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  • 動診と感覚

     感覚は呼吸だけでなく、動きにも深くつながっている。

     操体の動診において、ゆっくり動作を行うと、自分の動作の過程を意識的にはっきりイメージすることができる。このような動作は精神の集中度を高めるとともに、自律神経の調和を得て、身心の相関関係が密接となってくる。
     からだは全体で成り立っており、全体があってこそ部分も位置付けられている。それは健康を考えても同じこと。たとえば胃が悪いから胃だけを良くしようとするのではなく、ストレスを受けなくてもすむ心の強さや、肝臓や腎臓の強さも必要なのである。胃は、からだ全体の中の一部であるから、からだ全体のレベルが上がることで胃も強められていく。病気は健康になれば治るというが、いかにも的を得た表現である。
     からだの歪みを考えても必要なことは同じである。片方の肩甲骨が歪んでいるからと言って、その歪みだけを治そうとしてもそれは無駄な努力というもの。肩甲骨に問題が現れるのは、からだ全体の歪みの現れである。肩甲骨が歪むとすれば、腰も骨盤も、首にも問題があるに違いない。からだ全体の有機的な関連の上に、背骨や肩甲骨の働きはあるはずだから。
     それでは、からだ全体のレベルを上げるにはどうすればいいのか。その鍵は動診にある。動診ではからだの末端部から全身へ連動を促す。この連動が引き金となって、快感覚へとつながってゆく。そして、それがからだ全体のレベルを上げてゆくのである。からだ全体のレベルを上げること、全体のレベルが上がることで背骨や骨盤や肩甲骨などの弱さが欠点ではなくなっていくこと、そういう考え方が必要とされる。からだ全体のレベルが上がると、からだの素質は全体的に高められ、しかも固有のからだの感覚を通して、自己の意識が高められていくための大きな助けとなる。からだは人間である限り、人種の違いを超えた共通の基盤である。からだを動かす喜びが味わえるようなものが操体の動診から導き出されるとは思えないだろうか。

  • 呼吸と感覚

     ドラッグから出発したものの、やはり「呼吸」にたどり着いてしまった。

     心はあらゆるものを通して、音声、言葉、意味を通してさえ微妙な食物を摂り入れていることになる。たとえば性欲を感じている時、性的幻想に憑かれている時に意味を持たない音声、たとえば鼻で力強く息を出して「フゥン! 」と発してみる。まもなくSEXを超越したのが感じ取れる。なぜなら発散されたのだ。あるとても微細なものが呼気とともに発散されたのである。
     怒りを感じた時も、この音声「フゥン! 」を活用してみると、まもなく怒りは消え去ってしまう。また、性欲を感じていて、この同じ音声を吸気とともに鼻で「フゥーン! 」と息を吸えば、なおさら性欲を感じることになる。また、怒りを感じている時、この同じ音声「フゥーン! 」を吸気時に発したなら、なおさら怒りでつのってしまう。そうしたとき、ひとつの単純な音声でさえ、いかに自分の心に影響を及ぼすか、また、吸気と呼気とでは、それがいかに異なった効果を心にもたらすかということに気づく。
     美しい愛情深い人、あるいは恋人に会って、相手のからだに触れたいと思ったら、呼気とともに相手のからだに触れてみる。 ― 何も感じない。今度は吸気のときに相手のからだに触れてみる。 ― たちまち魅せられてしまう。吸気のときの接触は一種の食物になるのだが、呼気のときではまったく食物にはならない。
    両手で誰かの手をとり、吸気のときだけその手を感じとってみる。呼気のときはからっぽにすること。そうすれば触れ合いは食物だということがわかる。 
     母子の関係で言うと、母親なしで育てられた子供や、母親がいたとしても触ってもらったり、愛撫してもらったことのない子供には、何か足りないものがある。母親に触られ、愛撫され、抱きしめられたりしたことがない子供は、けっして誰も愛せない。母親の微妙な接触は子供にとってもっとも必要とされる食物である。母親の接触によって子供の中に色々なものが生み出される。母親のように愛情を持って触れてくれる人がいないと、その子供はだれも愛せなくなる。何か肝心なものが欠けているということを知らないで育つことになるからだ。
     そして、呼気の感覚に注意してみる。そうすれば息の秘密、どうしてそれがプラーナ(生命素)と呼ばれてきたのかというその理由に気づく。息は生命にかかわる最も重要なものであるということがわかる。
     呼気に力を入れて食事をすると、その食物がどんなにおいしくても、からだの滋養にはならない。たくさん食べたところで、呼気に力点があったら、まったく栄養にならない。だから吸気のときに食べること。そして呼気のときには特に隙間をおくことである。そうすればほんの少ししか食べなくても心配ない。なぜなら、このように呼気に力点がなく、隙間をおいて吸気とともに食事を摂るなら、錬金作用がはたらくからである。神経質に栄養のバランスなど気にかけなくても済むのだ。栄養不良になりはしないかといった心配は、えせカロリー栄養学思想にたぶらかされた迷信である。
     ヨーガでは、食事直後の胃の内容は食物が半分、水四分の一、すき間四分の一になっているべきだという。腹八分目という名言があるように、飢餓感が止む程度に食事をひかえておくのが理想的であり、満腹感を覚えるのは食べすぎの危険信号と心得るべきである。

