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  • 「快」について

     四日目は「快」について考えたいと思います。よろしくお願いします。
     二日目のブログにも書きましたが、痛み(特に鈍い鈍痛)は大脳辺縁部で記憶されることがあるだけでなく、脳内で痛みという感覚をつくりだしてしまうこともあるようです。この脳内の痛みを、痛みの訴えのある患部に対してアプローチしても、根本的な解決にはならないのではないのでしょうか。
     例えば骨折後のクライアントが、骨折部は癒合して治癒したにも関わらず、一年経過しても痛みは変わらないという方も見受けられます。このような場合、精神的問題、痛みの感受性の問題として捉えることもあるのではないでしょうか。皆さんならどのようにアプローチしますか。
     僕は、操体の学びの中に答えがあると思います。とくに「快」というからだのききわけに、大きな可能性を感じます。「楽な方向、動きやすい方向に可動極限まで動かし、2〜3秒たわめて(動きをとめる)瞬間急速脱力させる(第一分析)」「楽」の動きでは、脊髄反射による効果に留まるのに対して、からだの感覚受容器で聞き分けたきもちよさは「快適感覚」として感覚の中枢である脳内にいき、ホルモン分泌により痛みの感覚が抑制さるほか、ホルモンや細胞の働きによってからだの治癒能力・免疫力の向上などに繋がるなど様々な効果が期待できるのではないかと考えます。脳内の痛みの抑制に働くとされる快楽物質のホルモンは20種類ほどあるようですが、その中でも最強の快楽物質とされるホルモンは視床下部、脳下垂体で分泌されるβエンドルフィンとされ、このβエンドルフィンは「快」という感覚に対して分泌されるそうです。
     「快」は感覚中枢を経由するからこそ、身体運動の法則(重心安定の法則・重心移動の法則・連動の法則・呼吸との相関性・目線との相関性の3法則と2相関性)に基づき、ひとつひとつの動きに対して快適感覚の有無をからだに確認(動診)しますが、からだの感覚をききわけることが大切なのです。そしてききわけられた快適感覚を十分に味わう(操法)(第二分析)ことで、ホルモン分泌や細胞などからだ全体の反応が期待できるわけです。
     感覚には、特殊感覚、体性感覚、内臓感覚があり、その中の体性感覚は表在感覚と深部感覚とに分けられ、第二分析は深部感覚のききわけに位置します。この深部感覚の快の感覚をからだにききわけるという動診を、決め付けやからだへの感覚のききわけを省略すると、第一分析のように脊髄を介した反応になってしまうから、からだは本当に不思議です。快の質が高いほど治癒能力・免疫力が比例して向上します。もちろん「楽」を「快」に言葉だけ変えたとしても、「快」を探すような行動しても効果は「楽」の効果とかわらないはずです。
     今日はこの辺りで・・・。ありがとうございました。

  • 第一分析

     三日目は、「楽な方向、動きやすい方向に可動極限まで動かし、2〜3秒たわめて(動きをとめる)瞬間急速脱力させる」これを第一分析と呼んでいます。本日は第一分析の機序について書きたいと思います。よろしくお願いします。
     第一分析での動きは、前後・左右のように、二者択一的に動きを比較対照します。そして、動きやすい楽な方向に対して、可動極限まで動かし、2〜3秒動きをたわめたのち、瞬間急速脱力させます。このように、楽な動きを利用しておこなう「動き」を中心としたアプローチとなります。
     第一分析の機序は、からだを楽な方向、動きやすい方向に可動極限まで動かすという随意運動は、大脳皮質運動野から錘体路という下行性伝達路によって、素早く情報が脊髄前角まで下行し、α運動ニューロンで筋へ伝えられ骨格筋が収縮し、からだが可動極限まで動くという随意運動動という動きになります。そして動きの可動極限で2〜3秒たわめて瞬間急速脱力することで、筋肉の主動筋と拮抗筋が弛緩します。これは骨格筋が等尺性収縮しつづけた興奮状態の情報が?a線維で脊髄後角に入り、脊髄後角から脊髄前角に伝えられる際に興奮が抑制されます(レンショウ抑制または反回抑制)。この抑制された効果が再びα運動ニューロンで骨格筋に伝達された 結果、筋肉が弛緩するということになります。

     第一分析では脊髄と横紋筋系、骨格筋の間で筋が抑制する原理を利用しているため、筋緊張を即効的に緩め、圧痛硬結を瞬時に解消するという目的には大きな効果が生まれやすいことが考えられます。ただし、その効果には限界があることが推測されます。理由は脊髄を介しての反応・効果にとどまる可能性が示唆されるのです。
     第一分析の効果・反応を理解し、目的にあったことに対して行うことができれば、からだは素直に反応を示すはずです。ただし、操者が「気持ちよく動いて」、「気持ちよさを探して」という問いかけをおこなうと、からだや動きだけでなく感覚受容器にまで混乱させてしまうことが考えられます。
     「楽の動き」は「意識の動き」であり、「快の動き」は「無意識の動き」であり、それぞれ大きな違いがあり、「楽」と「快」について我々操体を学ぶ者が理解・区別できていないと、クライアントのからだは混乱した反応となるのは必然だと思います。「楽」によるからだの反応と「快」によるからだの反応は、それぞれことなる反応となるのですから・・・。
     今日はこの辺りで・・・。ありがとうございました。

