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  • 自信ってどこに行けば買えるのだろう?

    4日目も昨日に続いて私の弱点『ホウレンソウ』
    について少々書きすすめさせて頂きたいと思います。

    昨日は『ホウレンソウ』が出来ないことの原因が父との関係性にあるのかもしれない
    と書いてみたものの、問題の本質は別のところにある様に思えて来ました。

    それは私の自分自身への『信頼感の欠如』です。様は自信が無いってことです。
    怒られること前提で報告したり、拒否されることを前提で相談することを
    怖がっているのも結局は自分自身を信頼することが出来ていないからに他なりません。

    自分自身を信頼することの出来ない人が他人からの信頼を得ようなんて言うのは虫がよい話です。
    まずは私が自分自身との信頼関係を構築して行かなければなりません。
    本当に私が自分自身を信頼しきれた時には、こころにいかなる壁を創ること無く
    人と接することが出来るのかもしれません。

    改めて自分自身の生き方というものに問いただしてみると
    今までは意識してみようとしていなかっただけで
    自分の至らなさが引き起こしていたトラブルの多さに驚きます。
    自分自身を客観的に見る目を持つことそして自分自身を
    自分自身によって保護観察出来る人間になること
    そうして自分で自分を磨きあげて行くことが出来れば
    もっと自分に自信を持つことができるようになるのかもしれません。

    心の健康を保つことによって、自尊心、つまり自分の常識を信じる心と自信が生まれる。人生をバランスのとれた見方で眺められるようになる。そしてまた、生真面目にならず、ときには自分を笑い飛ばせる強さを身につけることができる。心の健康はすべては上手くいくと信じられる楽天性を私たちに与えてくれる。〜リチャード・カールソン〜

    博多の新年行事十日恵比寿の出店には売っていませんでした

  • 艶つけない

    昨日は去年の私の大いなる変化について書かせていただいたのですが、今年はどうなりたいの?という所にスポットを当てて書いてみたいと思っています。

    昨年末のこと、当フォーラムの三浦理事長よりお叱りの言葉を頂いた。その内容はフォーラムの業務における私の『ホウレンソウ(報告・連絡・相談)』の欠如についてのものでした。

    これは何も昨日今日始まったものではなく私が操体を学び始めた当初より指摘されていたもので、私自身も自覚はあるのですが一向に改善が見られないということで三浦理事長より直々の指導という運びになったのです。

    「お前は俺にだけ相談しないって訳じゃないだろう。きっと親父さんにだってしてないはずだ。何も相談されないとお前が何を考えているのかわからないんだぞ。アドバイスしようと思っても出来ない。みんなに心配かけているのがわからないのか。」

    三浦理事長のこの言葉は本当に的の中心を見事に得た言葉でした。まさしく私は小さい頃から父にも上手く相談することが出来ないまま育って来てしまったのです。私達の世代の親というのはどこでもそうだと思いますが、朝から晩まで一日中働いて一緒にご飯を食べる時間さえ取れない日が少なくありませんでした。

    そんな状態ですから父とゆっくりと話すことなどほとんどなく、父と会話するのは叱られる時くらいしか記憶に残っていません。勿論それだけではないはずです。

    色んな話もしたし、色んなところに遊びに連れて行って貰ったはずですが、父との会話というものが極端に少ない家庭だった様に思います。

    うちの父はと云いますと、私とは違い根っからの職人気質で口べた気の聞いた言葉なんて一度も聞いたことがないくらいの頑固者です。こんな父に叱られたくないからという理由でわざとコミュニケーションを断っていた様に思えます。

    こんな状態では父に私の思っていることなんて伝わる訳がありません。父にとても何を考えているのかわからない息子ですから益々会話の糸口がありません。大きくなるに連れてますます会話は少なくなる一方でした。そして私も今の年になり、子供が出来て子供たちとお話が出来る様になってみると、子供の頃の父とのコミニュケーション不足が本当にもったいないことをしてしまったのだと改めて実感出来る様になって来ました。

    もっと小さい頃から父と積極的に話し、互いに理解し合えていれば、今よりももっと良い家族になれていたのかもしれないと思うと残念で仕方がありません。恐らく理事長に相談出来ない理由というのも恐らく同じところにあるのだと思います。理事長に連絡・相談して拒否されたり怒られることが怖いから相談せずに事後報告だけで済まそうとしていたのです。

    怒られない様に格好つけていた(博多弁では「艶つけとる」)つもりが益々理事長を迷わせ迷惑をかけていたのです。とにかく今年は格好つけずに、わからないことは「わかりません」出来ないことは「出来ません」やりたいことは「やりたいです」知りたいことがあったら「教えてください」と当たり前に尋ねることが出来る様になりたいと思っています。

    素の自分の直球勝負で何が出来るのかを今年の目標にしてみたいと思います。みなさんも私が少しでも格好つけて力んでいるのを見かけたら「キサン、何ば艶つけとっと〜とや〜。」とご指導をお願い申し上げます。

    相談する相手のいない人生なんて 地図と方位磁石を持たずに荒野を旅するようなものだ。

  •  今年は一味違うぜ!

