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  • 中学の修学旅行だったと思うのですが、比叡山延暦寺に行ったことがあります。
    自慢じゃないですがガキの頃からボーッとしてるので、ちゃんとは覚えていないのですが、精進料理なんか食べさせてもらって「どんなにマズいものかと思ったけど、なんだかウマいなぁ」なんて思いながら、仏様のことは全く気にもかけず。今とあまり変わりません。 
    ですがこういうボヤッとしたガキにもビックリする事がありまして、NHK特集で以前放送された千日回峰行のビデオを見せて頂いたんですね。あの頃比叡山に行った修学旅行生は皆見せられたんじゃないでしょうか。

    千日回峰行というのは比叡の山中を深夜に礼拝しながら巡る行で、七年かけて行われ、一年目から三年目までは毎年百日間、四、五年目は二百日間の計七百日間、約40キロの道程を巡り、六年目は約50キロの道程を百日、七年目は約84キロの道程を百日間、その後30キロの道程を百日間巡るというもので、しかも五年目の七百日を達成した直後には九日間、不眠不臥断食断水で堂に籠る「堂入り」があります。行者は首を吊る為の紐と自害用の短刀まで身に付けて臨むというまさに捨て身の行です。(回峰の道筋など行のやり方はいくつかあるようです)
    このビデオに出ていらしたのは酒井雄哉さんという方で、千日回峰行を達成された後、もう一度千日回峰行を達成されたという有名な方です。

    自分の想像を超えたこういう人がいる、こういう世界がある、そのビデオを観てまぁとにかくビックリしました。アホなガキは単純にスゴいなぁ、カッコいいなぁと思いました。
    ちなみに同じビデオを観て、千日回峰行を志し、達成されたという立派な方がおられます。ウロッと精進料理を食べてたやつとは出来が違いますね。本を出されています(塩沼亮潤著「人生生涯小僧のこころ」)。

    さてそのウロッとした人間が、20年ほど経ってから急に酒井雄哉さんの本を読むようになりました。酒井さんご自身の書かれた本も酒井さんを題材にした本もいくつか出版されています。読んでみると壮絶な修業ぶりとそこで得られた感覚体験もさることながら、自分とはかけ離れた超人だと思っていた人が以外と人間臭く魅力的で、そういう人がどうやってこういう難行をやり遂げていけるのか興味深く読ませて頂きました。もちろん大阿闍梨と呼ばれるような人と自分を並べる事はできませんが、酒井さんも人生に迷われていた時期があり四十から比叡山に入山されたということで、同じように迷って同じ年で操体に出会った僕はなんとなく感情移入をしています。

    千日回峰行とは関係ないのですがその本の中の一つに書かれていた言葉が眼に留まりました。
    「仏さまにも相対性がある。慈悲の相対、悲を中心にする人、慈を中心にする人、この二つの面があるんです。」(長尾三郎著「生き仏になった落ちこぼれ」より)
    慈悲の相対、「慈」と「悲」。僕は今まで勝手に「慈悲」というのは「悲しみ」を「慈しむ」んだな、となんとなく思っていたのですが、「慈」と「悲」は別のものなんだと初めて知りました。この辺の事は日下さんにお聴きするのが確かなんでしょうが、ネットで調べると「抜苦与楽」苦しみを抜く「悲」と楽を与える「慈」があるようですね。
    この「慈』と「悲」の考えでいうと、僕は今までからだを診るというのは苦しみを抜く、病気を治す「悲」なのかなと思っていました。でも操体を知って、より「病気治し」ということに違和感を持つようになりました。病気さえなければ人は幸せなんだろうか、人にとって本当にきもちのよい事とはどういう事なのか、操体的には「楽を与える」という言葉には抵抗がありますが「苦しみを抜く」というイメージに囚われなくてもいいのかな、と思っています。

    最後に同じ本の中から最澄の言葉を。
    「明らかに知んぬ、最下鈍の者も十二年を経れば必ず一験を得る」(顕戒論)
    どんなに能力の劣ったものであっても、一つの事を十二年間続けるなら必ず一験を得られる。酒井大阿闍梨もこの言葉に動かされたそうですが、僕のような者にはありがたい言葉です。

  • キューピーちゃん!?

    「先生の事、うちではキューピーちゃんって呼んでるのよ。」と患者さんに言われた事があります。絶句しましたが(笑)。
    いったいどんな会話が交わされているのか、想像に苦しみます。周りの患者さんも可哀想に、笑うに笑えず堪えるのに必死で、お気の毒でした。世界中にいらっしゃるキューピーファンの方、申し訳ありません。僕が言ったんじゃありませんからね、病人さんのおっしゃったことですから、お許しいただきたいと思います。
    キューピーちゃん好きな方に闇討ちに遭いたくないので、似てるというつもりは全くありませんが、あえて部分だけ取り出すとね、似てるかもしれませんね。「髪が生え揃ってない」とか「手足が短い」とか「頭がデカい」とか。
    でも「カワイイ」という大事なところで食い違う。残念なことです。
    そんな風に部分だけ取り出すと正しいように見えて全体を観ると全く違うことってありますよね。

    この前も三浦寛先生にスゴい絵を見せて頂いた後、先生とそんな話になりまして、とにかく本物を一流のものを観ろと教えていただきました。三浦寛先生も橋本敬三先生をずっと見て来られて、段々に師匠のされる事がわかってくる、師匠と目線が近くなってくる、似て非なるものを見ても、何かがおかしい雰囲気が違うそんな事が見抜ける眼が出来てくる、と仰っておられました。

