操体の「動診」というものに接してみて、からだの動き、とりわけ筋肉活動に考察を思いめぐらすようになった。その筋肉活動をこなしていくにはそれなりの熱量、すなわちエネルギーが必要になるわけであるが、からだが消費する全熱量の三分の二以上が筋肉を働かすために費やされることになる。この筋肉は手足を動かしたりする横紋筋のように大脳の働きによる意志の力で支配されていることから随意筋と呼ばれる。また外部環境と交渉できるので、外部関連神経系に属する筋肉でもある、この筋肉活動に関係する動診が三日目の検証だ。
筋肉は随意筋だけではなく、内臓や消化管、血管などの構造を作っている筋肉郡が別にある。これらの筋肉は、本人の意志が及ばない、まったくの自力作動をしているので不随意筋と呼ばれている。そして内臓の筋肉等は自律神経系に属するものであり、随意筋よりその数はむしろ多い。
操体の動診はこういった筋肉郡に働きかけるのであるが、筋肉の生理的特長は、その収縮能力にある。この筋肉を構成しているミオシンという蛋白質自身の性質が収縮能を持っている。しかし、随意筋と不随意筋とでは、筋収縮の特徴が若干異なっている。随意筋は多数の筋線維からできており、それぞれが収縮部と運動終板と呼ばれる二つの部分を含んでいる。このうち運動終板は、筋肉と神経物質からなっており、神経線維と筋線維との接合部に位置している。
随意神経のインパルスが運動終板に達すると、終板と収縮部との間に電位差を生じ、その結果収縮部が収縮する。こうした電位差の変化はアセチルコリンという物質が関与しており、ごく僅かな量で働く生物学的なエネルギー量子のことで神経線維の末端に濃縮して存在している。
操体の動診において、被験者が動きを通すのに際して、操者が介助の動作を決める。そこで被験者はまず、動きのイメージを行なうことになるが、これは生物的エネルギーを神経線維に伝える。そうすると、生体電気化学的なインパルスとして認識され、アセチルコリンに働きかけることができる。このとき、操者が介助抵抗を与えているので、筋肉はアイソメトリックな緊張の収縮状態になっている。つまり筋肉の両端ともしっかり押さえられており、自由に収縮させることができない。ここで筋肉の両端のうち一方が自由に動かせる状態に抵抗を緩和させて筋肉の収縮を可能ならしめるのである。いわゆるアイソトニックな筋肉収縮の状態にすることでからだの動きを誘導していくことになる。
このように筋肉は緊張から収縮へと滑らかに移行させていくと、筋肉活動は全身に連動し、筋肉、骨、感覚器、体表をおおう皮膚の隅々まで伝わってくる。それらすべての神経線維が順にまとまって末梢知覚神経になり、背骨から脊髄に入って、そこから上昇して脳の感覚領域に達する。こうした一連の流れは快・不快という感覚の選択を経たのち、快に身を委ねるという自然法則に従うことができるようになる。
ところで、「アイソトニック」と「アイソメトリック」の違いについてであるが、アスレチック・トレーナーたちの間では良く使われる言葉だ。語源で見ると、「アイソ」はアイソトープと同じ「等しい」という意味で「トーン」は調子、アイソトニックは「調子が等しい」の意味になり、筋肉の自由な伸び縮みが許される無理のない調子が維持できることを示している。つまり楽に筋肉が動ける状態のことを言っている。これに対してアイソメトリックの「メトリック」というのは、計量のメートルに関係した言葉で、筋肉の長さが常に等しく維持されることを示している。縮もうとする力が働くのに、二つの支点で頑張って縮まないようにするのであるから、筋肉には最大の張力がかけられる。このような要素をおり込みながら、それにとどまることなく、それ以上の目的に対する綿密な技法を加えたものが操体の動診である。
動診というのは、きわめて徹底した技法で心身の向上を目指し、からだの自力自療につなげるこういった一大体系が、操体という日本医学に存在していることには、実に驚嘆すべきものがある。
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私にとって操体とは検証である(三日目)
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私にとって操体とは検証である(二日目)
操体臨床において、クライエントの症状・疾患というものについて診方、感じ方に変化が起こったのは一年ほど前からである。この頃からクライエント自身が訴える症状・疾患の内容を聞くことよりも、クライエント自身が自分のからだに起こっていることをどのように捉えているのか、ということに興味を覚えるようになってきた。二日目はこういった「観念」の検証である。
