昨日書いたストレッチや筋トレも含め、現在のからだの治療手技は、からだの感覚に対して盲点になっているような気がします。
実際にからだを治療する際に、第三者の治療従事者がからだに触れるわけですから、自分のからだでもないのに相手の感覚がリアルにわかるはずがないという声が返ってきそうですが、ここに大きな問題が隠されているのではないでしょうか。
患者のからだの感覚を無視するかたちで、第三者の治療従事者が治療やアプローチをするために、患者のからだは目的とした筋肉や腱・関節など単一な効果として速効的に反応が現れることだと思います。しかしこの速効的効果は脊髄を介した反射でしかなく、元に戻るのは早いという特徴を持っているように感じます。脊髄を介した反応だからこそ、筋肉の性質から皆同じ条件で「○秒○回」というように第三者が決定できるのだと思います。単純に痛みの原因が単一の問題であれば、これらの方法で解決すると思いますが、現在の痛みを主訴とする症状は複雑化している場合が多く、痛みを訴える部位と、痛みの原因を作っている部位が異なっている場合があります。
例えば、痛みという不快体験を脳内で記憶している場合や、情動を司る大脳辺縁系の一部でもある扁桃帯が関係し、脳内で痛みという知覚を作り出す(ニューロマトリックス理論)こともあり、このような場合に痛みを訴える部位に対して治療・アプローチをしても、治癒の遅延に繋がる可能性が考えられます。
からだには感覚という情報を感じ取るセンサーが無数にあります。この感覚をうまく利用することで、大脳からの反応がからだの治癒能力としてあらわれます。この感覚というのが「快適感覚」なのです。
からだの感覚をききわけるということは、第三者の治療従事者が決めるということはできません。まさしくからだの感覚は本人しか感じ取ることができないからです。からだの感覚をききわけ、快適感覚の有無、あじわいたい要求の有無、脱力方法、回数の要求すべてが患者本人のからだも要求のききわけとなります。ききわけた質の高い快適感覚には、第三者の治療従事者が治療に全く介入できないほどの治癒能力がからだに生まれていることがあり、この時の効果は遅効的反応で持続される傾向にあると考えられます。
明日はこの快適感覚によって大脳の反応について書きたいと思います。
今日はこのあたりで・・・ありがとうございました。
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盲点その3
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盲点その2
5日目はストレッチや筋トレについて書いてみたいと思います。よろしくお願いします。
リハビリなどでよく使われる手技のひとつに、ストレッチや筋トレがあると思います。もちろんストレッチや筋トレの方法や種類はいろいろあります。
ストレッチの種類では、バリスティックストレッチ (反動をつけて行う動的ストレッチ)、スタティックストレッチ (呼吸に合わせて行う静的ストレッチ、これが一般的に使われているストレッチがこれになります)、ダイナミックストレッチ(動的なストレッチで、サッカーなどで行われるブラジル体操などがこれになります)、徒手抵抗ストレッチ(PNFストレッチともいい、筋肉の持続的収縮を利用して筋肉を弛緩させるストレッチです)、クライオストレッチ(冷却とストレッチのコンビネーションを主にリハビリで使います)があります。また、筋トレでは筋肉に収縮方法によって異なりますが、アイソメトリック・コントラクション(等尺性筋収縮で、関節運動が伴わず、筋肉の長さも変化しない状態で力を発揮させる)、コンセントリック・コントラクション(短縮性筋収縮で、筋肉が縮みながら力を発揮させる状態)、エキセントリック・コントラクション(伸張性筋収縮で、短縮性収縮と反対に筋肉が伸びながら力を発揮する状態)の方法があります。
このようにストレッチも筋トレも方法や種類は沢山ありますが、すべて目的とした筋肉に対しておこなわれるという点と、自分のからだの感覚に対してききわけるということはありません。ここが盲点のような気がします。
今日は、ストレッチや筋トレが目的とした筋肉に対しておこなわれるという点の盲点について書きたいと思います。
「○○筋に対してストレッチや筋トレをおこなう」とよく言いますが、この時に目的とした筋肉に最大限の効果を求めるために、動きの代償運動を防ぎます。僕はここに疑問を感じますが、皆さんはどうでしょうか?