    昨日もお話ししましたが、昔アホほど映画を観ていた時期がありまして、実際余計にアホになりましたが、そうやって観ているとだんだん映画の良し悪しが分かるようになってくるんですね。
    とてもウマい、ウマいんだけど何ともない映画がたまにあります。逆にウマくはないんだけど心が動かされる、そういう映画もありますね。最初の何秒かとか、途中のワンカットだけを観ても何となく伝わってくるものがある。いい映画はただ誰もいない部屋の中を撮っただけでも何かがある、これをどうやって撮るんだろう?ずっとそんな事ばっかり考えてました。
    似て非なるもの、その違いがどこから、何から来るのか。
    今になって僕は、作り手、送り手が、感じ取っているか、感動しているかが違うんじゃないかな、と思います。言い方を変えれば人の意識におもねているか、コントロールしようとしているか、それともからだ同士でいのち同士で響き合おうとしているのか、その違いでしょうか。映画はフィクションですが撮影は現実です。フィルムにはどうしてもその現場がどういう空気になっているかが映り込んでしまう。いい映画には現場の人間同士の響き合いといったものが映っているのだと思います。これは映画に限らずいいものに共通して言える事じゃないでしょうか。
    ひとをモノと見るのかイノチとして見るのか、コントロールするモノとして見るのか、響き合うイノチとして見るのか、確かに心もからだもモノとして扱えば、機械的に物理的に動かすことは出来ると思います。でも感動すること響き合うことは出来ない。

    操体でも、やるのは人間同士同じいのちですから、触れているということで伝わるもの、伝わってしまうものがたくさんある。そういう意味では響き合えるかどうかはすぐにからだに分かってしまう。小手先の事が通用しない。お互いの在り方がハッキリ出てしまうのですね。生き方が問われているのだと思います。とかく「わかりやすい」「簡単にできる」というイメージが操体には有ると思います。でもシンプルだからこそ要求されるものは厳しいものなのかもしれません。

    E=mc²がEとmとcと2で書かれていることはアホな僕にも分かりますが、この式が導き出される為に必要だった数多の天才たちの思考がどんなものなのか、この式が現実に意味するものは何なのかを実感することは僕には出来ません。自然の摂理を解き明かすというのは、導き出されたものがシンプルであればあるほど、厳しい道のりを要求されるものだと思います。シンプルイズベストには賛成ですが、この「シンプル」というのは究極に洗練されたものを言うのであって、「機械的」という意味で「単純」な訳じゃない。「誰にでもできる」というのはみんなが共通に与えられているイノチそのものに適っているからということで、「感じとろうとしていなくても、いい加減にしても効果がある」という事じゃないと思います。
            

  • 思いがけない繋がり

    ニセ学生をやってた頃の僕は映画の仕事をしたいと思っていました。出る方じゃなくて作る方ですね。
    今考えると才能も無いのに、と思うんですがその時は本気だったんですね。
    修業と思って、眼を開いてる時間は映画以外は眼に映らないようにしようと映画ばかり観てました。(引きこもり、という説もあるが)
    そんな訳で今でも映画は大好きです。なかなか観る時間がありませんが。

    好きな映画はたくさん有りますが、最近より好きになって来た映画があります。
    炎のランナー」というイギリス映画です。
    1981年のアカデミー賞を穫っているのでご存知の方も多いと思います。ヴァンゲリスの音楽も有名ですよね。
    もう28年も前の映画なんですね。今調べて自分でビックリしました。
    僕は荻昌弘さんがやっていたTBSの月曜ロードショーで初めて見て、その時から大好きになりましたが、最近あらためて観る機会がありこの映画が好きになっています。

    炎のランナー」は1924年のパリ・オリンピックに出場したイギリス・ナショナルチームの2人を、実話をもとに描いています。
    一人はユダヤ人である事で受ける差別、偏見を勝利ではね返そうとするハロルド・エイブラムス。もう一人は「走る時、神の歓びを感じる」と神のために走ろうとするエリック・リデル。対照的な二人を描きながらドラマは進んでいきます。操体的に言えば「報い」と「救い」の対比でしょうか。批判を受けながら、プロのコーチをつけてまで勝利を目指し努力するエイブラハムズ。「神のために走る」という信念を貫けるのか厳しい選択を迫られるリデル。これからご覧になる方の為にストーリーは書きませんが、実話なだけにクライマックスの感動が胸に迫ります。
    「神を讃えるために走る」という在り方は当時の自分にはとても新鮮で、またそれを貫こうとするリデルの姿に憧れました。

    この映画には好きな言葉がたくさん出てきます。
    「じゃがいもの皮むきでも完璧に行えば神を讃えるものとなる」とか、「後悔はある、だが疑問は無い」(これだけでは意味がわかりませんが重要な場面の台詞です)とか。昔映画を観ながら口真似したもんです。
    そんな中であらためてこの映画を観て響いた言葉がありました。
    「ゴールに向かって駆け抜ける力はどこから来るのでしょう。それは内からです」という台詞です。今のスポーツ事情からは考えられませんが、リデルがレースに出た後に集まった観衆に神の教えを説く場面が出てきます。そこで出て来る台詞なのですが、苦しい生活を送る人達に対して人生をレースになぞらえてこの言葉を言っているのです。以前観た時にはこの台詞を聴いても「そりゃそうだ」くらいに思っていたんですが、今回観ていて分かったのは、この人は自分のからだの内に神の力を感じて走っている、ということなんですね。自分の内から湧き出てくるものがある。それは「自分」が創りだしたものじゃない、そういうことなんですね。今更なんですが、分かるのに20年以上かかってしまいました。以前は分からなかった台詞が響くというのも実感があればこそなんですが、自分がイノチを産み出した力と繋がっていると思うようになったのは、操体に出会ってそれも本当に最近のことなんですね。内から湧き出てくる力を感じられるという事がなによりも自分の存在を支えてくれるんですね。