  • 眠りと目覚めと呼吸

     ドラッグと瞑想から眠りへ、そして目覚めから呼吸へとつづく。

    眠りと目覚めは、有機生命体の呼吸であり、そして時間も呼吸である。人間と同一の単位で計れるすべての有機体、植物も含め人間と類似した条件下で生きているあらゆる有機体にとっては、一日の時間はすべて二十四時間になる。
     植物は眠っている時には、つまり夜には息を吐き、起きている時、つまり昼間は息を吸うから、人間と同様すべての哺乳動物にとっても夜と昼、つまり眠っている時と起きている時では、酸素と二酸化炭素の吸収には相違がある。したがって眠りと目覚めは確かに呼吸であるということがわかる。人間以外の有機生命体はとりわけ植物については、一回の呼吸に要する時間は二十四時間であると理解できる。
    普通の状態にある人間は平均で一分間に二十回の吸気と呼気という呼吸をしている。だから一回の呼吸は、六十秒を二十回で割ると三秒ということになる。このように推測しながら呼吸の周期と眠りと目覚めの周期を考えてみると、二十四時間を三秒で割ると、一日に二万八千八百回の呼吸をすることになる。
    次に昼と夜で一日、二万八千八百回の呼吸を一年の三百六十五日で割ると、きちんと割り切れないが、だいたい七十九年になる。この七十九年は人間の生命を表しているのだが、これは七十九年の眠りと目覚めを形成している。

    人間の寿命は、健康に一生を過ごしてきてもせいぜい八十年がいいところ。長息は長生きに通ずるというが、呼吸の回数が一般人よりも多いスポーツ実践者が短命なのはこんなところに原因があるのかも知れない。我々がそれぞれもっている時間は呼吸で決まってくるといっても過言ではない。

    人の一生の「眠りと目覚め」について、一休和尚の詩が脳裏をよぎる。
    『人の世は 喰うて 糞して 寝て起きて さて そのあとは 死ぬばかりぞよ』
    今日、一日をこの詩に瞑想してみる。

  • 眠りへの瞑想

     昨日に続いてもうひとつ、瞑想の話題を。

    もう、ずいぶん前になるが、ある瞑想の手ほどきを受けたことがある。それは意識して眠りに入るというものだった。毎日眠ってはいるが、まだ眠りに遭遇したことはない。眠りを見届けたことなど一度もない。眠りが何であり、それがどのようにして訪れ、その中にどのようにして落ちてゆくのか、それについては何も知らないのが我々である。
     毎夜眠りに就くとき、眠りが訪れているということや、それが訪れたときにも、覚めたままでいなければならないということを、絶対に憶えておくという瞑想であった。この練習はとても骨が折れる。眠りが訪れているということ、そして目覚めていることなしには、眠りがやってくるのを許さないということを片時も忘れずに毎日続けていくのだ。眠りがどのようにして支配的になるのか、眠りとは何なのかということを感じ取るようにするのである。
     この瞑想を続けていくと、ある日、眠りが訪れても依然として目覚めているようになるという。そしてこの瞬間こそ自分の無意識に気づく瞬間であり、夢が不可能となる。ひとたび無意識に気づいたら、もう二度と無意識ではいられない。眠りはそこにあるのだが目覚めている。このような無意識との遭遇から異質の現象が起こるのだと教わった。
     こんな瞑想を三カ月も続けただろうか。しかし、眠りが訪れるその瞬間に気づくことはなかった。いつのまにか眠りに入り、夢の中で眠りに遭遇し、その夢から覚めて、ああっ! 夢だったのかと、落胆する私であった。

