カテゴリー: 未分類

  • 先日読んだ記事に、ネガティブシンキングのススメということが紹介されていました。
    メンタルトレーナーの森川陽太郎氏が提唱されているもののようですが、気になって読んでみました。

    メンタルサポートをしていく中で気づいたのですが、自信が欲しい人ほど「ポジティブ」でいようとする傾向にあります。逆に言うと、自信がないから「ネガティブ」な自分を受け入れられないのです。「ポジティブ」でいようとすればするほど、自信を失っていくメカニズムがそこには存在します。

    いつも前向きにいよう、ポジティブに考えようとかいうことはいいことのように思われがちですが、自然体で出来る人もいれば、意識的にそうしなければという人もいるでしょう。
    でもそれが負担になってしまい自分を追い込んでしまってはいい結果にはなりません。

    操体の教えの中に、「頑張るな、欲張るな、威張るな、縛るな」というバルの戒めがあります。
    頑張らない事は怠ける事とは違います。
    からだにも心にも無理をさせない。

    自分の限界を知った上で、現実を変えていくのが最善です。「自分の限界を更新していく作業」を、あきらめず続けてられるメンタリティを持った人こそが、本当に「前向き」なのです。

    マイナスの感情を悪いものだと考えずに、それを受け入れた上で行動し、成功体験を積み重ねていくことが重要のようです。

    ネガティブシンキングだからうまくいく35の法則

    ネガティブシンキングだからうまくいく35の法則

  • 今朝目が覚めると、首の右側に違和感がありました。
    どうやら寝違えてしまったようです。
    ずいぶんと久々ですが、こういう機会もありがたいなと思います。
    20代の頃などは、肩こりや腰痛などになった記憶があまりなく、今の仕事を始めた頃も想像しながらの部分があったものですが、30代になり人並みに経験できるようになってきたのかもしれません。
    かつて、操体で一番興味をひかれたのは自力自療でした。
    他の手技療法では施術者の判断で治療を行いますが、操体では本人にしかわからない感覚をききわけ味わうことで自然治癒力を高め、からだの歪みを整えます。
    からだの事はからだが一番よく知っているのでからだにききわけてみるのが一番です。
    施術者はそのお手伝いをする立場です。

    からだが教えてくれているサインであれば、首の痛みさえもありがたいものです。
    とは言え、そのままではやはり痛いので自分で操法をとおします。
    今日は手関節の外旋から。

    今度の春のフォーラムは参加型実技の指導の時間があります。
    実際にやってみたいという方はぜひ足を運んでみて下さい。

    2013年春季東京操体フォーラム(第1報)

  • 近頃、ようやくEvernoteを使い始めました。
    アカウント自体は以前から持ってはいたものの、活用方法が思いつかず放置したままでした。
    ライフハック系のブログなんかも好きでけっこう読んではいるのですが、便利なんだろうなと思いつつそのままにしていました。
    これが使ってみるとなかなか面白いです。
    Twitterの時もそうでしたが、とりあえずやってみる、と。
    操体関係の記録も手帳やノート、ブックマークやGmailに残してありますが、ばらばらになっているよりは一箇所にまとめてあった方が後から見なおして勉強するのにいいですね。

    参考になったのはこちらのブログ

    Evernote初心者へ送る。衝撃的で斬新だった使用例を集めてみた。

    参考になりすぎるEvernote活用例3 – @OZPAのラーメン –

    こういう使い方でいいんだ、と目からうろこでした。

    どうもやってみる前からあれこれ考えてしまう癖があって、二の足を踏んでしまうのですが、このように趣味のことや、これからやってみたいこと、行ってみたい場所の情報を集めるのもありですね。
    その分見に行く回数も増えてよさそうです。
    キャッチコピーも「すべてを記憶する」ですしね。