    映画ではあまり描かれていませんが、リデルはその後宣教のため中国へ渡りました。そして中国を占領していた日本軍の強制収容所で43歳の若さで病死されています。
    リデルは収容所の中にあって日本人に酷い扱いを受けていても「日本人のために祈りなさい」と子供たちに教えていたそうです。偉大な人というのは困難の中でも輝くものなんですね。そう教えられた子供のひとりは、収容所で奥さんにも子供さんにも知らされる事なく葬られるリデルの姿を観て、彼の遺志を継ごうと決心し、その後宣教師となり、日本で宣教されています。その方の書かれた本が出ています(スティーブン・メティカフ著「闇に輝くともしびを継いで」いのちのことば社)。リデルのその後の事はこの本で知りました。ドラマティックな映画のその後にあった物語と、それが日本人である自分と関係あるということが悲しくもありうれしくもありました。

    からだの内にある神。継がれて行く遺志。伝道師。僕は何となく操体と重ね合わせてこの映画を好きになっています。

    闇に輝くともしびを継いで―宣教師となった元日本軍捕虜の76年

    闇に輝くともしびを継いで―宣教師となった元日本軍捕虜の76年

  • パット

    ゴルフ好きの方、すみません。パットと言ってもゴルフの話じゃありません。
    パットというのは人の名前でして、パット・メセニーというギタリストのことです。10代の頃からの僕のアイドルです。
    昔、東京でニセ学生をやっていた頃がありまして、そのパットがワールドツアーで東京にも来て5公演したのですが、ファンの僕は5日間とも観に行きました。そのうち1公演が三軒茶屋昭和女子大学人見記念講堂であったのですが、去年久しぶりに三軒茶屋に来た時にその事を思い出しまして、三浦寛先生・畠山裕美先生に初めてお会いする前に人見記念講堂の前でひとしきり懐かしがってからターミナルビルにお邪魔しました。操体とご縁をいただく前の僕にとって三軒茶屋といえばパットメセニーを思い出す街でもあったのです。
    さてその5公演の間に中休みが1日ありまして、僕は彼のCDを買いに六本木WAVEに行きました。店で彼のCDを選んでいてふと眼を挙げると、目の前にパット・メセニーが立っていたんですね。どうもツアー中に各国のCDショップに行くのが趣味のようなんです。今思えば、その瞬間パッとCDを差し出してサインをもらえばよかったのですが、昔から咄嗟の時にうろたえる性格でして、「ア。」と言ったまま立ちすくんでしまいました。そんな僕を見て自分に気付かれていると気が付いた彼は身を翻して帰ってしまいました。あの時サインもらっとけばなぁ。今もそのCDを聴くとその時の事を思い出します。デビット・ボウイとの共作で「This is not America」と言う曲なんですが。

    このパットの言葉で印象に残っているのがありまして「Jazzというものに変わらぬ伝統があるとすれば、それは絶えざる革新だ。」というのです。(正確じゃないと思いますが、ファンの方お許しください)パット・メセニーの音楽はJazzじゃないという人も大勢いらっしゃると思います。大きなCDショップだと「Fusion」の棚に並べてあったりします。僕はどこの棚にあってもかまわないのですが、とにかく発祥から、チャーリー・パーカーマイルス・デイヴィス、そして現代へと繋がるJazzの革新の歴史を彼も意識しているのだと思うのです。またJazzに限らずアーティストというのはこの「絶えざる革新」を生き続ける人じゃないでしょうか。
    三浦寛先生にはよく「わかったと思うな、そう思ったらそこで終わりだ」と言われます。「掘り下げろ」「耕せ」と。先生も「絶えざる革新」の人なんですね。でも僕のようなオッチョコチョイはすぐわかったと思いたがります。ずっと何でも解決できる「答え」に辿り着きたいと思って生きてきました。きっと楽だと思うんです。楽をしたかったんですね(笑)。でも自分の体験から言えば実際のところ、楽をしようという生き方は苦しいです(笑)。まず辿り着こうとする道のりに何の意味も感じられない。結論が全てだと思ってるから過程を味わえないんですね。息を詰めて何にも眼を向けずに足早に一秒でも早くどこかに辿り着かなきゃいけないと思ってる。どこに向かえばいいかも分からないのに。そういう歩み方をしていると、どんなに豊かな森の中を歩いていても不毛な荒れ地を歩いているのと同じ事なんですね。何も学べないから歓びがない。歓びがないからますます急いで歩くようになる。悪循環ですね。

    操体に出会えて、三浦寛先生に出会えて本当にありがたいなぁと思うのは、生きるということが生涯学び続ける事だということを師匠自ら身を以て示して頂いている事です。そういう背中を間近で見せて頂いて、「こうやって生きて行くんだな」と感じさせていただいています。まだヨチヨチどころか二本足で立つのがやっとというような自分ですが、今見せていただいている事の価値はヘッポコ頭よりからだが勝手に感じてくれていると思っています。僕が見る先生の姿は、パット風に言えば「操体というのは常に操体の枠を超え続ける事だ」といったところでしょうか。
    呑気に人見記念講堂に寄り道なんかしてましたが、あの日ターミナルビルにお邪魔していなかったら自分がどうなっていたかと思うと、出会いのありがたさと巡り合わせの不思議を感じます。

    さて今では三軒茶屋といえば操体、アイドルといえば三浦寛先生、の僕ですが、パットと違って三浦寛先生のサインは持っています。三浦寛先生の色紙は秋の東京操体フォーラムの名物でして、来て頂いた方には全員にプレゼントされるのです。誰にどの色紙が行くのかは決められていないのですが、不思議にその人に合う言葉が書いてあるそうです。僕も去年初めて参加した秋の東京操体フォーラムでいただきましたが、
    「生命感覚としての快の本質はからだの無意識の内にある」
    と書いてありました。今も大事に飾ってあります。
    みなさんも是非秋の東京操体フォーラムに来て頂いてどんな言葉が自分のもとにやってくるのか、体験してみてください。
    秋の東京操体フォーラムは11月22・23日に開催です。
    今年は柳生心眼流竹翁舎主催の島津兼治先生、コンテンポラリーアーティストの田中稲翠先生をお迎えして、「SOTAI Moving Arts Festival 2009 〜全てに息づく操体の波動〜」と題してお送りします。
    それではまた明日。

  • ムダなこと?

