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  • うちのマンションを入って正面にちょっとしたテラスがあって、一息つけるようになっています。
    そこでよく顔を合わせる方とお話をする機会があった。
    その方は年配の方で、母の介護の為に毎日通っているとの事でした。
    今度足趾の操法を受けていただく事になったのでご縁を大事にしたいとおもいます。
    介護をされてる方は、からだの疲れ方が大きいですよね。

    高校の頃、祖母が痴呆症になり、うちで介護をしていましたが、仕事や学校の合間に交代でみていても、家族の負担は大きいものでした。
    この仕事を始めて、一番受けてもらいたかったのが祖母でした。

    動きの操法はできなくても、足趾の操法であれば気持ちのよさを味わうことができるので、寝たきりの方にも受けていただけます。
    楽と快の違いがなかなかわからないという方ははまず実際に受けてみることをおすすめします。
    からだに問題を抱えている方ばかりでなく、むしろ施術する側の方にも。
    自分自身が違いをわかっていないと、「きもちのいいほうに動かして…」となってしまうんじゃないでしょうか。

    京都でのフォーラムで体験の時間を設けましたが、どう受け取っていただいたでしょうか。

    今週の日曜は東京で操体フォーラムが開催されます。

    辻知喜

    2011年秋季東京操体フォーラムは11月6日(日)、東京千駄ヶ谷津田ホールにて開催予定です。

  • 先日、某掲示板で、クラシックを初心者にすすめるスレを読んでいました。
    普段、iPodなどでよく音楽を聴いていますが、新しい曲目を増やしたいときにネットで探したりしています。

    もともとジャンルにはこだわりなく聴く方なので、クラシックも結構好きな曲が多いです。
    普段あまり聴かない人たちが興味を持つ曲って何だろうと考えて見ました。
    学校の音楽の時間は退屈であまり楽しかった記憶はないのですが、今聴いいているような曲が授業に出てきていれば、楽しめたのでしょうかね。

    個人的なおすすめは、

    ラフマニノフ ピアノ協奏曲 2番。
    途中いいところで切れているのがやや残念ですが、切れる手前の部分がかっこいいです。

    ブラームス 交響曲 3番。

    操体でおすすめの本を聞かれたたときに最初に紹介しているのは、「からだの設計にミスはない」です。
    (本当なら「生体の歪を正す 〜橋本敬三論想集〜」を読んで貰いたいところですが)
    厚さも値段も手頃で、橋本先生名義の本の中で唯一、般若身経(身体運動の法則)の゛膝をゆるめる゛という 記載があります。
    この点は随時更新されてきた般若身経の流れの中でも、重要な部分です。
    橋本先生もそれ以前の内容に関して「間違いがある」とおっしゃっています。
    なお、本文中に「気持ちのいいように(中略)誘導し」という表現が出て来ます。快適感覚による操法の始まりをを予感させます。

    辻知喜

  • Don’t think , feel!

    先月からHuluという月額制の動画サイトに登録しまして、いろいろ映画を観ています。
    リストの中に、燃えよドラゴンがあったので、久しぶりに観てみました。

    その中の「Don’t think , feel!」は、操体にも通じます。
    頭で考えすぎてしまうと、からだが求めているものに、気付きにくくなってしまうこともあるようです。
    橋本先生は患者さんには、操体は簡単だとおっしゃっていたそうですが、この感じる、からだにききわける、ということができてこそだとおもいます。

    からだのことはからだが一番よく知っているのですからね。

    辻知喜

  • 感覚をききわけるということ

    操体が快適感覚をその指針に定めてから、随分な年月が過ぎました。
    当時は関係者の間でも物議を醸した、楽と快の違いという問題も、今では、操体はきもちのよさで治るという考え方が浸透しているかに見えます。

    しかし、現場で直面する問題として、「感覚をきき分ける」という表現に戸惑いを見せる人が多いことがあります。
    日常生活の中で、感覚を大事にする機会が少なくなっていること、他力による施術が一般的であり、受け身の姿勢である人が多いこと。
    操体は、患者が医療者の立場に立つという特徴がありますが、やはり特殊なものであるようです。