    もう今日は1月7日、平成25年も始まって1週間が過ぎました。・・・不味い、この一週間ろくなことやっていない。仕切り直しで今日から充実した毎日を送って行きたいと思います。福岡の秋穂の2日目のブログ宜しくお願いいたします。

    ここで重大発表があります。何を隠そう私秋穂一雄は昨年1つ苦手なものを克服しました。それまでは本当に見るのも聞くのも想像するのも鳥肌が立つ程に大嫌いだった生き物、今年の干支でもある『ヘビ』です。

    その嫌いさのあまり、僕の前世は間違いなくヘビに飲み込まれたカエルだったに違いないとさえ勝手に思い込む程でした。

    そんな私に克服のチャンスがやって来たのは昨年の冬でした。

    その日私は子供たちを連れて福岡市動物園にこの動物園には昨日のブログに書いてあったプチ同窓会にも参加していた同じ高校の同窓生の友人が飼育員として勤務しており、たまに思わぬサービスをしてくれるのです。

    この日はとても寒い日でした。寒空のした、私達以上に寒そうな動物たちを眺めていると、友人の飼育員さんが近づいて来ました。「寒かろ〜。触ってみてん。温かかいよ〜。」と差し出した腕には真ん丸に丸まったヘビ。レインボーボアという種類のヘビで勿論南国生まれなので寒い冬場はポッカポカの暖房の中でぬくぬく過ごしているのだそうである。「うわっ!ヘビげな触れんよ・・・」と腰が引けた私を押しのけて子供たちは「うわ〜っ、温かい。」「すべすべしていて気持ちいい〜。」とヘビと戯れ始めました。その様子を見て私も恐る恐るレインボーボアくんに手伸ばしてみました。「あれ〜っ、温か〜い。」冷たく冷えた私の手をレインボーボアの皮膚の暖かさがやさしく温めてくれました。

    食わず嫌いと云うか私の場合は触れず嫌いで、勝手にヘビはにょろにょろして、にゅるにゅるして、ねちょ〜っとしている気色の悪いものだとばかり思い込んでいました。あんなにさらっとしてすべすべで暖かいものだとは思っても見ませんでした。

    「気持ちいい〜」となでなでしていると、飼育員さんが気を利かせて「折角だから首に巻き付けてみる?」と勧めてくれたのですが、それは丁重にお断りしておきました。

    余談ですが福岡市動物園は決して大きな動物園ではないのですが、動物とふれ合う時間を作っていたり、夏場は夜間営業で夜の動物たちを見せてくれたりと趣向を凝らして福岡市民を楽しませてくれています。昨年末は年賀状用にヘビとの記念写真を撮るイベントを開催して大盛況だったそうです。

    皆さんももし福岡にみえられることがあれば、このかわいらしい動物園に行ってみてください。サービス精神旺盛な飼育員さんがきっと楽しませてくれることだと思いますよ。


    こちらのヘビは実際のヘビとは異なりますのであしからず

  • おせちも良いけどブログもね。

    世間では今日までお正月休暇という会社も多いようですが、皆様モチの食べ過ぎで正月太りなんてことにはなっていませんでしょうか?舌の極楽、腹地獄、体重計は目にも毒、ということで最近周囲から「貫禄が出て来たね・・・」と褒められる福岡の秋穂が本日より1週間ブログを担当させていただきます。宜しくお願いいたします。

    人のためになにかをすることで

    誰もが素晴らしい人になれます

    大学を出ていなくても

    正しい文法で話すことができなくても

    人のためになにかをすることができます

    ただ、やさしい気持ちがあればいいのです

    愛のこころがあれば良いのです。  マーティン・ルーサー・キング・ジュニア

    このお正月休みの間に高校の同窓生の集まりに参加させていただきました。同窓生とは言っても別に同じクラスのクラスメイトでも、同じクラブ活動で汗を流していた訳でもないのですが、とあるソーシャルネットワークサービス内で知り合いになった同窓生からのお誘いで参加させていただくことになりました。私が高校を卒業したのが西暦1993年(平成5年)だから今年の春で丁度20年ぶりの再会ということになります。10名そこそこの参加者の中には卒業後も度々顔を合わす機会のあった人も居れば、在学中からもほとんど面識もなかった人もいて、最初のうちは懐かしいやら、気恥ずかしいやら複雑な心境でしたが、みんなでお酒を酌み交わしながらそれぞれの話を聞くうちに、卒業してからの20年間をそれぞれ一生懸命に歩いて来た生き様に触れ、同じ時代を同じ歩幅で歩いて行けることの喜びを感じるとともに、自分のまわりにもこんなに素晴らしい朋友がいてくれたのだということが自信となり勇気を与えても貰うことが出来ました。