    いやぁー「ブログ」ってドキドキしますねぇ。人さまに見ていただく文章を書くのはもちろん、ブログを書くのも初めてなので、三浦寛先生には「力抜いてさ。」と言っていただきましたが、余計な力だけが入ってますね。土曜の晩から東京に居たので、初めてのブログのアップを畠山裕美先生にお願いしていたのですが(ありがとうございました)、日曜の朝にどうもドキドキするなぁーと思ったらブログが気になってたせいなんですね。いろんな人に見ていただくというのは、TV出るみたいな(出たことありませんが)、感じなんですね。まぁこんなやつも居るということで笑っていただいて、引き続きお付き合い下さい。よろしくお願いします。

    昨日も申し上げたとおり大阪に住んで15年あまりになりますが、大阪人の価値観というのは、僕の観るところ独特でして「値段に見合っているか」が重要なので、値段というものがモノの価値に、というか「感覚のききわけ」に大きく影響するようです。例えば「このタコ焼き100円だったらウマいけど、150円だったらマズい」というような感じでしょうか。
    ですから僕が床屋に行くなどと言いますと周りの人間は「なんというモッタイナイことを、金をドブに棄てるようなものだ、信じられない。」という非難がましい眼で僕を見るのです。「お前のような頭であれば刈る面積より刈らない面積のほうが断然多いではないか、なんとなればほとんどの場合ハサミは空を切っているではないか、そういうことに時間と金をかけるとは何というアホな男だ。」ということでしょうか。
    合理性(これも関西人の特長と言われますが)から見ると言われる通りかもしれませんが、僕がそういう非難をモノともせず果敢にも床屋に通い続けるのにも自分なりの理由が在りまして、行きつけの床屋さんの手の感触なんですね。とても気持ちが良いのです。ヤセても枯れても頭皮も皮膚でして、生えてないからイイダロウ的に扱われますと気持ちが良くないのです。といっても、僕なんかは床屋さんと話し込む訳でもなく、髪型の注文をつける訳でもなく(つけようもないが)、「今日も暑いですねぇ」かなんか言って後はジッとしてるだけなんですが。そんなんでチョキチョキしてもらってるうちに、いつのまにかコックリコックリして、床屋さんはやりづらいでしょうし、見違えるような男前になる訳でもないので申し訳ないんですが、とても心地の好い時間です。こういう時間をただムダだと言われてしまうのにはちょっと抵抗があります。

    有名な話でご存知の方も多いと思いますが、「ナマケモノのアリ」という話があります。北海道大学大学院の長谷川英祐氏は、アリのコロニーの活動を5ヶ月にわたって調査しました。「巣の外へエサを採りに行く」「卵や女王アリをなめてきれいにする」「ゴミを捨てる」といった「働きアリの仕事」をほとんどせずに」巣の中をうろうろしたり、自分のからだをなめて掃除したりするナマケモノのアリがどのコロニーにも2割いたのです。「優秀な個体だけでは、集団の生産性は最大にならないことがわかってきている。仕事をしないアリにも何らかの役割があるかもしれない」(読売新聞’03/10/28)
    この話の解釈についてはいろいろあるみたいですが、ムダに見えてもムダな存在というのは無い、ということでしょうか。よかったよかった、なんて2割の方に所属している僕は我田引水して安心しているんですが。

    信じられないでしょうが、髪がボーボーだったころが僕にもありまして、とても長く伸ばしていた時もあったのですが、もし今伸ばすと落ち武者に間違われて竹やりで突つかれる恐れがありますので用心のため短くしています。これはこれで利点がありまして渦状波やマッサージの練習がしやすいのであります。何事にも「ムダ」なことはない、という好例ですね(泣)。
    操体というものは症状、疾患に囚われないものですので(この際症状・疾患かどうかは別として)、ガンバってニョキニョキ生やそう!とはしていないのですが、いつの日かフォーラムの受付で、ソウルフルなアフロの僕やラスタな感じのドレッドの僕でお会いできるかもしれません。楽しみですね。毎回受付で笑い出したくなるかもしれませんが、あくまでも心の中だけでお願いします。

    そんなお楽しみ(?)もある2009年の秋の東京操体フォーラムは11月22・23日の開催です。もちろん本当のお楽しみはその内容でして、今回は柳生心眼流竹翁舎主催の島津兼治先生、コンテンポラリーアーティストの田中稲翠先生をお迎えしての特別講義を交え、「SOTAI Moving Arts Festival 2009 〜全てに息づく操体の波動〜」と題してお送りする予定です。ぜひお越しください。
    それから秋の東京操体フォーラムにはもう一つお楽しみがあるんですけど。それについてはまた明日。

  • お好み焼き

    初めまして。今回からブログに参加させていただきます、山本です。よろしくお願いします。
    大阪からこの東京操体フォーラムに参加させていただいています。大阪で暮らすようになって15年あまりになりますが、「ネイティブ大阪」ではないので未だにビックリしたり戸惑ったりしながら暮らしています。