人間のからだには、身体運動の法則の中に連動の法則があるように、連動のないからだの動きは存在しないのです。それを連動の動きを代償運動として、筋の単独の評価としては必要なことかもしれませんが、連動の動きを固定して単独の動きや単独の筋肉に対してトレーニングをすることが、かえってケガが多くなるからだ作りになってしまったり、理に適ったフォームから逸脱する可能性があるように感じます。
ストレッチや筋トレは、スポーツレベル向上のために必要だと思いますが、もっとからだの連動の動きを活かす方法が必要だと思います。最近の痛みを主訴として来院されるスポーツ選手の多くは、レベル向上という目的で肉体改造という言葉に踊らされ過ぎて、筋トレを頑張っている方が多いように感じます。実際に筋トレを頑張っているからだの動きを診ると、連動が不自然だったり、各関節単独に動いていて関節に負担がかかっているケースを身受けます。このようなスポーツ選手に、からだの使い方・動かし方を指導すると、レベル向上や障害予防に繋がるケースをみていると、益々「○○筋に対してストレッチや筋トレをおこなう」ことに疑問を感じます。
自然な連動の動きを促す方法でおこなうことで、もっと日常生活やスポーツのフォームに活かされたトレーニングになると思います。からだには身体運動の法則にある使い方・動かし方があるのですから。
今日はこのあたりで・・・。ありがとうございました。 -
盲点その1
4日目の今日からは、僕自身が操体を学ぶ以前、理学療法士として病院勤務していた時に「あれ・・・本当にこのままでいいのかな?」と思うようになった事柄を書いてみたいと思います。よろしくお願いします。
少子高齢社会によってこの保険が財政を圧迫しているという問題が起きていますが、現在の医療は保険診療を中心に行われています。この保険診療のおかげで、患者として医療機関を受診すると、年齢によって異なりますが1〜3割の自己負担で受診ができます。医療機関は患者が受けた診療について、患者負担以外を医療機関が保険者(市町村や健康保険組合等)に医療費を請求(レセプト)します。この時不当の診療と審査する所で判断されると、レセプトが返却されてきます。診療の原則として、診断名がなくては請求されず、診断名によってどのような治療をしたのかという流れが必要となります。したがって、現代の医療では診断名の付いた部位に対して治療するという考えを基に、医療が発展してきたのだと思います。これはとても素晴らしいことで、更なる発展も期待したいと思います。
僕が理学療法士として病院勤務をしていたとき、「これでいいのかな?」と思ったことは、痛みを主訴として来院された炎症期にある患部を理学療法としてアプローチをする際に、患部を刺激することで受容器を興奮させ、炎症や痛みを増悪させる可能性や、患部をかばうことで全身への影響など考えると、患部だけを診ていてよいのだろうかと思ったのです。
橋本先生の「からだの設計にミスはない」の著書のP34にも同じようなことが書かれています。「現代医学では、腹の中のどこそこが痛くなったら、そこの所を治すことに力を尽くす。その箇所を非常に詳しく研究し分析する。〜途中省略〜この立って動くからだと、からだの中にある物とが別な物だと思っているんです、現代の医学は。そして皆さんもしらずしらずのうちにそんな考え方になってしまっているんじゃないでしょうか」とあります。
現代の医療の中で、診断名を必ず付けて、診断名に対して治療・アプローチをするという流れが保険でも定型付けられています。これは診る視野が狭くなってしまうという盲点が生まれ、そればかりか全身の連動の動きなどを阻害する可能性も考えられるような気がします。
人間のからだは二本足で立って動くことによって、からだが理に適った状態に合わせながら、動きに対してからだを変化させるようにできていることを考慮しながら、また環境を含む息・食・動・想の営みがどんな影響を受けているのかも考慮する必要があると思います。操体にはこれらすべての学びが含まれているからこそ面白くもあり、奥が深い学びなのだと思います。
今日はこのあたりで・・・ありがとうございました。
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からだの設計にミスはない
三日目です。よろしくお願いします。
からだの設計にはミスはないのです!昨日も書きましたが、からだの使い方・動かし方である身体運動の法則があり、ます。この身体運動の法則を逸脱したからだの使い方・動かし方をしているからこそ、故障していくのだと思います。
からだを横に倒す体幹側屈の動きひとつとっても、皆さんは左側屈の際に右足と左足のどちらに重心がのりますか?腰痛を長期にかかえている方の多くは、体幹左側屈をすると左足に重心がかかっている場合を見かけます。「腰の痛みをとってくれ」と来院されますが、日常のからだの使い方・動かし方が不自然な状態では、なかなか改善がみられなく、腰痛が慢性化として扱われるのも納得できます。
実際に側屈した状態でレントゲン撮影してみると、明らかに違いがわかると思います。
左側屈の際に左足に重心がのる場合の不自然な動きです。


腰椎中心で側屈の動きが起きているのがわかると思います。
左側屈の際に重心が移動して、右足に重心がのる理に適った動きです。


重心の移動により、腰椎でなく胸椎の動きが中心となります。
レントゲンからもわかるように、からだの使い方・動かし方ひとつで腰椎のストレスが変わってしまうのです。不自然な使い方・動かし方では、腰椎椎間関節にストレスが加われば分離症になる可能性が示唆されます。また、前方にかかる場合は、いくら椎間板に衝撃吸収機能があるといっても、加齢などの要因によって髄核内のプロテオグリカンが減少した状態で、軸圧力によって椎間板内圧が上昇すると線維輪の損傷が生じると、椎間板性の腰痛が生じ、髄核が突出すると椎間板ヘルニアと診断されることが示唆されます。
腰痛の根本的な改善には、腰椎にかかるストレスを減らすことが大切であることが考えられるため、からだの使い方・動かし方が理に適った状態になれば、解決への近道となるはずです。
からだの設計にはミスはないのですから、自分のからだの使い方・動かし方で歪みの有無に変化が生じるとしたら、皆さんはどうしますか?