    勿論私のこころを癒してくれるのは友人たちだけではありません。私が治療家として真直ぐ立てる様にといつも気にかけてくださっている師匠、そして東京操体フォーラムの同志の皆さん。私と同じ職場で働いてくれている明るいスタッフのみんな、そしていつも笑顔で来院してくれる患者さんたち。私を産み育ててくれた両親に親戚のおいちゃんおばちゃん、ご先祖様。そして何よりもいつまでも夢見がちな私を支え続けてくれている奥さんと娘と息子。本当に多くの人たちの愛に支えられているから、今私自身がここに生きていることが出来るのだと思います。未だに恥ずかしがりやのシャイボーイなので、面と向かって『ありがとう』なんて言葉はかけきれないのだけど、本当に心の底から感謝しているのです。なんだか操体とは全く関係ない話になってしまいましたが、一年の始まりのブログですから、どうかご容赦願いたいと思います。このブログを読んでくださっている皆さんも勿論私を生かしてくださっている大切な方です。それでは皆様が今年一年健康で幸せに過ごすことが出来ますよう願っております。それでは皆様、I love you

  • 生命エネルギーその3

     佐助の担当最終日です。よろしくお願いします。
     人間は宇宙と一体で宇宙からエネルギーを受けてそれを体内で生命エネルギーに変えて生きて生かされていると言えるのではないでしょうか。
    地球における宇宙からのエネルギーの大きな波動は光であり、その光も物質だと言う人もいれば、物質でなくエネルギーだという人もいます。
     ある科学者が、光が物質なら質量があるはずだと考えて実験をしています。光の速度は毎秒で地球七周半を回る早さを持っています。実験では地球の縮小したモデルと、地球のモデルより少し大きい同心円のカバー、その地球のモデルと同心円のカバーの間に光りを走らせる装置を作成して行ったようです。そして光をいれる前の総重量と入れた後の総重量を計るといった方法を用いたそうです。その結果、一秒間に走る30万KMの光が人間の髪の毛一本に相当する重量があることを発見したそうです。
     現在では、光の光子は質量が0の粒子というのが見解です。
     相対論の出発点は、光速度不変の原理だったそうです。光の真空中の伝達速度は、どのような基準をとっても、秒速30万キロメートルであるという法則です。光とは、何かが振動している波である(波動説)とか、物質が原子からできているように光も光の粒子からできている(粒子説)などの主張がなされてきていました。そして、その論争が決着したのは、20世紀初頭だった(相対性理論が登場した時代でもある)そうです。その結論によれば、光はやはり粒子であったという結論になったようです。しかし日常的なイメージでの粒子とは異なり、ある意味で、波のような性質を持っています。波のような性質を持っているといっても、実は光子自体が振動しているわけではなく、電子、そして原子核を構成している陽子とか中性子といった粒子など、この世界のすべての粒子が、波のような性質を持っていることがわかったそうです。しかし、電子や原子核は、いろいろな速度で動きます。止まっていることもできるし、エネルギーを与えて加速すれば速度は増えていきます。しかし決して光速度まで加速することはできないようです。
     常に一定の速度で動く光とは、どこが違うのでしょうか。 
     光を構成している粒子を、光子と呼びます。光子は常に秒速30万キロメートルという速度で動きます。一方、電子など他の粒子は、決して、この速度にまで達することができないというこの違いは、振動数が光速に等しくなると、割る数が0になってしまい、エネルギーが無限大になるというのが、物体が光速度で動けない理由だそうです。
     相対性理論によると物質は光の速度、つまり光速を超えることができないとされています。しかし、国際研究実験OPERA(長基線ニュートリノ振動実験(Oscillation Project with Emulsion-tRacking Apparatus)の略)のチームが、人工ニュートリノ1万6000個を、ジュネーブCERNから約730km離れたイタリアのグランサッソ国立研究所に飛ばしたところ、2.43ミリ秒後に到着し、光速より60ナノ秒(1億分の6秒、ナノは10億分の1)速いことが計測され、1万5000回の実験で同じ結果が示されたそうです。
     これまでの物理学の常識では、相対性理論が絶対でその確かさについては多くの検証が積み重ねられてきたそうです。その相対性理論を破る実験権結果が得られたことになり大きな話題になっているようです。そして、日欧を中心とする国際研究グループが測定結果を精査する実験で、スイス〜イタリア間で発射されたニュートリノのスピードが光速を超えるという測定結果がやはり出たとのことです。
     研究者らはなお今回の結果には慎重で、結果が確認されれば、物理学における理解が根本から覆されることになるといわれ、またニュートリノが4次元(空間の3次元+時間)とは別の次元への近道を見つけたのかもしれないと話しています。
     今週は生命エネルギーとしていろいろ調べてみましたが、この世に誕生し、人間は生まれながらにして救われているという真理がありますが、からだのエネルギー交換も、この地球も、この宇宙も、自然の全てがイノチと繋がって(生命現象)いることに改めて実感しています。 自分は不滅だと今の時を自分の物のように生命エネルギーを浪費しているようでも、実際にはこのイノチは自然に生かされているからだなのだということを強く感じす。もっと多くの方に、生かされているこのイノチの営みに適う生き方を学んで頂きたいと思います。
     一週間お付き合いありがとうございました。