    最近では良くTVでもネタにされているのを見かけますが例の「お好み焼き定食」には最初ぼくも度肝を抜かれました(笑)。でも恐ろしいもので慣れてしまった今ではお好み焼きがあると、ご飯が食べたくなりますが(笑)。それでも「そばめし」にはまだ手がでないんですよね。そこまでガンバって一緒に食べなくてもいいんじゃないか、と。食べたらウマいと思うんでしょうが。
    このお好み焼きという食べ物はよく考えると、キャベツやら小麦粉やら卵やら山芋やらなんやかんやが一緒くたに混ざっていて、どれが主役ということもない。その上でさらにソースとマヨネーズの味もミックスされて口の中でいろんな味がするという、ホントは何を食べてるんだろうかと思いながらもお腹はいっぱいになるという不思議な食べ物です。
    また大阪の人はマヨネーズが好きですね。大阪に住むようになってすぐの頃、定食屋で野菜炒めを頼んだら「マヨネーズはどうしますか?」と訊かれてだいぶ考えてしまいました。この人は何を言ってるのだろうか?もしかして野菜サラダと間違えてるんじゃないだろうか?「え、どういうことですか?」と聞くと野菜炒めにマヨネーズをかけて食べるかどうかを本気で聞いているらしい。ウマかったですが(笑)。でもマヨネーズの味なんですよね。唐揚げにもマヨネーズがよく付いてきます(ウマいですが)。大阪に限らず今はマヨネーズ大好きなひとが多いですよね。直接ご飯にかけちゃったりして。あれにはどうしても踏み切れないんですが。

    今年の操体法東京研究会定期講習でも三浦寛先生がお話しされていましたが、人間だけが加工されて味付けされたものを食べているんですね。

    「人間は食べ物に必要以上に味をつけることを身につけてしまいました。そのために大脳を異常に発達させた結果、本能を上まわる欲望を身につけてしまったのです。」(三浦寛著『快からのメッセージ』より)

    快からのメッセージ―哲学する操体

    快からのメッセージ―哲学する操体

    確かにウマいんです。様々な味付けで工夫をこらされた料理を能天気に「ウマいなぁ」なんてニタニタしながら食べてるんですが、はたしてそれがからだに、イノチに必要なものとして他のイノチをいただいているということなんだろうか、というとそうじゃなかったな、と思います。楽しみとか憂さ晴らしとかそういう気持ちの事が、喰うということにも余計なフィルターをかけていて、肝心なところよりも余計なところに重点がおかれている。肝心なところに向き合わないで済むように周りのものを刺激として利用している、その一つ一つはよく見ればありがたい一つのイノチなのに消費するものとしてためらいなく利用してしまう。

    そう思うと生活している他のことも全部そうなんですよね。操体での皮膚へのアプローチにおいても「刺激」と「接触」の違いについてよく三浦寛先生からお話しがありますが、生活の中の「刺激」も一緒で機械的には心もからだも動かされると思うんです。でもイノチの力が内から湧き出てくるということには、なかなか結びつかない。だから次々に「刺激」を探し求めるようになってしまう。自分が求めている物が「幸せ」だったのか「きもちのよさ」だったのか「自由」だったのか「神サマ」だったのか。それとも実は「刺激」なのか。いつの間にか外から来る「刺激」が無いと生きている感じがしない。そして内から湧き出るものは枯れていってしまう。もう生きてるかどうかも「刺激」が無いとわからない。
    僕は筋金入りのヘッポコなのでこの「必要以上」に弱いというか「必要以上」の「以上」ばかり求める、そういう生き方をしてきました。なんでかなぁと考えると何が「必要」なのかが分かっていないんですね。だからとにかく沢山ないと怖くてしょうがない、なんとかしがみついて減らないかどうかずっとビクビクしている。なんでもかんでも欲しがって何も手放したくない。こうなってしまうとミソもクソも一緒なんですね。なんでも「刺激」に感じてしまう。大事なものをつまらないと侮ったり、つまらないものをアリガタがったり。でも人に、生きる事に本当に必要な事は何なのかって出来るだけ考えないように生きてきました。何かを手放す事になるので。
    「喰って行かなくちゃ」という人もいる。「結局、金さ」という人もいる。
    「愛」だとか「幸せ」だとか「自由」だとか「きもちのよさ」だとか。
    「金じゃないさ」という人。「愛なんか存在しない」という人。
    価値観の多様性だとか、どうでもいいやとか、関係ないぜとか。
    だいたいみんなが「愛」とか「幸せ」とか云ってるのは本当に「愛」なんだろうか、「幸せ」なんだろうか。
    俺は実際本当に生きてるんだろうか、なんて思ったり。
    そのうち元来た道がどっちだったか、これからどっちに行ったら良いのか判らなくなっていて。
    本当に困ってたんですね、操体に出会うまで。

    この間、上島珈琲のテラスで三浦寛師匠に「山本、生命の素材とは何か、命にとって必要な素材とは何か、その事を学ぶんだ。」と言われました。そう言われながら師匠は太極図を描かれてたんですが。ヘッポコ弟子はよく分かっていないのですが、なんだか勝手に涙が出てました。
    お好み焼きの話がエライことになってしまいましたが、そう言えばお好み焼きって太極図に似てますね(笑)。
    こういうヘッポコぶりしかお話し出来ませんが、一週間お付き合いください。
    それでは、また明日。

  • 「わたしにふれてください」

    こんばんは。森田@最終日です。

     今週は本門寺をよく歩きました。
    なぜなら7/5~7/19の約2週間、「500個の風鈴の音を聴く」という催しがあり、参道の木々に風鈴が渡してあるからです。
    500個もの風鈴なんて、風の強い日などはうるさいのではないかと思っていましたが、全くそんなことはなく、むしろ全体で1つの音のように聞こえるのが不思議です。500以上に増やすとうるさくなることがわかっているのでこの数なのだそうですよ。