例えば、からだのどこかに痛みがあるとする、自分の中に痛みが起こるためには、一体どんな観念を携えていなければならないのか。これらの人に共通しているのは必ず否定的な感情を持っているということに気がついた。疾患が元の健常な状態に戻るためには、からだ自身が治しをつけてくるからにほかならない。しかしこういった良能作用がうまく働かないとすれば、その疾患に対処できないと、自分の頭の中で決めつけた定義づけが、からだの良能作用に抵抗しているからである。自分の良能作用の力の方が疾患を引き起こしている力よりも低いと思い込んでいるということだ。こうなると他力的な治療を施しても治癒につなげるのは難しい。治ろうとする力と疾患の力の間に摩擦が起きているからである。これら二つの力が、もし対等だったなら拮抗することはないはずである。
そもそも良能作用という独占的な治癒力のみで治しをつけることはない。治療は疾患の力とからだが持つ治癒力との相乗効果によってその役割を果たすことになる。そのためには疾患の持つエネルギーを認識し、その力を治癒力へと向かわせる必要がある。何故なら、治癒力のエネルギーと疾患のエネルギーは異なるものではなく、同一のエネルギーであり、治しをつけるために、この二つは必要不可欠なものだ。疾患を否定することなく、それを認めて、その力を受け入れるというのは、肯定的な感情を持つということになり、治しの定義づけを変えたことになる。
このような観念を携えるために、操体ではある答えを持っている。それが、「快感覚」を味わうということであり、それは不快から逃れることでも、快を探すことでもない、不快を否定しないで自分のものにすれば、やがて不快の持つ「快」が吸収され始める。快を味わうことは、自分が快を選んで体験しているということであり、意識的に選んで、自分の現実を選択しているということだ。その現実の中で症状・疾患があり、苦痛が存在していても、「状況」というのは常に中立的な立場にある。それだけではまだ何の意味もなく、悪い状況だと捉える必要もない。何故なら現実はいつも自動的なフィードバックシステムとして働いているからだ。
快の理論は哲学や心理学ではない、力学、物理学という自然の法則に基づいている。三浦寛師の講話の中で『患者を悪いからだとして診ない』、『もともとは良いからだであるから治るのだ』と、いう話を記憶している。これは患者を病んでいる弱い存在として見ないということであり、慈悲の心を持って接してはならないと、戒めているのだ。でないと、その病んでいる状態をより強調することになってしまう。患者が病んでいるといった診方をせずに、自力自療で回復するということを完全に信頼してあげるのが操者の心のあり方なのである。
私にとって臨床というものが、如何にして「協力者」としての自覚を持ち、その意味を理解し、中立的な状況に向き合っていくのかということが大きなテーマになっている。 -
私にとって操体とは検証である
操体は我々の健康や病気、からだや精神の衛生といった日常問題を考えることにおいて、感覚医学とでも言うべき原子論的な自然法則を意識的にみるきっかけを持つことが出来るように思う。そして私にとって強烈な操体用語「からだの無意識」というのが初日の検証だ。
「意識」とか「無意識」といった言葉の意味について、現代心理学に沿った考え方を手短に論じてみる。我々は自分自身のことを「僕」とか「私」という言葉を使うが、その心理は、自分が他人とはどこか違った人間であるという意識を表明していることになる。まず、この意識というのは、「心」の働きの結果として現れてくる。しかし、この心の性質についてこれまでに多数の心理学者たちが諸説を出してはいるが、その見解が一致したためしがないのである。
ブライアンという学者の説では、我々は心を脳内にセットされた絶妙な電気エネルギー器官であると言っている。この説を考察すると、電気エネルギー器官から神経を伝わって筋肉や内臓器官へと絶え間なく流れているすべての生体電気的エネルギーは、この動力源によって発生するエネルギーであると説明することが出来る。そして、やがては死ぬ時期を迎えることになるのであるが、このとき、心はエネルギーとして肉体を離れる。その肉体から離れる瞬間の意識の状態に従って、自分自身を幽体として認識し、これが魂といわれるものである。ギリシャ語が語源である「サイキ」という言葉は「心」と「魂」の両方を意味し、「サイコロジー」はこのサイキにロゴスがついてできた言葉で「心理学」という意味である。
我々の心は、触れてみることもできなければ解剖所見を求めることも出来ない、つまり脳は解剖できるが、心は解剖できないしろものだ。それでも心は現存しており、心の内容は心理として調べることが出来る。その点は内臓器官とまったく同じである。心理学で言う心の問題は、いわゆる意識的な心のことであって、この部分には我々の感覚的なイメージ、記憶等を通じて集積された概念のデーターが保存されている。