  • エネルギー変換その2

     佐助の担当六日目です。よろしくお願いします。
     昨日も書きましたが、ATPは長期貯蔵ができません。また、ATPの産生も消費も個々の細胞内で行われるものであり、他の細胞で作られたATPを利用することはできません。つまり、ATP産生の原料であるブドウ糖と酸素は常に全身の細胞に供給され続けなければならないのです。この供給には血液循環が使われため、ブドウ糖も酸素も血液によって全身に運ばれています。
     酸素は肺でヘモグロビンの酸化によって吸着され、細胞に運ばれると二酸化炭素とガス交換されます。そのために呼吸が停止すると酸素の供給がただちに停止し、全身の細胞において好気的反応ができなくなりエネルギー不足の状態を生じます。脳細胞においてはこの影響は特に敏感で脳細胞の機能停止は意識混濁から昏睡状態に陥り、ほどなく死に至ります。これは酸素が水には溶けにくいという性質ゆえに、常時細胞内に蓄積しておくことができず、なんらかの方法で運搬し続けなければならないという事情に起因します。もしも、ヒトの生命維持に十分な量の酸素が水に溶けうるものであるとしたら、長時間呼吸停止しても細胞内に溶け込んだ酸素を利用することでただちに死に至るという状況は避けられるのかも知れません。
     ブドウ糖は摂食され消化、分解された炭水化物が肝臓でグリコーゲンとして貯蔵され、グリコーゲンからグルコースブドウ糖)に分解されて血液中に供給されます。 筋肉細胞や脂肪細胞にはグリコーゲンの貯蔵機能があり、短時間であればこれを解糖してエネルギー供給が可能ですが、神経細胞、赤血球にはグリコーゲンの貯蔵機能がなく、血液からのグルコース供給に完全に依存しています。そのため血液中のブドウ糖濃度すなわち血糖濃度が一定値に保たれなければ、脳においては酸素欠乏と同様な結果をもたらすことになり、低血糖となり呼吸停止と同様に脳細胞の機能停止、意識混濁、昏睡状態から死を招きます。
     血流の途絶はエネルギー産生の停止を意味し、細胞の壊死に至ることになり、また逆に血糖濃度が高くなりすぎると、大量の糖が細胞内に入り糖尿病に見られる合併症を引き起すということになり、血糖濃度におけるホメオスタシスは生命維持に極めて重要となります。
     血糖濃度のホメオスタシスにはインスリン、グルカゴンというホルモンが作用しています。 摂食された炭水化物は単糖に分解され、小腸で吸収され門脈を経由して肝臓に運ばれ、また摂食によってすい臓ではインスリンが産生されます。インスリンは糖分を細胞に取り込む作用をし、肝臓ではインスリンの増加によって余分な糖分がグリコーゲンに変えられて蓄えられます。
     食後1時間ぐらいは消化管から吸収された糖により血糖値は少し上昇するが、インスリンの作用によって2時間後には食前の状態に戻ります。逆に外界からの糖の供給が減るとすい臓ではグルカゴンが作られ、グルカゴンの増加によって肝臓はグリコーゲンをグルコースに変え(糖新生)血中に放出する。食事をしていない間は糖新生によってつくられたグルコースによって血糖濃度が維持されています。