  • 「楽」について

     二日目は「楽」について、考えてみたいと思います。よろしくお願いします。
     皆さんは「楽」という言葉をどのような時に使いますか。きっと「楽」という言葉の使い方を考えれば、答えはきっとでてくるはずです。
     「治療前より楽になった」、「右に動くより左に動いたほうが、動きやすい楽だ」、「じんせい〜楽ありゃ〜、苦もあるさぁ〜」など、「楽」という言葉を使う時には、比較する対照があって生まれる言葉ではないでしょか。
     操体の創始者である橋本敬三先生は「楽な方向、動きやすい方向に可動極限まで動かし、2〜3秒たわめて(動きをとめる)瞬間急速脱力させる」(第一分析)という臨床をされていました。ところが、85歳のある日(1982年)「きもちのよさをききわければいいんだ。きもちのよさで治るんだからな」と、三浦理事長に言われたそうです。その後、三浦先生がその意志を引き継ぎ、「きもちのよさで良くなる」という真理の追究を続けた結果、「楽ではなく、快適感覚をききわけさせる動診(診断)と操法(治療)」(第二分析)や、刺激にならない皮膚への接触による感覚のききわけと操法(第三分析)へと進化させました。
     橋本先生は臨床結果がでていた「楽」を通す第一分析から、なぜ「快」であるきもちよさにシフトチェンジするよう考えられたのでしょうか。「快」にあって「楽」にない物とはなんでしょうか。
     比較対照の「楽」である「楽な方向」、「動きやすい方向」に動きを通すということは、筋肉・靭帯・関節などのからだのゆがみの左右差を表し、第一分析によってその歪みを正すというように、からだの器である肉体のみの反応に制限されるのではないかと考えます。「楽」を通して第一分析を行うと、圧痛硬結を瞬時に解消するには効果的であり、デモンストレーシュンのような場面では注目を集めるかもしれません。ですが、からだはもっと複雑であり、例えば痛みは身体(組織)が傷ついただけで起こるものではなく、刺激が侵害受容器で感知され、その情報が電気信号に変換されて、神経を伝わり、痛みの情報が大脳で認知にされて、初めて「痛み」として認識されます。また、鈍い痛みは大脳辺縁部で記憶されたり、情動などが関係して脳内で痛みをつくり出す(ニューロマトリックス理論)こともあるそうです。痛みだけでなくからだの約60兆もの細胞などの働きからみても、からだの器である肉体ばかりを瞬間的に変化させても限界があるのではないでしょうか。
     「楽」を求めるということは、瞬間的な効果を求めるということになり、からだ全体の効果を持続的に求める場合には、「楽」では限界が生じることに、橋本先生は気付かれたのではないかと思います。
     操体法の第一分析に限らず、多くの臨床家や治療法の中で、「楽」という呪縛に囚われているために、からだの受け皿である肉体ばかりに目がいってしまい、筋肉・靭帯・関節のアプローチに留まってしまっているような気がします。からだの形が正されれば、からだの問題がすべて解決するのでしょうか。目で見えている問題は、からだが抱えている問題のほんの一部分にすぎないのではないかと思います。
     今日はこの辺りで・・・。ありがとうございました。

  • 今回のテーマは「楽」と「快」

     今日から一週間は佐助の担当となります。今回はブログのテーマとして、「快と楽の違いについて」というテーマをいただき、平成23年を締めくくる一週間を僕とお付き合いよろしくお願いします。
     皆様はこの一年をどのように過ごしましたか、今という時間を大切に、意識とからだをどのように使っていますか。「楽と快」も意識とからだの使い方ひとつで、「楽」と「快」はまったく種類が違うということに気が付かず、意識とからだを迷路のように混沌とした状態で悪循環に陥って、ただ時間が過ぎていることがあるような気がします。
     僕も操体を学ぶ以前は、「楽」と「快」の違いについて考えることもなく、むしろ「楽になった」という「楽」という言葉に反応していて、「快」はリラクゼーションの分野と勝手に決め付けていたような気がします。その中、からだの連動が学びたいと考え、三浦理事長が講師として指導されている操体法東京研究会 操体指導者養成コースを受講することになりました。まず言われたのが、「楽ではダメ!気持ちよさがからだを治してくれる。だから第三者が治すことまで関与するな!」です。当時の僕は本当にビックリです。この理由は操体を学ぶにつれ解決されました。からだの機能や効果からも、「楽」と「快」はまったく異なる反応になるのです。理由は後日のブログで、「楽」と「快」を分けて書きたいと思います。
     多くの臨床家が痛みという主訴に対して患者さんのからだと向かい合い、臨床家が患者さんのからだをいじる行為によって治療をしていると思います。ここに落とし穴があるような気がします。痛みは感覚なのに対して、からだをいじることで、筋肉・靭帯・可動域・関節・バランスなどの受け皿となるからだばかりに注目し、感覚に対するからだの大切な機能について、目を向けていないことに問題があるような気がします。肉体と感覚、意識と無意識が混合しているからこそ、ここに「楽」と「快」が混合して使われている原因があるのではないかと、最近僕は感じています。
     からだの感覚である快適感覚には魔法のような効果があります。この効果を引き出すには、「楽」と「快」の違いを理解・区別することが、一番の近道だと思います。
     「快」という感覚は、この世に誕生したすべての生き物に備わっている最も素晴らしい感覚だからこそ、「からだに聞き分ける」というキーワードを大切であり、からだの感覚を聞き分けることで、からだ・イノチと向かい合ってもらいたいと思っています。からだに聞き分けた「快」には、きっと想像もできないようなからだの反応に繋がると思います。

