仕事の関係で、クラッシック音楽を聞く機会があります。
声楽の方たちの声は、普段の会話もよく通るなあ〜と感じます。
昨日のブログにも書きましたが、相手に”伝わることば”になるための
条件として、声の大きさ、トーン、話す速度も非常に大切だと
思います。
不快を与えない話し方、そして、伝わることばかけを日々、
身につけていきたいと思います。
仕事の関係で、クラッシック音楽を聞く機会があります。
声楽の方たちの声は、普段の会話もよく通るなあ〜と感じます。
昨日のブログにも書きましたが、相手に”伝わることば”になるための
条件として、声の大きさ、トーン、話す速度も非常に大切だと
思います。
不快を与えない話し方、そして、伝わることばかけを日々、
身につけていきたいと思います。
「二郎は鮨の夢を見る」というDVDを観ました。畠山理事に
ご紹介いただいたのがきっかけでした。 すし職人のドキュメンタリー
映画です。 また、好きな映画が一本増えました。
魅力たっぷりで、終始、くぎづけで観てしまいました。
「自分がやろうと思った仕事、それにもう、没頭しなきゃだめです。
好きにならなきゃだめです。それで、自分の仕事に惚れなきゃだめ
なんですよ。
ただあれがダメ、これがダメ、と言っていたら、一生たっても、
まともなことはできない、と思います。だから自分がこれを
覚えようと思ったら、それに必死になって、死に物狂いでやるという事が、
成功につながるだろうし、それから自分が良くなった時にりっぱな
人間になれるんじゃないかな〜と私は思いますけどね。」
と二郎さんが映画の中で話されています。
私の今に、そしてこれからの私にとっても、
大切なことです。この気持ち、想いをもち続けることの
できる人間になりたいと思う映画でした。
今日から一週間担当します、香(こう)です。よろしくお願い致します。
横浜美術館で開催されていた、「横山大観展ー良き師、良き友」に
行ってきました。横浜出身である岡倉天心の生誕百五十年および没後百年、
「國華」創刊百二十五周年、朝日新聞創刊百三十五周年を記念し、横山大観
と良き師•岡倉天心、また良き仲間たちとの交友や影響関係にスポットを
あてた展示でした。
「皆さんは、大観をカリスマ的な作家だと思っているかもしれません。しかし
実は師•岡倉天心や多くの仲間たちの影響を受けています。」と説明に書かれて
いました。
すばらしい作品がうまれた背景には、良き師、良き友の存在が大きいという
ことでしょう。これは芸術だけでなく、すべてに共通して言えることだと思います。
今、操体を学べるのは、良き師がおり、また共に学べる良き友がいるからです。
操体を学ばせていただけることに感謝です。ありがとうございます。
昨日のつづき
子どもらは、現実の体系に加えられる攻撃が蓄積するにつれ、現実の意識が押しつぶされはじめる。ある日起こった、ある出来事がきっかけで神経症になることもある。たとえば、ある日、子どもを託児所へ預ける。それはもう何十回目かのことで、それ自体、決して精神的な外傷を与える性質のものではない。しかしそれが、現実と非現実のバランスを逆転させ、子どもは神経症になってしまうこともある。こうした出来事を原初的情景と呼んでいる。そのとき小さな子どもは、これまでに積もり積もってきた軽蔑され、拒否され、剥奪されてきたという思いから、「あるがままの自分では愛してもらう望みがまったく持てない」と、はじめて悟ることになる。その時その子どもは、自分の感情から分裂することによって、破滅的な認識から自分を守り、ひっそりと神経症の世界に滑り込んでいくのである。しかしこの認識は意識されるものではない。
子どもは両親の周りで、やがて他の場所でも、両親が期待している線にそって振る舞うようになっていく。子どもは両親の言葉を口にし、両親のやり方で物事を行い、見かけの行為をしているのである。要するに子どもは、自分の本当の必要や望みにしたがって行動しているのではない。わずかな期間のうちに、神経症的な行動が自動的に行われるようになる。神経症には自分の感情との断絶、すなわち、分裂が伴ってくるようだ。
両親が子どもに攻撃を加えるたびに、現実と非現実との間の溝が深まってくる。子どもは自分を感じないために、自分の体の禁じられた部分には触らず、活気を漲らすことも、悲しげな様子を見せることもなく、ただただ与えられた筋書き通りにものを言い、行動しはじめる。しかし分裂は攻撃に弱い子どもには必要なものである。それは有機生命体が自らの健全さを維持するための反射的、自動的な方法である。したがって、神経症は有機生命体の発達と精神物理的な統合性を破滅的な現実から守るための防衛でもある。神経症の人間はまがい物の人間であり、そうなったのは、存在しないものを獲得するためである。愛が存在していれば、子どもはあるがままの姿をとるであろう。愛とは、あるがままの姿を認めることであるのだから。そこで、ひどい精神的外傷を受けるようなことが何ひとつ起こらなくても、神経症にかかる。
