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  • 「知識」の編集工学(二日目)

    昨日のつづき

    人間の「存在」というのは、実にさまざまな側面をもっている。能動性と受動性、誠実さと偽りの性質、真面目さと不真面目さ、勇気、臆病、自己制御、不品行、短気、利己主義、自己犠牲の覚悟、誇り、虚栄、自惚れ、勤勉、怠慢、品行方正、堕落、他にも多くのものが加わって人間の「存在」をつくりあげている。

    我々の存在というのはこういった非常に劣等、劣悪な質であり、如何なる存在の変化も不可能であり、何も期待できるものがない。このような「存在」が妨害することによって真の知識を受け取ることができないのである。知識と存在の均衡は、その内の一方の単独の発達よりも重要であり、知識もしくは存在の単独の発達は、いつどんな形でも望ましいものではない。

    しかし我々に特に魅力的に見えるのは、まさにこの片方だけの発達なのである。それゆえ我々の歴史上、知識が存在を凌駕したか、あるいは存在が知識を凌駕したために文明全体が死滅したという周知の事実がたくさんある。

    私たちは操体の療法家であるが、「存在」を伴わずに操体の「知識」のみが発達すると、虚弱な療法家が生まれる。すなわち多くのことを知っているが何もできない療法家、つまりこの知識もあの知識も自分にとっては何の違いもないような療法家ということだ。

    また知識を伴わずに存在ばかりが発達すると、愚かな療法家が生まれる。それはつまり、多くのことをすることはできるが、何をすべきか何の目的でするのかわからない療法家であり、もし何かするとしても、本人は自分を邪道に導き、重大な誤りを犯させるかもしれない主観的な感情に従って行動してしまう。ということは、自分のやりたいと思っている正反対のことを実際にはやってしまうのである。そのような虚弱な療法家や愚かな療法家もともに行き詰ってしまうのである。どちらもそれ以上の発達はできないということになる。

    知識というのは一つのことであって、その理解はまた別のことである。我々はよくこれらの概念を混同し、その違いをはっきり把握していないように思う。知識がひとりでに理解を生むということはあり得ないことであり、また知識だけを増やせば理解が深くなるということもない。理解は知識と存在との関係に依存しており、理解は知識と存在の結合の結果なのである。

    また知識と存在は離れすぎてはならないものであり、もしそうなれば理解は知識と存在から非常に隔たったものになってしまう。同時に、知識と存在の関係は知識を増やすだけでは変化することはなく、存在が知識と同時に生長するときに初めて変化するのである。別の言い方をすれば「理解」は存在の生長如何にかかっているということだ。

    普通の考え方では、我々は理解と知識を区別しないで、深い理解は広い知識に基づくと思っている。だから「知識」と我々が呼ぶものは蓄積するが、「理解」の蓄積方法は全く知らないし、そんなことは気にもしないのである。しかし、「存在」が変わったならば「理解」も変化せずにはいられない。
     
    明日につづく

  • 「知識」の編集工学

    今日から一週間、日下が担当します。

    今回は、我々人間が持っている「知識」というものについて、考えてみたい。そこでギア代表 編集工学研究所の特別研究員である太田剛氏の持論「アイデンティティ否定論」に基づいた、知識の「編集工学」を試みることにした。特に療法家が持つ知識のあり方にスポットを当ててみようと思う。

    我々人間というのは他の動物と違って絶えず進化・発展していく動物だと言うことができるが、そのように人間が発展していくには「知識」と「存在」という道筋があるからであり、正しい進化においては、知識と存在とは互いに並行し、同時相関相補の関係性で発達していくという法則に基づいている。

    ところが、いずれかが先に進んでしまえば、人間の発達は誤ったものになり、遅かれ早かれ行き詰ってしまうことになる。一般的に言って、我々は「知識」というものが意味するものを理解しており、またその知識にさまざまな段階が在ることも理解している。

    取るに足りない小さな知識もあれば、偉大な知識もあり、いろいろな質の知識があることも我々は理解することができる。

    であるにもかかわらず「存在」に関しては全くといっていいほど理解していない。我々にとって存在とは、単に「非生存」に対する「生存」という意味でしかないのである。「存在」と「生存」は非常に異なった段階であり、分類でもあることを理解していないように思える。