からだの使い方・動かし方を詳細に説いているのが身体運動の法則だからこそ、身体運動の法則をもっと多くの人に学んでほしいなと思います。
今日はこのあたりで・・・ありがとうございました。 -
好きな言葉
二日目の今日は、僕自身が操体を学び、操体にという学問の奥深さに引き込まれるにつれて、ある言葉がとても好きになるようになりましたので紹介したいと思います。
僕の好きな言葉は、「からだの設計にミスはない」です。そうです!橋本先生の著書である「からだの設計にミスはない」です。
- 作者: 橋本敬三
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操体を学ぶ以前や操体を学びはじめた頃は、「からだの設計にミスはない」と聞いて当たり前だよと、からだは精密にできているんだからと、生理学や解剖学・運動学を学んでいたからこそどこかで当たり前に思っていたような気がします。(すみません)
「救いと報い」を学ぶようになり、「人間は生まれながらにして救われている」という真理と「からだの設計にミスはない」の言葉が自分に意識の中でもつながりました。また、「人間は生まれながらにして救われている」の著書の中にも書かれていますが、「大自然の原理として、人間は誰でも健康で幸福に一生をおくれるように、チャンと設計されているのだ。それが実現されないのは生き方の自然法則からはずれているためで、この法則にそむくと身心の姿と動きに歪みが生じ、身心のバランスがくずれて病気になるのだ、そして又、その歪みを正してバランスをとり戻せば、病気は治るのだ、と」と書いてありますが、まさしくその通りだと操体を学ぶにつれて分かってきます。
からだの使い方・動かし方である身体運動の法則があります。痛みを主訴として来院される患者の多くは、この身体運動の法則を逸脱したからの使い方・動かし方をしています。まさしく橋本先生が書かれている通り、身心のバランスがくずれてくるのは当たり前なのです。
しかし、身心のバランスがくずれたとしても、からだには修復する能力があり、この修復する能力を引き出すのが快適感覚であり、操体法なのだと思います。
だからこそ「からだの設計にはミスはない」のです。そしてこのからだの能力は、生まれながらにして備わっている能力なのです。
操体を学ぶと本当にからだの能力にビックリすることを数多く経験します。操体は深く学ぶほど面白く愉しいですよ!