     そんなことがあってから長い年月が流れた先週のことである。午前中に来訪された五十代の患者S氏へ渦状波を試みたところ、イビキ音が聞こえてきたところで、話しかけてみた。「今、眠っているようですね」、「ええ、そうみたいです」、はは〜ん、これが『意識飛びの現象』か?・・・・ひょっとして、と思い、さらに問いかけてみた「眠りに入る時はどんな感じでしたか」、「意識が遠のいて・・・・それを意識している自分がいて・・・・」と、S氏。
    な、なんということだろう。 眠りが訪れている時に意識があるということ、そして眠りに入っているのを自覚している。このビジョンは私が求めていたものにきわめてちかい。これが即、無意識との遭遇とは云えないまでも、少なくともその入口に立っている。そう思ってもかけ離れた考えとは言えないだろう。
    この出来事によって、皮膚への問いかけというものが「眠りへの瞑想」という扉を開けてくれたような気がする。皮膚にはきっとすごい秘密があるに違いない。

  • 理性を超越した瞑想

    昨日に続いて、「瞑想」の話題で。
    グルジェフという名をどこかで聞いたことがあると思う。二十世紀前半に活動していたロシア人神秘思想家のことである。1920年代の彼は、パリ郊外のプリオーレにおいて『人間の調和的発展研究所』なるスクールを主管していた。
    グルジェフはそのスクールにおける修行グループに巧妙かつ非合理的な方法で、求道者にはたらきかけるという実験を試みていた。彼は求道者たちのグループと一緒に、ある特定の非合理的方法を使って修行をしていたのであるが、彼はよくそれを「停止訓練」と呼んでいた。彼は突然、「止まれ! 」と叫ぶ。そうしたら誰もがそのままの状態で止まらなければならない。目があいていたら、あいたまま。口があいていたら、それもあいたまま。何か言おうとしていた矢先だったとしても微動だにしないこと! この瞑想にはテクニックというものがない。ただストップするだけ! このような約束を守ることがこの訓練の参加条件である。
    この方法は体から始まる。体にどんな動きもなければ、心にも動きがなくなる。それらは関連し合っている。何か心の内なる動きがなければ、体を動かすことなどできない。体と心は二つのものではない。それは一つのエネルギーである。そのエネルギーは、心のなかより体のなかでのほうが濃い。その密度や波長は違っているが、同じ波長、同じエネルギーなのである。
    求道者たちは、この停止訓練を一ヶ月間、間断なく練習していた。ある日のこと、グルジェフは自分のテントの中にいた。折しも三人の求道者たちが、その敷地内にあった乾いた運河を通っていた。それは水のない運河。一滴の水もそこを流れてはいなかった。と、突然、テントの中からグルジェフが叫んだ。「止まれ! 」運河の堤の上にいた人たちはみな止まった。運河の中にいたその三人も止まった。しかし、水がなかったから問題はなかった。と、突然、水があふれ出した。誰かが水門を開け、運河に水があふれだしたのだった。グルジェフが誰かに指示して水門を開けさせたのであろう。
    水位が増して、その水が三人の首のところまできたとき、一人が運河から跳び出した。「グルジェフは何が起こっているのか知らないのだ。彼はテントの中にいて、水が運河の中に入ってきたということに気づいていないのだ」こう思いながら運河から跳び出したのである。その男は考えた。「俺は飛びださなければいけない。もうここにいるのは馬鹿げている」そして彼は跳び出したのだった。
    ついに、水は彼らの鼻まで達した。と、二番目の男はこう考えた「これが限界だ! 俺はここに死ぬために来たのではない。永遠の生命を知るために来ている。この生命を失うためなんかじゃない! 」そして、彼は運河を跳び出した。
    三番目の男はとどまった。同じ問題が彼を襲ったが、彼はとどまる決心をした。というのも、グレジェフは「これは非合理的な訓練だ。理性でこれをやろうものなら、ことの全体はぶち壊しだ」と言っていたからだ。彼はこう思った。「オーケー。彼は死を受け入れよう・・・・この訓練だけはやめるわけにはいかない」かくして、彼はそこにとどまった。いまや、水が彼の頭の上を流れていた。と、グルジェフはテントから跳び出して、運河に跳びこんだ。そして彼を救いだした。その男はいましも死の淵にのぞんでいた。しかし、生き返った時、彼は変身していた。彼はもはや、そこに立って訓練していた同じ男ではなかった。彼はすっかり変身していた。彼は何かを知った。彼は跳躍をとげたのである。これが瞑想という行為の何たるかだ。
    もうこれで限界だというものなどどこにもない。理性と道連れのままだったら、我々は見失しなうかもしれない。ときには、自分を彼方へと導いてゆく一歩を突然踏み出さなければならない。その一歩が変身につながるのではないだろうか。これは禅の手法にも似た超越である。まさに無努力の努力というものだ。超越した時には、理性に還るかもしれないが、すでに変身している。もう同じ人間ではない。ものごとを理性的に論じることすらできるであろうが、理性は超えている。
    操体求道者である我々にとっても然るべき時において、この跳躍という理性からのジャンプが同じようにあてはまるのではないだろうか。