    たとえば鉱物と植物の存在は違った存在であり、植物と動物の存在も異なった存在であり、動物と人間の存在も確実に異なっている。しかしそれ以上に二人の人間の存在が、それらの関係よりももっと互いに異なっていることを理解していないことが問題なのである。この関係をアイデンティティ、すなわち「自己存在証明」というような誤解をしてしまうと、人間の存在が「単一の生存」に終わってしまう。

    我々はまた「知識」というのは「存在」に依存しているのだということが解っていない。そればかりか、理解したいともまるで思っていないのである。特に西洋文化にあっては、人間は巨大な知識を所有できるとさえ考えている。

    たとえば有能な科学者は研究を重ね、新しい発見によって科学を前進させるかもしれないが、同時に、狭量で、利己主義で、あら捜し好きで、下品で、嫉妬深く、虚栄心が強く、遇直で心が空っぽの人間であるかも知れず、またそういった権利を必ずもっていると考えられる。しかしそれでも、それが科学者の存在なのである。

    我々は科学者の知識は科学者の存在に左右されないと思っており、人間の知識のレベルには大きな価値を置くのに、存在のレベレに対しては価値を認めないのである。そして自らの存在レベルが低いことを恥とも思わないばかりか、その意味すら解っていない。それゆえ人間の知識はその存在レベルによるのだということが理解できないでいる。

    このように今日の文化では「存在」に対する「知識」の優勢が見られ、価値についての考えや存在レベルの重要さは完全に忘れられている。また知識のレベレは存在のレベルによって決定されるということも忘れられている。

    前置きはこのぐらいにして、私たち操体における「快適感覚」にも気もちよさや心地よさの質、すなわち存在レベレがある。患者に対して快感覚をききわけさせる際に、いくら「頭で考えないで、からだにききわけて」と促しても知識が先行していれば、必然的に脳に記憶されている知識から考えてしまうのである。

    それは知識人としてやってくるクライエントの場合には、その整復効果をまったく期待できないということになる。まして「からだにききわける」なんてことは、そのクライエントにとって神業に近いということだ。これを解決しない限り、単なる時間の浪費に終わってしまうしかない。

    また逆に存在が知識に先行すれば、感覚に対して過剰な反応を起こし、感覚そのものが暴走して「最快適点」を見失ってしまい、これも治癒につなげることは難しい。

    このような結果になるのは、存在と知識が調和していないからであり、存在と知識、どちらが先行しても、からだの真の要求に十分応えることができず、迷走することになる。

    明日につづく

  • 自分らしく生きる

    自分の仕事とは、受けた仕事を自分の仕事としてやり遂げる意志を紡ぐことにある。
    楽しい好きつまらないから嫌いと、考えているうちは、”自分の仕事”とはいえない。
    ただ私自身は、愉しいと感じながら”自分の仕事”を味わうことは幸せの味わいだと思う。
    仕事も感覚も、自分自身の思想もコツコツ紡いでいくといい。

    そうなれば様々な出会いも増え、良書を通じてその著者とは時代を超えて繋がることも出来る。
    ソレは本当に豊かなことなんだ・・・と三浦理事長は語っている。
    師である橋本敬三先生は勿論、道元禅師にも深く通じて噛み砕いて教えて下さるのだ。

    道元断章―『正法眼蔵』と現代

    道元断章―『正法眼蔵』と現代

    (まさに、読み解きつつ味わう感じだ)

    そういえば、本を贈ることを文化として「松丸本舗」は提案されていた(三冊をまとめて贈本など)
    あの想像をかき立てられる空間は忘れることが出来ない。そして思い出したことがある。
    出会ったのは、21歳の時、書で語られていることに目を見張り、耳を傾けて、喉を鳴らし、狂おしく熱い胸の内に、
    獰猛な肉食獣がごとく、つんざくような咆哮をあげたくなってしまう書であった。
    ただ面白いことに自分で手に入れたのではなく、アルバイト先で出会った方からのプレゼントだった。

    自分らしく生きる (講談社現代新書 (705))

    自分らしく生きる (講談社現代新書 (705))

     