     長期の絶食では、グルカゴンの働きで糖新生が行われるために、血糖濃度が維持されることになり、糖新生にはグリコーゲンからグルコース、乳酸からグルコース、脂肪からグルコースというようにグルコースが生産されます。しばらく絶食しても、グリコーゲンや脂肪をグルコースにしている間は、血糖値が維持され生命は保たれます。しかし、筋肉のタンパク質が分解されて出来たアミノ酸からグルコースは最終段階で、タンパク質が分解されてくるともはや生命を維持できない状況に陥ってしまうようになります。
     筋肉のエネルギー利用に触れてみたいと思います。
     筋肉は性質から白筋と赤筋に分けられ、白筋は短筋とも呼ばれ瞬発的な動作に優れ、グリコーゲン、クレアチンリン酸に富み、嫌気的解糖によってエネルギーが得られます。赤筋は長筋とも呼ばれ持続性に優れ、ミオグロビン、ミトコンドリアに富み、酸化的リン酸化でエネルギーを得られています。ただし実際には、白筋と赤筋は入り混じっていて区別はつきにくいようですが、一般には上肢筋は白筋繊維の割合が多く、下肢筋は赤筋繊維の割合が多いようです。
     短距離走では、始めの数秒間は筋肉細胞内にあるクレアチンリン酸とADPが使われ、その後グリコーゲンが使われますが解糖によるものであり、乳酸とATPが発生します。 乳酸は蓄積すると筋肉が酸性化し痛みを感じます。短距離走による筋肉の痛みは乳酸蓄積によるものであり、その後は乳酸が血中に放出され肝臓で捕捉されます。 肝臓では糖新生によって乳酸からグルコースへの反応が起こりますが、これにはミトコンドリアの酸化的リン酸化によるエネルギーが利用されることになります。運動後に呼吸が亢進するのは、乳酸処理に大量のエネルギーが必要となるためです。
     中距離走では、血中からグルコースを取り込み、グリコーゲンを再合成して次の急激な運動に備えます。
     長距離走では、筋肉のグリコーゲンが緩徐に消費され、好気的酸化によってミトコンドリアで完全に酸化されます。したがって乳酸の蓄積は起こらず、筋肉の痛みを避けた状態で長時間の運動が可能となります。
     長時間の持続運動では、骨格筋のタンパク質は筋収縮のために必要ですから、血糖維持のために使い尽くすわけにはいかないため、長時間の持続運動のためには脂肪がエネルギー源として使われます。脂肪によるエネルギー供給は、脂肪組織ではアドレナリン(ホルモン)によって、脂肪はグリセリン(グリセロール)と脂肪酸に分解されて血中に放出されます。 グリセリンは肝臓の糖新生系でグルコースになり、 脂肪酸は血中のアルブミン(血清タンパク)に結合し、肝臓に運ばれミトコンドリアの酸化系でアセチルコエンザイムエーになります。この過程で生成されるエネルギーはATPに換算すると33個になります。
     からだのエネルギー変換に起こる無意識の細胞の自己更新にはビックリするような機能があります。細胞は炭素、水素、酸素、窒素、リン、硫黄などの元素から構成されているそうです。環境が不変で成長もしない限り、細胞の自己更新とは、これらの元素からなる化合物の分解、再合成が可能なため、構成素材として新たな供給は不要で、環境変動のために化合物組成を変える場合でも、化合物相互の変換によって対応できるので、必要なのは呼吸によるATPだけだそうです。
     最低限の生命活動(生物学的仕事の統合、タンパク質作用のネットワーク)とは生物体の現状を自己維持すること(生きていること)であり、エネルギー変換を通じて絶えず細胞の自己更新する(新陣交代する)細胞の全体的統合の活動だそうです。
     今日はこの辺りで・・・。ありがとうございました。

