先日、マウスの皮膚を温めると紫外線によるシワが防げることを発見とのニュースがありました。
シワの最大の原因は紫外線で、コラーゲンの質を劣化させたり、コラーゲンの生産を減らしたり、コラーゲンを分解する酵素を増やしたりすることでシワを起こします。
熱ショックタンパクのHPS70がコラーゲンを分解する酵素の働きを抑えるとのこと。
37℃のお湯と42℃のお湯につけた皮膚に紫外線を当て続けた結果、42℃の方はシワができにくいことがわかったそうです。
まだマウスでの実験段階なので、人の皮膚だとどうなのかはわかりませんが、お風呂に入るくらいの温度ですよね。
皮膚の研究は比較的新しい分野なので、続報が楽しみですね。
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今日8月10日は大久保利通の誕生した日です。
幕末から明治初期にかけて活躍した鹿児島の偉人ですが、地元での人気はいまいちなのか、鹿児島市内にある銅像も心なしかあまり目立たない場所に建てられています。
結果的に西南戦争で西郷と対立し、西郷を死に追いやることになったのが原因だと言われています。
大久保は西郷の生家の近い加治屋町で生まれ、西郷とは兄弟のように育ちました。
島津久光の時代に頭角を表し、倒幕へ進むことになります。
このあたりは散々ドラマなどでも取り上げられているので有名ですが、個人的には大河ドラマの「翔ぶがごとく」などおすすめです。DVDで久々にみると熱かったです。
政治家としては冷徹と言われるほどでしたが、版籍奉還・廃藩置県・東京遷都、新政府への反抗勢力の一掃などを強い意志で推し進め、日本の近代化の礎を築きました。
岩倉使節団として直接欧米に赴き、日本との差を見て来た大久保にとって、征韓論を唱える西郷と相容れなくなるのは自然な流れであったのでしょう。
西南戦争後の明治11年、「国家の財産を私物化した奸賊であるために成敗した」として、不満士族に暗殺されます。
死後の財産整理でわかったのは、私物化どころか、予算のつかなかった公共事業に私財を投じ多額の借金しかなかったとのこと。
襲撃された時、生前の西郷から送られた手紙を持っていたとの証言には切なくなりますね。 -
この業界に入ってから、人間観察が日課になっています。
あまりジロジロと見るわけにはいきませんが、前を歩いている人だとか、電車の中の人だとか、カフェの窓際でなんとなく眺めてたりしています。
人様のからだをみさせていただく仕事柄なので、目を養うためというよりは、気になるので目がいってしまうといったところではありますが。
操体でも触診や動診と同時に視診も重要で、そこから操法を組み立てたりするので、観察力は必要になってきます。最近のお気に入りです。
商業デザインの仕事をしている作者の猫たちの観察日記です。そういえばうちのマンションも引っ越した当時はペット共住型マンションとして売り出していたので、住人が散歩にいく姿を見かけます。
ペット可の所が少なく、何件も不動産屋を回って決めたのを思い出しました。
あれから数年、今のところ予定はないですが、こういう生活もいいですね。 -
好きな言葉の一つに、初心忘るべからずがあります。
これはよく、初志貫徹と混同されて使われたりしていますが、もともとは世阿弥の風姿花伝に出てくる言葉です。初心忘るべからず。時々の初心忘るべからず。老後の初心忘るべからず
風姿花伝では年代事に学びの段階が示されていますが、初心という言葉が出てくるのは確か20代前半頃。
未熟ではあるが、ある程度形になってくる頃。
そして、初心はこの後も出てきます。
その時々の初心を忘れなければ、現在の自分の立ち位置がわかります。
前に進むために、初心を忘れない事。
歳とともに、その時々に積み重ねていくものが時々の初心。
「初心に戻って」とか、「初心に返って」とかではなく、むしろ初心に戻らないために忘れないようにということだと思います。 -
正坐のメリットとして、以下のようなことがあるようです。
1.集中力が高まり、精神が充実する。
2.眠気が覚め、認知症を防ぐ。
3.心臓、肺、横隔膜など内臓の負担が軽くなる。
4.消化力が高まる。
5.肥満やメタボリック症候群を防ぐ
6.膝の周辺の靭帯や筋肉が強く、かつ柔らかくなる。
7.股関節、膝関節、足関節の3つの関節の可動域が広がる。
8.肛門括約筋をはじめ、骨盤と内臓を支える筋肉が鍛えられる。
9.側副血行が盛んになって、下肢の冷えが少なくなる。
10.姿勢が美しくなり、発声にもよい。