我々の行動というのは、こうした概念データーから引き出されてくる。そして心とからだは相互作用に基づいて性格や自我といった機能的な単位を形成するのである。しかしこういった意識的な心は、潜在的な心全体のうちのごく僅かな部分を占めているにすぎない。心理学者カール・ユングは分析心理学の中で「意識的な心とは無意識という大海にちょっとだけ頭を出した小さな島影にすぎない存在」だと言っている。
「からだの無意識に問いかける」という操体操法の体験によって大いなるヒントを得た私は、無意識とは一体何なのか? と、探究心を刺激されてますます意識の研究に没頭することになる。我々は自分のからだの内部環境を意識することはできないが、それには「からだの無意識」というものが支配しているものと気づかされた始まりであった。無意識とは心の大部分を占め、そこに保存されたデーターが決して意識に上ることができない、あるいは意識によって抑えられている、そういった部分であると定義できる。
しかし操体でいう「からだの無意識」というのは、潜在的な無意識ではない。ユングの学説に従えば、無意識を潜在意識として残す「個人的無意識」と意識よりはるかに古い時代からのいわば種の無意識とも言える「集合的無意識」の二つに分けることができる。赤ん坊はこの種の無意識をすでに精神的財産として持って生まれてくるのである。他の動物の心も、このような共通した無意識が支配しているものと思われる。操体で行なわれる「からだの無意識に問いかける」というのも、すべての人間に共通で、各人の精神構造の土台をなす集合的無意識に問いかけるものであると、確信している。
このようにからだの無意識というものが私にとって探求心の止むことのない題材となっている。 -
操体は“自然法則の応用・貢献”
今日は「息」と「食」についてお話ししたいと思います。
まず「息」について。ふだん呼吸について意識することはないと思います。
呼吸法というものはありますし、それを実践している方もいらっしゃるでしょうが、
それは一定の時間取り組むものであり、一日中それを行うわけではありません。
操体でいう「息」とはふだんから特に意識せずにしている自然な呼吸のことです。
からだが自然につけてくる呼吸です。その呼吸にときどきでも意識を向けてみると、
呼吸できていることが不思議な感じがしてきます。呼吸ができていること、
これはこの地球(宇宙)に呼吸させてもらっているということでもあります。
呼吸ができなければ、私たちは生きていくことができません。何か食べたり、
飲んだりする前に、呼吸ができていることのありがたさに改めて気が付きます。次に「食」について。私が意識しているのは「食べ過ぎない」ことです。
食べ過ぎると、当たり前ですが、苦しいですよね。食べることでからだに負担を
かけているのでは本末転倒です。たくさん食べたかったのは私であり、
あなたであり、からだの方はそんなに欲していなかったということもあります。
食べる際にはからだにお伺いを立ててからにしましょう。からだは必要な分だけ
あれば、あとはそんなにいらないよと言っているかもしれません。私は胃腸が丈夫ではなく、今までに胃カメラを2回飲みましたし(その際、
胃潰瘍ができて治った跡が見つかることもありました)、胃もたれや胸やけを
することも多くありました。もうちょっと何か食べたいという時に選んだものが
「これじゃなかった・・・」ということも結構ありました。それが、操体を学ぶ
ようになり、「食」への意識だけでなく他の三要素(「息」・「動」・「想」)
からのフィードバックもあるのでしょうが、間食はほとんどしなくなりましたし、
それに、食べたいと思ったものがちゃんと食べたいと思ったものであること、
つまり、自分が食べたいものがちゃんと当たるようにもなりました。
そして一番の変化は、胃もたれや胸やけをしなくなったことです。何か行動を起こすのではなく、意識を向けることで変化していくのは面白い体験です。
ここで言えば、胃もたれしやすい食べ物を制限しようとしたのではなく、食べる際、
からだに聞き分けることで結果としてそういったものを控えていたということでしょうか。
自分では、そういったものを控えたという意識は全くありません。「そういえば、
控えてるかも」といった意識すらありません。もっと言えば、このブログを書くまで
胃もたれや胸やけをしなくなったことに気付かなかったほどです。「じゃあ、
前もそんな大したことなかったんじゃないの?」なんて声が聞こえてきそうですが、
そんなことはなかったんですよ(笑)操体は、学んでいき、少しずつでも身に付いてくると、それが以前から
自分の中にあったもののように感じられるから不思議なものです。
操体を学ぶことは、もともとこの世界にあるものに気付いていくという
ことでもあります。操体は“自然法則の応用・貢献”なのです。1週間お付き合い、ありがとうございました。
来週からは「博覧強記」、日下さんの登場です。お楽しみに。 -
「言葉は運命のハンドル」