    これから活用していこうと思います。

  • 今日は立春、暦の上では春ですね。
    この時期になると中原中也の春宵感懐を思い出します。
    「在りし日の歌」の中の詩。
    高校生の時に初めて詩集を買ってから、上京した時も旅行へ行くときも常に手元に置いていたのですが、当時はあまり印象に残らず、そのまま忘れていました。
    数年前に奥多摩の方まで行った帰りに、とあるサイトで一部を引用されているのを目にし、数日後たまたま聴いていたラジオで朗読が流れてきたのを耳にし、それ以来好きな詩の一つになっています。

    最近思うところがあって、過去の手帳やらノートを見返しているのですが、その中に中也の言葉がメモしてありました。

    常に人は自らで耕さなければならない

    これは常日頃から三浦先生から諭されている言葉でもあり、橋本先生も治療所に籠って患者ばかり診てると脳みそがくさるぞと仰っていたそうです。
    もちろん臨床は大事ですが、自分自身を耕し続ける事もまた忘れてはならないとの言葉です。

    操体の臨床に生かせるように、アンテナをはってやわらかくやわらかくいろいろ吸収していきたいと思います。

      春宵感懐

     雨が、あがつて、風が吹く。
      雲が、流れる、月かくす。
     みなさん、今夜は、春の宵。
      なまあつたかい、風が吹く。

     なんだか、深い、溜息が、
      なんだかはるかな、幻想が、
     湧くけど、それは、摑めない。
      誰にも、それは、語れない。

     誰にも、それは、語れない
      ことだけれども、それこそが、
     いのちだらうぢやないですか、
      けれども、それは、示かせない……

     かくて、人間、ひとりびとり、
      こころで感じて、顔見合せれば
     につこり笑ふといふほどの
      ことして、一生、過ぎるんですねえ

     雨が、あがつて、風が吹く。
      雲が、流れる、月かくす。
     みなさん、今夜は、春の宵。
      なまあつたかい、風が吹く。
     <<

  • こんばんは。
    今日2月3日は節分ですね。
    しばらく前から恵方巻きの予約が開始されていて、もうそんな時期なんだなと感じるようになったのはこの行事も定着して来てるのでしょうね。
    子供の頃はというか、つい数年前まで馴染みがなかった気がします。
    ちなみに今年の方角は南南東とか。
    うちはというと、落花生でささやかながら豆まきをしておきました。
    齢の数だけ食べると無病息災で過ごせると言ったりしますが、この場合って殻の数なんでしょうかね。
    いずれにしても、さすがに沢山はきついのでほどほどに。
    今年一年健康に過ごせますように。
    明日は立春で、次第に暖かくなってはきてますが、季節の変わり目で体調を崩しやすいので気をつけてください。
    では一週間よろしくお願いします。

  • 「知識」の編集工学(最終日)

    昨日のつづき

    知性の機能である知識があまりにも主観的な言語によって正しく理解することができないでいると、すでに述べたところだ。そしてこの言葉と言うのは社会で人間同士が各人の想いを伝達するための手段として発達したものである。が、そのためには非常に高尚な精神作用の発達が必要であり、それはどういうことかと云うと、「概念」というものが必要不可欠であったということだ。

    言葉は「概念」と不離に結びついており、概念のないところに言葉は発達しないのである。たとえば、「からだ」という言葉を口にすれば、誰でも直ぐにわかってもらえるはずだ。なぜなら、言葉は一つの概念の表現だからである。だから動物と違い、人間の「思考」の働きが急速度に進歩し、拡大したものと考えられるのである。

    このように「言葉」「概念」「思考」の三つの間には不可分の関連があるが、さらに、もう一つ「知識」がこの関連のつながりに加えられることになる。つまり、知識は言葉とも不可分に結びついているのである。そして知識が概念から成り立っているということは、言葉によって表現できるということだ。なのに、同じ言語がなぜ認識を欠くのかというと、言葉を使う者が言葉だけに止まっているからである。操体においても言葉の誘導が重視されるのはここにある。

    言葉による正確な理解のためには厳密な言語が必要だ。その言語構造の基礎を的確な原理、すなわち相対性の原理の上に置かなければならない。つまりそれは、あらゆる概念の中に関係性を導入することで、それにより思想の立場を的確に決定することができるのである。
    というのは、普通の言葉にまさしく欠けているものは相対性の表現であるからだ。この厳密な言語を習得すれば、あらゆる科学、哲学用語をもってしても普通の言語では伝達することのできない多量の知識や情報を伝達、連絡することができるようになる。