    (写真は長野県観光協会より)
     今週は「楽」と「快」について、僕の視点からいろいろ書いてみたいと思います。 
     今日はこの辺りで・・・ありがとうございました。

  • 楽な考え

    一年は早い、気が付けばこのブログも私の順番は今年最後のブログになる。小学生の頃から読書感想文が死ぬほど嫌いだった私が、この様な文章を書いていると分かれば、草葉の陰で小学校時代の担任も喜んでいると思う・・・では最終日、本題に入ります

    「人間は一茎(ひとくき)の葦(あし)である。自然の中で最も弱いものである。だが、それは考える葦である」かの哲学者パスカルは言いました。
    私達人間が地球上に居る他の動物と違うのは、物事に対して理性を持って「考える」ことです。良いのか悪いのかを問われると、地球そのものから言わせると、いい迷惑・・・自然破壊含め無茶苦茶しやがってと思っているのかもしれません。またしても話しが逸れそうなので元に戻しますが、この人間独自とも言える「考える(思考する)」にも楽と快は存在するのです。

    では実際、自分自身は「楽な思考派」かどうかをチェックしてみて下さい。楽な考えと言ってもピンと来ないかもしれませんが、ひょっとして日本人の大多数は知らず知らずのうちに「楽な思考派」にされているのかもしれません。
    歴史的に見ても民族的に見ても日本人は楽な思考に陥りやすい特性を持っているのかもしれません。楽な思考とは早い話が“思考停止”と言えます。
    物事を楽に考えるとは問題を正面から真剣に捉えない、嫌なこと面倒臭いことは出来るだけ先送りにする、まさに幕末期ペリーが来航し、開国を迫った時も同様に幕府は思考停止、翌年に答えを先延ばしにしても、尚、意見の纏まらぬ混乱のまま米国側と交渉することとなり、結果は済し崩し的に、家光の代から続いた鎖国の終演となりました。
    そして、ペリー来航より158年後の今年、民主党幕府は第二の黒船とも騒がれている「TPP」問題に関してメリット・デメリット国民説明も有耶無耶なまま、党内調整も出来ぬまま、現状では突入していくこととなりました。一世紀かけても何も変わっていません・・・嗚呼、歴史は繰り返すぅ
    これだけ書くと政府だけが悪い様な感じですが、何もこれは政府だけの問題では無く、賛成・反対を個々の業界団体が自らの利益本位でメディアやマスコミを煽る図式にも問題があり、一度、政官財も自らのことだけで無く、これからの日本の進むべき形をゼロにした状態で考えるべきなのです。もっと言えば私も含めてですが、聞き分けの良すぎる国民にも大きな問題があるのです。
    未だに江戸時代の様に「お上(かみ)が決めたことだから、しょーがないよ」などと言って愚策に対して文句も言わず流されている体は、これこそ「思考停止」なのです。

    去年から今年にかけてアラブ地域ではアラブの春と称し、大規模な反政府デモや抗議活動が行われています。現状の日本では想像も出来ないですが、日本でも歴史を遡れば、圧政に耐えかねた末の農民の百姓一揆や、島原の乱など、近年では60年代の安保闘争など便乗はあるにせよ、日本でも同様の思想(生活)闘争の時代があったのです。

    では、今はどうでしょう?良くも悪くも議論が無いのです。大マスコミは何故かどの新聞も同じような内容でしか表現しません、テレビも右習えで、ニュースなのかバラエティなのか分からぬ、中途半端なことしかしません。
    これこそ局によっても賛否があって然りだと思うのですが、どうも天の声が働く様で、消化不良のまま、国民も特に声を荒げること無く有耶無耶、気が付けば消費税や税金が上がり、我々の生活は困窮して行くのですねぇ・・・

    しかし、ココまで聞き分けの良い「お気楽・らくらく」国民って世界的にみても多分、珍しいと思います。ある意味操作しやすい、お上にとっては都合の良いプリティな国民なのです。しかし、ペリーの時代と比べて圧倒的情報量を持つ現代人が何故、変わらないままなのでしょうか?
    判断すべき材料はテレビや新聞、ネットなど、世の中には溢れています。
    逆に現代人は情報が溢れすぎているということでしょうか?何だか矛盾していますが、一つのもの事を決める時に選択肢が多ければ多いほど、迷うものです。二つの中から選ぶのと十個の中から選ぶのでは、十個の方が迷いの種になるのです。今の日本人は情報の波の中で彷徨う小舟の如きもので、情報の善し悪しを判断することが出来なくなっているのです。