(日本正座協会)あとは、自身の歪みが自覚しやすい点が大きいかなと思います。
正坐がきつい場合、からだに歪みがあることが多いです。
たいていは足を重ねて坐っているのを見かけます。
これはこれでバランスを取っているのですね。
操体での正坐は「両足底の間にお尻がすっぽり入るように」、足を重ねず坐ります。
続けていると、外見上は変化がなくても、自分自身の日々の感覚の変化を感じることができるようになります。
今日はちょっとくずれてきてるなという日があったり、逆にすっきりしている日があったり、毎日微妙に違います。
そのへんも気をつけてみるとなかなか楽しいです。 -
先日、みた小学生の男の子。
サッカーをやっていて、しばらく前に転んで膝をうったとのこと。
特に痛みを訴えてはいなかったが、あるとき正坐ができなくなっていることに親御さんが気付き、依頼がきた。
しばらく気付かなかったということは日常生活には支障がない程度ではあるとは思うが。
操法をいくつかやった後、膝は曲がるようになり、その日は終えた。
気になったのは足首のかたさ。
これだけ足首に柔軟性がないとからだを痛めやすいのも当然である。最近は正坐をする機会も減ってきているし、苦手な人も多いようである。
日本正座協会なるものをみつけた。操体では、操者にとっては基本姿勢である。
ひかがみの触診は正坐位で行うし、正坐で行う操法も多い。
なにげなく坐っているように見えても、なかなか奥が深いのである。 -
こんばんは。今週担当の辻です。よろしくお願いします。
今年も暑い日が続いていますね。
連日クーラー無しでは寝られないようになり、夏を実感しています。
南国育ちとは言え、東京のこの暑さはなかなか大変で、周りの人達の反応を見る限り、でも暑さには強い方なのかもと思いつつ過ごしています。夏にやってみたい事として、うちでは浴衣を着たいという願望があるのですが、今のところは実現に至らずです。
その代わり、普段履きを下駄にしてみました。
毎年この時期は草履タイプ?のサンダルですが、店先で下駄を見つけ、衝動買いです。
履いてみると、下駄自体の重さもあって、母趾球をより生かした歩き方ができるように感じます。
なにより、安定感が違う。
手は小指、足は親趾ということが自然に実感できますね。
仕事先でも好評なのでしばらく続けてみようと思っています。
おすすめです。 -
快適感覚(最終日)
昨日の続き
意識的静止状態での自力快適感覚を得るには日本式座位がそれを充足させてくれることになると、昨日も述べた。日本式座位では座位が高く、かつ脚を下に折り重ねるために下腹の前方が空いているから、腰をぐっと前に押し出すのに便りがよいものだ。日本式座位の組み方であるが、慣れないうちは、まず正座になり、そこから両手で両踵を左右から圧するようにして、踵を寄せて閉じ、その踵の上に臀部をのせる。そして腰を引きつけ背骨を立て、顎を引き寄せ、直立のイメージをもって座る、いわば踵を合わせた正座である。
一般的な正座は、踵を開いたままその間に臀部を乗せるので、足裏部に臀部が落ちてしまい、上体が揺れやすく、膝が開いて背中が丸くなりがちになり、不安定な座りとなる。このような一般的な正座を正と信じてきた者は、認識を改めなければならない。それに比べて日本式座位であれば、踵を閉じることによって踵で臀部を押し上げる形になり、座高が高くなって腰が入りやすく、背筋が伸びやすく、より安定する。ただし、腰砕けの座り方では膝先が浮くので日本式座位といえども、やはり脚を胴身から遊離させて、脚の存在を偶然化することが必要である。腰砕けの座り方では、全身の重心が踵の上に落ちて、体躯の重力が狭い踵部分のみに掛かってしまうから、脚の血行は阻害されて、足がしびれるのである。
日本式座位は、臀部から膝先までの面積において床に接するのは、上半身を担う場所を広くとってきわめて安定させる構えであり、その場所の中央に重心が落ちるように腰を前にぐっと押し出して座らなければならない。すなわち、座の姿勢の基部であるところの両膝と臀部との三点をつなぐ三角形の中心に垂直線が落ちるように座り、膝頭と臀部とを底辺とし、頭を頂点とする二等辺三角形を作って、からだの重心を座面の中央に至らしめるのである。このように腰を前方に押し出す毅然たる座り方においては、上半身の重みは脚全体に加えられ、かつ、それがために脚部の動脈が圧迫されることもなく、足がしびれることもないのである。