今日はこのあたりで・・・ありがとうございました。 -
集中し過ぎでは・・・
今日から一週間佐助が担当します。お付き合いよろしくお願い致します。
僕は臨床家という顔以外にも、農家という顔も持っています。農業ではレタス・野沢菜・お米などの収穫となり大詰めの時期となりました。昨年はこの時期から、息・食・動・想の営みである最小限必須責任生活が「間に合っていない」状態になったことで、体調を崩しはじめてしまいました。忙しくとなると息・食・動・想の営みを見失いがちになりますが、今年はからだの感覚をききわけ息・食・動・想の営みと向かい合うことで、快調に過ごす日々となっています。
不思議ですが、からだの感覚をききわけることで周りの自然の環境にも感覚が向きます。我武者羅におこなっていると、からだの感覚に目が向くどころか、周りの環境も無関係の状態になります。これを集中しているというのかもしれませんが、長い時間続く作業などでは、かえって効率がさがるような気がします。仕事だけに集中していると、からだの感覚・使い方・動かし方が自分の動き(自我による動き)となっている場合があり、からだの動きから逸脱していることもあって、集中し過ぎでかえって効率をおとしているような気がします。からだの感覚をききわけていくと、周りの環境に溶け込むように、自然に感覚が解放されていきます。今年は、風の音、日の出による空の変化、鹿の鳴く声まで聞きとることが出来ているのに、仕事の効率はよくなっていることにビックリです。
「頑張るな」「欲張るな」「威張るな」「縛るな」というバルの戒めがありますが、頑張り過ぎると、からだの感覚をききわけができないばかりか、周りの状況・環境もわからなくなり、八方塞がりになってしまうことにつながりになるのではないかと思いました。
橋本先生は60点で良い、間に合っていれば良いとも仰っていますが、「間に合う」状態とは簡単な言葉で奥深い言葉だと思います。
今日はこのあたりで・・・ありがとうございました。 -
最終日に何ですが・・
私は操体とご縁があってボチボチ10年弱位になりますが、毎年思うのは確実に疾病の本質は、より巧妙に潜在化し、目に見える可視的現象症状と、原因である不可視な現象に対して、我々臨床家が確実にふるいにかけられているなと強く感じます。従来通りの当たり前のみたてでは間に合わない、その様なクライアントが年々増加しているのです。
何処を見ても異常が無い、MRIやCTスキャンなど現代医学の推移を集めた機器で調べても原因が判別出来ない痛みや、症状が横行していています。その一方で現代医学はひたすら、未知なる病の細胞レベルでの原因究明に躍起になり、よりミクロな世界で研究を深めて行こうとしています。その間患者は蚊帳の外でひたすら痛みと孤独に闘う日々が続いていくのです。橋本敬三先生は昭和十二年に支那事変で第一回の召集を受け、「漢方と漢薬」に投稿されて以来、ことある毎に同じ医者としての立場から、医学界の盲点に対しての警鐘を鳴らして来られました。しかし、残念ことに一部の方を除いては、先生の意見など聞く耳を持たず、皮肉なことに医学界に絶望し、断筆宣言した後に、NHKで取り上げられ『操体法』は世に出て行くこととなるのです。
どんなに科学技術が進み、人類が進歩しても、所詮、ヒトはヒト地球上に住む動物の一種に過ぎないのです。エジプト時代を生きていた頃の人々と我々では何が違うのでしょうか?体型的な部分を除けばほぼ変わらないと思われます。当然、健康長寿や豊かさ、心の安寧など、現代人と全く変わらない概念で日々、過ごしていたのではと想像出来ます。
ただ、当時の人達と大きく変わったものは、『感覚』の鈍化だと思われます。人間の根源でもある、五感(触、嗅、聴、視、味)やスピリチュアルな部分も含めた六感などは、明らかに現代人は退化してしまっているのです。これは簡単なことで、動物は感覚で生きていますので、安全や安心を担保されると、余分なモノは一つずつ受容器の中から排除していくのです。セコムに安全を任せたら大丈夫、アルソックなら吉田選手がタックルしてくれるなど、危機管理能力という動物にとって一番大切な感覚を捨ててしまっているのです。
世界一安全な国とは、『世界一感覚の鈍化した人々』の称号であり、素直に喜べることではないのです。
では、無くなってしまった、或いは無くなりつつある感覚は取り戻すことが出来るのでしょうか?答えはYES!当然のことながら、気付き改善していくことで、感覚は呼び覚ますことが可能となってきます。