    涼しげで、音によって空気が変わる体験ができます。
    夜もライトアップされていて幻想的です。今年で2回目。今後も続いて欲しいイベントです。

     ところで、三浦先生の日記にもありましたが、秋の東京操体フォーラムので配布するVisionSの原稿が概ね集まりました。これから原稿チェックに入ります。
    VisionSは、操体をともに学ぶ20人以上の仲間が、臨床や生活の中で感じたことをつづっています。今回で7冊目になりますが、回を追うごとにその人らしさがのびのびと伝わってくる作品ばかり。行間からその人の息づかいや空気が感じられ、操体を知っている人にも、そうでない人にも読んでもらいたい濃い冊子に仕上がる予定です。

     とはいえ、私だけかもしれませんが、〆切前は日常生活の合間を縫ってう〜んう〜ん、と頭をひねってました。「今回は何を書こうかなあ」と。
    もちろん、ぽこぽことネタはいくつも浮かぶのですが、今回は書き出してしばらくすると、違うネタが気になったり、考え方が変わり苦労しました。

    正直言って、自分の原稿を読みなおしてみると、まだまだ消化不良な文章であるのを感じます。書き終わった後から「もっとここは説明すべきだったか」「くどいから削りたい」と感じます。
    いや、前向きに言い換えてみましょう。「この原稿は生きることを考えるプロセスを切り取ったものなのだ」と。常に変化をしている私のごちゃごちゃした瞬間をリアルに表現した作品になっております!

    …ちょっといいわけがましいですか。
    もちろん読み手のことを考えてベストは尽くしております。

     東京操体フォーラムの実行委員になってから、とにかく文章を書く機会が増えました。時には大変だと感じることもありますが、書き終えた後は確実に一歩進歩していますから、文章を磨くチャンスをいただいていることに感謝してます。
    特にVisionSのように、年に1度、全実行委員で「書いて残す」という作業は、日々の小さな気づき達をうまくまとめて発展させてくれる機会です。チャレンジの楽しみもあり、いい緊張感があります。

     ところで、原稿を書いた後に、Phyllis K. Davisの詩「わたしにふれてください」という詩に出会いました。訳は三砂ちづる、絵は葉祥明です。三砂氏は、ブラジルで「国際協力事業団ブラジル家族計画母子保健プロジェクト」に参加し、助産婦を育てるコースの最後に、トレーニング担当の方から聞かせてもらったのだそうです。

     この詩は人生のどの時代においてもふれられることが必要なのだということを描いています。読んでいると、自分が赤ちゃん、男の子、おじいさんだったら、こうしてもらいたいという気持ちを肌で感じるような気持ちになります。言葉でイノチの治る力を高めることができる。これは元の詩だけでなく三砂ちづるの「感情のいきおいで訳した(本人談)」訳だから、とも言えます。
    VisionSでも三砂氏の著作を引用させていただいていますが、この方の文章には、イノチに対する思いやりの深さ、やさしさ、ていねいさ、まるさが醸し出されていて好きなのです。

    詩の後半にこんな1節があります。

    「もしわたしがあなたの年老いた父親なら
    どうぞ、わたしにふれてください

    あなたが小さかったときにわたしがあなたにふれたと同じように
    わたしの手をにぎり、わたしのそばにすわって、
    わたしを力づけてください」

    ここまで読んで、何か思い出さないでしょうか。ブログを毎日読んでくださっている方ならもうお気づきのはず。
    そうです、5月20日の平さんの日記です。

    「手紙〜親愛なる子どもたちへ」
    http://d.hatena.ne.jp/tokyo_sotai/20090520#1242774354

    わたしの中で、2つの詩が出会ったことでちょっとした化学反応が起きています。
    なにがどうつながっていくか、まだわかりませんが、目に見えない何らかの成長の機会ををVisionSがわたしに与えてくれているのではないかと思います。

    皆さんも、「わたしにふれてください」を是非読んでみてください。

    1週間のおつきあい、ありがとうございました。
    山野さんにバトンタッチです。よろしくお願いします。

    森田珠水

    わたしにふれてください

    わたしにふれてください

  •  言葉を統制する

    おはようございます。森田です。

    今朝は「今週の気になった話」をします。

    ある平日の夜10時過ぎの電車の中でのことです。隣の人と方がふれあうくらいの混雑ぶりでした。
    その中で、二十歳くらいの二人の女性が普通の声で会話をしていました。3mくらい離れていましたが、よく聞こえるのです。

    どうやらテーマは一人の父親に対する不満のようでしたが、ふと耳に張り付いたのは「あいつ、死んだ方がいいよ」という言葉。
    思わず耳を疑いましたが、まぎれもなく父親に対する言葉でした。
    よほど深刻なことがあったのかというとそういう雰囲気でもない。結構二人とも笑って会話を続けていました。笑顔の悪口大会は3駅ほど続き、悪口を言っていた女の子は先に下車。残された女の子も平然とそのまま電車にのっていました。周囲の乗客はずっと彼女たちをちらちらみていましたが、二人ともそれには気づかなかった様子。いや、もしくは気づかないフリができるほど図太かったのかもしれません。
    私がこの友人だったらこの時点で恥ずかしくてとなりの車両に移動してますね。恥ずかしくて。

    ここで不快に感じた点を列挙しますと、

    1、周囲に気を使わないボリュームで話す
    2、どうでもいい家族の愚痴を延々聞かされる
    3、暴力的な言葉を無意識に使っている
    4、自分がどう見られているか客観視できない
    5、友人の間違った言動を注意しない(間違ったと思っていないかもしれませんが)

    なんだかもう、突っ込みどころが多すぎてどうしていいかわかりません。
    駅のホームに、「痴漢と暴力行為は犯罪です!」というポスターが張ってありますが、ほぼそれに近い。