    このような厳密な言語の基本的な特性は、その中のすべての観念は一つの進化の観念のまわりに集約される。つまり一つの観念の視点から、相互関係において理解されるということだ。そしてその厳密な言語というのは、「知恵」から生まれてくる。

    江戸時代の賢人、石田勘平は武士道の根本経典である儒教の学問があり余るほどあるのに、素行がさっぱり駄目な人のことを「文字芸者」と呼んで軽蔑していた。いかに学問があろうとも、それが知識に止まって「知恵」になっていない者は文字を知り、理屈のうまい芸人に過ぎない、と言ったそうである。

    現代においても、あまりにもそのような人が多いので誰も気がつかないで、知識のある人はとりもなおさず知恵のある人だと思い込んでいるようであるが、この「知恵」というのは人間の実践と結びついているものだ。

    また中国の荀子という人は「君子」と言われるような教養の高い人物の学問は耳から入って心に定着し、それからからだ全体にゆきわたるものであり、小人と言われる教養が低くて私利私欲に支配されている人物の学問は耳から入って口から出てしまい、耳と口の間の僅か数cmの間を通過するだけで、1.5m以上のからだを持つ人間をかざることはできない」と書いている。

    「知恵」と「知識」とは全く別の知性の機能である。一般的に言って我々は「知恵のある人」のことを「賢い人」といい、「知識のある人」を「学者」といって区別しているように両者は必ずしも一致はしないのである。

    「知恵」は「知識」と違って本来、言葉で表現できるものではない、またしなくてもよいのである。ただ知識が知恵に変わり、知恵から知識が生ずるというふうな相互交渉は認められるが、それでも知恵は知識にあらず、知識は知恵にあらずと区分することで真実をとらえることが可能になる。

    これらの知恵と言葉との間には直接の関係が無いというその根拠は、動物の本能に求めることができる。我々が動物の本能と言っているものは、これ即ち動物の知恵なのである。動物は知識の豊かな我々人間よりも上手に子どもを育てることができる。動物の本能は驚くべき巧妙さで環境に適応してゆくことができる、これこそが動物の知恵である。動物を見れば、このように言葉はなくても知恵はあり得るという証拠になっているのだ。

    私たち操体の療法家が目指しているのも、受けた知識を知恵に変え、その知恵からまた知識を生じさせるという、人間独自の進化、発展に寄与することであろう。

    一週間、「知識」について、「編集工学」を試みたわけであるが、いささか疑問が残らないわけでもない。 とはいうものの操体療法家にして不完全な中身を引きずりながら、操体知識とその機械的な心の所有者として、心理学というよりは力学的工学論の面から眺めることができたように思っている。

  • 「知識」の編集工学(六日目)

    昨日のつづき

    先にも述べたとおり、知識は決して隠されてはいないし、いかなる神秘もないと言った。知識というのは誰も何一つ隠してはいないし、またいかなる神秘もない。しかし、真の知識の習得、あるいは伝達においては、多大の労力と努力を、それを受ける者にも、それを与える者にもその両方に要求してくる。

    そしてこの知識を所有するものは、それを可能な限り多数の人々に伝達し、分かち合うため、また人々がそれに近寄りやすくなるよう、あるいは人々が真理を受け取る準備ができるよう、あらゆる手を尽くしているが、知識は力ずくで人に与えることはできない物質である。

    知識の所有者が知識を隠しているとか、知識を人々に与えたがらないとか、知っていることを人に教えようとしない、などというのは、平均的な人間の生活を、つまり人々が毎日やっていることや興味を持っていることなどを偏見なく見るならば、すぐにはっきりすることだ。

    知識を手に入れたいものは、すべての人に与えられている助けと指示を利用してその源を探り、それに近づく努力の第一歩を踏み出すことが絶対に必要なのである。しかし、概して人々は、そんな助けや指示を見たいとも認めたいとも思わない。

