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  • 先日、東京にしがわ大学の授業に参加してきました。
    東京にしがわ大学というのは、いわゆる生涯学習の一環でしょうか。
    東京のにしがわの多摩地区をキャンパスに、地域の人たちが先生、または生徒になり授業を行います。

    HPによると、
    東京にしがわ大学には、校舎はありません。地域自体がキャンパスです。
    東京にしがわ大学には、入試も授業料も卒業もありません。
    東京にしがわ大学は、誰もが生涯を通じて学べる場です。
    生徒は、こどもから大人まで。年齢、国籍、立場を問いません。
    ユニークな授業を企画し、その道のスペシャリストを先生に招きます。
    学びを通じて、ひとりひとりの願いをつなげ、実現させる場をサポートします。
    地域のよさを再発見し、独自の文化と心地よい暮らしを見守っていきます。

    とあります。

    一年半ほど前の開校の頃から生徒登録をして楽しみにしていましたが、日程の都合で先日ようやく授業初参加でした。
    その日の授業は「お米屋さんに お米のことを お米を食べながら聞いてみる」

    お米屋さんで、農家から消費者の食卓に届くまでを学びました。
    当たり前に毎日食べていても、知らないことが多いですよね。
    これらは知らなくても生活には特に困ったりはしませんが、身近なことを学ぶと、日々の生活に感謝の気持ちが生まれてきます。

    ここで操体の授業ができると面白そうだなと考えたりしてますが、まずはいろいろ参加してみようと思います。

  • 感覚をききわけるということ

    操体が快適感覚をその指針に定めてから、随分な年月が過ぎました。
    当時は関係者の間でも物議を醸した、楽と快の違いという問題も、今では、操体はきもちのよさで治るという考え方が浸透しているかに見えます。

    しかし、現場で直面する問題として、「感覚をきき分ける」という表現に戸惑いを見せる人が多いことがあります。
    日常生活の中で、感覚を大事にする機会が少なくなっていること、他力による施術が一般的であり、受け身の姿勢である人が多いこと。
    操体は、患者が医療者の立場に立つという特徴がありますが、やはり特殊なものであるようです。

    感覚をききわけるということ自体は特別なことではありません。

    初めて操体法を受ける方と、受けなれている方では、反応の早さ、ききわけのよさに違いがあります。
    最初からスムースに動いて、きもちのよさをききわけてもらえるのなら、こんな楽なことはありません。
    その事に対処できるかどうかがプロとアマの差であるのかなと思います。
    施術者が心掛けるのは、いかにしてきもちのよさをききわけていただけるかということです。

    新規の方の場合に、スペースの余裕がある場合に必ずやっていただくのが極性をききわけるということです。
    例えば、おおまかに東西南北の四方向でどちらを向いて横になった場合がいいのか、からだにききわけてもらいます。
    最初この話をすると、きょとんとして、不思議そうな顔をされますが、実際に試してもらうと、見事にききわけられます。
    ここにヒントがある気がします。
    頭で考えて理解できていなくても、からだはちゃんとわかっているんですね。

    感覚は磨くもので研ぎ澄ますもの。
    学習することで、からだの状態、変化に気付きやすくなります。

    操者が快適感覚ということをどれだけ理解しているか、自分自身がわかっていない事を他人に理解してもらうのは無理があります。
    操者がいかにして快適感覚をききわけることができるか、これもまた現場につながる課題であるのです。

  • こんばんは。
    今日はこの冬一番の寒さらしいですね。
    九段から市ヶ谷に向かう場所のとある立ち飲み屋で暖まっているところです。
    このあたりは去年より縁があって何度か訪れています。
    今年に入って始めたことの一つが、イタリア語の勉強です。
    海外でいってみたい場所にイタリアのヴェネチアがありますが、基本的な会話くらいはできるようにしときたいなと思っています。

    ヨーロッパでの操体フォーラムも今年で三回目を迎えますが、今後の会場候補にイタリアも入ってくるかも知れないので、使えるかな、という考えもあったりします。ええ、後付けですが。