    若い頃には味わえない、年を重ねてから味わえるものも多いんだよ・・と三浦理事長は語っている。
    確かに思い出してはっきりしたことは、自分で選んだ道を歩むのに気付かない時期もあっていいという事実だ。
    今を大切に生きる人間は、まだわからない人間を包み込んであげることで、いつでも準備しておけばいい。
    頂いたご縁はどこかで繋がってくる。そのときにそうだったのか!と感嘆符を挙げ、
    ある程度の妙齢となってから、生かされている生き方で、さもありなん・・・と、ただ肯定できればいい。

    生きている限り、自分自身の仕事を愉しめばいい。
    本当の仕事とは、今やっている仕事のことであり、愉しめるように工夫することだろう。
    その点、橋本敬三先生は若い頃の三浦理事長にこのように語っていたそうである。

    操体はいいぞ!一生愉しめるからなァ」

    まさに、同感である。
    なぜ一生愉しむことが出来るのか?ソレを知りたいのならば・・・・、
    4月28日に開催される『春期東京操体フォーラム』に足を運んでみるといいだろう。
    別にあなたの仕事が何であれ構わない。なぜ一生愉しめることは「操体」を知ることに繋がるかのヒントはある。

    ・・・ということで、今日も有り難うございました。

  • 利己的にならない統制

    まず、私自身ホントかウソか、やってみてよく理解できたことがある。
    しっかりと自立した自分を持つことが出来なければ、相手に合わせるという高度なことはできない。

    自分以外の人間をコントロールして、思った通りに操りたいと願う人間もいる。
    そもそも、そんな自分さえコントロールできずに、相手をどうこうというのは不遜だろう。
    ・・・などと言う私も、操体を学び呪縛から離れることを知った一人である。

    自分の要求を通したかったら、まず相手の要求を聞いてあげればいい。
    相手の要求を全く受け付けないままに、自分の要求のみを通そうとしてもそれは、”無理”なのだ。
    では、自分の要求を通すにはどうしたら理に適うのだろう。

    ”人を動かす”、”人を説得する”などの自己啓発の書で提案される例にあるのは、
    その人の身に立ってみること、自分がその人の立場ならどうするか考えてみて考えること、とある。
    つまり、へりくだって一歩引いたところで相手を持ち上げ、相手の自尊心をくすぐる方法なのである。

    しかしこれは本当にその人の立場に立っているのだろうか?
    自分の要求を通したいがゆえに、相手の立場に立っているだけに過ぎないような気もするのだ。
    そのように考えてみると、どんなにへりくだっていたとしても、結局のところは利己的な行動に過ぎない。

    欲求を問い満足を与える必要性は、この世にサービス業と言われる仕事で証明されている。
    サービスといっても対象は何なのか、そこを意識できるかどうかであり、
    自分たちの利益を求めるがゆえに、利益の追究を主と甘んじ、赦しているのはどうなんだろうか?

    橋本敬三先生は、「サービスしなさいよ。サービスしなきゃバチ当たるよ」と語っている。
    そのサービスとは、利他的なサービスをすすめているのであって、
    利己的なサービスをすすめているのではなさそうに感じている。

    門外漢ながら聖書から引用すると、
    「自分を愛するように隣人を愛せ」とある。
    この隣人愛の場合、他人への同情とか名声のための慈善事業ではないだろう。
    あくまで「自分を愛する」という理解の深さに、その本質を学ぶガゆえに、隣人への愛は成立しうると感じるのだ。
    これを臨生(臨床)に語るのであれば、「自分を愛するようにからだを愛せ」ということだろう。

    根底に自分とか、相手とか、そこから始まっているようではみえてこない。
    分極されたところからどんなに頑張っても、観得ることはない不可視なことはあるのだから。
    そこに自然の本来の姿、サービスの真理はあるのだろう、と考えている今日この頃である。

    ・・・そうだ!4月28日に東京の千駄ヶ谷駅津田ホールにて開催される、
    『春季東京操体フォーラム』で「操体」を学ぶ上で欠かせない「ひかがみの触診」指導ほか、
    腹臥位での操法もいくつか、百戦錬磨、快刀乱麻?の実行委員指導のもと体験できるかも、というもっぱらの噂である。

    いまから虎視眈々と準備しておこう!家族サービスもにいそしみつつ、カレンダーに大きな”8”のサインをつけておくのもオススメだ。
    (なぜ家族サービス?8の字なのか?ソレは操体を学んでいればよ〜く理解できてくるのである)
    ・・・・ということで、今日もありがとうございます。