  • エネルギー変換その1

     佐助の担当五日目です。よろしくお願いします。
     近年、生化学、分子生物学、そして構造生物学などの進歩により生命科学は飛躍的に進展しているそうです。これまでの研究は生命を構成する要素に関する研究が中心でしたが、生命はこれらの要素が時空間的に複雑に関係し合って構成するが「生命動態システム」で、細胞は膨大な素子がネットワークを形成して相互作用する超複雑な生命システムなのだそうです。
     ヒトは呼吸が停止すると容易に死に至りますが、絶食しても水分さえ供給されれば一週間や10日は死ぬことは無いそうです。死に至る根本的な要因は、細胞の死をもたらすような物理的な破壊が無いとすれば、エネルギーの供給が途絶えることにあります。ヒトは活動していればもちろんのこと、なにもせずに安静にしていても体内の各部はエネルギーを必要とします。寝ているときでも心臓は動き続けているし、意識せずとも血液や骨、からだをつくるタンパク質は作られています。すなわちエネルギーは常に消費され続けていて、エネルギー保存則が成り立つ以上、からだにはどこからかエネルギーが供給されなければならないのです。
     ヒトに限らず、全ての生き物では生きている状態を維持するためのエネルギーとしてATP(アデノシン三リン酸)から得るエネルギーが使われます。反応の全体をみると、ATPと水との反応によってADP(アデノシン二リン酸)とリン酸になる過程で発生するエネルギーが消費されます。
     ATPはリン酸部分が高エネルギー結合をしたもので、高いエネルギーを与えてその結合が作られたものから、切り離す時には高いエネルギーが発生するそうです。
     タンパク質の合成、筋肉運動、生物電気作用など体が必要とするエネルギーのすべては、ATPからADPになる反応によって生じるエネルギーが使われますが、エネルギーの供給はこの逆の過程をとり、ADPから ATPになる反応で準備されます。このときにはエネルギー消費とは逆に呼吸や、発酵によってエネルギーを供給することによって、エネルギー消費の準備が行われるとのことです。 すなわち生体においては常にADPとATPの変換の反応が起きているということになります。
     細胞は生命の最小単位であり、その活動を支えるためには全ての細胞でATPの産生が行われています。この生体特有の化学工場のはたらきは、細胞内の主にミトコンドリアで起きています。ATPから取得されるエネルギーはあらゆる生命活動のエネルギー源として利用されますが、ATPは貯蔵されないので、生命維持のためにはATPの産生は常に休みななく行われなければならないのです。
     通常の細胞ではATPは1分以内に消費されますので、ATP産生が滞れば細胞は1分以内に死に至るということを意味します。ATPの産生には酸素が必要であり、従って無酸素状態の密室に入れば数分以内に意識を失い死に至ることになります。
     ATPの産生には摂食によって得られた栄養と酸素が必要です。まず、食物摂取によるATP産生の材料供給について触れてみたいと思います。
     摂食によって得られた食物は酵素によって触媒され、まず胃で細かく砕かれた後に、タンパク質はアミノ酸加水分解され、多糖類(炭水化物)は単糖に加水分解され、中性脂肪グリセリンや脂肪酸に加水分解され、小腸で吸収されます。
     タンパク質は20種類のアミノ酸が結合して作られています。そのうち9種類は体内では生産することができないもので、かならず体外から摂取しなければならず、必須アミノ酸と呼ばれています。
     単糖とはグルコースブドウ糖)等で、これ以上分解できない糖類の総称です。ATPの産生にはグルコースや脂肪が利用されます。
     小腸で吸収された栄養素は静脈から門脈を通り肝臓に移送されます。肝臓は必要に応じてグルコースを血液中に放出し、グルコースは肝静脈を経由して血液循環によって全身に供給され、エネルギーを必要とする身体各部の細胞で消費されます。このとき余分なグルコースはグリコーゲンの形で肝臓内に蓄積され、筋肉細胞にもグリコーゲンとして蓄積する機能が備わっています。
     細胞がグルコースを利用し、ATPを産生する仕組みには解糖と呼ばれる嫌気的反応と酸素を必要とする好気的反応があります。嫌気的反応(解糖)は、1分子のブドウ糖を解糖によって2分子のATPを生成しますが、酸素を必要とせず、乳酸発酵をするものをいいます。生命維持のためのATP産生は解糖だけでは不十分であり、好気的反応が必要となります。好気的反応は、嫌気的反応に対して酸素を必要とします。酸素を必要とする反応ではADPをATPに変化させるためのエネルギー源として、酸素と水素の反応エネルギーが使われます。酸素は呼吸によって供給されますが、水素は外部から直接取り込まれることはないので、細胞内で生成されなければなりません。クエン酸回路を通じて水素原子が発生し、最終的にはこれが分子状酸素と結合して水になるのですが、生体においては特有な酸化様式がとられているようです。水素原子は細胞内にある補酵素であるNAD(ニコチンアミドアデニンジヌクレオチド)やFAD(フラビンアデニンジヌクレオチド)と結び付き蓄積されます。このように補酵素によって行われる水素原子の結び付きを電子伝達系といわれます。
     ヒトが呼吸によって酸素を取り入れ、不要物として二酸化炭素を排出するのは、呼吸によって取り込まれた6モルの酸素分子から36モルのATPが産生され、このとき6モルの二酸化炭素が排出さることになる。これにより36×7.3kcalのエネルギーが供給されることを意味する。好気的反応に解糖によるATP2分子と合わせると、ブドウ糖1分子から38分子のATPが産生されることになります。
     代謝とは細胞内の化学反応で産生された水素が酸素と結合するときに発生するエネルギーを利用してADPをATPに変化させる機構であるといえるようです。
     今日はこの辺りで・・・・。ありがとうございました。