    感覚をききわけるということ自体は特別なことではありません。

    初めて操体法を受ける方と、受けなれている方では、反応の早さ、ききわけのよさに違いがあります。
    最初からスムースに動いて、きもちのよさをききわけてもらえるのなら、こんな楽なことはありません。
    その事に対処できるかどうかがプロとアマの差であるのかなと思います。
    施術者が心掛けるのは、いかにしてきもちのよさをききわけていただけるかということです。

    新規の方の場合に、スペースの余裕がある場合に必ずやっていただくのが極性をききわけるということです。
    例えば、おおまかに東西南北の四方向でどちらを向いて横になった場合がいいのか、からだにききわけてもらいます。
    最初この話をすると、きょとんとして、不思議そうな顔をされますが、実際に試してもらうと、見事にききわけられます。
    ここにヒントがある気がします。
    頭で考えて理解できていなくても、からだはちゃんとわかっているんですね。

    感覚は磨くもので研ぎ澄ますもの。
    学習することで、からだの状態、変化に気付きやすくなります。

    操者が快適感覚ということをどれだけ理解しているか、自分自身がわかっていない事を他人に理解してもらうのは無理があります。
    操者がいかにして快適感覚をききわけることができるか、これもまた現場につながる課題であるのです。

    辻知喜

    2011年秋季東京操体フォーラムは11月6日(日)、東京千駄ヶ谷津田ホールにて開催予定です。

  • 来週は東京操体フォーラムです。

    こんばんは。今日から一週間よろしくお願いします。
    今日は年に数度の塾操体の前に、第一分析の撮影のお手伝いに行って来ました。
    操体の変遷の様子を書かれるみたいです。手技療法の記事に使用されるそうですので、ご覧下さい。

    現在の操法は、楽かつらいかを基準にしていた頃から進化して(第一分析)、専門家の行う第二分析、第三分析が主流になっています。
    ですが、まだまだ、プロとしてやっている人の中でも、快ではなく、楽で止まっている方が多いようです。
    橋本先生が、「気持ちのよさをききわければいいんだ、気持ちのよさで治るんだからな」とおっしゃって、操体は快だとの指針を示されてから、30年近くが経ちました。
    確かに、楽で行う操法も、操体の歴史を知る上で大切なものであり、上手な人が行えば効果もあります。
    でも、それ以降を知っていて行うのと、それしか知らないのでは、大きな違いがあります。
    それはもったいないことだと思います。
    操体の本の中には、楽から快に移行していく様子が書かれたものもありますので、興味がある方は探してみてください。

    来週の日曜は毎年恒例の東京操体フォーラムです。
    操体の実際の最前線を見られるチャンスですので、この機会に足を運んでみてはいかがでしょう。

    辻知喜

    2011年秋季東京操体フォーラムは11月6日(日)、東京千駄ヶ谷津田ホールにて開催予定です。

  • 自然の法則にみる「快」と「楽」(最終日)