    快適感覚をききわける第二分析は言葉かけのタイミングなど熟練をようしますが、足趾の操法や、楽かつらいかをききわける第一分析、基本的な作法から広めていくことになります。
    そのあたりは日本でも同様で、段階的に進んでいかないと、操体は楽なほうに動かして瞬間脱力だと思っている人に快適感覚だと言ってもややこしいことになりそうです。
    まずは楽とつらいとの選択と快適感覚のききわけは別の次元であるということとの認識が必要で、そのことをしっかり伝えていかなければいけませんね。

     

  • 操体との出会い 3

    操体を臨床で行なっているという方には2種類います。
    何か他の療法と複数で併せてやっている方、そして、操体を専門でやっている方です。
    両者の違いは、楽を指針にしているのか、快を指針にしているのかが分かれ目なのではないかと思います。

    自分の場合は務めでやっていた頃から独立したのは、操体しかやりたくなくなっていたからでした。
    前者の場合で楽かつらいかで操法をとおすのは、操体の初期にはそうでしたし、現在でも全くやらないわけではありません。
    操体について触れているブログをよく見たりしますが、そこで気になったのは、楽な方向にとか、気持ちのいい方向にという記述があまりに多いという事でした。

    前者に関しては、知らないで書いているのだと思いますが、趣味でやっている分にはまだいいのかなという部分もあります。現在の操体はそうではないので勿体無いなと思いますが。

    問題は後者の方かも知れません。
    気持ちのいい方向にという表現をしている方は、手技療法などプロとして関わっている方が多いようです。
    つまり、操体法が楽から快にシフトした事を知っている可能性が高いのではと思います。
    でもその方達は、楽と快の区別がついていないのです。
    楽は比較対照ですが快は比較対照ではありません。

    気持ちのいい方向というのは、結果的にそうなのであって(正確には気持ちのいい動き)、動かしてみて気持ちのよさがあるかききわけ(動診)、あればその気持ちのよさを味わう(操法)という流れを理解していないという事です。
    ちなみに楽をとおす場合、対になる動きを試してみて(動診)、楽な方向に持って行って瞬間急速脱力(操法)です。
    方向という表現が比較対照を意識した言葉でもあります。

    橋本敬三先生は、「楽と快は違う」「気持ちのよさを味わえばいいんだ」とおっしゃったのですが、その言葉の意味が伝わっていないのが現状なのですね。
    楽な方向にという印象が強すぎるせいでしょうか。
    それを考えると、始めに教わる相手は重要なポジションにあります。
    指導する側が楽と快の区別をしっかり認識し、責任を持って教えていく事が必要ですね。

  • 操体との出会い 2

    操体について最初に学んだのは、操体は自然法則の応用貢献であるということと帰一の法則でした。

    人は一番きもちがいいところから生まれ、一番きもちがいいところに帰っていく
    生まれる先から絶対的に救われている生命であり、また、その神性に帰っていくのだと。
    操体は快適感覚を指針にしており、息食動想のバランスを説いていますが、治療だけにはとどまらない哲学を持っています。

    そういった部分が大事なんじゃないかと思います。
    治ればいい、ではなくイノチに対する学びでもあります。

    日々の生活そのものが操体の学びにつながっています。
    只如今の行住坐臥、応機接物、尽く是れ道たり、ですね。

  • 操体との出会い

    こんばんは。
    今日から一週間よろしくお願いします。

    テーマは私にとって操体とはです。

    手技療法をやっている方にとって、操体を知らないという人はおそらくいないんじゃないかと思います。
    柔整の学校でも針灸の学校でも整体の学校でも操体の実習の時間があるようです。
    そのことを考えれば、操体を行える臨床家が多くいてもよさそうなものですが、そうもいかないのが現実のようです。