                                                  

  • 新成人への祝賀として

    青春を謳歌するあなたへ

    物質的豊かさを重要視される暮らしにおいて、競争することは確かに自分を高める要素です。
    ただ、人とくらべて劣っていない、勝っていること、これこそ人間的価値のあると思い込んでいたり、
    楽しければ何でも良いでしょ“と、大事な命(生死)を預かっておきながら、欲望に囚われてしまうと、
    “見えなくなってくる”大切なものは、あまりにも多いのです。

    一つに言葉の捉え方。
    私自身学び通している「操体」は自然法則の応用貢献を成しています。
    ここで言葉というのは、“運命のハンドル”なんだよと教わりました。
    美しき言葉には、美しさとしての方向性があり、
    汚き言葉には、汚さとしての方向性が待っています。
    自在している意志から、その人に向けて発された言葉には、
    上辺だけでない、沸き起こるエネルギーが詰まっているのでしょう。

    言葉を軽んじてはならないのです。
    生きる道があるとすれば、これらを決めるのは他人ではないと思いますよ。
    僕やあなた、お父さんやお母さん、お爺ちゃんやお婆ちゃん。
    友人や職場の付き合い、近所付き合い。全て自分自身で決めているのです。
    自分自身で進む流れに、あらゆる方向性や勢いのある選択になって当然なのです。

    それには明確でわかりやすい指標もあります。
    「きもちがいい」と感じられる、「ありがたい」とかんじるようになればいいんです。
    ただし、ちょっとだけ加えたいこともあります。
    “他人様に迷惑を掛けない”こと、“自分自身の責任”においてという決まり事ですね。

    「心身一如」と言う言葉を味わってみてください。
    心があってからだがあり、気分が良くない時や、身体の調子が悪い時に、
    元に戻す方向性は先ほど語った道標さえあれば(道しるべ)シンプルに戻せます。
    頭で色々「今どうしたらいいのか考える」よりも、からだにききわけることなのです。
    「今、現在、感じたこと」を、静かに受け入れることが出来るかどうかなのです。

    感じたことを、まず拒絶しない。「ハイ」と言えるように努力していくのです。
    「でも・・・」から始まれば、「アレが嫌だ」、「こんな状況が嫌だ」、
    「こんな自分が嫌だ」と思い込むことになり、悶々と過ごすことでしょう。
    諸行無常です。

    逆にどんなに辛い時でも、流れの中の一瞬。
    精密な機械ほど、たった一つのパーツが壊れてしまうことで止まってしまう。
    単純なモノほど多少壊れても何とかなるものです。
    なればこそ「ハイ!」ではじめてみたらいいのです。

    「アレもよし」、「こんな状況もよし」、「こんな自分もよし」と、
    ウソでも良いから、「ハイ!」という“言葉として発声”してみて下さい。
    心と裏腹なことでも、からだ自身は喜び、変化して戻ってきてくれますから。
    長い目で見る事が出来れば、どんなときもあなた自身を取り戻せます。

    まわりとスムーズに流れていないと感じる時には、
    外に理由を求めるよりも、自分自身を見つめることがとても大事です。
    何かのかたちで、暖かいものを求め続け、待ち続けるよりも、
    自らに備わったなかに、暖かさを見つけたほうが、ずっとずっと自然なのです。

    アノネ・・こんなこと考えなくても理解できるようになるのが、
    自在の学び、つまり、自然法則のありがたさを味わうことなんです。
    それは、日本医学、操体なのです!

    温故知新というテーマの中、最新情報を発信する『東京操体フォーラム
    操体を学ぶあなたを本気で応援していく『(社)日本操体指導者協会』
    三浦寛理事長の主催される、橋本敬三先生顧問の『東京操体法研究会』

    学びを始めるあなたへ、本物を知りたいあなたへ、とりあえず興味を持ったあなたは、
    4月28日開催の『春期東京操体フォーラム』にて「操体」に触れて感じてくださいネ!
    今日はこのあたりで・・・ありがとうございます。
                   

  • 有り難く味わいつつ、詩人たれ!