そのためには大師匠である三浦先生もよく言われるのですが、可視なるモノにだけ目を奪われずに、『不可視』なるものに目を向ける(感覚を傾ける)ことが必須であると思います。不可視なものとはパッと見、目には見えず、波動だったり、皮膚感覚であったりと、あくまでも捉えるヒトの感性に委ねられます。見えないからダメじゃん!では無く、見えなくなっているのだから、感覚を研ぎ澄まし、身体の奥底に眠っている何かを揺り起こしてやるのです、頭で考えてもネットで調べてもダメです。ひたすら自分の内面と向き合うことが大切なのです。三浦先生が「自分時間をもっと作りなさい」「生活時間にだけ目を奪われずに自分時間を作ることだ」と、ことある毎に言われていたのですが、その時は理屈で理解し、中々実行に移すことが出来ずにいました。そんな時に今年、たまたま知人の方からご縁があったのが、『氣学』でした。一般的には『九星氣学』と呼ばれており、生れた年月日の九星と干支、五行を組合わせた日本生まれの占術です。私も最初はど〜せ占いでしょ?って感じで、星座占いの延長みたいな感じで想像していました。ところが、その根底にある哲学が妙に心擽られるものがありました。
それは、私たちはこの大自然の気に触れて生まれ、この世に生をうけ産声を上げ、呼吸をし始めた瞬間から、性格や運命に大きな影響を与えられ、人それぞれの一生を歩むと言われます。気(波動)は誰もが持っているエネルギーであり、心と精神をつなぐ線という考えもあります。気は「大気(エネルギー)」として宇宙に存在し、私たちに命の息吹を与えてくれます。これら気・大気のあり方や方向性を占う運命学が気学という考え方なのです。
以前、三浦先生は呼吸は宇宙と繋がる様に通すことが重要だと仰ったことがありました。
完璧な人間なんて世の中には存在せず、地球上に生まれ落ちた時に与えられる最初の宇宙のエネルギーは、その時の「年、月」のタイミングで決まってしまうのです。
不可視なものを感じるとはまさに宇宙と繋がり、空間を感じることが重要であり、まさに氣学の根底定理にこれらの思想が存在するのです。そして、氣学の中には『吉方取り』といった自分自身に必要なエネルギーを得るために、日々行うこともあります。この時間が今の私にとっては“自分時間”にシッカリとなっているのです。朝の仕事前時間を使って自分と向き合う、そして待ちでは無く積極的に自分に必要なものを自分の足で出向いて取りに行く。習慣が変われば人生が変わるという言葉もありますが、まさに私自身日々の学びの中から、10年間操体を学んできたことを再度、検証し、学び直しているところと言えます。
今回、大師匠である三浦寛先生より、『師範代』という称号を戴きました。称号授与の際に三浦先生が「今回、認定書では無く、称号であることをもう一度、考えて欲しい」と仰いました。非常に重い言葉でもあり、寧ろ称号を戴いてからの方が、ここからが本当の意味での自分自身の操体スタートなのだという、改めて生まれ変わった気持ちになれました。
人に物事を伝えていくということは、生半可な思いで伝えてはいけない、橋本敬三師がどんな苦難に遭っても育み、三浦先生が紡いできた操体の思いのバトンを託されたことを、誇りに思い、これからも静かな汗をかきなさい。という意味だと、戴いた『敬勇』の称号に責任を感じました。これからも宜しくお願い致します、一週間ありがとうございました。
明日からは大師匠三浦先生の順番です、お楽しみに。

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橋本敬三〜臨床医編〜
橋本師は家庭の事情で新潟医専の学生時代に若くして結婚、卒業後、兵役に服している頃にご長男が誕生されたようです。前回も書いた様に医専卒業後も直ぐに臨床医になること無く、研究に没頭します。当然のことながら収入は少なく、新築しがけの家に住み、他の人から見れば金持ちの息子だと思われていたことかと、ボヤいていらっしゃいます。
風呂桶はあっても燃料代がかかるからと奥様は実家に赤ん坊を連れて、もらい湯に通う日々だったそうです。
切り詰めて暮らしても75円の月給で20円の家賃だったそうで、昭和初期の貨幣価値で換算すると、5円が約10,000円位ですので、150,000円だった計算になります。150,00円の給料で家賃が40,000円だと、やはりキツイですね・・・
学生時代に買い入れた本を抱えて古本屋に行ったりされた様で、後に橋本師の後を追いかけ外科医になられた長男の信先生にも三十銭のセルロイドの金魚玩具を一匹買ってあげたきり、奥様の作られた弁当を持って研究所に通い、好物のソバ屋も素通りだったそうです。