    結局、最終的に情報の判断をするのは自分の「感覚(感性)」でしかないのです。何とも心許なく思えるかもしれませんが、デジタルに情報を収集し、アナログで判断するという手法が現在、日本に生きるために必要な手法なのかもしれません。やはり、大切なのは快・不快を見極める自身の「目(心眼)」なのです。怪しい話しには独得の臭い、胡散臭さがあります。怪しい人にも同様に感じるものがあります。これは理屈では無く、何となく感じるのです。
    妙に饒舌だったり、不気味な明るさだったりと、決して暗くは無く寧ろ大衆受けする風貌だったり、どこから見てもいい人にしか見えないのです。
    やっぱり、昔の人は嘘を言いません「上手い話には裏がある」「巧言令色、鮮なし仁」など、戒めの言葉は幾らでもあります。

    最終日にこのテーマは操体と大きく外れている様に思われるかもしれませんが、「快適感覚」をききわけるとは、何も身体だけでは無く、人を見る目、物事を見る目も同様なのです。感覚のききわけは学習であり、今は分からなくても、身体に委ね、感覚に従うことで身に付いて行くのです。不快なものはハッキリ不快と認識出来るのです。感覚を磨くとは人生そのものを大切に歩むこと、道を違えること無く進む指針ともなるのです。
    「楽な考えとは楽にあらず、快の道は楽ならず、しかし遠くに光明あり」
    やはり、最後は“快”に従うことなんですねぇ・・・来週からはお待ちかね、三浦先生の担当になります。一週間ありがとうございました。

  • お犬様とお猫様

    「快適感覚」とはまさに「原始感覚」のことですが、原始感覚の申し子と言えば動物諸氏です。我々の身近に居るところで言えばワンちゃんお猫様が代表選手だと思います。
    皆さんはどちらがお好きでしょうか?個々に好みはあるでしょうが、操体に興味がある方ならばお勧めは断然、「お猫様」です。何でっ?て言われても自分が共に暮らしているからと言ってしまえばそれまでですが、ワンちゃんに比べ、お猫様がより自分の感覚に忠実に生きているからでしょうか。
    私的エゴと偏見で見ると、犬的生き方とは「楽」に近く、猫的生き方には「快」を感じてしまうのです(ご・・強引っすか?)。

    これには先ず、お猫様とお犬様のルーツから探っていかねばと思います。
    有名な話しなのでご存じだとは思いますが、元々、お犬様とお猫様のルーツは同じだったようです。ご先祖様のお名前はミアキス (Miacis) と称され、暁新世から始新世中期にかけての約6,500万前〜4,800万年前に生息した小型捕食者でした。
    元々、森林に単独で暮らし、姿はイタチに似ており夜行性で、大きさはネコより一回り小さい動物だったようです。そして、ネズミや小鳥、昆虫などの小動物を獲物としていたそうです。
    このルーツを同じくするミアキスが何故、お猫様とお犬様とに別れたのかと言えば、諸説あるようですが、元々森林に住んでいたミアキスが二派に別れたようです。一派は森林より見通しが良い平原に降りて行き、もう一派はそのまま住み慣れた森林に残って生き残る方法を選択しました。
    この選択こそが、お犬様とお猫様の二派を作る切っ掛けとなったのです。
    平原に降りていった一派は獲物を捕まえるために速く走ることを要求され、脚力がより発達し、更に効率よく獲物を獲得するために集団戦での方法を考え出しました。これが、お犬様一派となって行くのです。お犬様が群れで行動する習性はここにあるのです。

    一方、我々猫派は身を隠すことに困らない森林に住んでいますので、集団で狩りをする必要も無く、自然群れない単独行動へとなっていきました。その代わり、瞬発力を必要とされる筋肉と鋭い聴力、縦長の瞳孔による微妙な光の調節により夜目が効くなど、単独で狩りをするのに必要な要素が満載となりました。

    それと、集団行動を選択したお犬様達は必然的に命令系統を明確にするために、群れの中で序列を形成していきました。トップにBOSSが居て、最下位までキッチリと序列が決まっていて、狩りも全てその命令系統により行っていました。このことが、後に人間と共に住む様になった時にも発揮され、自分の序列をヒトとの中でも付けるので、自分より序列が低いと思う家族に対しては噛んだり、吠えたりする一面も持っています。だからこそ、群れ以外の動物が近づくと威嚇といった攻撃性も発揮するのです。これが番犬に向いている理由です。この平地に降りたお犬様が更に進化を遂げたのが、オオカミになって行きました。この様にお犬様は進化しながら、人間の用途によって、牧羊犬、猟犬、盲導犬など、多種多様に変化しました。

    一方の我々お猫様は古代エジプトの頃にネズミに穀物を食べられない様にと、家猫として人間と一緒に生活をする様になりました。ですが、根がそれ以上のことが出来ないので、犬の様に特に変化することも無く、良い意味で野生の部分を残したままで現在に至ってます。

    お猫様の「原始感覚」がお犬様に比べて残っているのは、こういう進化の理由によるものだったんですねぇ。だからこそ、一番身近で見られる「原始感覚の伝道師」なのですねぇ・・・