    おはようございます、本日もよろしくお願いします。

    唐突だが、生き方の指標ともいえる仕事について考えてみた。
    いわゆる仕事を選んでいく人と、仕事に選ばれていく人と、それぞれだ。

    ただ、本人がどう想いを抱くのか自由、ただ与えられている仕事とは、価値あるものなのだろう。
    日々あって当たり前のようでも、なくなればよりその価値に気づくものでもある。
    それは、実現している最中には気付かない。
    終了間際になってようやく観得てくることもあるのだろう。

    私にとって仕事に関する意識を変えてくれた言葉を紹介しよう。
    この詩を教えてくれたのは、三浦寛理事長である。
    ウンと私の感銘を受けた言葉である。

    すべてのみえるものは みえないものにさわっている
    きこえるものは きこえないものにさわっている
    かんじられるものは かんじられないものにさわっている
    おそらく 
    考えられるものは 考えられないものにさわっているだろう

    本当のものは みえるものの奥にあって
    物や形に とどめておくことは出来ない領域のものである

    全ての見えるものは みえないものに附着している
    じぶんの見えている 人生の後ろに
    恐ろしいほど 深く 広い 人生がかくれている

                  〜ノヴァーリス(ドイツの詩人)〜

    何回音読しても味わい深い。なんて表現の広がる味わいなのだろうか・・・。
    勝手にして構わないのではなく、まさに自由にして構わない人生の詩である。

    ところで、ノヴァーリスは『青い花』も有名なので、文庫版を買い求め目を通してみた。
    私はこれを、熟読できていない。ハッキリ言ってのめり込むほど味わえなかったのだが、
    これが未完であることを知り、その後の展開を編集工学研究所所長松岡正剛先生の紹介でなんとなく理解できた。

    昨年、愛おしいほどに惜しまれて閉店した「松丸本舗」には、畠山裕美常任理事のススメで二回行ってみたが、
    もっと早く行っておくべき書店であり、閉店後も単なる書店ではなかった理由も、後からじわじわと味わった。
    想いを一つの形として具現化する。区切りをつけない発展を誕生させる意識には大いに学ばせて頂いた。

    松丸本舗主義 奇蹟の本屋、3年間の挑戦。

    松丸本舗主義 奇蹟の本屋、3年間の挑戦。

    ノヴァーリスについてはp173〜参照)

    ”鉄は熱いうちに打て”と言うが、いつでも熱い鉄になっている方法はその気になればいくらでも見つかる。
    見つかったからと安心していたのではスグに冷めることになるだろう。
    わたしもあなたも、感覚的に生きているか自問自答してみるといい。
    イノチとはニューロンの爆発である!ゆえに”今”はまさにその時(ソレ)なのである。
    この日本にあなたが存在すること。私が存在していること。ソレは自在あってのものである。

    さあ、操体を学び、人生について創意と工夫、挑戦と革新のある一年にしていこうではないか、
    豊かな人生、そう!人生に参加しようではないか同志よ!
    それこそ人生賛歌そのものといえば、なんと!新年早々ビックニュースがある。
    今年の『春季東京操体フォーラム』は実技指導があるともっぱらの噂だ。しかもとてつもなく面白そうなのだ。
    実行委員長自らお約束しよう!4月28日は、今から予定を組んでおいたほうがいい。今後も人生賛歌を味わえること請け合いだ!

    ・・・と言うことで今日はこのあたりで失礼します、ありがとうございます。

                            

  • 操体治療ではない、操体臨床(臨生)である

    今週のブログは茅ヶ崎から岡村郁生がお送り致しますのでよろしくお願いします。

    道=タオ〜無関門〜

    晩年の橋本敬三先生は、今までの操体を、”道”を語っています。
    「きもちのよさを聞きわければいいんだ」
    「回数も、たわめの間もすべて、気持ちの良さでいい」
    「気持ちよさで治るんだからな」

    そして、TVやラジオで有名になった後、仙台の温古堂に患者で来る人、お客さんには、
    「こんな簡単な原理になってんだから、ウソかホントかやってみなさいヨ」
    「あのね、身体はねェ、罰当てたくて当ているんじゃないのよ、親心なんですヨ」
    といって、般若身経(=身体の使い方)の解説をしていました。