  • フラクタル

     佐助が担当する4日目です。4日目の今日はフラクタルについて書きたいと思います。よろしくお願いします。
     自然界を理解する上で欠かせないのが、フラクタル現象とされています。フラクタル現象は、1960年代にフランスの数学者マンデルブロー(Mandelbrot)により導入された幾何学の概念で、部分が全体と相似(自己相似)となるような図形をいいます。フラクタルの代表的なモデルとして、コッホ曲線 (Niels Fabian Helge von Koch, 1870-1924) があります。自然界のデザインにはどこか共通したものがあります。自己相似性という原理ですが、これを数学的に表現しようというのがフラクタルでもあります。つまり同じ式の繰り返しから自然界のデザイン生成をしようというものです。
     例えば直線があります。

     直線の真ん中3分の1を三角に折ります。

     その線を同じように折ります。

     同じように繰り返すと、雪の結晶になります。詳しくは、曲線比率や物理数学の知識を要しますが、こうした原理を体系化したのがフラクタル(仏教の世界感を表したとされる曼荼羅マンダラ」もフラクタルになっています)ということになります。コッホ曲線の「三等分の真ん中が正三角形になる」という情報は、つまり、潜在する原理であり、それは染色体遺伝情報(単位塩基配列)に相当させると、自然現象の分割成長が即ちフラクタルな展開であると理解できます。一般に樹木や海岸線、植物がフラクタル外相を帯びるのはそのためです。
     フラクタル図形とは1つ1つのセル(細胞)が、忠実に基礎情報を展開した集積体であるといえます。これは、からだの細胞分裂となる分割成長そのものに近似してくることから、自然現象がフラクタルな分割成長をもって成長しているといえるようです。例えばサンセベリアの葉を葉に対して垂直に、3つに切り分けて、切り口を川砂に挿しておくと、まず根が出て新芽がふきます。サンセベリアの細胞1つ1つは、その生を維持するために、下は根っこ、上は葉先ということを理解して、そのように成長します。その場に相応しい分割成長を個々の細胞が判断し、環境に適応しているということです。京都大学山中伸弥教授(物質−細胞統合システム拠点/再生医科学研究所)らの研究グループが、発表したヒト人工多能性幹細胞(iPS細胞)はじめ、再生医療の世界の報告が、適応性を明らかにしていると思います。
     簡単にいうと、「どこにも中心がなく、どこにも中心がある」ということになるのではないでしょうか。からだでいうと、脳だけがからだの核となる中心でなく、手足の骨格や臓器・筋・皮膚などそれぞれのすべてが核となるということになると思います。
     自然現象は、分割成長させながら、46億という長い時間をかけて地球の大自然を発生させたということになります。
     フラクタル原理により作成された動画を紹介します。

    今日はこの辺りで・・・・。ありがとうございました。

  • 生命システム

     明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願い致します!
     ブログ3日目となる1月1日も佐助が担当します。よろしくお願いします。
     僕達はこの世に誕生して、この肉体を、この地球という星のなかで維持しています。からだの肉体の細胞のひとつひとつや、髪の毛も爪も、心臓も脳も、すべての身体の構成要素がまた生命を保ち、それぞれの役割を果たしています。このからだの構成要素のどれひとつをとっても、単独では生命を維持することはできません。この世に生を受け肉体がある以上、自然に生かされ救われているからこそ、生命が維持できる環境やシステムがあるのです。生命システムを調べていると、生命の基本法則として、共生、循環、フラクタルを挙げている方がいました。
     「命の基本情報DNAがこの共生、循環、フラクタル基本法則の上に成り立ち、時空すべてのものがひとつの生命システムの上に存在しています。すべての時空に存在する法則、モノ、エネルギー、身近なところでは「バランスの取れた生き方、考え方」という言葉があるように、人の思考、人生観といった抽象的概念にまでこの三つの基本法則は及んでいます。共生、循環、フラクタルという基本法則こそが、宇宙、生命、時空そのものである」と言われています。
     共生、循環、フラクタルがどういうものか簡単に説明すると、共生とは、最もシンプルな共生関係は陰と陽の関係だそうです。二つの対極は、お互いを活かし、生かし合っています。どちらも対極となる相手がいなければ、自らの存在を維持することはできません。超ミクロ(極小)の世界では、原子核と周りを飛び回る電子、超マクロ(極大)の世界では、太陽と周りを回る地球や他の惑星、これらも互いを活かす共生関係です。また生物界における、植物を草食動物が食べ、草食動物を肉食動物が食べ、動物が死んでバクテリアの餌となり土に還り、そして植物の栄養となる、この食物連鎖共生関係のひとつだそうです。循環は共生関係が時間の変化に伴って、お互いの役割を変化させながらまた新たな共生関係を築くことだそうです。共生関係が成り立っているから循環するのであり、共生と循環はどちらも単独では存在し得ないとのことです。フラクタルは、ミクロからマクロの世界まで、同一の形状、形態で貫かれた自己相似形の世界です、フラクタルの性質は、空間の上での相似性で理解されることが多いのですが、実際は時空の概念を越えているそうです。います。例えば、宇宙の基本構造二重螺旋で、時空の流れをみると、文明サイクルという文明法則史学における800年周期の二重らせんは、歴史の流れという時間軸と文明の興亡度というふたつの軸で構成されているそうです。