    僕の操体との出会いは10年ほど前に遡るのですが、やはり授業の一環で、楽か辛いかをききわけるものでした。
    今思えば、原始的な操法で、幸いにも変な教わり方をしていなかったのがよかったのか、操体の世界に携わるようになりました。
    興味を持ったきっかけは、自分自身のケアが可能だということでした。
    プロの手技療法家でも、他人のからだは治せても自分のからだはもて余すということが意外とあるように思います。

    操体の最大の特長は、他力ではなく、自分自身の感覚を指針にする自力自療であるという点です。

    今年の春の操体フォーラムでは、初期の操法である第一分析を徹底的に解説します。
    詳細は決まり次第お知らせしますのでお楽しみに。

  • 私にとって操体とは検証である(最終日)

    症状・疾患に捉われないというのが操体のスタイルであるが、最終日はこういった「病気」について検証してみる。
    パソロジーという言葉がある。これはギリシャ語のパトスとロゴスからできた病を論ずる学問のことで、すなわち病理学という意味になる。そして普遍的な現象としての病気について膨大な研究を扱う医学は、それぞれの病気をその特徴に従って分類し、説明を試みることになるが、これを臨床病理学と言う。
    健康というのは、からだのごくあたりまえの状態を意味するものだが、その状態が変わることによって病気という名が与えられる。病気になると、原因や組織に与えた障害、そして症状や経過などに従っていろいろな異なった特徴を現す。そこで臨床病理学では、病気を「炎症性疾患」、「変性疾患」、「代謝性疾患」、「内分泌性疾患」等に分類している。
    この健康というのは、大宇宙によってすべての生き物に与えられた天与の権利であるが、それには自然の法則に従うという解除条件付の健康契約をしているということになる。ようするに自然の法則に従わなくなると、健康が白紙解除されるということだ。野生の動物などは肥満や動脈硬化で悩んだりすることがなく、かなりの傷を負ったライオンですら、ほとんど炎症も起こさず、消毒剤や抗生物質、それに傷口をぬうドクターもないのに早く回復してしまう。何故なら野生動物は本能によって自然の法則に従うからであり、我々人間はそれをしないので病気との親交がますます深くなっていくのである。解除条件こそついているものの生まれながらにして健康という契約が既に成立しているのにもかかわらず、自然の法則を無視することによって契約不履行を原因として、健康契約の白紙撤回解除を行使される羽目になる。
    すべての病気には、「人工的な環境」と「不健全な生活様式」と「精神的な不調和」というこれらの要因が絶えず働いているところで起こっている。このような共通要因からすべての病気には共通した特徴がある。からだの使い方や動かし方といった不健全な生活様式で人工的な環境は、種々の病原菌をはびこらせる下地を作り、突発的な炎症の原因も増加させてしまう。
    一度炎症が起こると、からだはその炎症の原因を取り除こうとして生体エネルギーを集中させるが、不自然な生活のために、そのエネルギーが低下しているので、炎症は慢性化し、その組織器官は変性に向かっていく。この器官の変性は有機生命体の活性低下を意味し、からだは全般的に弱くなっていろいろな病気にかかりやすくなる。内分泌腺はこうしたからだのアンバランス状態を修正しようとして過度の力仕事に精を出し、やがては疲れ果てて、そのつけが再び活性低下を助長する。こうして追い込まれたからだにさらなる炎症が加わるといよいよ一巻の終わりとなるのである。
    このような病気に対する健康について、最近多くのことが言われているが、健康の意味や健康を達成する方法については、かってないほど大きく混乱しているように思われる。しかし健康は、常識的に考えられているのとは逆に、実際には健康は我々が為しうるものではない。健康とは、我々がどんなこともしていないとき、我々が完全に無為自然な境地にあるときに自然発生的に起こるものである。これはどういうことかというと、自然の法則に適った生き方をしているということだ。
    我々が「健康になる」と言うとき、それは健康が起こりうる状況をおそらくつくれるだろう何かの健康法や治療法を行なっているということである。けれども、いかなる技法も薬も健康になる方法そのものではない。それはただ単に自然発生的に起こりうる状況をつくり出すだけのものである。一口に健康法や治療法といっても、種類がたくさんあるので混乱してしまうのが現実だ。
    例えば西洋医学の医術、東洋医学の漢方や種々療法など・・・・・・。それらはそれぞれ独自の技法を持っている。しかし自分にふさわしい技法の決め手は、ただ試してみるほかはない。それは、その技法の何かが自分にぴったり感じられたり、何かが自分にとって効き目があったり、その時にはおのずと見分けがつくものだ。だがそうなってくると、かたっぱしから実践していかなければならなくなる。早い時期にめぐり会えばよいが、そうでないと、無数といっていいほど多くの技法がある中では、時間切れになってしまい、病魔にのみ込まれ、生体はもうジエンドということになりかねない。
    そこで万人が適う共通の健康法や治療法というものがもし、存在するなら願ってもないことだが、果たしてそんなものがあるのだろうか、あるにはある。未病医学や治療医学として自然法則を根拠にしたSOTAIなるものがそれだ。健康のことや治療のことを考えずとも、自然なからだの使い方・動かし方や自然な心の在り方から不健康を消滅させることなく、それを健康に錬金させることができる妙法である。
    やはり私にとって操体とは終わることのない永遠の検証であることに想いを検めた。