    このなかで最も気になるのはもちろん3 です。父親に対する「死んだ方がいいよ」という発言。
    私にとってはかなりショックで、何日たっても気になって仕方ないのですが、最近の人はこういう言葉を使っても平気なんでしょうか。
    荒い波動の言葉を聞いたり使うと、からだやこころが不快になるものだと思うのですけど。彼女たちはすでにそういった快不快を聞き分けることに鈍くなっているのですね。

    人を蔑む、傷つける言葉を育ててくれた親に対して使うという二重にショッキングな話。もしかしたら母親の真似をしているのかも、など、やめたいのに妄想が止まりません。どうしてこんなことが起こるのか、私のなかで理解できないとなんだか落ち着かない…。

    そういえば、小学生は「むかつく」「うざい」「死んだ方がいい」って平気で言う子がいますね。流行言葉のように当たり前になってきているのかもしれません。私が小学生だった時は親も学校の先生にもおこられましたどね。
    もちろん今の小学生だって「その言葉は不快」と感じて使わないと決めている子もいますが、件の彼女は二十歳になっても誰も注意されることがなかったということではあります。
    考えてみると社会人になってもこういう言葉を平気で吐ける人いますけど、そんな人友達には欲しくないですよね。もし大事な友達が言ったら注意します。

    私はやみくもに「父親だから敬いなさい」なんて言いません(「感謝できないのは残念なこと」とは言いますが)。
    世の中には小さいときから親から理不尽な待遇を受けて来た人もいますし、嫌いになる理由があれば嫌っても仕方ない。
    でも、そんな言葉を使うほどの燃えたぎる感情なら、何も混んだ電車の中じゃなくて、他人に聞こえない場所で深刻そうに話してほしい。
    そうしたら「そんな発言するほど嫌なことがあったのか、大変だったね」ととりあえず受け止めることができます。
    その彼女にはそういった深刻さは感じられず、むしろ親に甘えているといった感じでした。

    とにかく言葉の持つ波動とその力のすごさを感じます。何日たってもこうして気になり続けているのですから。
    彼女には無意識に波動の荒い言葉を使うことの怖さを知ってほしい。いつか自分に返ってきます。
    とりあえず、その時は電車の中の大勢を不快な気持ちにさせ、性格不美人のレッテルを貼られていたはず。「こんな女とはつきあいたくない」ナンバー1になっていたでしょうね。
    それだけでなく、言葉は波動ですから、70%近くが水分である自分自身のからだを自ら汚している、これが最も怖いことかもしれません。
    無意識に使っている以上、気づくまで自分自身を汚しつつける毎日を送ることになるのかとおもうと、だんだんかわいそうになってきました。

    橋本先生は「言葉は運命のハンドル」とおっしゃられていたそうです。自分の選んだ言葉の方向へ人生は向かっていくのです。三浦先生は「言葉の波動が行き方を決める」「だから言葉を統制しなさい」とよくおっしゃいます。
    生き方の自然法則、息食動想+環のうちの「想」は他の4つをまとめて表しています。そして想は一番言葉にあらわれるのだそうです。言葉の使い方が変われば、その人の想も変化していることになります。
    逆に考えれば、生き方を変えたければ形から入る、つまり言葉を統制(コントロール)すればよいということになります。意識的に真、善、美、愛という言葉を選ぶようにするとよいと師匠は講習でも、本の中でも伝えて下さっています(「操体臨床の道しるべ」より、p202.「付録橋本敬三先生の世界観」)。

    こうした教えを大人になっても聞けることはありがたいです。そういえば私も汚い言葉を口癖にしていた時がありました。
    年齢を重ねるごとに、注意してくれる人は減ってゆきます。アドバイスをいただける人がいること、生きる指針になる般若身経があるのはありがたいことです。

    件の女子も、はやく気づいてくれる日が来ることを願います。せっかくの美人も台無しです。
    世の中に(性格)美人が一人でも増えてほしいものです。もちろん、男性もですよ!

    森田珠水

    *参考
    操体臨床への道しるべー快適感覚に導く診断と操法ー」 三浦寛 2007,11,30 医道の日本社

    操体臨床への道しるべ―快適感覚に導く診断と操法

    操体臨床への道しるべ―快適感覚に導く診断と操法

  • 自転車にのる

    こんばんは、森田です。

    今日も暑かったですね。

    この時期になると私は首に手ぬぐいを巻いて生活します。
    汗と日光で「首をしめられたのか?」と間違われるほど真っ赤になるからです。
    和の手ぬぐいはかさばらなくて使い勝手がよくて気に入ってます。

    昨夜は自転車で京浜島のつばさ公園に行ってきました。

    浅生ハルミンが「帰ってきた猫ストーカー」で猫スポットとして紹介していたところです。
    自宅から20分で、こんなに憩える場所があったかと満足できるスポット。
    工場、倉庫以外はカフェもコンビニもなし!でも羽田空港の離着陸の様子がみられ、半のら猫がゴロゴロしています。
    あと釣りをのーんびりやっている人がいるかな、そんなところです。

    猫の戯れ写真はたいしたものは撮れませんでしたが(お化けのようです)。でも一応のせます。

    怖っっ。

    猫との出会いは日が落ちていてあまり収穫?がなかったので、昨日のペダルの踏み込み方を味わってみました。

    踏み込み方は母趾球の付け根(正確には第3趾を介して第1趾側側)と小ユビ側側で試しました。
    かかとでふむのは、条件を合わせるためにサドルの高さと前後を直さなければならないので割愛です。

    母趾球の付け根で踏み込むと、
    ・つま先と膝が正面を向く
    ・下肢の内転筋群、おなか(骨盤内の深層筋群)から首まで全身が動く
    ・背筋が伸び(骨盤は軽く前湾曲)、おなかで上半身を支えられるので、上半身を両腕で支えなくてすむ。
    ・踏み込みに充実感がある
    ・ハンドルがぶれない。下半身だけでバランスがとれる。
    ・上半身が自由なので後方確認、ブレーキングなど操作が正確で安全
    ・からだ全体で乗っているので姿勢が美しい(比較して見てもらいました)

    つまり、自由で安定しているので、動きが充実していて、スピードがでる!