今日は「想」に関してのお話です。「想」とは精神活動のことです。
簡単に言うと、その人がどのようにものを考えるか・捉えるかということに
なるかと思います。橋本先生の言葉に「言葉は運命のハンドルである」と
いうものがあります。これは、今、目の前にある現象はその人がふだん
口にしている言葉が招いているという意味です。たとえば、否定的な言葉を
口にすることが多い人は、マイナスなものを招いてしまいます。
他人の悪口ばかり言っている人は、やはり他人からも自分の悪口を言われている
であろうことは、みなさんも想像に難くないと思います。逆に他人を褒めること
が多い人は、他人からも喜ばれ、それにより自分もまた楽しい気分なります。私は「想」の概念を学んでから、自分の言葉よりもまず、他人の言葉が気になるように
なりました。否定的な言葉を口にする人と一緒にいると、以前まで気にならなかった
そのような言葉を聞いているのが苦痛に感じるようになってきました。私は月2回老人ホームでボランティアをしているのですが、「○○が痛くて」と言う方と、
「若い人がこんな年寄りにやってくれるなんてありがたい」と言う方とがいらっしゃいます。
その方たちから受ける印象は全く違います。前者からは少し硬い感じ、後者からは非常に
穏やかで軟らかい感じを受けます。「僕もこの(後者の)ように年を取りたいものだ」と
思っています。そして、それは自分が口にする言葉を意識して統制していくことで可能だ
ということです。これは何も操体だけで言われていることではありません。「できない、
できないって言ってると、いつまでたってもできないよ」なんて、よく耳にしますよね。悪いことをしたら悪いことが返ってくる。良いことをしたら良いことが返ってくる。
当たり前のことなのです。しかし、人は自分がする行為に対してはそういった注意を
向けても、自分が発する言葉に対してはそういった注意を向けません。
他人に影響を及ぼすという点においては自分がする行為も、発する言葉も同じです。
自分が口にする言葉に気を付けること、耳に入ってくる否定的な言葉に敏感に
なること、この2つに意識を向けることで、ものの考え方・捉え方に変化が出てきます。 -
日常生活における「動」
今日は「動」に関して、操体を学んでから変化したこと、
意識するようになったことなどについて話していきたいと思います。操体では、正しいからだの使い方(身体運動の法則)を説いています。
1つは、重心安定の法則。これは、骨盤を要としたからだの使い方のことで、
手は小指(尺骨側)を、足は第一趾を効かせるというものです。
もう1つは、重心移動の法則。これは、からだの動かし方のルールであり、
8つの動き(前屈・後屈・右側屈・左側屈・右捻転・左捻転・牽引・圧迫)、
そのそれぞれの動きが骨盤を介して、全身へと連動していくのに必要なものです。
そして、この2つの法則をグッと集約したものが「般若身経」です
(これは、橋本先生が、仏意を集約した一番短い経典である『般若心経』に
なぞらえて命名されたものです)。8つの動きを立位の状態でからだに通し、
本来の動きをからだに学習させます。その際、注意すべきは、末端(足)から
動作を開始するということです(動きを通す前にまず、基本となるポジションを取ります:
両足の内側の幅が骨盤の幅と同じになるように開き、右利きであれば左足を半歩前に出し、
やや内側に向ける。それから骨盤が正面を向くように修正し、膝を軽くゆるめる)。
般若身経は、運動する以前のからだの使い方であり、これをもとに私たちは運動をすることになります。
身体運動の法則に従ったからだの使い方が身に付くと、動きが綺麗になる、
運動をしても疲れにくくなるなどいいことが盛りだくさんです。私も般若身経を学んでから、鏡を見ながら綺麗でスムーズな動きになるまで毎日からだに通しました。
今でも、時々鏡を見ながらチェックをしています。8つの動きが全て入っているので、
普段の生活でも意識することができます。例えば、高い所に手を伸ばすとき、
落ちているものを拾うとき、車をバックさせるのに後方を確認するとき(女性が
グっとくる男性の仕草でよく言われる、助手席の背もたれに手を回すあれです)など。また般若身経だけでなく、モノに手を伸ばし掴むときは小指(尺骨側)を意識したり、
力を入れるときは足の第一趾の付け根(MP関節)に重心を落としたり、といった意識も
自然と生まれるようになりました。すると、からだの方も変わってくるもので、操体を
学び始めてから身長が1cmほど伸びました。もう30も半ばなので実際に身長が伸びたわけではなく、
姿勢が良くなっただけなのですが。もともと猫背だったので、それが改善されたんですね。
今でもやや猫背気味なので、もうちょっと身長が高くなるかと期待しています。
とは言っても、もはや夢の180cm超えは叶いませんが・・・。 -
臨床はテクニックだけで成り立つ?
