徴候である。 そんなふうに話す者は空っぽの人間であり、時間を費やすだけの価値はないということだ。
このように道徳と良心とはまったく異なったものである。 ある良心は他の良心と矛盾することは決してない。 しかし、ある道徳はいつでも他の道徳と容易に矛盾してしまい、それを完全に否定することができる。
自分の内に緩衝システムをもつ人間は非常に道徳的であるかも知れない。 またそれらの緩衝システムは互いに非常に異なったものでもありうる。 これはつまり、二人の非常に道徳的な人間が互いを非常に不道徳だと考えることもありうるということだ。 一般的には、ほとんど必然的にそうなってしまう。 つまり、道徳的であればあるほど、人は他の道徳的な人を不道徳と考えるのである。
明日につづく
昨日のつづき
「正義」 の概念としての 「良心」 の象徴は 「火」 である。 比喩的にいうとガラスの蒸留器の中の粉末をすべて融合させることのできる唯一の火である。 また、正義論というような自己探求を始める時点では欠けている統一を生みだす火なのである。
「正義は道徳的な正しさや良心に適った概念」 ということになっているが、「良心」 という概念は 「道徳」 という概念と何の共通点もない。 良心は普遍的で恒久的な現象である。 良心はあらゆる人間にとって同一であり、それは緩衝システムがないときにのみ存在することができる。
人間のさまざまなカテゴリーを理解するという観点から見れば、内部にまったく矛盾をもたない人間には良心があると言えるかも知れない。 この良心は苦しみではなく、それどころか我々にはわからないまったく新しい性質の喜びなのである。
しかし、何千という、異なった 「私」 をもつ人間にとっては、ほんの一瞬の良心の覚醒でさえ苦痛を伴わずにはいられない。 もし、良心のこのような瞬間が長くなれば、またもし、恐れるどころか協調しながらそれを保持し、継続させようとするなら、非常に微妙な喜びの要素が徐々にこれらの瞬間の中に入ってきて、未来の 「明晰な意識」 を前もって味わうことができるのである。
ところが 「道徳」 の概念には普遍的なものは何も無い。 なぜなら、道徳は自己の内にある緩衝システムによってできているからだ。 だから、普遍的な道徳というものは皆無である。 例えば、日本で道徳であるものはドイツでは不道徳で、ドイツで道徳であるものは日本では不道徳である。 東京で道徳であるものは大阪では不道徳で、また大阪で道徳であるものは東京では不道徳である。 社会のある階層で道徳であるものは他の階層では不道徳であり、その反対もしかりである。
道徳は常に、どこにおいても人為的な現象である。 それは種々の 「タブー」、つまり、制限やさまざまな要求から成っており、それらの根拠は時には筋が通っていることもあるが、時にはまったく無意味になっていたり、もともと何の意味もなかったりする。 さらには誤った基盤の上に、つまり迷信や偽りの恐怖の上につくられていることもある。
そんな道徳というものは自己の内にある緩衝システムでできている。 そして緩衝システムには多くの種類があるために、また異なった国や時代、さらに、社会のさまざまな階級における生活状態が多様であるために、それらによってつくりだされる道徳も非常に異なり、矛盾している。 つまり、すべてに共通な道徳など存在するはずがない。
道徳に対する何らかの普遍的な観念が、たとえば日本に存在するということは不可能でさえある。 欧米の一般的な道徳は 「キリスト教道徳」であると思われる。 しかし、そのキリスト教道徳という観念そのものが非常に多くの異なった解釈を許し、また多種多様な犯罪がキリスト教道徳によって正当化されてきている。
いずれにせよ、もしキリスト教道徳やイスラム教道徳が現に進行している戦争を世界にもたらしたのだとすれば、現代日本においては、それらの道徳をどう理解しようと、それと共通するものはほとんどない。
明日につづく
テーマは 「正義」。
「正義」 は 「道徳的」 な正しさや 「良心」 に適った概念であるということに一応はなっている。 しかし、通常の生活では 「良心」 という概念はあまりにも簡単に考えられすぎている。 まるで誰でもが良心をもっているかのようだ。 実際は、感情の領域における 「良心」 の概念は、知性の領域における 「意識」 の概念と等価なのである。 そして我々は知性の意識をもっていないのと同様に感情の領域においても良心などもっていようはずがない。
知性の意識とは、自分が普段知っているすべてのことの全体を同時に知る状態を言い、また自分の知っていることがいかに少ないか、いかに多くの矛盾がその中にあるかを見ることのできる状態のことである。 そして、良心とは、自分が普段感じること、あるいは感じられるすべてのことの全体を同時に感じる状態のことである。
ところが、誰もが自分の内に多様な、何千という矛盾した感情をもっている。 自分は無であるという深く隠された認識やあらゆる種類の恐怖から、最も馬鹿げた種類の自己欺瞞、自信、自己満足、自己賛美に至る感情をもっている。 そのために、これらすべてを一緒に感じることは苦痛なだけでなく、文字通り堪えがたいことなのである。
もし、その内的世界全体が矛盾から成り立っている人が、突然これらの全矛盾を自己の内部で同時に感じるとしたら、「良心」 と言える。 またもし、自分の憎んでいるものすべてを愛しており、愛しているものすべてを憎んでいると急に感じるとしたら、「良心」 と言える。 あるいは真実を話しているときに嘘をついているとか、嘘をついているときに真実を話しているとかを感じているとしたら、「良心」 と言える。 またもし、このことすべてから生じる恥ずかしさと恐ろしさを感じることができたら、これこそが 「良心」 と呼ばれる状態なのである。
ただし、人はこのような状態で生きることはできない。 矛盾を破壊するか、若しくは良心を破壊するかしなければならない。 ただし、良心は破壊することはできないが、眠り込ませることならできる。 つまり、自己に対する一つの感情を突き破れない障壁によって他の感情から切り離し、決してそれらを一緒には見ないように、あるいはそれらが両立しがたいことを、すなわち一つの感情がもう一つの感情と一緒に存在することの不条理さを感じないようにすることはできるのである。
しかし、人間にとって、つまり自分の平和と眠りにとっては、幸いにも、先ほど述べたような良心の状態は非常にまれである。 小さな子どものときから緩衝システムが自己の内部で育ちはじめ、強力になり、自分から自己内部の矛盾を見る能力を奪い去ってきているので、自分には突然の覚醒などという危険はまったくない。
覚醒は、それを探し求めている者、それを得るために長期間、飽きたり気を緩めたりしないで自己と闘い、自己修練をする準備のできている者にのみ可能なのである。 そのためには緩衝システムを破壊すること、つまり矛盾の感覚と結びついているあらゆる内的苦痛と直面することを由として進んで歩み出る必要がある。
さらに、緩衝システムの破壊自体が非常に長期間の努力を必要とする。 そして自分の努力の結果として、良心に適った正義の覚醒から生じるありとあらゆる不快と苦痛を舐めることを了解した上で、この努力に取り組まなければならない。
明日につづく
不正=正義でない 儲けた金はやはり活きたお金ではないようです。不正で得た金はからだの歪みを作るようです。そのようなお金を得て幸せそうな人を見たことがありません。

一週間お付き合いいただきありがとうございました。