    ところが、親しいお弟子さんには・・・。
    「よくもマァ、こんなに難しいことに、おまえ達クビ突っ込んできたナ〜ありがとう」
    「でもネ、こんなに面白いことはないヨ、一生楽しめるから、コツコツ学びなさいヨ」
    「理に適うことが自然法則なんだから、学べば学んだだけご褒美もらえるんだヨ」
    そう、おっしゃっていたのです。

    この操体を学んでいくたびに、不思議なことも、かみ砕いていけば理に適うんだ。
    世の中の何故?どうしてそうなるのか・・に答えていく学問体系こそ操体でもあり、
    ここに、自然・不自然さを感じていく能力こそ、元々生きていくための最も大事な、
    元々生まれつき備わっている能力。つまり、原始感覚なのです。

    これを磨いていくための素材こそ「快適感覚」です。
    それは臨床においても、からだの要求をとおすことなのです。
    本質はシンプルでも、言葉で説明できることだけでは構成されていませんが、
    カラダを通して、“感じること”で噛み砕いていけるのです。

    そう!ヒントは”刺激”ではなく”接触なのです。
    人はスパイスでは生きていけません。刺激には慣れてしまいます。
    もっと!もっと!と際限なくなってしまうものには、執着しないでいただきたいのです。

    いくつになってもあなたの代わりは一人もいません。
    たったひとりのあなたを応援してくれるのは、いとおしい”からだ”です。
    そのために必要なことは、刺激的な情報をそのまま鵜呑みにしないこと。
    自分自身の原始感覚に静かに尋ね、快適感覚の有無をまずききわけて欲しいのです。

    それは別の表現をするなら、本質とは何かを感じること。内観することでもあります。

    自然の中に感動を味わい、小さなコトでも嬉しくなり、他愛ないことには悩まない。
    よく笑うことが出来なければ、笑顔を作る練習をすればよいのです。
    偽物でも、フリでもいいのです。
    本質的なものであれば、そのうち本物になってきます。

    食事を栄養(カロリー分析)から捉えず、営養(礼儀・営み)として捉え、
    呼吸とはを大きな深呼吸することのみと捉えず、ゆっくり吐くことを主として捉えなおし、
    動きなんて自分勝手で良いんだと甘えず、作法には如何に無駄のない効率のいいルールがあるのか謙虚に味わい、
    考えること、思いを馳せること、言葉を発することに自ら責任を負い、
    責任のない過ちに気付けたときには”からだ”に謝り、言葉の汚さに気付いたらその時点で薄めていく努力をする。

    これも、世代を超え次元を超えていく有り難みなのでしょうネ
    コツコツ学ぶ操体を通じて、私自身もこれを次世代に伝えたいのです。
    それではこんなところで・・・ありがとうございます。

    ※4月28日に開催決定した「春期東京操体フォーラム」についても、
    随時ホームページにてお伝えしていく予定です、お愉しみに!!

  • シロとクロ

    最近少し気になっていることがある。

    「シロとクロの間はグレー」

    「ライトとレフトの間はセンター」

    「過去と未来の間は現在」

    「儲かっていると儲かっていないの間はボチボチ」

    「好きと嫌いの間は友人?」

    こんな具合に考えてみると快と不快の間は
    一体どのような状態なのであろう。

    比較的近いのは良いと悪いの間の普通みたいな
    感じになるのでしょうか。

    それとも快と不快は相対するものでは無く
    独立した存在として捉えるべきなのでしょうか。

    操体の臨床において快・不快の感覚を分析する際でも
    これは快ですか不快ですかと尋ねることはありません。

    例えばこの中心に「ラク」というものを据えてみると
    快でも不快でもない状態が果たして本当にラクなのだろうか
    という疑問が頭に浮かんでしまいます。

    不快感覚の存在するボディーに操法を通すことによって
    快感覚に変化させることは充分に可能であるし
    反対に快感覚がききわけられた状態であったとしても
    からだの要求を超えて味わった場合には不快が引き起こされる。
    この一連の快と不快のサイクルの中にラクと云う感覚の
    存在というものは無い様に思えます。

    しかし、この快と不快の間には何かしらの感覚の変化が
    確実に存在している様に思えます。
    これが三浦理事長が以前説明してあった予備感覚と云うもの
    なのでしょうか。