    人間の顔色を伺い、多数の言語も理解出来るお犬様。方や人の呼びかけは一切無視、気分が良い時だけは擦り寄ってくるお猫様♪叱られるとシュンとして本当に反省しているお犬様。方や叱ると逆ギレして引っ掻いたり、時には噛みついたりもするお猫様♪臭いはきついけど、水は大スキお風呂も入るよお犬様。方や臭いもしない、毛繕いで常に身だしなみを気にする、けど水はとんでもないよ!お猫様♪
    犬と一緒に住んでいる年齢層(特に室内犬)は様々ですが、可愛くて自分の言うことを素直に聞いてくれることが、お犬様選択の条件みたいです。お犬様と飼い主の関係はあくまでも、言うことを聞く、そして甘えてくれるのが絶対条件なのです。
    お犬様の本音は聞けないですが、彼等は人に依存して貰うことを“快”と感じる脳に進化の過程でなってしまったのだと思います。ですから、お犬様の飼い主との相互関係は従順なお犬様あっての、お互いの「依存関係」であると言えます。多分、呼んでも来ないお犬様だったり、待てをせずにガツガツ食べるお犬様だったら、状況は違っていたと思います。お互いが気分的に「楽」な関係だと言えます。

    逆に我々猫派から言わせると、依存から生まれてくるのは飼い主ペットの関係であり、対等では無い関係なのです。お猫様だって、フードを与えたりするので、同じじゃないか!と言われそうですが、違うんです!根本的に!ご飯を食べて戴いて、私なんざ振り向いて欲しいのです!一度でも良いから、「オッサンありがとね!」ってうちの小太郎に心から言って欲しいのです!まぁ、絶対あり得ないですけど。要求する時だけは散々うるさく泣いて、食べ終わると礼も言わず、愛想も無く、去って行きます。むしろ、当たり前だろう位の勢いです。
    これが、寧ろ不快で無く、良いのです。このお互いがCOOLな関係こそ、依存しない、つかず離れず、甘えず、どちらが上か分からない関係(明らかに私が飼われている感じ)。これこそが、お猫様と一緒に生活をするという醍醐味なのです。お猫様と過ごす究極の“快”とは互いを干渉しない関係、けど何となくいつも傍に居て気を使わない、空気の様な存在でしょうか。この時期になると猫まんじゅうになって寝ている姿はホントに心から癒されます。どんなに嫌なことがあっても肉球をプニプニして臭いを嗅ぐだけで、幸せな気分になります。見ているだけで人を癒すことが出来るなんて、やっぱり凄い・・お猫様。。あぁ快の伝道師・・・

  • 楽と楽(がく)

    いよいよ、今日から師匠も全力疾走する「師走」へと突入します・・・一年あ!っと言う間でした。。。それでは本日分、宜しくです。
    今回のブログは私的には”楽(らく)”について書いているのですが、漢字は同じでも楽(らく)楽(がく)ではちょっと様子が違ってきます。
    とは言っても“楽(がく)”と読むのはその殆どが、音にまつわるもので「音楽、雅楽、楽器、楽団、能楽、声楽」と全てが音並びです。
    まぁよく考えれば、音って我々にとっては切っても切れないもので、音の無い生活、音楽の無い生活を考えると私的にはゾーッとします。音の効用って幾つかあると思うのですが、一つは記憶と直接繋がっていて、大きなヒーリング効果があることでしょうか。先日も家内と車で走っている時にラジオからレベッカ「フレンズ」が流れた時に思わず、「お〜・・懐かしいぃ」と二人同時に呟いていました。当時、付き合いだした頃によくかかっていた曲だったと思うので、思わずその頃の話に花が咲きました。たったその一曲がかかったお陰で、お互いがホンワカした気持ちになれて、何だか妙な感じでした。これって多分、音楽と記憶のヒーリング効果なんだと思います。

    この様な経験は多分、誰しも持っていると思います。記憶をより明確化しようと思えば、視覚・聴覚・嗅覚など感覚器と同時に共有すると記憶はより明確に定着化します。
    音や音楽は古くは卑弥呼の時代からも祭礼や儀式の時に使われていたと思われます。これらは多分にマインドコントロール的要素が強く、儀式等は夜に行われることが多く、夜のひっそりとした幻想的雰囲気に火を燃やし、群衆に炎を見せることで気持ちを高揚させ、音や音楽の一定のリズムで一種のエクスタシー状態を作り上げるのが、彼等の手法でした。夜+炎+音楽”口説きの三種の神器”と言われ(誰が言っているのだ?)この三つが揃うと、人は心を開きやすく、身体も開きやすくなると言われています(だから誰が言っているんだ?)。
    古くは村のお祭りなどは収穫も終わり、気持ち的にもユッタリしている時に、当時娯楽も余り無い農村で、収穫後の祭りなんぞは炎の元で太鼓のリズムは身体の奥底にある欲求を掻き立て、踊りの最中にたくさんの若者が森の奥の闇に消えていったようです。
    近いところでは学生時代のキャンプファイヤーもそうですねぇ。夏の夜、キャンプファイヤーの炎と波の音、普段はそんなにいけてない子でも、妙に格好良く、可愛く見えたり、見つめていると、何だか小っ恥ずかしい台詞も言えたりして、おまけに傍らでは流行の音楽が鳴り響いていると、勢いでひと夏の経験をしてしまいました。などなど、枚挙に暇がないです。

    やはり、ここでのキーワードは「音楽(音)」なのです。だって、夜と炎だけだったら、妙に地味な集会になってしまい、周りにあるゴミでも燃やそうかと、逆に寂しくなったりしますが、音楽が入ることでやはり心が解放されるのですねぇ。