    「環境」の快と楽について
    我々の暮らしの中で一番くつろぐことができるのは、「住居」であるということに対して、誰しも依存のないところだ。そこで特に「住環境」というものについて考えてみたい。
    人間の健康状態の概念というのは一言でいうと、「頭寒足熱」の状態に尽きるといってもいい。我々は常時、空気のお風呂に入っているといってもいいのではないだろうか。冷暖房を効かした住環境について考察すれば、上の方が暖かくて下の方は冷たいという、健康概念とは逆の「頭熱足寒」の状態に陥っているのがわかる。このような環境が健康に良くないのは言うまでもない。健康的な部屋の空気の流れというのは、水平方向の通風と、下から上へ還流する換気が必要なのである。
    これについては、操体法の創始者、橋本敬三医師のご子息である建築家の橋本承平技士が勧められているのは、「掃き出し窓」や「欄間」をあけるということだ。どういうことかというと、掃き出し窓や欄間をあけると、下の方へ入ってきた冷たい空気が部屋の中で温まって上から出て行く。空気の流れは、下から上へグルグルとまわる換気になるので、「頭熱足寒」の状態も解消されることになる。もし、機会があれば部屋のリフォームのときなどに施工されたら良い。このような住宅構造であれば、夏に冷房をしないで、掃き出し窓を全部開けていたとしても、プライバシーは十分に守れるのである。
    また、我が国においては、湿気の害に注意すべきことがある。田んぼや湿地の埋め立て地において、数年間の養生期間も設けずに、埋め立て後、すぐに住宅を建築するケースが多く見られる。このような家屋は地中の湿気がどんどん上がってくることになり、その湿気が蒸発するときに蒸発熱を奪うので、当然、足もとの方から冷えてくる。これでは、やはり「頭熱足寒」の状態になってしまう。理想的なことを言うと、日本の風土では木造土壁の家屋が一番合っている。木造土壁の建物は、木も土も湿気が多いときには、その湿気を吸い取り、乾いたときには逆に湿気を吐き出してくれるので、最も理想的な家屋である。こういった和風建築では、畳にしても断熱効果があり、床下の冷気を防ぐ役目もしているので、足もとの冷たさは、洋式のフローリングやPタイルと比較すると雲泥の差がある。ただし、最近出まわっているスタイロフォームのようなプラスチック製で形だけのイミテーション畳などは論外である。
    一方、文化生活を快適に送るための住居設備がいろいろと作り出されてきた現代でもある。人間の生活における理想の住環境として、温度、湿度を完璧にコントロールすることも可能になった。しかし、これらが本当の意味で快といえるのだろうか。いや違う、これらは楽に過ごすことの出来る快適設備にすぎない。これでは自然を感じることが出来ない。自然の風を、自然の光を、そして自然の匂いを嗅ぐことができて、はじめて快を感じることが出来るものである。快というのは自然環境の一部であるということを知っておく必要がある。快適な設備の楽だけでは、快感覚を味わうことが出来ないのだ。
    最後に、我々の住居の何が健康に害を及ぼしているのかを十分に理解して、「頭寒足熱」の状態を保てる方法を創意工夫することが必要だ。特に鉄筋コンクリート造の場合、風通しが悪く、常にジメジメしやすいので換気には十分に心がけるべきである。

    一週間にわたって、「息」「食」「動」「皮膚」「想」「環境」と、自然の法則を思いつくままに書いてみたのであるが、すべてを実行しようと思っても、社会生活をしている中では、なかなか思うようには行かないものだ。何も神経質になることはなく、思い出したときに出来そうなものを実行すればいいと思う。からだの使い方・動かし方にも留意して、心はいつも明るく、積極的、肯定的なことに目を向けて生きていきたいものである。

    2011年秋季東京操体フォーラムは11月6日(日)、東京千駄ヶ谷津田ホールにて開催予定です。

  • 自然の法則にみる「快」と「楽」(6日目)