そんな生活をおくられていた橋本師に転機が訪れたのは、同級生の親友が数人函館へ行って、函館市内の私立病院勤務で結構な生活をしているという。「橋本、お前も来いよ!」としきりに言われ、しかも函館市内では結構流行っている病院で設備もかなり揃っており、給料は何と250円(現在の500,000円)、しかもボーナスは二ヶ月分と、今のギリギリな生活から比べたら、とんでもなく良い条件、大正末期の話しです。
今迄、臨床経験の無い20代後半の青年医師、橋本師が期待と不安に胸を膨らませて函館生活をおくっている奮闘ぶりが何だか想像出来て、ワクワクします。
ですが、さすが波瀾万丈運を持っている橋本師、勤めていた病院の院長が勤務開始から三ヶ月目に二号さんを連れて、樺太(今のサハリン)へ駆け落ちしてしまったそうです。
最初は知らずに勤めていたそうですが、世間の噂も立って臨床未経験の若造医者でもあり、親族会議の結果病院は閉鎖となったそうです。就職僅か四ヶ月で閉院失業という絵に描いた様な結果となってしまいました。年末だったそうで、ボーナスは一ヶ月分が手に入ったのと、行路病院の嘱託もされていたので、そちらからも150円入るとのこと。当分は困ることもないと、そちらに毎日通っていたそうです。何だか大変な状況にもかかわらず、楽しんでいる姿が想像出来るのも、橋本師ならではと妙に感動してしまいます。

そんなブラブラしている頃に、函館病院長の爾見(しかみ)博士から声がかかり、函館市の学校衛生技師の欠員があるから助役に会ってみろと言われ、行ってみると二年前から専任技師二人分の予算が取ってあるが、なり手が無いとのこと。年俸二千円でどうか?と声がかかるが、以前よりも少ないのなら、嫌なこったと言ったら千円UPの三千円で来てくれと言われ、行くことにしたそうです(笑)。
函館には当時、小学校が二十数校あり、三分の一は三階建ての鉄筋コンクリートだったそうです。教育課に配属になった橋本師は毎日、各校を順に廻り、衛生講話や観察指導を行ったそうです。この間に橋本師が行ったのは「学校防塵」でした。ウマが合った校長先生と共に半年位色々試し、床油を薄く、濡れ手拭いを堅く絞って拭いた程度に塗布することによって、掃けば埃はコロコロと固まり、飛ばず、床も衣服も汚さずに出来ることを確認し、解決したそうです。この時期、橋本師は全市児童の虫歯調査統計を取ったり、成績不良児の身体検査など色々な統計や調査を行っていたようです。
そんな時期が暫く続いた頃、慈恵院という社団法人が実費診療を開始するということで、東京から啄木ゆかりのクリスチャンの友人が呼ばれて来たそうです。例の行路病院も接収して病院をやるというのですが、四方八方手を尽くしても誰も来ない状況に見かねて、橋本師が手助けをすることとなったようです。
まぁ、普通なら安定収入にあぐらをかいて、友人の苦労は見て見ぬふりなのでしょうが、キリスト教という同じ思想を持つ友人の苦労は見過ごせず、この慈恵院で外科部門を五年間受け持つこととなるのです。
ここまでが『民間療法』に傾倒していく前の橋本師の姿であり、何とも人間臭く、多分に情緒的、直情的雰囲気を漂わせており、臨床医として研究者として苦悩しながらも、どことなく飄々とし、とかくお堅いアカデミーの中でフラフラと漂っている感じが、何だか虎視眈々と次の順番を待っているいたずらっ子の様な雰囲気もあり、やはり普通のお医者様に比べると異質な感じがします。でも、一つだけハッキリ言えるのが、橋本師が医学界の賢威やプライドにしがみつかず、あくまでも『患者』の方にシッカリと目を向けていたからこそ、この後、『民間療法』の素晴らしさに気付き、それを貪欲に吸収し、『操体法』を考案するに至ったのだと言えます。
平野氏の教えにより『救いと報い』を知ることで呑気者になったと自身でも言われていた橋本師だったから、何にでも興味を持ち身体を診ることをし、レーベンス・テーマとして捉えていたからこそ、今の我々があるのだと、またまた改めて感じることが出来ました。 -
橋本敬三〜少年期〜青年期〜
少年期から青年期への橋本師を語る上において、もう一つのキーワードとなるのが、『苦悩』です。その一端が垣間見えるのが、旧制中学四年時に「餓え渇く」の演題で弁論大会において一等をとられていることです。