私たちが生きていく上で、他人に代わってもらうことのできない営みが4つあります。
それは、呼吸(息)、飲食(食)、身体運動(動)、精神活動(想)の4つです。これらのバランスがうまく取れていると健康でいられます。ただし、これらのうち
どれか1つでも落第点を取ってしまうと、残りの3つもそれに引っ張られてしまいます。
逆に、バランスを取り戻すときは、どれか1つでも及第点に達すれば、それが残りの3つを
及第点へと引っ張り上げてくれます。これを同時相関相補連動性といいます。4つの営みが常に100点である必要はありません。これは大変です。
間に合っていば(60点・及第点を取れていれば)いいのです。
操体法では4つの営みのうち「動」の部分に関して、60点に届くようサポートします。
しかし、それだけで十分かというと必ずしもそうではないのです。私は特に、想(精神活動)の部分が大きなウェイトを占めているように感じています。
からだが変わってきても、本人の意識が変わらない限り、また同じ痛みをからだに作り出してしまいます。操体というと、操体法、いわゆる臨床の部分に目が行く方がほとんどだと思います。
臨床で活かしたいと。私もそうでした。テクニックを身に付けて開業したいと。
でも今では、それだけでは臨床において十分な結果を得られない気がしています。
操体を学ぶことは、臨床を通せるテクニックを身に付けることではなく、
臨床を通せる人間になること、からだと向き合ったときに「こいつになら委ねて
みてもいいかな」と思ってもらえる人間になることなんだと今は感じています。明日からは、操体を学ぶようになり日常生活で意識するようになったことを
「息・食・動・想」と絡めてお話ししていきたいと思います。 -
操体は実技だけ習得すればいいのか?
講習ではまず、操体の理論について勉強します。
操体の世界観や発病までのプロセス、そして治癒までのプロセスなど。
操体は操体法のみで成り立っているわけではありません。
操体法はあくまで操体の一部(臨床の部分)なのです。理論を学んだあとはいよいよ実技に入ります。
実技といっても操体法は揉んだりほぐしたりはしません。8つしかないからだの動き
(前屈・後屈・右捻転・左捻転・右側屈・左側屈・牽引・圧迫)、それを手および足という
からだの末端部分から患者に動きを表現してもらい、快適感覚の有無をからだに
聞き分け(診断)、聞き分けられたらそれを味わう(治療)というプロセスをたどります。
快適感覚をからだに聞き分け味わうのは患者本人です。これが操体が自力自療たる所以です。
操者はそれをサポートする役割を持ちます。からだの末端から動きを表現していくと、
その動きが全身へと連動していきます。その連動を促すために必要な介助・補助、
そして言葉の誘導があり、操者はそれらをマスターしていなければいけません。
介助・補助、言葉の誘導の具合によって患者の快適感覚の聞き分けが違ってきてしまいます。
ですから、しっかりとした介助・補助を身に付けるのが私の最大の関心事でした。
段々と講習の回を重ねるごとに正しいからだの使い方(身体運動の法則)が身に付いてきて、
形も様になってきます。傍から見てキレイな場合、上手くいっていることが多いんです。今でも、そういった臨床の部分への興味が強いことは確かですが、
最近は臨床だけに留まらない操体の世界にも目が向くようになってきました。
私は1年目の講習が終わる前に、2年目も引き続き受講することを決めました。
操体法の実技も1回習ったからといってそれで十分というわけではなく、
回を、月日を、重ねるごとに研ぎ澄まされていきますし、何より臨床の部分だけを見ていては
操体を理解することはできません。また、時間を掛けて学んでいくということは、
それだけのものを学んでいるということであり、よく目にする「○ヶ月で開業できる」
などというのはどうやったら可能なのだろうと不思議に思います
(「“からだ”を診る」ということをしないなら可能かもしれませんが)。明日は操体の臨床以外のどういった部分に目が向くようになってきたかをお話ししていきたいと思います。