    『想』の快と楽について
    想念というのは心がけのことであり、病気というのはその心の歪みのことである。病気の原因は心が歪んでいるからで、その心の上にからだが乗っており、心が歪めばからだが歪み、からだが歪むと心が歪んでくることになる。これもまた「同時相関相補」の関係にあり、連動している。
    漢の時代の中国の古典、『黄帝内経』、『素問』、『霊枢』などには生活の仕方を間違うと病気になると書かれており、この古典の締めくくりには「身を修め、心を治める、これ薬源なり」という言葉が記されている。この意味は、悪いことをしないように身を修め、心を丸く穏やかに保ち、自分本位の思いを捨て、心がけを良くすることが、心を治めることであり、こういったことが治療法、健康法の薬だといっている。
    心がけが悪くなるといっても、その心の歪み方には、中国の古典に従うと、「傲慢」「冷酷」「利己」「強欲」という四つの型に分けられる。「傲慢」な人は頑固で人の意見を聞かないという特徴があり、肝臓や胆嚢が悪くなりやすくて、感謝する心というものを持ち合わせていない。「冷酷」な心の人は、他人に対して思いやる気持ちがまったくなく、心が冷たい性格でやはり感謝する心がない。このタイプは心臓や血管系統を悪くし、小腸やエネルギー代謝も悪くなるので糖尿病にもなりやすく、その上、消化器を悪くすることにも結びついてくる。「利己」の人は、苦労するのが嫌で動きたがらない怠け者だ。また我慢することを知らず、動かないで、飲み食いばかりしているから消化器が悪くなって肥満してくることになる。「強欲」な性格の人は、欲が深くて、出すのを渋り、何でも取り込み、出すのを嫌がるという潜在意識があるので便秘になって困っている。
    であれば、からだの歪みを治せば病気も治るという理屈になるが、心が歪んだままになっていると、またからだも歪んできて病気に逆戻りするのだ。先述したように血液が循環するから健康でいられるのと同じように、心にも「気」がからだの中を循環しているからこそ、精神的に健康で過ごすことができるのである。たとえば、血液の循環が内臓細胞の中で滞ることになれば、肉体的には、当然に内臓の具合が悪くなって「五臓六腑」と、精神的には、「喜怒哀楽欲」という五つの感情が乱れてくる。この表れ方は怒ると肝臓が悪くなり、腎臓が悪いと臆病者になってしまう。またクヨクヨすると消化器を悪くし、消化器が悪くなると、クヨクヨして優柔不断になるのである。心の性格を見れば病気のおおよそがつかめるということだ。
    このように心のあり方次第で、からだも連動するのであるから、健全な心がけを持たなければならない。心が楽を求めるというのは、それだけ自分本位が強いということだ。自我を弱めて、他人のために役立つ心が育ってくると、他人の喜びが自分の喜びとして感じるようにもなってくる、これが快の心だ。それには常に肯定的、積極的に物事を捉えることであり、たとえ病気をしても、その病の中で、人の心の優しさや親切の有難さに気づくことができるものである。そこから感謝の心が生まれてくることにもなるのだ。また橋本敬三医師の言葉にもあるように、自分だけの力で生きているのではなくて、「生かされている」というのは、毎日の食卓でも自覚できるはずである。自分を生かしてくれるために、野菜や魚などの食べ物が、食卓にやってきてくれたのだ。感謝の心があっても決しておかしくはない。だから合掌して「いただきます」と言って感謝の心を態度で表す作法が生きている。まるで感謝を絵に描いたような姿である。こういった我が国における礼儀作法をずっと守って生きたいと思う。
    明日は「環境」の快と楽について

    2011年秋季東京操体フォーラムは11月6日(日)、東京千駄ヶ谷津田ホールにて開催予定です。

  • 自然の法則にみる「快」と「楽」(5日目)