旧制中学四年と言えば、今だと高一位でしょうか。このタイトルから読み取れるのは自分の内にある制御出来ない怪物にもがき苦しむ思春期の姿でしょうか。これは橋本師の言葉を借りれば“自己嫌悪の劣等感”に苛まれていた時期だったようです。
そんな橋本師の苦悩の根源にあるのは、キリスト教の教えでした。師にとって教えの影響は絶大であり、現実と教えの中で夜も眠れず身をよじっている姿が想像出来、その苦悩の深さが感じられます。
本の中でも、飯も喉につかえて通らぬ日が度々であったと。自己批判や及落の不安や恋愛のことなど二重三重に苦しみを味わい、その余りの苦悩に宗教などと無関係に平気でやりたいことをやっている人々がうらやましかったと言っています。現在の平成時代の高校生達がこの様な話を聞けば、理解に苦しむだろうと思います。草食系などと言われる若者達が増えている昨今、当時の橋本師からすれば、その方が理解に苦しむかもしれません。この様な苦悩の日々から橋本師が解放されたのは、医学生時代の後半に達した二十三歳の或る日だったとあります。その無間地獄の様な苦しみから解放してくれたのは、全く無名の牧師であった『平野栄太郎氏』からエペソ書の一説「世の創(はじめ)の前より我らをキリストのうちに選び・・・愛をもて己が子となさん事を定め給えり・・・」この言葉で目が醒めたと言います。
いわゆる橋本哲学を語る上において絶対に外せない、『救いと報い』です。
この『救いと報い』の区別とは「救い」は絶対であり、「報い」は相対であるということ。橋本師は「救い」とは絶対の無罪宣言であり、神性相続権であり、何ものも覆すことが出来ない久遠の事実であると言われています。
我々は生まれながらにして既に救われており、それは絶対である、その一方で自らの行いに対してはその結果に対しての相対的評価があり、善を行えば善の、悪意を持って行えばそれに対しての「報い」が生じると。
全ては自己責任であり、それに対しての相対評価が「報い」であると説いています。ふと、この青年期の橋本師を苦悩から救った無名の牧師、「平野栄太郎氏」とはどの様な方だったのだろうかと調べてみると、平野栄太郎牧師は、現在は合併して青森市になってしまいましたが、旧浪岡村、茶屋町にある旧家の出身で、
無名どころか、浪岡村の“平野家”は「弘前藩庁日記」にも登場する位の名家で、歴代当主の中で、浪岡村の庄屋や、浪岡組の手代となって藩行政に協力したり、幕府の巡見使が浪岡の田地・年貢の調査に来た際に宿泊の便を図ったようです。文久元年(1861)9月25日の「弘前藩庁日記」によると、浪岡村の油屋平野屋清助が菜種油の買い入れをするとの商活動が記されています。総本家平喜(屋号:ヒラキ)では、代々農商を営んで繁栄したとの記録もある
そんな平野一族の中で、栄太郎氏は明治3年4月28日生まれ、旅館業を営んで屋号は「ヒラハン」と呼ばれ、極めて恵まれた家庭で育った様です。プリマス・ブレスレン派に所属した独創的信仰と反骨精神旺盛な人物だった様で、その後、藤崎教会から千葉県にあるキリスト教会に移り、更に岩手県盛岡市内の教会に移って活動して昭和21年(1946年)6月1日、盛岡教会の自宅にて亡くなられています。
平野氏の活動としてハッキリと記録が残っているのは、浪岡におけるキリスト教伝道の最初の人物としてです。明治22年(1889年)1月の中旬であることが当時の新聞記事に残っています。1月18日付の『東奥日報』によると、基督教(キリスト教)演説会が浪岡村で開催され演者として平野栄太郎氏が「日本の振はざる所以」について語ったとあります。ですが、聴衆はあまり感動しなかったと記事は伝えています。橋本師が平野氏の説教を聞いたのは、年代的に見ても平野氏50代前半、牧師として充実していた時期の出会いだったと思われます。
兎にも角にも平野氏との出会いによって、橋本師の人生観は180°変わったわけです。それまで神経質で潔癖だったのが、非常に呑気ルーズになり、性格は一変、お気楽者、それ以後は取り越し苦労などで悩んだことは無いと言われています。ひょっとして平野氏との出会いが無ければ、苦悩から神に仕える立場に成っていたかもしれず、人の人生は分からないと改めて思います。
この平野氏との出会いから大きく橋本師の生き方、考え方、人生は変わって行くのです。 -
橋本敬三〜少年期〜
少年期に於いて男の子が最も影響を受けるのは誰だろうか?直接的には身近な「父親」であろうか。父親が消防士で、或いは警察官だったからという理由で、自分もその道へと進んでいく子も非常に多い。これには逆も有り、父親が教師だったから自分は絶対に教師にだけはならない!と言う子も居る。寝食を共にするのは良悪共に目にするが故にバランスが非常に難しく、憧れの対象でも有り、反面教師にもなる微妙な関係が思春期の親子関係には存在する。