  • 私にとって操体とは検証である(六日目)

    昨日の検証で、人間機械のために必要な燃料として、燃える成分である「食」を語ったが、同時にもう一つ別の要素が燃料を燃やす成分としての「酸素」である。六日目はその酸素について検証する。
    燃やす成分の酸素(O2)は、燃える成分である炭素(C)と密接に連携することではじめて生物界におけるサイクルが完成する物質である。このサイクルというのは、可燃物と酸素の合成という捉え方をすると、植物は地中にある水素原子2個(H2)と酸素原子1個(O)が結合し、水分(H2O)を吸い上げ、緑葉に存在するクロロフィルという光合成器官の上で空気中の炭酸ガス(CO2)と反応させて種々の炭水化物を作り、酸素を放出する。
    人間や動物のからだでは、植物の放出した酸素を肺から取り込んで炭水化物を分解し、炭酸ガスと水を作る。こうしてできた炭酸ガスは、肺を通じて再び大気に戻され、植物がまた利用することになる。からだが取り込んだ酸素を炭酸ガスとして再び大気に戻す、こういった流れを呼吸作用というが、実は、肺による呼吸ともう一つ細胞による呼吸がある。そしてこの細胞呼吸こそが生物体の命にかかわる大切な化学反応に携わっているのである。
    肺呼吸において食物という可燃物を燃やす場合に通気を良くするには、酸素消費を増やすことと、可燃物である食物を少なくすることの二つの方法がある。食物の摂取を増やすと多くの酸素が要求され、酸素消費も増えるということは、呼吸活動もそれにつれて激しくなってくる。これは基礎代謝量が異常に増加することを意味し、エネルギー消費の悪循環の原因が作られてしまうことになる。逆に言うと、代謝による燃焼の炎を小さくすることで通気の必要量を少なくすることができる。ということは無駄な酸素消費と炭酸ガス生成がともに減少するので、呼吸活動は少なくてすみ、からだの健康状態は全面的に驚くほど改善されることになる。
    このような肺呼吸は酸素20%、窒素70%、その他の各種気体成分10%からなる空気を呼吸しているのである。しかし細胞呼吸ではそういった気体の他に光や音、色、紫外線、赤外線、α線β線γ線、といったさまざまなものを呼吸しているのだ。我々をとりまく外気には実におびただしい種類の電磁波が充満し、それぞれ異なった波長で人間にも作用を及ぼしている。
    この電磁波は大気を貫通して地上に現れるのであるが、大気そのものに所属しているわけではない。いわば宇宙エネルギーがいろいろな形をとって表現されたものである。だが、このような大気を呼吸しても、その中に隠されている驚異の創造物を直感によって感知することができないのが普通である。それでも人間は限りない種類の香りや光、色、音、調和のとれた各種放射線などの真っただ中で生活している。通常の感覚器官ではそのうちほんの一部分を感知しているに過ぎないのである。何故なら肺呼吸のみに捉われているため、酸素の追求という悪循環に陥ってしまっているからだ。
    こうした悪循環に逆行して、燃やし方をより少なくする方向へと転換をはからなくてはならないが、それには操体操法における快感覚を味わうということによって、細胞呼吸の電磁波を感知することができる。快の極みにおいては、自然呼吸の中で吸う息とともに宇宙エネルギーが肺の中に入ってくるのをからだが感知する。すると、体内の燃焼を極力低下させ、精神・肉体の休息状態を形作ることに大いに貢献するのである。