    最近この快とも不快とも判定がつかないような
    微妙な感覚が微妙に気になって来ているのです。
    私自身の感覚としては痛いようなくすぐったいような
    何となく刹那的なモヤッとした感覚が気になるのです。

    大方の場合はこの感覚から快感覚に移行して行くのですが
    このモヤ〜っとした状態から変化しないこともありました。

    そういえば以前、快の感覚をききわけている際に
    何種類かの水性絵の具を混ぜ合わせたかのような色合い
    イメージで行くと昔テレビで見た『ウルトラQ』の
    オープニングのような流体的な感じがしていましたが
    最近その感覚が薄くなって行くに連れてこの
    快ではないモヤっとした感覚を感じ始めた様に思えます。
    徐々に自分自身の中で快感覚のききわけの感受性に
    変化が起こって来ているのでしょうか。
    でもこの感覚の中には必ず何かを秘めているという
    期待を感じされる何かが潜んでいる気がします。
    それを考えると明らかに増す増すラクではあり得ないですね。

    こんなモヤっとした状態って決して操体の臨床の中だけでは
    無いようです今時分自身がやっていることが本当に好きなことでは
    無いけれど、決して好きなことをやれている訳でもない。
    好きでも嫌いでもやりたくともやりたくなくともない
    非常に漠然とした曖昧な状態。
    このような状態の中でしっかりと感覚をききわけ続けて行けば
    その曖昧な状態の中にとても価値の在る宝物が眠っているのかもしれない。
    最近中間が気になってしょうがないのです。

  • 弱点まで愛して

    先日のブログでヘビ嫌いを克服したという話を書きましたが、

    私には未だに克服されることのない三大弱点があります。

    1つ目はカキ

    2つ目はホウレンソウ

    3つ目は水泳

    1つ目のカキは牡蛎オイスターです。弱点というよりも
    美味しく頂いた後、かなりの確率で体調を崩します。
    前回3年前に頂いた時には蕁麻疹がでて、その前は2回食べて
    2回連続ノロウィルスに感染したと云う不名誉な記録が残っています。
    これは弱点というよりも体質の問題ですね。

    2つ目のホウレンソウは先日書いた通り報告・連絡・相談です。
    これは今年の克服リストの筆頭に上がっている重要課題です。

    3つ目の水泳はプールや海でのスイミングです。
    何を隠そう私はほとんど泳げないカナヅチくんなのです。
    泳げないと言っても、海もプールも大好きなので
    夏には必ず家族揃って遊びに行くのですが
    泳げない私はいつも浅瀬で子供たちと戯れる専門です。
    しかし、こんな私でも小学校低学年までは
    25メートル(小学校のプールの幅いっぱい)ぐらいは
    泳げていたのです。

    今年のお正月に私の実家でおせちを頂いている時に
    「何故、私は泳げないのか?」という話が話題に上がっていました。
    幼稚園や小学校の低学年の頃まである程度泳げていたにもかかわらず
    突然泳げなくなるにはやっぱり理由があったのです。

    私と3歳年下の弟は夏休みになると毎年欠かさず
    母方の祖父母の家に1ヶ月間ほど預けられていました。
    両親共働きでしたし、母方の田舎は農家でしたので田舎でのびのび
    過ごさせようというちょっとした自然教室のようなものです。

    その年の夏休みも私と弟はふたりで電車を乗り継ぎ、祖父母の家に
    泊まりに来ていました。朝6時30分のラジオ体操にいってからは
    一日中ず〜っと野山を走り回って遊んでしました。
    本当にど田舎なものですからプールなんてありませんので
    暑くなれば川にいって川遊びを楽しんでいました。

    その日も私は弟とふたりで川へ川遊びに行くことにしました。
    私と弟は川をせき止めて作った小型のダムで遊んでしました。
    その堰にはなだらかな傾斜がありプールにあるウオータースライダー
    の様な造りになっていて格好の遊び場所でした。

    夢中になって遊んでいると突然弟の姿が見えなくなりました。
    なんと弟が川の深みに嵌り今にも沈んでしまいそうになっていました。
    私はなんとか弟を助け出そうと、無我夢中で弟の元に駆け寄りましたが
    私まで一緒になって深みにはまってしまいました。
    泣きじゃくる弟を抱えて私は恐怖で鳴き声すら出ないくらいでした。
    実際に溺れていた時間は数秒間だったろうとは思いますが
    その時の私には随分長い時間に感じられました。