注意すべき点は、上半身を前に傾けるのではないということだ。上半身は垂直に立ったまま、腰のみをぐっと前方に押し出し、臀部を後方に突き出すようにする。このように座れば、脚は全的に重用されるから、自らを空しくして体重の重さを担うので、それ自身は軽々となっている。脚を折り重ねると言うのは、身体をよく安定させて担うために活用するのであって、日本式座位においては、脚が必然的な役目を持っているのである。
この日本式座位の成立は、古くはハタ・ヨーガの座法であるヴァジュラ・アーサナ(金剛座)の中にその起源を見いだすことができるが、我が国においては武士道の発達と密接な関係があり、剣豪 宮本武蔵もこの座法を心得ていたという。折り目正しき脚の重ね方、即座にいかなる動にも転じる隙のない構え、これはどうしても武士の座法としか思えない。
また静と美の茶道や華道でもこの日本式座位を作法としているのは、姿勢がよく、特にこの姿勢で着物を着た女性は物静かで美しく魅力的であるからだ。御見合いの場合など着物を着た時は、意識してこの姿勢をとっていただきたい、50%は美アップすることを請け負う。これに比較すれば、座禅の結跏趺坐や半跏趺坐は 「動」 と 「反動」 との解消に境地は得ているが、常に新たなる動を生む構えをもっていない。結跏趺坐や半跏趺坐の姿勢は往相の一面に偏して、物体としての体躯を常にいま動に転じようとする還相においても欠けるところがある。
日本式座位は筋肉の働きの上から見ても、人間の姿勢の基本形と看做されるべきである。本来、筋肉の働きというのは、ただ縮むだけの能力に止まっており、一つの関節について二つの筋肉が互いに反対の位置を占め、交互に縮むために、関節の屈伸が行われる。そして下肢については、関節を伸ばす方の筋肉は、関節を屈する方の筋肉よりも常に強い。座るときは、その強い方の筋肉は縮むことなく、むしろ強く引き伸ばされている。だから直立の姿勢においては、下肢を伸ばしたままに持ちこたえているのであるから、ほとんどすべての筋肉が縮みきりになっている。ゆえに直立の姿勢は疲労を感ずることが甚だしいのである。
それに反して、座るときには、伸筋の適当な弛み加減で関節が自ずと屈曲するのであるから、別に屈筋の収縮を要しない上に、座っている間たえず上体の体重が脚部にかかっているので、漬物の重石が利くように、鬱血を起こさないのである。欧米式生活習慣を取り入れた人たちは、座ることが血行を阻害すると言っているが、それは認識の錯誤であって、正しい座位はかえって血行を促すものである。日本式座位の効果としては、足首、膝関節、足の甲、脚の筋肉を柔軟にし、下肢の静脈瘤と脚の疲労に効き、また精神的には気もちを落ち着かせる効能があり、これが快感覚につながっていくことになる。
日本式座位は論理的に見て、人間の姿勢の完成である。人間の本然の相がまさしく日本人の座相に示されているのである。論理的に真なるものは必ず 「美」 であり、 「健」 であり、 「快」 であり、人間の原本的体験である。このように正しく身を持つことのみによって正しく呼吸することができるようになり、これは契機たる物体、すなわち肉体を直接に生かすことになる。ひいては快適な感覚として具現することが可能となるのである。2012年秋季東京操体フォーラムは11月18日(日)津田ホールにて開催決定
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快適感覚(六日目)
昨日の続き
快適な感覚は意識的な身体環境内においてのみ感じるものであるから、当然にして睡眠中のような無意識的なレベレでは起こりえないのがふつうである。それでは意識の中にあって静止した状態で 「自力で快適感覚」 を得ることは果たして可能なのであろうか? それを確かめるのに、人間の 「姿勢」 と 「感覚」 の関係について考察を加えるものである。
操体の動診において四肢末端の動きが全身に連動することで快適感覚を味わうことができるとするならば、身体をもつ者は自己の全身を必然的存在として、渾然たる一体者でなくてはならない。このようにからだというのは全一的な存在であることから、身体をもつ者は自己の体躯の姿勢においても、自己内完結の相を示さなくてはいけない。つまり、からだを持っている我々は自分の外の他者に依存することがないだけでなく、自分の内に他者を抱くことのないような姿勢をとるべきである。