    音楽に関して言えば、聞くことも快感に繋がるのですが、もっと快感は演者になることです。人前で歌ったり、演奏したりした経験がある人なら分かると思うのですが、人前で何かをして、それに対して拍手や声援を一度貰ってしまうと、その快感たるや忘れることが出来ないのです。まさにアドレナリン出まくりのチョー快感状態になってしまうのです。
    私も学生時代は野球をずっとやっていたので、応援団の声援をうけながらバッターボックスに入ったり、試合をしたりというのは経験していたので、それはそれで気持ち良かったのですが、音楽の気持ちよさはそれとは又、違った快感だった様な気がします。
    若かりし頃、学祭などでグループ組んで歌ったり、アマチュアバンドを組んだりした時期があったのですが、スポットライトを浴びて皆の注目の中で歌ったり演奏したりは、緊張感の中に大きな快感がありました。

    アマチュアでもそうなので、プロになればそりゃぁ、たまらんでしょう!引退した歌手がスポットライトと声援が忘れられず、カムバックしてくるのもわかる気がします。
    ある意味一流のミュージシャンは一流の”治療家”とも言えるのです。自分も気持ち良くて、見ている観客も気持ち良く出来るなんて、最高の「快の共有」だと思います。一回のステージの中で、泣いたり、笑ったり、曲に感情移入して共感したりと、歌が出来ることの可能性はまさに大きいと思います。
    あのライブを見た後のスッキリ感だったり、爽快感はまさに操体での施術後のスッキリ感とよく似たものがあります。ジャンルは違えど、楽しまそうと企んだものより、自らが心の底から楽しみ、それを伝えることが真の快の共有なのです。

    臨床も同じで、腰痛だからこうしてみようなどと、変な欲を出して考えると、クライアントの身体に見透かされてしまい、思った結果が出なかったりと、まさに日々真剣なライブなのです。一流は全てに通ずですねぇ・・・

  • 楽−Study

    操体に興味があるので、教えて貰えますか?」時々、この様なことを言って来る人がいます。私は間髪入れず満面の笑みで「え?本気ですか?」と言うと、大概「はい、真剣に学ぼうと思っています!」と答えが返ってきます。
    まぁ此処までは誰しも答えますが、次に「師匠が東京に居ますので、紹介しますから、本物を学んで下さい!」と気持ちよく言うと、急に微妙な顔付きになって「と・・東京ですか・・」と困惑した顔になります。最後は爽やかに「今から師匠に電話入れてみましょうか?」と言うと、ほぼ8割が「あ・・ありがとうございます、ちょっと考えてからお返事します」と言われ二度と連絡はありません。
    気の利いた人なら「福田さんに直接教えて貰うわけには出来ませんか?」などと言われるので、こちらも更に「どーせなら、最高のものを学びたくないですか?」と聞き返すと、もはや撃沈です。

    そもそも真剣に学ぶ気があれば、その世界でトップの人を紹介すると言われれば、何処であろうと、迷わず行くと思います。これは別に意地悪でやっている訳ではなく、「学ぶ」姿勢がどうかを試しているのです。この様なことを言ってくる人達の共通項は「楽に学びたい」と言う安易な姿勢です。
    大概“楽”に学びたい人達の共通点は「覚悟」が無いのです。真剣に学ぶと口では言うのですが、東京に行くほどの金銭面での自己投資と覚悟も無く、楽に教えてくれそうな人から教えて貰うといった感じでしょうか。言ってみれば“お試し品”的感覚でちょっとかじってみて、美味しかったら食べるといったお気軽動機なのです。
    今は学び方も様々にあり、学校、カルチャーセンター、講習などその気になれば幾らでもあるのです。しかし、逆に選択肢が多いとは選択する側の感性が問われることにもなります。世の中には口に入れて直ぐに美味しさが分かる食べ物もあれば、スルメの様に噛めば噛むほど味が出て来るモノもあります。

    何でもそうですが、直ぐに良さが分かる!などと言われるものほど薄っぺらいモノはありません。我々の業界の中にも、ホームページや業界誌などで「僅か二週間で開業OK!あなたも簡単に独立開業!」などと謳った広告を出しているところがよくあります。内容的に間違いでは無いのですが、開業は自由ですし、その人が成功しようが失敗しようが広告主に責任は無いのですから。
    最近では社会情勢を反映して、この様な安易な広告や業者に引っかかるのは、若い人よりも定年前の50代から60代の方が圧倒的に多いのです。再就職の可能性が低いのと、独立開業の四文字に惹かれるものがあるようです。業者にしてみれば、まさに“鴨ネギ”状態で、年齢と共にどうしても若い人に比べ、覚えることが困難な年代は補習、補習で気が付けば楽に開業予定の筈が、高額な受講料の支払いと中途半端な技術で不安開業することとなるのです。
    私に言わせれば、そんな安易な広告に引っかかる方が悪いですし、開業すればイコール成功だなんて、夢物語も良いところだからです。旨い話には裏があると相場は決まっているのです。安易な学びは安易な結果しか生まないことを理解すべきなのです。楽に学んで素晴らしい結果を生もう、なんて考えがそもそも甘いのです。学びに近道無し、やはり生涯勉強なのです。