    結局私が現在でもピンピン元気にしていることでもわかる通り
    流されるまま上手い具合に浅瀬にたどり着きこと無きを得ましたが
    それからと云うもの川だろうが学校のプールであろうが
    入るだけならば大丈夫なのですが、泳ごうとすると必ず
    強くからだが硬直し、ひどいめまいに襲われる様になりました。
    それからと云うもの高校3年生まで夏のプールの時期はというと
    毎回通知表の体育の成績は2でした。

    この話は怒られるのが嫌で大人の人には秘密にしていたので
    ウチの両親も始めて聞いた話に目を丸くしていました。
    今自分が子供を持つ親の立場になってみて、そんな危険なところへ
    遊びに行くこと自体が問題だとは思うのですが、後先考えずに
    溺れている弟を助けに行こうとした子供の頃の自分が
    なんだか少し誇らしくも思えます。

    その前も後もけんかばかりしている兄弟でしたが
    こんなエピソードも今となっては本当に良い思い出になっています。
    しかしこのブログを書いているうちにも頭が重たくなっている
    所を見るとまだこの時の思いを克服出来ていないのでしょうね。

    弱点って一般的に見ると人より劣っているし無い方がよいのですが
    その人の弱点の中にも色々な人生が映し出されているのかもしれません。
    痛みや機能低下も肉体的な弱点かもしれませんが、その弱点の中には
    その方の生活環境や職業、生き様、そんないろいろな人間の歴史が
    刻まれているのかもしれません。そんなストーリーを引き出すのも
    私達治療家ならではのコミュニケーションなのかも知れませんね。

  • 人間は、努力するかぎり迷うものである

    いよいよ一週間の秋穂のブログも後半の5日目です。

    今回私自身の弱点を掘り下げてみようとブログのテーマにしてみたのですが、
    こんなテーマを選んでみたのも単なる思いつきではありません。
    昨年一年間を振り返ってみて本当に迷いの多い一年でした。
    その迷いの中には操体に直接関するものもあれば、職場での問題から、
    家族内でのてんやわんやまで本当に我ながら良く迷えるものだと感心したくなる程です。

    そして私自身がその迷いの中でおぼろげに感じたことなのですが、
    たまには迷ってみるのも面白いということでした。
    実際に私のトラブルに巻き込まれてご迷惑をかけた方々もおられるので
    無責任なことは言えないのですが、その迷いの中で周囲の人から暖かいご指導を頂いたり、
    様々な形でサポートの手を差し出していただいたりと
    本当に自分ひとりで生きているのではないという実感、
    多くの人たちとの繋がりの中で自分自身今こうして過ごしていられるのだ
    ということを意識することが出来る様になって来た気がします。

    改めて個ではない自分自身と向かい合った時に、
    無責任で入られない衝動が湧いて来ました。
    これは仕事だけに限らず、自分を取り巻く本当に全てのことに関して責任と云うか、
    意識を持って接して行きたいと思える様になったからこそ、
    迷いも生じて来たのかもしれません。

    今日のタイトルに持って来た
    『人間は、努力するかぎり迷うものである』
    という言葉はドイツの詩人ゲーテの言葉ですが、
    操体的に表現するのであれば、
    自分自身の人生をこころとからだにききわけようと意識し始めたのでしょう。
    何も考えず与えられたものを受け取っている分には、選択の余地はないし、
    責任も発生しないのかもしれません。でも自分が迷いながらでも選択したものには、
    自分の意思に対する責任があります。
    自分が選んだのだから、いい加減には扱えないと云う思いと、
    自分が折角手に取ったものだからこそ、
    もっとより良いものに磨き上げて行きたいと云う
    愛情が芽生えて来る様に思えるのです。
    その内自分自身の感性が磨かれてくれば、
    迷わなくても最高と決定が下せる様になるのでしょうが、
    それもあれこれと試行錯誤の中多くの選択をして行くことで
    磨かれてくるセンスなのでは無いでしょうか。

    それでは明日もよい一日をお過ごし下さい。

    この岩がゾウにみえるかどうかは問題だぞう?