一方で、血縁関係にありながら、憧れや目標になり、影響力がとても大きい存在として挙げられるのが、『従兄弟(いとこ)』である。血が繋がりながらも日常的には一緒に行動することもなく、盆や正月に会うと妙に大人びて見えて、何となく憧れてしまう。その頃で言えば会いに行けるアイドル的存在かもしれない。
私自身も考えてみると、興味も無かったギターを始めたり、それまで聞いたことがなかった様なミュージシャンの歌をカセットに入れたりと、考えてみれば今現在、私が趣味としてやっていることの大半は従兄弟の影響かもしれない。そう思うと、思春期における従兄弟は人生におけるキーマンになり得る存在なのかもしれない。橋本師もどうやら、その思春期の洗礼を受けた一人の様で、従兄弟の影響を多大に受け、従兄弟が居なければひょっとしたら、『操体法』は誕生していなかったかもしれない。
それを窺える一節が本の中にもある。ご存じの通り、橋本師は“医師”という職業を選択した訳ですが、当初は医師ではなく、『造船家』になるのが夢だったようです。
その動機は至ってシンプルで当時、目白で開業医をしていた従兄弟が橋本少年に向かって「オレは実は造船家になりたかったのだ。造船は面白いぞ、世界の海を人や物資をのせて走る船、それを造る技術は最高だ。昔は帆前船、今は蒸気船だ。最高の学問を応用してつくる船、でもオレは諦めて医者になってしまった」と目を輝かせて語る従兄弟。
少年橋本師がこの話を聞きながら、心は大海原へと走り出していたのは容易に想像出来ます。
この従兄弟の言葉が橋本少年の心に一筋の光明を照らし出しました。その後、中学入試の面接の際、将来何になりたいかを問われた時に、迷わず「造船家になります!」と言い切ったそうです。その位の強い思いで目標を定めた橋本師に再度転機が訪れるのは、中学三年生位の時でした。それは学年が進むにつれて、数学がカラキシ駄目なことに気付いたそうです。造船は専門数学が必要となる職業ジャンルなのですが、それが苦手だというのは致命的でした。
そんな、半ば路頭に迷いそうな橋本師に手を差し伸べたのはまたしても、従兄弟でした。何だか将来の道に迷っている橋本少年を見て一言、「医者はまぁ、飯の食いっぱぐれはない、人からも尊敬され、悩める病人からは頼りにされて、お役にも立てるぞ」やっぱり従兄弟の影響力は大だ、橋本少年はあっさりと前言撤回、「そうか!そんならオレも医者にでもなるか」と決心したそうです。従兄弟に感謝です。そこで橋本少年は学校の選択として、医専では無く帝国医科大学を目指すべく、高等学校の三部(医学予科)を受験しました。
ここでも大きな障害となったのが“数学”でした。厳しい競争の中、どうやら数学で点数を取れないとどうにもならないことが分かりました。そして気が付けば二浪していたのです。
当時、三部三年という言葉があって、三浪してでも入れれば良い方だという意味だということ。さすがに橋本少年、一念発起して数学を克服するべく、朝から晩までワラ半紙を半切りしたものに教科書を一頁から全部やり直したそうです。
やり出すとあんなに難しいと思っていた数学にも一定の型があり、それが分かれば大丈夫だということを悟った。さすが、後年、様々な手技療法をみていくうちに、その中に一定の法則があることを見い出し、『操体法』を体系付けた片鱗がこの頃から見え隠れしている。当時の高校受験期は七月であり、医専は三月。従兄弟の家に泊まって小説なんぞを読みながら、慶応の第一回募集と、東京でも受験可能だった新潟医専を受験しました。
結果は両方共に二十番近くで合格しました。で、三部を受けるのも今更馬鹿らしい、予科が二年ある慶応より四年で切り上げの効く新潟を選択したのです。
と言っても、結局は医者になるのが早いと思って選択した割には、卒業後も研究生活が楽しそうだからと、生理学教室に飛び込んでしまい、四年も無駄?にしてしまったことを考えると、意外に行き当たりばったり、楽しそうなもの、人から誘われるものにフラフラとついて行ってしまう少年から青年期の橋本師の姿が見て取れます。
でも、何だか文章だけを読んでいると、厳しい時代と生活の中でも、未だ見ぬ何かに心躍らせ、光明を見いだそうとする青春時代がある様な気がします。
この後、臨床医になってからの激動期を考えると、チョット箸休めの青春時代ってところでしょうか。