  • ドラッグと瞑想

    バトン受け取りました。今週は日下が担当します。
    近頃、世間をお騒がせしている旬な話題『覚せい剤』について、触れてみたい。

    ヨーガはアシッド(LSD)を使っている。タントラも使っている。インドではLSDを瞑想の一助として用いているヨーガやタントラのアシュラム(道場)は確かに存在する。実を言うと、化学薬品を使っても、さとり(覚醒)は可能である。メスカリン、LSD、マリファナ(大麻)を通して可能になる。なぜなら化学変化を通じて、心が一瞥できるほどに拡張するからである。人間の身体は結局のところ化学的に構成されている。身心は化学的な単一体であるからこそ化学作用を通してでも一瞥できるのだ。
    しかし、LSDを使用するには、まず、からだの準備を整えるという、からだの浄化のための長い過程が必要になる。からだが完全に浄化されなければならない。からだが完全に浄化されることによって自分のからだの完全なるマスターとなれる。自分のからだの完全なるマスターとなれば、LSDの化学作用でもからだを支配することはできない。
    ヨーガやタントラはLSDを認めてはいるが、非常に特殊な場合に限られている。この特殊な場合とは科学的にからだが浄化されて、化学質でさえ制御できるようになるということである。こういった行法を納めているヨーギー(行者)は、たとえコブラ(毒蛇)に噛まれても、血液がその毒と混ざらないように調整することができる。その毒は血液とまったく混合せずにからだの中を通過して、尿になって排出される。このようなからだの制御力ができればLSDを使うことが許される。
    からだの化学質を制御できるようになっていないと、実に危険なものになる。タバコやアルコールでさえ放棄するのが難しい。ましてLSDを使うとなると、もっと放棄するのが難しくなるのは当然のこと。
    LSDのトリップに入ると、同時に自制心を失ってしまう。化学物質が制御権をにぎってしまって、自分の居場所がなくなってしまう。もう自分のからだの主人ではなくなるということだ。ひとたび、その座を失うと、ふたたび、その座を得るのは至難の業である。からだはLSDを強く求める。その渇望は何ものにも優先する。その渇望はからだの一部となり、LSDはからだの細胞にまで浸透してゆく。体内の化学構造に変化が生じて全身の細胞がLSDを欲しがるようになってくると、もうそれを落とすのは非常に困難になる。LSDが瞑想に導くために使えるのは、からだにそのための用意ができている場合だけに限られるのである。
    また、左道のタントラでは、アルコールを瞑想の助けとして使う。この修行者は特定量のアルコールを飲んで、油断なく醒めていなければならない。意識は失われてはならない。アルコールの量の増加とともに意識は依然として醒めたままでいなければならないのである。からだの中にアルコールが吸収されても、意識は失われてはいけない。そしてアルコール量はさらに上がってゆく。これを練習してゆくと、どれだけの量のアルコールを与えられても意識は油断なく醒めていられるようになる。その時点にまで達すると、はじめてLSDが助けとなって使えるのだ。
    このようにからだの浄化する訓練もなければ意識を醒めたまま増大させるような訓練もなく、どんな準備もないままLSDを摂るのは自己破壊以外の何ものでもない。そして、瞑想の用意を整えるために、からだを準備するにはあまりにも多くの時間がかかるので延命法を開発しなければならなかった。これがハタ・ヨーガとして誕生し、現在では主に健康目的に利用されている。
    何でも始めることはたやすいが、終わらせることは難しい。その時には自分のからだの主人ではなくなっているということを心得ておかなければならない。決して危ない道には入ってゆかないことである。一歩も踏み込まないのが一番いい。

  • 母の体調

    まだ高校野球が終わっていないのに、東京はなにやら秋の気配が漂いはじめています。

    私の母は89才、今体調を崩しています。
    「毎年7月は暑さに慣れ8月を乗り切って夏を過ごしてきたのだけれど、今年はなんだかおかしい」と母は話しています。
    めまいのあと熱中症といわれ毎日点滴を受けているのですがとてもつらそうです。

    そんな母の顔を観てみると、なんと鼻が途中からはっきりわかるように左に曲がっているではありませんか!母は自分の鼻を手でさわって驚いていました。
    母は、脱力後の気持ちよさを30分も味わったことのある私の患者第一号なのです。