  • 私にとって操体とは検証である(五日目)

    五日目は「食」の検証である。
    自然界には、生物学的な一大サイクルが働いていて、その中でいくつかの化学元素が単純な物質から複雑な物質へと次つぎに変化していき、再び単純な物質の形にもどる。その際、エネルギーの形態変化が必ず伴っているのであるが、この一大サイクルは二つの過程、すなわち植物が受け持つ過程と動物が受け持つ過程からなっている。
    植物の過程では、葉緑素に富んだ緑色植物が二種またはそれ以上の無機物から有機物を化学合成し、同時にその有機物の中にエネルギーを貯える。それに対して動物は、植物界から摂取したこの複雑な有機物を元の単純な物質へと分解し、同時に貯えられていたエネルギーを解放して自然界へと戻す。すなわち、緑色植物は太陽の輻射エネルギーを潜在エネルギーに変換し、同時に合成した複雑な有機物の中へ化学エネルギーとしてそれを貯えこむことになる。
    一方、動物は、この潜在エネルギーを再び熱とか運動とか電気といった、現実的な形態のエネルギーに変換する。このように見ると、人間のからだは一種のエネルギー変換器であり、自動車のエンジンと同じ内燃機関のように働く機械的な法則に従う側面もある。こういった内燃機関であるならば、可燃物と酸素を必要とする。これを人間のからだにあてはめると、呼吸によって取り入れられる酸素とともに可燃物は植物・動物界から得た種々雑多な食物が調理され、口から入って噛み、呑みこまれて供給される。こうして食物は胃腸に達し、複雑な化学的変化を受けるが、西洋医学ではこれを代謝と呼んでいる。
    食物の中に含まれていた潜在エネルギーが、熱エネルギーや機械的エネルギーや電気的エネルギーといった活動的なエネルギーに変換する過程がいわゆるエネルギー代謝であり、食物中の栄養物質が細胞を構成する物質、つまりからだのいろいろな細胞や組織にとって必要な有機物質にくみ上げられていく過程がいわゆる物質代謝である。
    この食物について橋本敬三医師は、歯型から見ると肉食用の犬歯が七分の一しかないのは、我々人間にとって植物食こそが適当なものであると言っておられる。これについて検証を加えると、すべての食物には炭水化物、脂質、蛋白質等、種々の化学物質が含まれているが、これらの物質のどんな種類がどれだけ含まれているかといったことは、食物によってそれぞれ違ってくる。
    だが、体内において炭水化物、脂質、蛋白質はいずれも可燃物質であり、酸化分解の過程で量的な違いはあってもエネルギーを放出する。人間の生理学では、この放出されるエネルギーは、これらの可燃物を酸化するのに消費した酸素の量から計算することができる。生成した炭酸ガスと消費した酸素の比は「RQ」と呼ばれているが、このRQ値は我々が食べる食物の中の化学物質が保持している潜在エネルギーの量を正確に反映してくれる。たとえば、炭水化物は一、脂質は〇・七、蛋白質は〇・八がRQ値であるが、その意味は肉類のように蛋白質や脂質に富んだ食物は、完全には燃焼せず、一部分は煙のような燃えカスになって残ってしまうことを証明している。
    このエネルギーにならない無駄な部分はからだから取り除かなければならないわけであるが、蛋白質や脂質が燃焼した後、これらの燃えカスは血液中に残り、次いでもっぱら腎臓の働きで尿の成分となってからだから排出されるのである。しかし、人間一生のスパンを通して見ると、腎臓に相当の負担をかけることになり、いわゆる代謝異常に陥る。この代謝異常と呼ばれる病気の多くは、腎臓が疲労するか、腎臓自身の病気のため、もはや除去しきれなくなった物質が血液中に次第に蓄積して起こるのである。動脈硬化など、血液循環系の病気において動脈に現れる障害は、間違いなく肉や動物性脂肪に富んだ食事に深い関係がある。つまり病気に導く食物であるということだ。
    だからといって誤解しないでほしいのは、何もベジタブル食以外の肉や魚がダメだ! というのではなく、摂り方に問題があるということだ。食物全体の一割ぐらいなら、かえって食するほうがいいくらいである。