    けれども本人の努力がなくては知識を得ることはできないのだ。普通の知識に関しては、このことはとてもよく理解されているが、操体のように奥義を極めなくてはならない知識の場合となると、その存在の可能性を認めさえすれば努力は不要だと思ってしまうのである。

    たとえば、外国語を習得したければ、少なくとも数年間は一所懸命に勉強しなければならないし、医学の原理を把握するには五〜六年は要するであろうし、絵画や音楽を勉強するにはおそらくその二倍の年月が必要だということは誰でも知っている。にもかかわらず、最近において、努力もせず、眠りながらでも知識を手に入れることができると主張する睡眠学習説までとび出している。

    そんな説があるということ自体、なぜ知識は人々のものとなることができないのかを、さらにはっきりと説明してくれる。同時にこの方面で何かを得ようと一人で努力しても、いかなる結果も得られないことを理解することが絶対に必要だ。

    人は知識を持っている人々の助けがあって初めてそれを手に入れることができるのである。これはいちばん最初に理解されなければならない、人は知っている人から学ばなければならないということを。

    ではどのように学ぶのかというと、スクール方式の言語伝達ではない! 東洋では師弟関係が存在する。師匠は弟子に対して直接教えたりしないで、まず、手本を見せる。そして弟子はそれを見て、自分の内にそのイメージを植えつけることから始まる。このイメージができないと学ぶことができない、しっかりと心の内にイメージすることが最も重要なことになる。すると、どうだろう、何かに導かれるように上手くできるではないか。これが師匠について習うということなのである。

    操体の講習においても、師匠の手本を見て、「いきなり模倣しないで、まずは見ていなさい! 」と諭されるのは、初学者にとって最初に学ぶのは意識的に見るということであり、真似る事ではない。このようにして観るのと、それを想念に納めることを『観術』と称して、師弟関係において言い慣わしているものだ。

    明日につづく

  • 「知識」の編集工学(五日目)

    昨日のつづき

    我々の大部分の人々はいかなる知識も本当は欲しがりはしないというのが実情である。大部分の人々は自分たちの分け前を拒否し、人生のさまざまな目的のために割り当てられた取り分さえ取ろうとはしないし、持っていた僅かな「常識」という知識さえ失って、集団で大規模な破壊に自らを投じる完全な殺戮者と化してしまう。言いかえれば、自己保存の本能さえ失ってしまうのだ。これは戦争とか革命といった類の集団狂気の際に特に明らかになる。

    そのため、巨大な量の知識は要求されないまま残り、その価値を認識した少数の人々の間で分けることができるというわけだ。だから決してここには何ら不正なものはないのである。なぜなら知識を受け取る者は他人の物を何一つ盗るわけでも奪うわけでもないからだ。その価値を認識した少数の人々はただ、他人が無価値だとして拒否したもの、あるいはもし少数の人々がそれを取らなければ、どうせ失われてしまったに違いないものを取るだけなのである。ある者が知識を収集できるのは、別の者がそれを拒否するからにほかならない。

    人類の歴史には、大衆がとりかえしのつかないほど理性を失い、文明が何世紀、何十世紀という時間をかけて築き上げてきたものすべてを破壊しはじめる時期があり、これらの時期は大体において文化や文明の崩壊の端緒と符合している。このような集団狂気の時期は、しばしば地質学上の大異変とか、気候上の変化、あるいは惑星と関連のある同種の現象に符合しており、非常に多量の知識という物質が放出される。
    すると、今度は知識という物質を集める仕事が必要になる、そうしないと失われてしまうからだ。そういうわけでこの収集の仕事はしばしば文化や文明の破壊、凋落の始まりと符合している、この点ははっきりしている。

    大衆は知識を求めることも探すこともせず、また大衆の指導者は、自分たちの利害のために、新しいもの、未来のものに対する民衆の恐怖心と嫌悪感をあおりたてている。この恐怖ゆえに人類は現在の奴隷状態に陥っている。そしてこの奴隷状態の恐ろしさの全貌は想像することさえ困難だ。