    『皮膚』の快と楽について
    妙療法といわれる操体法の中には「渦状波」という妙法がある。それは皮膚に問いかけるというものであるが、なぜ皮膚なのか。それには理解されなければならないことがある。それはブログの初日にも触れたが、血液の循環を良くするためには、ボディの歪みを調整することが大切であるように、皮膚による血液循環も、まったく同等に大事な要素である。心臓から出た動脈は、進んでゆくにつれ、枝分かれて小動脈になり、やがて毛細血管に達する。この毛細血管には多数の小孔があり、動脈血はそこを通って、無数の細胞を養っている。
    その毛細血管の手前に、「グローミュー」という名の副毛細血管がある。この副毛細血管というのは、普通は毛細血管に血液を送るため閉じているのであるが、血管に異常な高圧がかかった場合に開くようになっている。いわば血管の危険高圧を防ぐ「安全弁」の役目をしている。日常動作や感情が高まった時に、血圧が上昇するが、これは生理学的に必要な血圧変化である。こういった血圧変動を安全に遂行するために副毛細血管があるのだ。これがうまくいかなくなると高血圧によって小動脈が破裂して内出血を起こすのが脳溢血である。そしてもう一つの大切な役目が毛細血管を通過した無酸素状態になった静脈血へ安全弁が開き、酸素の入った動脈血を適当に流す働きをしてくれる。すると、無酸素状態の中で発生する猛毒一酸化炭素をまったく無害な水と炭酸ガスに変えてしまうのである。
    こんな副毛細血管を健全に機能させるためには皮膚のケアーが重要だ。ケアーといっても何もエステに通えというのではない。皮膚は肺のような呼吸作用や腎臓のような排泄作用にも余念がないのである。そんな皮膚を清潔にするためには、いつも風呂に入り、からだを洗浄することで付着した汚れや毒物も洗い落とすことができる。また清潔な衣服を身に着けて、紫外線にも当てないと、ビタミンDの摂取をはじめとする体温調節や汗腺からの毒素排泄もうまくいかない。こうした正しい生活習慣を実行することで副毛細血管を健在に導くのである。
    その副毛細血管の数は、全身に51億本あり、その60%の31億本が、皮膚の層にあるといわれている。あんま、マッサージ、指圧などもこの皮膚に対する刺激を通して、内蔵の血液循環を促しているのである。そういった皮膚への刺激療法は「楽で気持いい」という言葉をよく耳にする、ようするに楽なのである。同じように皮膚に働きかけていても、渦状波はそこが違うのだ。皮膚に対して刺激を与えるのではなく、「接触」のアプローチで働きかけている。一体、何が異なるのか、この違いが快と楽の違いでもある。
    ここに被験者が、あんま・マッサージ・指圧など皮膚に対しての刺激療法を受けていると仮定する。この場合において、施術者の手が被験者の皮膚に触れているわけであるが、その施術者の指が刺激となって、この状態が施術の終了まで続くことになる。これが治療であり、「楽」の意味でもある。しかし、渦状波の接触では、操者の指が被験者の皮膚に触れられているという逆の感覚を覚えるようにもなってくる。言い方を変えると、被験者の皮膚が操者の指に触れているということだ、それが快につながるという可能性を大きくする。渦状波は治療法ではなく、感受性のレベルを格段に上げることで快につなげる。それが結果的には、からだ自身が治しをつけてくる。楽と快はここではっきりと違いが明確になる。
    たとえば、臨床においてクライエントの昔の病歴、古傷が治りを邪魔していることがある。表面上は一見すると、治っているかのように見えるが、そのときにその部分をかばうような不自然な動きの残像が見受けられる。それがボディの歪みになっていることが多い。これはその部分の見かけの皮膚が元に戻っても、自然な動きという機能が戻らないので不自然な動きからボディに歪みを作ってしまうのである。表面上は治っても、その皮膚の下にある筋肉は過度に緊張していて自然な動きが行えないというのが原因であると考えられる。渦状波における皮膚への接触は、まさにこの皮膚の下にある筋肉が反応し、その部分とは離れたからだの別の部位の皮膚に感覚がついてきたり、他の部分の筋肉が動き出したりすることが起こったりする。そういった感覚をクライエント自身がききわけることによって快・不快の予備感覚から結果的に快感覚につながってゆくのである。このように皮膚への刺激を与えないというやり方こそが、自然の法則に沿った快療法といえるものだ。
    明日は「想」の快と楽について

    2011年秋季東京操体フォーラムは11月6日(日)、東京千駄ヶ谷津田ホールにて開催予定です。

  • 自然の法則にみる「快」と「楽」(4日目)