    いつもはスピードもそんなに出さずにのんびり乗っていたのですが、
    ぐんぐん走れるのは楽しいものですね。

    で、小ユビ側を効かせますと、以上に記した反対でして、膝が外を向き、骨盤は極端に前湾曲し、猫背になるものの前を向かねばならないので首を無理に後屈することになります。人によっては上肢に痺れが出ると思います。
    腰から下の筋力のみでこいでいるため、疲れるし、ハンドルがぶれます。上肢で正面に向けないといけないので肩が凝ります。

    もちろん上半身の体重は両腕でハンドルにかけることになり、ブレーキングも肩に力が入ってしまうことになるでしょう。
    そりゃもう、疲れますよ。後方確認もがっちがちでやりにくい。かっこわるいですよ〜。

    体験者が言うのだから、間違いない! …ごほごほ(師匠ごめんなさいっ)。

    もちろん、ここで大切なのは、「手は小指」を効かせるということです。
    「足は親ユビ」だけでは片手オチですからね。

    一応今回は手は小指を効かせて臨みました。
    「手は親ユビ、足は小ユビ」でのるなんて、考えただけで恐ろしい〜ぶるぶる。
    怖いモノ知らずの方、どうぞ試してください。事故などの保証はしませんが。

    森田珠水

  • 自転車自然体

    こんにちは森田です。

    今朝は窓越しの強い日差しで目覚めました。

    どうやら東京は昨日、北九州〜東海地方よりを飛び越しての梅雨明けなのだそうです。

    今年も猛暑なのか、気になります。エルニーニョ現象も予測されている様子です。

    そういえばJR浜松町駅ホームのしょんべん小僧(58才、趣味はコスプレ…だそうです)は半月前から夏の装いでしたよ。

      

    靴もなかなかかわいい。

    作成は港区の手芸サークルあじさいで、毎月26日に着せかえられているらしいです。
    浜松町駅100周年記念イベントで彼の今までの写真展が開催されてます。

    http://www.minato-cosw.net/syakyou/index.php

    ところで、そんな暑い中、今日もえっちらおっちら自転車をこいで仕事にいったわけなのですが、眩しい日差しから視線を避け、うつむくと、自分の両足が目に入りました。そして「あれ?」と思いました。なぜなら私の右足が極端に外転してこいでいたからです。

    からだの使い方には般若身経というルールがあります、重心安定の法則と重心移動の法則です。これを守ればどんな状況でももっともからだを効率よく、安全で、美しくからだを運ぶことが出来ます。
    操体の経験者にはもう聞き慣れている言葉ですが、このうちの重心安定の法則は

    1.足は腰幅 に開く
    2.つま先と踵は平行にした後、きき手と反対の足は半歩前&少し内側にむける
    (出したら軽く骨盤を安定する位置におさめる)
    3.背筋は軽く伸ばし 、目線は目の高さ、正面の一点を見据える
    4.両膝の力をほっ、と抜いて緩める。拇趾の付け根あたりに体重がかかる

    でしたね。

    そのうちわたしの自転車の乗り方は、2と4ができていなかったようです。

    2はつま先の向きがおかしかったですし、3はペダルにのせている足の位置が少々土踏まず寄りでした。母趾の付け根を効かすことができない。
    まあ、サドルにまたがっていると股関節が少々開きますから足を平行にしきらないこともありましょうが、それにしたって、左右で比べて、右足が外側に開き過ぎ! そして、こぐ時に最も力が入るはずの母趾でペダルを踏めていなかったです。
    というわけで、ルールにのっとって、しばらく足をできるだけ平行、左右対称にしてみようとするのですが、つま先だけ内転させようとしてもなんだかぎこちない。

    多分右足関節をはじめ、からだに歪みがあるからだと思います。歪みのある状態で無理をして「足は平行!!」と型にはめると、さらに2次的に歪みを押し付けてしまいそう。
    なので、ペダルに母趾球をのせ、「手は小ユビ、足は親ユビ」のルールにのっとって、左右両母趾の付け根を効かせてこいでみました。
    そうすると、右下肢関節の歪みはあれど、あるなりにからだが自然に使えるようになります。
    ひとこぎひとこぎ、スイ〜、スイ〜と前進するのですね。やっぱりちがいますわ。

    臨床では歪みの強いからだの人もたくさんいらっしゃいます。というか、それで苦労しているから操体を受けにいらっしゃるのですよね。「はい!足は平行じゃなきゃだめですよ!」というニュアンスで自然体を教えてやしないか、あらためて気をつけようと思いました。

    ちなみに、自転車の乗り方についての専門書をみると、
    ペダルに足をかける位置は親指の付け根(母指球)で、サドルの位置の設定をする時は、またがってみて、ペダルにかかとをのせ、足を一番のばした状態で膝がぴーんと伸びるところなんだそうです。
    そうすると母指球で最も踏み込んだ時でも膝は軽く曲がっている。
    重心安定でいうところの「膝は緩める」にあたるのではないでしょうか。
    自転車を効率よく(パフォーマンス性を高める)、安全性に乗るときも、からだの使い方は共通です。

    私も今回のことで、般若身経をより理解して自転車の乗り方をマスターできそうです。

    それまで、立位、歩行時など自然体を意識していたつもりでしたが、ウン十年続けたからだの使い方の癖は、こんなところでボロが出てしまうのでした。
    自転車に乗る時の重心安定の法則はどうなんだろう。
    また発見があったら報告します。

    森田珠水