  • 私にとって操体とは検証である(四日目)

    人間のからだの中には生理的、心理的な力となって流れるエネルギーがある。四日目は、このからだの中を流れる生体エネルギーについて検証してみる。
    まずエネルギーとは一体何なのか? 物理の本を開いてみると、仕事をなそうとする系の状態で、その仕事が実際になされているときは力学的エネルギーであり、状態がまだ運動に変じていないうちは潜在エネルギーとなる、といった定義が見つかる。この定義に従えば、エネルギーは運動と同じものである。宇宙の現象はすべてエネルギーの産物であるから、万物はことごとく運動し振動していることになる。
    我々はこの法則を、現代物理学の波動力学やマックス・プランクのエネルギー量子説によって教えられている。この波動としてのエネルギーは宇宙全体にみなぎり、物質の中の原子、陽子、光子の運動として見出される。この物質が何であるのかと言えば、アインシュタインなら「宇宙空間の中で圧縮されたエネルギーの特殊状態にすぎない」と答えるだろう。すなわちエネルギーは質量と光速の二倍をかけたものに等しいということになる(E=mc2)。
    生物は物質の特殊な一現象であって、生物特有の性質が与えられているが、物質とエネルギーと運動は同じものだという宇宙の大法則から決して逃れられない。事実、生物体の中のすべてのものは振動している。地球上に生息する全生物の細胞の一つひとつは、それぞれ一個の小宇宙をなしていると言っていい、そこでは超ミニサイズながら大宇宙の諸現象がすべて再現されている。
    操体操法における感覚の初歩的段階でも、自分のからだの中に全宇宙を支配している振動と同じものを直接感じとれるようになる。すなわち、被験者がからだの末端からの動きを通して全身に連動させることができたなら、からだ全体にそって振動の波が走るのを感じることができる。それはまるで、からだに低電圧で電気を流されたような感覚である。筋肉の一つひとつが、からだのあらゆる部分に微妙な振動を受けることになって、それは最大の快さをさそう快感の一つである。
    創造の世界にあるすべてのものがエネルギーの表現形であり、さまざまな振動率を持っている。我々自身、からだも心も宇宙エネルギーが特定の形になって表れて来たものにほかならない。この宇宙エネルギーは未分化の原子エネルギー形態によってその姿を現す。たとえば物質の物理現象、いわゆる状態変化として、一定の形と、体積のある状態、すなわち濃密な状態にまで凍結した「固体」、固体と同じように体積はあるが、一定の形のない遷移状態の「液体」、そして体積も一定の形もない原子状態の純粋エネルギーに戻る寸前の状態である「気体」という三種類の異なった形をとっている。が、これらは同じ数の同一分子の集合体がただ形を変えているにすぎないのである。
    そんな物質の状態変化の中で、固体が気体に変わることと、逆に気体が固体に変容する物理現象も共に「昇華」という。また精神が高揚することも同じように「昇華」と言っている。これは固体としての肉体が微妙な振動によって振動率の高い蒸気エネルギーのような物質状態にいたることで、これが操体で言う、いわゆる「快適感覚」なのである。