    これは、遺伝子DNAの持つ二重らせん構造に似ているということです。

     つまりフラクタルとは、空間の上だけのものではなく、時空の概念を超越し、時空が相互にからみあった上にも、そしてまたひとつの時間軸の上にも存在するということです。
     明日はフラクタルについてもっと深く調べてみたいと思います。
     今日はこの辺りで・・・。ありがとうございました。

  • 生命

     佐助担当の二日目ですよろしくお願いします。
     生命エネルギーの前に、生命とは・・・について触れてみたいと思います。生命とは、基本的には生きているものと死んでいるもの、あるいは物質と生物を区別する特徴・属性などを指す語、あるいは抽象概念である(wikipediaより)。といっても生命を簡単に説明することはできません。生命とは、哲学の分野、生物学での分野において常に論議されているが、生命とは純粋な物質というわけではないからこそ、哲学者や生物学者の中には、生命を定義する必要など無い、「生命というのは自然の事実なのだから」と述べる人がいるくらい定義ができないようです。
     この自然の体系においても、18世紀に分類学の父とされるリンネは(1735)は、その「自然物は鉱物界、植物界、動物界の三界に区分される。鉱物は成長する。植物は成長し、生きる。動物は成長し、生き、感覚を持つ」と定義しています。20世紀になるとホーリスム的な考え方も提唱され、またネオヴァイタリズムや有機体論なども登場し、現在では、分子生物学な見解も当然のように認められており、また、生命を情報の伝達やエネルギーの方向性のある変換とも言われるようになっているなど様々な切り口で把握されており、現代の生命論は複雑な様相を呈しています。
     最初の生命は約46億年前、地球誕生から6億年たった頃の海の中で誕生したと考えられています。材料となった基本的物質は原始大気中の成分であるメタン、アンモニア二酸化炭素などの無機物であったとされ、これらにエネルギーを加えることによって、生命の素材は作られ、エネルギーは太陽光、雷の放電、放射線や熱、紫外線などによってもたらされたものとされています。
     こうして生命を構成する基本的な物質、生命物質を合成した。アミノ酸、核酸塩基、糖や炭水化物などの有機物です。反応が起った場所としては、エネルギーが十分に与えられたと考えられる海底熱水噴出孔や隕石の落下地点などとされ、こうしてできた生命物質は雨によって原始の海に溶け込み、原始スープを形成し、海の中を漂っていた物質が反応することによって、初めての生物は生まれたとされています。  
     初期の生物は全て単細胞、細胞の構造は簡単で、はっきりとした核をもたない原核細胞であり、これらの細胞ははじめ、海の中を漂う有機物を利用した、嫌気呼吸という方法によって進化していっていったとされています。しかし有機物には限りがあり、やがて自分で栄養を作り出す手段が必要となり、これが光合成となります。光合成をする最も古い生物の化石は、約35億年前の、オーストラリアで発見されたラン藻植物とされ、光合成によって、無機物である二酸化炭素と水からグルコースブドウ糖)などの炭水化物を作り出すことが可能となって、酸素が副産物として放出され、酸素ができると、やがて酸素を利用した呼吸、好気呼吸をする生物も誕生し、これが呼吸方法となったようです。

     原核細胞は進化を続け、多様な種類のものが現われ、そしてやがてそれらの中から核を持った生物、原生生物が現われたそうです。原生生物は真核細胞を持ち、動物や植物の直接の先祖が登場(15〜12億年前)したようです。また同じような時代に、単独では生きていく事ができなくなった単細胞生物同士が合体して、多細胞生物が生じたと考えられています。 そして5億7500万年前から、生物は爆発的な多様化をみせるようになり、現在存在している動物の体の構造の基礎ができあがったのもこの頃とされ、この多様化の一連の中で初期の無脊椎動物から魚が出現し、 それから1億年以上後に生物が陸上へ進出し多様な進化をしていったと言われています。
     現在の感覚を持つ動物が生まれるまでには、長い時間の進化という流れから生まれてきたわけですから、今の僕達は生まれながらにして救われているこのイノチには、この進化の記憶がからだに存在しているはずです。この長い時間の進化によって獲得された優れた感覚である原始感覚が、現代の世の環境によって原始感覚が退化し始めているように感じる気がしますがどうでしょうか?進化してきた先にあるものは、さらなる進化なのか退化なのでしょうか?
     今日はこの辺りで・・・。今年一年ありがとうございました。良いお年をお迎え下さい!