    今はお金に糸目を付けなければ、大概のモノは手に入る時代です。学びも同じで、昔の様に師匠の鞄持ちをしたり寝食を共にするなどといったやり方は今は少なくなりました。丁稚奉公する位ならもっと楽に、もっと早く学べるモノが良いと、学ぶもの自体の価値観よりも、自己都合が優先する学びとなっているのです。一つのモノをとことん掘り下げて学ぶのでは無く、ちょっとかじって又、目新しいものをかじるの繰り返し。看板には「整体治療院」-カイロ、マッサージ、操体リフレクソロジー-って何屋か分からない店舗になってしまいます。
    そもそも、操体と整体を一緒にすること自体が無理であり、他力と自力の共有は節操もありませんが、理屈にも合わないのです。

    この様な中途半端な学びは自分の中の確信を失い、何を深く学べば良いのかが分からなくなってしまうのです。
    欲張ってたくさんのモノを学ぼうとしなくても、一芸に秀でる者は万芸に通じるのです。一つのモノを真剣に学び掘り続けて行けば、結果として横が拡がり様々な物事の真実
    が見えてくるのです。楽に学んでいては手に入らないモノが一つを真剣に学んでいくことで見えてくるのです。白鳥が優雅に水面を泳ぐ姿は非常に素敵です。ですが、水面下の白鳥の脚は沈まないために凄い勢いで水を掻いています、見た目涼やかでキレイなものほど、見えない部分では大きな努力が必要なのです。
    楽に学ぶか厳しく学ぶかは自分の心の中にあり、誰も楽に学ばそうと勧めたりもしませんし、厳しく学ぶ様に仕向けるわけでも無いのです。自分の心構え一つで結果は大きく変わり、生き方も人生も変わるのです。どちらを選ぶかは当人次第ですが・・・

  • 楽-温故知新

    もう、今クールのブログでは数多くの実行委員のメンバーが書いているので今更な感じもしますが、私達、東京操体フォーラムでは臨床に対しては、操体黎明期の楽な動きへの問いかけでは無く、気持ちよさ・心地よさ、快適感覚を指針とした感覚のききわけを中心において臨床にあたっています。
    この話をすると妙な勘違いをする方達がよくいらっしゃって、「そうですよねぇ、楽への問いかけでは駄目ですよねぇ!」「やっぱり快適感覚ですよね!」と鬼の首を取ったように「第一分析」を全否定する方がいるのですが、決して我々は第一分析が必要ない!いらない!何て一言も言っていないのです。
    寧ろ、第一分析を知っているからこそ、第二・第三分析の凄さ、必要性が分かるのです。

    このことを改めて思い知らされたのが、今年二回目の開催となった「SOTAI Forum in MADRID」でした。昨年の第一回目は初の海外開催であったので、レベルの確認をしつつお互い手探り状態での開催でした。殆ど指導と言うよりはエキシビション的要素の強い大会でした。
    それが、今年は昨年参加されたヨーロッパ各地の指導者クラスの方達をはじめとして、初参加の方達が一つでも多く身に付けたい!本物を学びたいという、良い意味での緊張感があり、昨年とは全く違う雰囲気でした。

    今年は昨年とは違って、操体の基礎を身に付けてもらうためのプログラムとなっていて、臨床家として、操体を学ぶ者として最低限身に付けていて欲しいものが組まれました。「般若身経」「足趾の操法」「ひかがみの触診」などです。
    この時に感じたのが、日本でも同じですが、第一分析を行っているのに、第二分析を教えてくれとか、第三分析はどうするのかと、基本を飛び越して次を教えてくれと要求されるのです。国は違っても考えることは同じなんだなぁとつくずく思うのと同時に、基本の大切さをどう伝えていくかという重要性も改めて感じました。
    これはどの世界でも同じなのですが、基本の上澄みに応用があり、基礎がない人間に応用はあり得ないのです。
    野球をやったことのない人間に、いきなり150Kmのボールを投げることは出来ないのです。

    「楽」をききわける第一分析を知っているから、次のステップもスムーズに移行出来、その良さも実感出来るのです。楽の限界、快の可能性は現場で実際にクライアントと向き合っていなければ実感は出来ないでしょう。机上の空論は所詮、机上でしかなく、現場は想像以上に厳しいのです。
    私は今、プロとして操体を行っているわけですが、私の持っている武器が「第一分析」のみであったなら、とっくの昔に玉砕していたと思います。
    逆に今はどの様な症状、状態であっても対応出来る武器を戴いた操体には本当に感謝しています。

    知っててあえて使わないのと、知らないで使えないのとでは、同じ使わないでも天地の差があるのです。表面だけを見れば使わないから同じじゃないかと思いがちですが、見えない部分でも人として感じられる部分の厚みとなって必ず醸し出されて来るのです。それが、プロとアマチュア、弟子と師匠の違いだと思います。自信とは口で伝えるものでは無く、雰囲気としてその人から発せられる無言のオーラの様なものだからです。

    だから、来年の4月の東京操体フォーラムでのイベントは初心に返り、あえて「第一分析」操体の基礎とでも言うべき部分をクローズアップし、行おうと思っています。
    我々、東京操体フォーラムは真の「温故知新」を考えています。故きを温ねて新しきを知るとは、古きを捨てるわけでもなく、古きにしがみつくわけでもない、土台にしっかりとした下地を作りつつ、次代へ繋ぐものを作り上げていく、それこそが、我々の目指す誠の「温故知新」なのです。
    4月を是非、お楽しみに。