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初の操体体験
そして三浦先生の所へ伺う日がやってきました。三軒茶屋は初めてです。
駅へ着き、電話をすると、迎えに来て下さるというので緊張しつつ待っていました。
すると、声を掛けられたので、そちらを見ると、一人のスラっとした男性が立っていました。
それが、三浦先生でした。「優しそうな人だな」というのが最初に抱いた印象でした。
そして「カッコイイ」というのも。三浦先生が「橋本先生はジジくさくなかった」と仰っていましたが、
三浦先生もやはりそうなんです。見た目がカッコイイというのは、重要な要素だと思います。そして治療所へ到着し、お茶をごちそうになりながらお話をさせていただきました。
講習に参加される方はすでに(操体法ではなくても)臨床をされている方が多いと聞いていたので、
その点についての不安(付いていけるのか)といったことから、
操体・操体法とはどういうものかといった基本的なことまで説明して下さいました。お話だけではピンとこないところもあったので、実際に治療を受けると、
上半身の緊張が強く、呼吸が浅かったのが、深い呼吸ができるようになり、からだが軽くなりました。
「これはすごい」と、私は静かに興奮していました。
何より「患者本人が治療者の立場に立つという概念が面白い」と
(正確には“患者”ではなく、“患者のからだ”が治しを付けてくるということですが)。この体験と三浦先生にお会いしてみた印象とで、私は操体を学ぶことを決めました。
何を教わるかも重要ですが、誰に教わるかもそれと同じかそれ以上に重要なことだと思うのです。
私はふだん塾の講師をしているのですが、自分自身が操体の講習に通うようになり
(その数年前から通い始めた書道教室も然り)、つくづくそのことを実感しました。
(広い意味での)教室に人が通う理由というのは、結局は、そこの先生に会いたいから、
その場・空間の雰囲気を味わいたいから、ということに尽きるのではないでしょうか。
私も生徒たちにそう思ってもらえるよう日々精進です。と、話がそれてしまいましたが、明日は講習を受けてから現在に至るまでをお話したいと思います。
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操体との偶然の出会い
今回初めてブログを担当する、四番サード小島(おじま)です(長嶋じゃなくてごめんなさい)。
今回のブログのテーマは「私にとって操体とは」です。ちょうどいいテーマなので、
自己紹介をかねて、操体との出会いから現在までを綴っていこうと思います。
1週間よろしくお付き合いください。私が操体に出会うよりも前に、まず、人のからだを診る仕事をしたいと思うようになったのは、
家族がこころのバランスを崩してしまったことがきっかけでした。
それにより私自身もストレスを受け、からだに変調を来たしてしまったのですが、
私自身のことよりも、当人をどうにか楽にしてやれないか(せめて、からだだけでも)、
という思いがありました。そんなわけで「何か手技を身に付けたい」と思ったのですが、何せ私はそういった世界とは
無縁だったので、どこで何を習ったらいいのかさっぱり分かりません。インターネットで
検索しても、学校がたくさんあリ過ぎて選べません。自分の中で選ぶ基準を持ち合わせて
いなかったんですね。「じゃあ、何か有名な療法はないかな」と検索してみると、
やはりいくつかあったのですが、その中でも野口整体、身体均整法、そして、操体法というのが
有名らしいというのが分かりました。本当にこれぐらいのレベルだったのです。その中で
日曜日に通えるところ(仕事の休みが日曜のみなので)として、たまたま選んだのが操体でした。
自分自身のレベル(こういった世界の人間ではないこと)と講習内容について問い合わせる
メールを送ると、まもなく返信が来て(これが畠山先生だったのですが)、
「三浦先生が直接話を聞きに来たらどうですかと仰っています」とありました。
「それでは、お願いします」とお時間を作っていただくことになりました。
そして、いよいよ三浦先生とお会いすることになるのですが。続きはまた明日、お話したいと思います。