    『動』の快と楽について
    操体では「正しいからだの動き」とか「間違ったからだの動き」といった言葉を使わないで、「自然な動き」とか「不自然な動き」といった言葉の表現をしている。自然な動きを突き詰めていくと、からだの中心である腰から全身を協調させて支えており、末端から全身へ連動させた動きのことである。いわば自然に即した無理のない動きになっている。この自然な動きというのは本来、無意識になされる日常の起居動作に見られる。立つ、座る、歩く、道具を使う、寝るといった無理のない楽な姿勢や動きのことだ。楽な動きは苦痛のない動きではあるが、それ以上でも、それ以下でもない。ただ楽なのである。だが、「癖」という生活習慣から緊張や苦痛を伴う無理な姿勢や運動が発生してくると、それがからだにとって不自然な動きや姿勢をつくりだすことになってくる。こうなってしまうと、からだの良能作用がどのように機能するのか、ひとつはからだの歪みという形をとり、ひとつには快・不快の原始感覚をもって発信している。この内、不快は、からだが否定を訴える意思表示であり、快こそが元に戻る招待状なのである。
    これを味方につけているのが操体だ。その操体には「般若身経」という動きのエクササイズがある。これはまず立位の姿勢から入るのであるが、この二本足で立つというのは難易度の高い姿勢である。直立二足で立つということは、人類の祖先が古代の水中生物から進化の道をたどり、四足の陸上生物を経て最後にたどり着いた進化の最終段階だと言われている。地球重力に抗して立ち上がり、二本足でバランスをとりながら立つというのはかなり高度な技であるのは確かなことだ。般若身経でいう自然な立ち姿は禅の方でいう「立禅」とほぼ同じものだ。禅では立つことによって気力、体力が養われ、心とからだが充実すると伝えられている。
    この立ち方に少し触れてみると、まず、自然に楽に立ってみる。両足は腰幅程度に平行に開き、膝を緩めて背筋は頭頂部が上から釣られているように伸ばす。こうすると、目線は自然に正面の一点に据わる。このようにして立てば、自然に背筋が伸びた姿勢になり、呼吸も滑らかとなって心も落ち着いてくる。この状態はからだの中心に垂直軸を生み出し、重心が下腹部の丹田から、さらに正中線の下部に沈んでいく。このとき垂直の体軸に心をおくようにする。これに対して不自然な立ち方の場合であるが、猫背に近い姿勢になると、胸はすぼんで、背中は丸まり、お腹が張り出して、腰は後ろに引いた状態になり、目線はやや下向きに落ち、重心も踵よりにかかる。また、逆に反り身に近い姿勢では、胸が開いて腰が反り、内臓も引き上がって、腹が引き締まった姿勢になると、重心はつま先の方へかかり、目線はやや上向きになる。日本舞踊では特にこの立ち姿が重視されていて、熟達した名人になると、立ち姿それ自体が「美」になっている。「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」といわれる「立てば芍薬」とはこのことである。般若身経では、まず、はじめに立つことから教えて、それから動かし方に入っていくのは真にマトを得たやり方だ。
    たとえば立ったままの姿勢からズボンをはくときに、まず片足に重心をかけてバランスをとり、もう一方の足を上げて持っているズボンの足を通す穴に足先を入れて膝を伸ばす。次にズボンに入れた足に重心を移し、片足でバランスをとり、もう一方の片足を同じようにズボンに入れて伸ばす動きになる。こんな動きにも難なくスムースに行なえる場合と、足を引っ掛けて尻もちをついてしまうこともあるだろう。こういった日常動作の中では自然な動きと不自然な動きが必ず存在している。一度、自分の動きを意識的に捉えてみてはいかがだろうか。
    明日は「皮膚」の快と楽について

    2011年秋季東京操体フォーラムは11月6日(日)、東京千駄ヶ谷津田ホールにて開催予定です。

  • 自然の法則にみる「快」と「楽」(3日目)