  • 楽Life

    「敵を知り己を知れば百戦危うからず」有名な孫子の一説ですが、未だにビジネス雑誌でも取り上げられる位、人間の本質を突いた言葉の様な気がします。
    別に敵ではないのですが、を知るには“楽”を知らねば本質が見えてこないので、私は敢えて“楽”に潜む真理を言葉の中から、一週間探っていきたいと思います。

    ♪たったひとりの おふくろさんに 楽な暮らしを させたくて 兄弟船はぁ♪といきなり鳥羽ってしまいましたが、皆さん考える「楽な暮らし」って何ですか?私もふと、“楽な暮らし”って何だろう?と考えてみました。学校出たての右も左も分からない頃は漠然と“ビッグに成ってやる”とか“成り上がってやる”など自分のレベルはさておいて、海に向かって叫んでいた時代もありました。殆ど大映テレビのノリですが、当時は真剣にそんなことを夢想していた時期がありました。ビッグって何だろう?成り上がる?今考えると、当時、浜田省吾の「Money」を聞きながらメインストリートに映画館もない所に住んでいた私は何に対してか日々悶々としていました。

    自分の可能性も分からず、何が出来て何が出来ないのかそれすら分からない中で、やりきれない思いを色々なモノにぶつけていました。まぁ、結局そのどれもが中途半端であり、自分という人間の現実をイヤと言うほど知らされることとなるのです。
    で、結局は取りあえず自分に出来ることをやって、気付けば日々同じことの繰り返し、判で押した様な生活をしている自分に気が付いたのです。ってドンドン話し逸れそうなので、元に戻しますと、ビッグに成って成り上がると待っているのが、ビバ“楽な生活?”なのでしょうねぇ。

    まぁ、そう考えると楽な生活の第一条件は殆どの人が、「お金」と答えるでしょう。実際、お金があれば今の悩みの7割は解消されるとモノの本で読んだことがあります。確かに、人間の三つの不安要素と言われる「健康、経済、人間関係」の殆どはある程度のお金があれば悩まずに済みそうです。
    昔の日本人はこの三つを“節度”を持って暮らしていました。
    健康にしたって今の様にサプリメントも無ければ情報番組も無い中で、四季に応じた食事の中で健康管理を促したりしました。風邪をひいたらネギを喉に巻くとか、生姜湯を飲んで血行を良くするなど、あくまでも生活の中で出来ることを行っていました。今の日本は“過剰健康主義”と言いますか、テレビや雑誌で○○が良いと聞けば、過剰に反応し企業の策略だとも気付かずに安易に乗ってしまう姿勢は如何なものかと思います。酒も飲まず、タバコも吸わず、適度な運動を行っている知人が先日亡くなりました。健康に気を遣い、色々なサプリメントを摂取していた方だったのですが、こんな事例は幾らでもあります。逆にNHKの戦争特番で100歳近い爺さんが灰皿にタバコの山を築きながら豪快に話している姿を見ると、人の寿命は生まれた時に決まっていると言うのも頷ける気がします。経済に関しても人間欲をかけばキリが無く、欲とは満足を知らないブラックホールの様なものです。人間関係にしても遠くの親戚より近くの他人と言われていた様に、人間関係は良くも悪くも今より濃密であり、お節介おじさんやおばさんが多数生息していました。今では見て見ぬふり、薄く関わらないお付き合いが当たり前になっています。

    橋本敬三先生は「バルの戒め」の中で“欲張るな”と仰っています。欲を張るとは物事への過剰な執着であり、同時に橋本先生は「間に合っていれば良い」とも仰っています。人類がここまで便利に生活できるようになったのはある意味、便利に生活したいと考える“欲”からです。人間の生きるための原動力は適度な欲でもあり、欲が無いと言う人は今を生きていないか、偽善者のどちらかだと思います。但し、過ぎると溺れてしまい見境がつかない状況になってしまうので、「間に合う」状態が一番良いと、橋本先生は諭しています。

    手が届きそうで手が届かない、買えそうで未だ買えない、この一見、中途半端な状態こそが実は人間にとって一番モチベーションが高い状態だとも言えます。
    有り余る金が手元にあり、誰かに盗られるんじゃないか、人を見ると騙されるんじゃないかと疑心暗鬼になり、誰も信用出来ない精神状態って幸せでしょうか?
    「楽は苦の種苦は楽の種」と言う言葉がありますが、楽の先にあるのは何でしょう?分かるのは楽を求めて行くと、安易な罠に陥りやすいということでしょうか。濡れ手に粟で得た金は知らないうちに無くなるモノです。保険金然り、宝くじ然り。
    お金は得た結果よりも、得られるプロセスにこそ、生き甲斐や幸せがあり、自分の目指す人生の目標なり、仕事のゴールを追求し、その対価としてあるからこそ、大事にも使いますし、明日への活力にもなるのです。

    楽を目指す生活よりも、今日一日を気持ちよく過ごすことを目標とした方が、よっぽど幸せです。人生は一日の積み重ねですし、今日が不幸な人に明日の幸せは実感しにくいモノです。
    人間、気持ちよさは身体で覚えます。楽な生活は頭の中での妄想にしか過ぎません。妄想でしか得られない満足より、今日の心地よさがよっぽど心身共に幸せに近づけます。間に合ってればいいんです・・・