他者は自分にとって偶然的存在であり、椅子座位のように自己の存在が椅子という物体的他者を媒介としなければならないから、自身は個別的存在の相を脱することができない。現在における我が国の生活様式が欧米化したものの、椅子座位に何となく落ち着かなさを感じ、依然として畳の上に座る生活様式を捨てきれないのは、分一的、個別的存在に堕することを望まない日本人の風格の、自然の発露であろう。椅子座位や胡座位にあっては、脚が胴身から遊離して、その存在が偶然的となり全身が一体とはならない。臥位は眠るための姿勢であるから、自主的な身体姿勢を保ち、おのずから帰入する往相であり、本質は 「静」 である。また立位は独立の箇として立つ環相であって、重心の座をいちじるしく高く保ち、 「動」 への構えをもっている。 「不動」 の姿勢といえども動の起点または途中の意味なしに、立位は考えられない、まさに立位の本質は 「動」 である。
これに反して、日本式の座位は 「静」 であるとともに常に 「動」 の起点であり往相と環相とを併せたものを含んでいる。日本式の座位はまさしく人間の姿勢の基本形として見られるべきである。日本式の座位は 「人間」 の本質を発揮し、人間の品格を具現する最も論理的な座位である。最も論理的な座位であるからこそ、論理の低次の顕現である生理の上からも、人間の姿勢の基準となすべき最も合理的な姿勢であると言えよう。これこそが静止状態での 「自力快適感覚」 の根本要素といえるのではないだろうか。
日本式座位とはどのようなものなのか、垂直に立つ姿勢から、その構えを崩さずにピタリと着座すれば、そのまま正しい日本式座位となる。日本式座位の詳細は明日、最終日に譲ることとする。
明日に続く2012年秋季東京操体フォーラムは11月18日(日)津田ホールにて開催決定
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快適感覚(五日目)
昨日の続き
操体の気もちよさというその感覚でいろいろな疾患は大いに改善されるものである。ところが我々大人にとってその感覚を味わうのは実のところ、そんなに簡単なことではない。子ども達のようにあるがままでいたら、意識はあらゆる感覚に対して開いている。子ども達の意識の中には一切の感覚が含まれており、たえず多くのものが入ってくる。だから子ども達はあれほどまでに揺れ動いて不安定になっている。子どもの心はいまだ何の条件付けもされていないひとつの流体、感覚の流れだ。子ども達は何にも焦点を合わせようとしない、子ども達の意識はまわり中に開いている。あらゆるものが入ってきて、どんなものも除外されない、子ども達はとても感覚的に生きている。
しかし、このような心を持ち続けては生き延びられない。子ども達はやがて心の焦点を定めることによって狭め、集中することを習い覚えて、大人に成長してゆくのである。何故なら何事にも集中しなければ人生にうまく対処してゆけないからであり、生はそれを要求してくる。大人になるというのは心が集中できるようになることだ。心の集中というのは生きるために、生きのび存在していくために必須のものである。
ところが心が集中できるようになると、感じるということが少なくなってくる。感覚は心の焦点を合わせないで、起こっていることすべてを感じていることだ。人間社会で生きていくうえには心を狭め、ある特別なひとつのものだけに焦点を合わせ、集中することによって、より専門家に、より熟練者に、よりジェネラリストにならなければならない。
だがしかし、ことの成りゆきは、知識ばかりが増えて、その対象はますます限定されてゆくことになる。それでも心を狭めることは生存するのに必要なことだ、実利的な生活は必要に違いない。が、決してそれがすべてではない、心を狭めることは生きながらえるための手段ではあるが、生のための手段ではない。
このような狭められた心は、からだにも影響を及ぼさずにはおかない。狭められた心はやがてからだの生体系に緊張が生まれ、それが種々疾患を発症させるのである。そして治療家たちは 「緊張をほぐしなさい」 、 「くつろぎなさい」 と言い、また療術家たちもその緊張を無理やりほぐそうとする。だがそんなことでくつろぎを得るのは不可能だ! 操体では、逆にまず患者の全身を緊張させる、そして動診において極限まで緊張が及ぶ。そうすれば突然、からだはくつろぎはじめるのを感じる。今度は生命エネルギーが逆のものを生み出し、おのずとくつろいでくる。両手両足、からだのあらゆる筋肉、からだのあらゆる神経が、ただ素直にくつろいでゆく。からだ自身がくつろいでゆくのである。からだ中のさまざまな個所がくつろいでゆくのを感じはじめる。それは全身がくつろいでいる部分の集合になってゆく、そう快感覚とともに。
明日に続く2012年秋季東京操体フォーラムは11月18日(日)津田ホールにて開催決定