    渦状波を試してみたいと思います。

    脊椎と頸骨を触診し痛い部分を教えてもらいました。

    今回もよくなることを願っています。

    きっと暑さは戻って来るでしょう!もう少し夏を楽しみましょう。

  • 植物の波動(続々)

    植物の話にもう少しお付き合いください。

    宮崎県のほぼ中央に綾の森という照葉樹林の原生林があり、そこでのお話です。(照葉樹とは、広葉樹の中の常緑樹の仲間で暖かい気候を好み沖縄や九州西日本にかけ分布している)

    「成熟した原生林では、木々のあいだで太陽の光を奪い合わない、棲み分け、ができていて、平和共存の社会が成立しているのです。成熟した森の林床には低木が木漏れ日を浴び、歩きやすく、見通しのよい空間が広がっているのです」

    「大木の枝葉の下の空間は、ランやシダ植物にとって最高の生育場所となる。高木の枝葉が森の屋根となって、林床から立ち上る水蒸気を貯め、空間の湿度を一定に保ち、強風を防ぎ、太陽の光の当たり具合を最適な状態にしてくれるからだ」
    「ラン科植物は、地球上に最も遅く出てきた植物のひとつ。地上ではすでに多くの植物が生活空間を占拠していたから、居場所のないランは、他の植物が生育できないような樹上などで生きる戦略をとる。発芽したら、根っこに共生菌をよびこみ育ててもらう」

    強風から身を守るため木々は寄り添うように立っているという。

    動物のように移動せず、賢く、静かなる汗を流しているのでしょうか!植物の波動をじっくり味わいたいと思います。

    『雑誌ソトコト』9月号より、植物生態学研究家・河野耕三さんと植物学者の多田多恵子さんのお話から引用させていただきました。

  • 植物の波動( 続)

    日本中、夏休みでした。
    東京の街はガランとしていました。

    目が悪い私にも見えるくらい星がキラキラ光っていました。

    さて、植物の葉っぱについて少し・・・

    太陽のさまざまな波長の光の中で、葉っぱが光合成に利用するのはおもに赤い光と青い光なのだそうです。緑の光はほとんど吸収されないで葉っぱを突き抜けるか表面で反射するかなので葉っぱは緑にみえるということです。

    木々に必要な水分を上手に取るために葉っぱはいろいろな工夫をしています。秋に気温が低くなると、根が水を吸い上げにくくなる、それなのに葉っぱから水がどんどん蒸散したり傷んだ部分から水分が失われたら木全体が水不足で死んでしまうことがある。そんなことにならないよう葉っぱを落として冬を無事に乗り切る落葉樹があり、葉っぱを落とさない常緑樹は5〜10年寒さ、長期の風雨や病害虫にもまけないで使い続けられるよう厚く丈夫にできているのだそうです。

    植物は動かなくてよい、じっと留まって光を浴びていればよいのですね。

    そろそろ夏休みからみんなが戻って、喧騒の東京になるのでしょうか!般若身経でからだを整えて残りの夏を乗り切りましょう!

  • 植物の波動

    おはようございます。残暑厳しい?東京から1週間お付き合いください。福岡の秋穂さんから、たしかにバトンを受け取りました鵜原です。

    夏になると一番の楽しみが、井戸水を浴びることでした。が、この夏は心から気持ちよさを味わえたのは何日位だったでしょうか?

    最近、三浦先生のお話の中に「植物の波動」という言葉が出てきました。「植物の波動は静的である」と。改めて、植物ってどんなものなのかなと調べてみたくなりました。

    植物は、水と土の養分を原料に、太陽の光をエネルギー源として、生きていくために必要なすべてをつむぎだすことができる、のだそうです。だから動かなくてすむと。木と草の違いは、茎が年ごとに肥大成長するかしないか、にあるので竹は草なんだとか。人間との大きな違いは、基本的に木には寿命がありません、ということでした。「病害虫に遭わず、光合成ができる能力と自身の体の細胞を養うバランスを保つことができたら、何千年も何万年も生きられます。その要となるのが、葉っぱなのです」

    「木にとって最も恐ろしいのは強風で、腐朽菌も木の敵だ」

    夏の暑い日、葉っぱの生い茂った樹木をみつけると思わず駆け寄ってしまいます。とても癒されます。植物の偉大さが少しだけわかりました。東京の木々の緑は雨が多いせいか生き生きとしています。
    まだまだ暑さが続きます。脱水にはくれぐれもご注意を!