    我々は何を失いつつあるかを理解していないのである。しかし、この奴隷状態を理解するためには、人々がどのように生きているか、人々の存在の目的、欲望、情熱、野心の対象は何か、何を考え、何を話しているか、また何に仕え何を崇めているかを見るだけで十分である。

    我々の時代の教養のある人々が何に金を使っているか、戦争を別にして、何が最高の価値を与えられているか、どんなところに大衆が集まってくるかの問題をちょっと考えてみると、人類が今のような関心をもったままでは、それとは何か違うものを得ようなどと期待することは到底不可能だということがはっきりする。しかし、残念なことに、これはそうなるしかはないのである。

    たとえば、人類全体に、年500gの知識が仮に配給されるとする。もしこの知識がすべての者に分配されるとしたら、各人はほんの僅かしか受け取れないので、各個人はその愚かさから抜け出ることはできない。しかし、ほんの僅かな人々しかこの知識を欲しがらないために、これを得たものは、そう、ひとり0.05gぐらいは手に入れ、さらに賢明になる可能性を獲得できるのである。

    いくら望んでも人類みんなが賢明になれるわけではない。それに万一誰もが賢明になったとしても事態は変わらないようになっている。なぜなら覆すことのできない、賢明な人間と愚かな人間の普遍的な平衡がこの宇宙にはあるからだ。

    明日につづく

  • 「知識」の編集工学(四日目)

    昨日のつづき

    操体フォーラムに参加した人の中には「操体という知識が一般的な医学や哲学と異なる、あるいはそれより優れてさえいるかも知れない知識が存在するとすれば、なぜそれは、そんなに注意深く隠されているのだろうか? なぜ共有の財産としないのだろうか? なぜその知識の所有者は、虚偽や悪や無知に対して、より効果的でかつ見込みのある闘いのために、喜んでそれをみんなの前に差し出して広く行きわたらせようとしないのだろうか? 」と、まるで秘教主義思想にでも触れたときの心に起こってくる疑問のように感じている人もいるかもしれない。

    しかし、操体の知識は決して隠されてはいないし、いかなる神秘もない。ただ知識という性質そのものからして、それは共有の財産にはなり得ないということである。知識というのはすべての人、いや多数の人のものとさえなることはできないということを理解する必要がある。我々は知識が地上の他のものと同じく『物質』であるということを理解していないから共有できないことが分からないでいるのだ。

    物質であるとは、物質性のあらゆる特性を備えているというということであり、物質性の第一の特性の一つは、物質は常に限定されている、つまり、ある場所、ある状態のもとでの物質の量は限定されているということである。砂漠の砂や海の水でさえ一定不変の量であり、それと同じように知識も物質であるから、ある場所、ある時のそれは一定の量しかないのである。

    たとえば一世紀間、人類は自由にできる一定量の知識を所有していると言うことができる。人類の生活を普通に観察していても、知識という物質が少量取られるか多量に取られるかによって、まったく違った性質を持っているということがわかる。ある場所で一人が少人数のグループに多量に取られれば、知識は非常にいい結果を生むが、多人数が取ってしまえば各個人はわずかしか取れないので、何の結果も生まないか、あるいは我々が期待していたのとは反対の否定的な結果さえ生み出しかねない。

    だから、もしある一定量の知識が何千万という人々に分配されれば、一個人の取る量は非常にわずかになり、そんな少量では、生活の中でも、物事の理解においても、何一つ変わりはしないことになる。そして、この少量の知識を受け取る人の数がいかに多かろうと、その人々の生活はまったく変わらず、いやそれどころかもっと困難になるかもしれない。

    しかし、その反対にもし多量の知識が少数の人々に集中されれば、それは非常に大きな結果を生みだすことになる。この観点からすれば、知識を大衆の間に広めないで少数の人々の間に保っておく方がはるかに有利なわけである。