    『食』の快と楽について
    食べものはからだの組織をつくることと、活動のエネルギーを作る目的を持つ。蛋白質と脂質はからだの組織をつくり、糖質と脂質は活動エネルギーをつくる。また、ミネラル、ビタミン、酵素などは、蛋白質、脂質、糖質などを肉体にするための媒体の役目をしている。このように生命を維持し、活動するために食べ物は欠かせないものである。しかしながら、食べたからいいというものではない。食べ物が不足して病気をする人よりも、食べ過ぎて病気をする人のほうがはるかに多い。
    ある仏教経典には「人間は喰う処のものである」と戒められているがよく言ったものだ。この「食」についての楽というのは、食することの楽しみのことである。平べったく言えば、味覚を満足させる、いわば食欲という欲の楽しみである。旨い酒やおいしいものを食べているときは、楽しいが、飲みすぎや食べ過ぎになってしまうと、その後にやってくるのは二日酔いや食べ過ぎの苦しみが待っている。現代人の病気の多くは、酒の飲み過ぎや食べ過ぎが原因になっていて、飲み過ぎや食べ過ぎは血液が汚れ、免疫力が低下し、からだの冷えを招いて脳の働きも停滞させてしまうことになる。食の楽は特に節度が重要だ。
    自分の食事が適量であるかどうかを調べるひとつの方法がある。それは朝、目覚めたときに、床の中で手を握ってみることだ。もし腫れぼったく感じるようであったなら、まず食べ過ぎとみてよい。もし、からだが求めてくる食を摂取し、適量であるならば、起床の目覚めは快適で、手を握るも、指先までも力が入り、生命の息吹さえ感じるだろう。食の快というのは、朝の目覚めこそが証明してくれる。そして食べ過ぎると便が臭くなるが、良い便は臭くないものだ。からだに使い方・動かし方があるように「食べ方」というものがある。どのように食べるかというと、食べものを少しずつ口に入れてよく噛んで食べるのである。よく噛むというのは血糖値を上げ、脳の働きも良くなるだけでなく、顎の間接や顎の骨も鍛えられることになる。また細菌によって引き起こされる歯周病についても、抵抗力や免疫力が低いと感染が進行するが、よく噛むことで治りやすく、生命力も強くなる。
    よく健康本には何十回噛むとか数を数えるとか書いてあるが、そんな必要はまったくない。少しの食べものを口に入れてよく噛んでいれば自然に奥へ流れ込んで、口の中が空になる。次々と口の中にほおばるから飲み込み食いになってしまうので、そのような追っかけ食いは慎むべきである。このように少しずつ口に入れてよく噛んで食べていると少しの量でお腹が一杯になってくる。そこでやめれば食べ過ぎにならないのである。また食べものについては、野菜を主にして肉や魚などの動物食を少なくし、植物性の蛋白質を摂取するのが望ましい。そしてできれば玄米食が理想的であるが、七分づきの胚芽米や五分づきの米でも良い。白米を食べるなら麦やあわ、ひえなどを混ぜて炊けばよい。
    なぜこのようなベジタリアン的な食事形態が勧められるのかというと、我々の口や歯の形が密接に関係しており、人間の口と歯の形態は肉食に適した生物ではないというのが明らかである。肉食獣のように口の形状や歯の形とも尖ったものではない。肉食獣は口も歯も鋭く尖っており、他の動物を食するときに骨から肉を引きちぎるのに適した形状になっている。しかし、人間の口は平たくて奥歯は臼上の形になっている。食べものを前歯でちぎって、奥歯で噛んで、すり潰すように設計されているのだ。このことは穀物や野菜を中心にした草食系動物に近い食事形態が人間に適しているという証拠である。確かに人間にも犬歯があるが、肉食に適した歯ではない。あれは肉食獣の牙とはまったく用途が違うものだ。まさに「糸切り歯」というように糸を切る程度に尖っているだけのものであって、野菜などの繊維を切ることに越したものではない。人間はあくまでも菜食動物であり、肉を食べることを正当にする根拠などありはしない。
    だからといって、何も衣食を含みすべての動物を殺すことがないよう、動物製品を一切使わないヴィーガニズムや厳格なベジタリアンを推奨するものでもない。乳製品などは食べているラクト・ベジタリアンや卵なら食べるオボ・ベジタリアンのように自分の生活に合った食物を見出すべきである。
    明日は「動」の快と楽について

    2011年秋季東京操体フォーラムは11月6日(日)、東京千駄ヶ谷津田ホールにて開催予定です。