主張しているところ、痛み、腫れがあるところにとらわれ、
見るべきところを飛ばしてしまう。
からだが変化を起こすのに必要なところを飛ばさずに診れる見立ての
重要性を日々感じています。
一週間、ありがとうございました。
明日からは瀧澤さんです。
主張しているところ、痛み、腫れがあるところにとらわれ、
見るべきところを飛ばしてしまう。
からだが変化を起こすのに必要なところを飛ばさずに診れる見立ての
重要性を日々感じています。
一週間、ありがとうございました。
明日からは瀧澤さんです。
日常何気なく聞いている生活音
この音はからだにどんな変化をもたらしているのでしょうね。
車の音、電車の音、外で子供が遊んている声……
小鳥のさえずり、波の音、水の流れる音……
旅行などで、普段住んでいる場所を離れ、違う環境に身を置いた時に感じる音に
新鮮さを覚えます。
聴こえてくる音によって、何かが変化している感覚があります。
見ているもののどこに焦点を合わせているのか?
自分の捉えている焦点、視点を明確にすると
自分と違う焦点で捉えている人との違いに気づくことができます。
違いに気づくことができないと、相手の捉えている視点や焦点を飛ばしてしまい、
理解できません。
どんなに言葉や文章で説明されても相手の伝えたい視点や焦点は、真の意味で理解できない状態になります。
相手の視点や焦点を理解するために、自分の視点や焦点を明確にしておくことは大切だと感じています。

気づいたら寝ていたという時の気持ちよさは
からだもこころもとても気持ちの良いものです。
とてもスムーズな眠りは寝起きに爽快感を味わうことができます。
からだは、行動に対して、忠実に反応しているのだと実感します。
毎日の睡眠状態とからだの状態は、観察すると様々な変化に気づかせてくれます。
今日から一週間担当します。よろしくお願いいたします。
日常の自分の行動を振り返ったり、考えなおしてみると、
今している行動に全集中している時間と言うのは以外と少ないと思います。この時間を意図的に集中できたらいいのになあとも思います。これは私のことであって、他の人のことではありません。集中している時間を意図的にできるひとは、目標達成を確実にしているのだと思います。
テレビを見ながら、翌日の予定を考えたり、寝ていたり……
簡単な作業をしながら、全く別のことを考えていたり……
日常のなかで、「全くべつのところに意識が飛んでしまっていた」と気づけることが
大切だと、からだと向き合うことで感じる機会が増えるました。
普段、我々はからだから多くのエネルギーを飛ばしている。 そのエネルギーを浪費し、消耗しきっている、だからたくさん食べなければならない。 エネルギーが流れ出るには何か尖ったものが必要であり、そのからだの末端部が手足である。 手足のほかにも男性性器が尖っている。
つまり、男性性器はひとつのはけ口であり、多量のエネルギーを飛ばさなければならない。 エネルギーが自分の内部に過剰になってどうすることもできなくなると、男性はそれを性的に放出する。 性行為において女性は決してどんなエネルギーも放出しない。 女性は一夜のうちに多くの男性と肉体を交わせるが、男性にはとても無理だ! 女性は、もしやり方さえ知っていたのなら、エネルギーを保存することさえできる、エネルギーを得ることさえもできる。
標高の高い地に身を置く心の探求者である瞑想家たちは我々のようにたくさん食べたりしない、せいぜい日に1回食事をとるだけで、たいして眠りもしないのに爽快なエネルギーでいっぱいになっている。 そのような瞑想家たちは足と足を重ね、手と手を重ねている、この蓮華座で坐るという姿勢はからだの末端すべてが出会い、エネルギーを飛ばすことなく保存することができる。 つまり、蓮華座のように足と足を重ね、手と手を重ねて静かに坐ることでエネルギーを浪費することがない。
自分のお気に入りの公園にある一本の木に近づいてその木に静かに語りかけてみる。 そして、その木に触れてみる、さらにその木を抱擁してみる、それからその木のオーラーを感じてみる。 次にその木の傍らに静かに坐ってみる、「自分はいい人で、傷つける気持ちなどない」 ということをその木に感じさせてみる、このようにして感情を飛ばす。
すると、まもなくその木との友情が湧きあがり、自分がその木のもとへ訪れると、木の質がたちまち変化する、それを感じはじめる。 自分が訪れると、その木の樹皮にははかり知れないエネルギーが動くのを感じるだろう。
自分がその木に触れると、木は子どものように、最愛の人がやって来たときのように幸せになる、その木のそばに坐ると、このように多くのことを感じる。 そしてある時、自分が悲しんで木のもとにやって来ると、自分の悲しみが、まさにその木の存在によって消えてゆくのが感じられる。
そのときはじめて、自分たちが依存しあっていることを理解できる。 自分は木を幸せにすることができる、そして、その生命の全体が相互に依存しているということを。 この相互依存こそ、「爽快感」 と呼べるもの。
今日は瞑想実験室からのスタートだ!
それは思考からアプローチする実験の開始! 自分の部屋を実験室にして閉め切ってその中に座り、自分の思考を書き取りはじめる。 その紙を他の誰かに見せる必要などないので、頭脳に入り込んできた何もかもを書き取る、だがそれらの内容を変えてはならない。
その思考を10分間書き続け、それからその紙に書かれた文字を読んでみる。 これこそが紛れもなく正真正銘自分の考えていることにほかならない。 それをよく見たら、これは誰か狂人のなせるわざだと思うに違いないだろう。
このように思考の内容を書くことでより意識的になって、思考のスピードダウンにつながってくる。 それはやがて思考が停止する瞬間に行きつく。 つまりある瞬間、思考がなくなる、すなわち思考を飛ばす状況が生まれたのである。
瞬間であっても思考がなくなると、一体何が残るのか、それこそが純粋な爽快感である。 瞑想とは自分自身の固有の本性、実存であり、自分の行動とは何の関わりもない。 それを所有することも所有しないこともできない。 それはものではない、ただならぬ自分自身の実存そのものである。
静かな森のなかにある大きな木の下に座って、過去を飛ばし、未来も未だなく、何も考えることなくただそこにいるとき、一体、どこに自分の存在があるのだろう? 一体どこに 「私」 というものを見つけ出せるのか? いや、それを感じることはできない。
たった今この瞬間という現在において、私という自我は、未だかってあったためしがない。 それは、過去はもはやなく、未来も未だここにない。 過去は吹っ飛んで消え失せ、未来は未だ現れていない、ただ現在だけがある。 そして現在には、決して自我のようなものを見出すことはできない。 そうしていると、世界の見え方が少し変わってくる。
ほんの一瞬、1秒の間、いや0.5秒でいい、自分の内側にまるで自分がいないかのように感じて見る。 これは実に素晴らしい瞑想法になる。 たった0.5秒の間、まったくの停止! 自分はいない! 自分がいなくても世界は完璧に申し分なく続いているというこの事実に、ますます目覚めるようになる。
するとどうだろう、長い間、無視されてきた自分の存在のもう一つの部分を学ぶことができるようになってくる。 物事は、自分なしに上手く起こり続けてゆくということ、これは稀にみる受容的な生き方のひとつである。 そしてこの受容性は自分の存在のもう一つの部分である爽快感からやってくる。