    たとえば、もし一定量の塗料で多くのものを塗装しようとすれば、それだけの量でどれほどの数を塗装できるのか、正確に知っているか、もしくは計算する必要がある。もし大量に塗装しようとすれば、塗料は不均等にしかつかず、まだら模様のようになって、初めから塗装しない方がましだったということになる。そして結局、塗料はなくなってしまうのである。

    知識の分配もまったく同じ原理に基づいている。もし少数の人々の間で保持されれば、各自は保存に十分なだけを受け取るだけでなく、それを増やすこともできるだろう。知識を多量に取る者がいるために、知識をいわば拒まれた人々がひどく惨めで、必要以上に不当な立場に置かれていると見えるところから、この理論は一見ひどく不公平に思えるかもしれない。しかし、実際には決してそうではない、知識の配分においては露ほどの不正もないのである。

    明日につづく

  • 「知識」の編集工学(三日目)

    昨日のつづき

    「知識」と「理解」の違いと言うのは、知識は「知性」だけの機能であり、理解は「知性」と「感情」と「動作」の三つの機能からなっている。だから、思考器官は何かを知ることはできるが、理解するには、それに関係していることを人間存在として全存在をもって感じ、直感することができたときに初めて生まれるのである。

    実際に人間行為の範囲内において、我々は単なる行為と理解との違いを非常によく知っている。我々は知ることと、いかにして為すかを知ることとは別なことであり、いかに為すかを知ることは知識だけからは出てこないという事を了解している。
    ところが実際的な行為の範囲外では、「理解」の意味ははっきりと理解していないのである。

    一般的に言って、我々があることを理解していないと気づいたとき、その「名前」を見つけようとし、そしてその名前を見つけると、自分は「理解した」と言う。
    しかし名前を見つけることは理解することではないが、我々は不幸にも名前で満足しているのである。たくさんの名前、つまり多くの言葉を知っている人が多くのことを理解していると思われている。
    もちろんそれは我々の無知がすぐに明らかになるような実際的な行為の範囲を除いての話であるが。

    私たち療法家もクライエントの症状、疾患について真の理解がなされていないと、疾患名を見つけようとしてしまう。
    しかし疾患名を見つけたところで疾患を理解したことにはならない。

    また操体では「症状・疾患にとらわれない」と言っていることから、疾患名に興味はないというかも知れないが、そうなると今度は治すことのハウツーに走ってしまう。そこで操体はこれでもか、と「治すことに関与するな! 」と言う。
    さあ、どうすればいい! そう、疾患そのものを理解することしかないのである。

    だがしかし、理解というのはそんな簡単なしろものではない。まず、「理解」を理解していなければ誤解してしまうことになる。
    なぜなら、人間の活動における「知識」と「存在」との乖離、また、その乖離の部分的には原因であり、結果でもある「理解」の欠如は、一つには人々の話している言語に由来しているからである。この言語というのは誤った概念や分類、誤った連想でいっぱいだ!

    そして重要なことは、普通の思考法の本質的な特性、つまりその曖昧さと不適切さのために、個々の語は、話し手が好き勝手に出す話題と、そのときに我々の内で働いている連想の複雑さに従って、何千という違った意味をもちうるという事である。

    我々の言葉がどれほど主観的であるか、つまり、同じ語を使うときでも一人一人がいかに違うことを言っているかを人々ははっきりと認識していないのである。

    我々は、他の人々の言葉をただ曖昧に理解するか若しくは全く理解せず、また、自分には未知の言葉を話しているなどとは考えもせず、それぞれ自分勝手な言葉を話しているということに気づいてもいない。
    我々は、自分たちは同じ言語を話しており、互いに理解しあっているという非常に強い確信、あるいは信念を持っているようであるが、実際には、この確信に何の根拠もない。
    このように我々の話している言語は、実際の生活の中だけなら何とか使いものになっている。

    つまり、実務的な性質の情報であれば、我々は互いに意思疎通ができるのであるが、少しばかり複雑な領域に踏み込んだとたんに道を見失い、気づかないうちに理解することをやめてしまうのである。
    しかしこの理解こそが臨床において、治癒への方向性を示してくれることになるのだということを、療法家は知らなければならない。

    明日につづく