両親が自分たちの上品さを証明するために、子どもに対して各センテンスの終わりに、「お願いします」とか「ありがとう」という言葉をつけるように強要するだけで神経症が芽生えることもある。面白くないときや泣き出したいようなときに、ぶつぶつ言うのを許されないことが原因で神経症になる場合もありうる。自分たちが落ち着かないので、すすり泣きを急いで止めさせようと両親はしがちである。自分たちが立派な人間であることを証明するために「ちゃんとした女の子は、かんしゃくを起こしたりしないものです」とか「ちゃんとした男の子は、口答えなどしないものです」とか言って、腹を立てることを許さない両親もいることだろう。
学校で詩を朗読させられるとか、難しい問題を解かされるために、子どもが神経症にかかる場合もある。どんな形をとっているにしろ、子どもは自分に何が要求されているかをきわめて素早く読み取ることができる。それを実行するか、それとも別の道を選ぶか。両親の望み通りの人間になるか、それとも別の人間を選ぶか。愛情のない世界を選ぶか、それとも、愛情とされている承認、微笑みをとるか。最後には見せかけの行為が子どもの生活を支配するようになる。それは両親の要求に仕えるための儀式の実践であり、言葉によるおつとめなのである。
このようなプロセスで発症した神経症を医学や医療は今後、どのように考えてくれるのであろうか。神経症であれ、何であれ、人間が自分の病気や身体障害から回復しようと思えば、自分自身である程度責任を負わなくてはならないということを自覚すべきである。この「患者の責任」という観念はもちろん目新しいものではない。しかしこの観念の背後に潜む思想全体を、操体の快理論ほど見事に解き明かしたものは稀である。操体は西洋医学に関しては素人だが、その見解はいくつもの医学界でも受け入れられるようになってきた。ストレスの性質について、あるいは病気に対する人体の抵抗力を引き出す精神の力についても主な医学や心理学研究者の重要な発見と一致している。これらから言えることは、操体も着実に日本医学としての道を歩んでいるということだ。今や操体は人体の化学作用を変化させ、障害や病気に対する人体の自衛力の発動を促す正真正銘の治療手段となっている。
昨日のつづき
この世に生を受けた子どもたちが、はじめて感情を抑圧した瞬間に神経症は始まるのではないが、神経症につながるプロセスはこの時点から始まると言える。子どもは成長とともに段階的に、現実に背を向けるようになっていく。しかしある日、子どもを現実からそらしてしまう決定的な変化が起こり、現実的な要素より非現実的な要素のほうが多くなってくる。こういった臨界点に達した子どもは、神経症にかかったと判断してもいい。その後、その子どもは、二重の自己の構造、すなわち、非現実の自己と現実の自己に則して生きるようになる。現実の自己とは、有機生命体の現実の要求と感情である。非現実の自己とは、そうした感情の覆いであり、神経症の人間が自分の要求を満たすために必要な見せかけとなっている。
自分の両親に絶えず馬鹿にされながら育った人は尊敬されることを望むようになり、自分の子どもが従順で敬愛の念が強く口答えをするとか、否定的なことを一切言わない子どもになることを要求する。また子どもじみた親は自分の子どもに、並はずれて早く成長し、あらゆる雑事をやってのけ、その準備が調うずっと以前に大人になることを望む。そう望むのは、自分がいつまでも大切にしてもらえる赤ん坊でいたいがために他ならない。
子どもに非現実の人間になるよう求める要求が明白な形をとることは少ない。しかしながら、親の要求は、子どもにとっては暗黙の命令となる。子どもは両親の要求の渦の中に生まれ出てくるものであり、生活が始まった殆どの瞬間から、それらを満たすための苦闘が始まる。幸福そうに微笑んだり、声を出したり、バイバイと手を振ることを無理強いされる。もう少し後になると、座ること歩くことを、さらにその後には、両親が出来のよい子どもだと満足できるように、奮闘することを余儀なくされる。大きくなるにつれ、子どもに課せられる要求は、複雑になっていき、子どもはより成績を上げ、役に立ち、自分のことは自分でし、おとなしく、せがまず、しゃべりすぎず、利発なことを言い、活発であることを強いられる。子どもは自然で自分らしくあることを許されない。
両親と子どもの間で繰り広げられている、子どもの自然で原初的な要求を否定する数多くのやりとりは、子どもを傷つける以外の何ものでもなく、ありのままの自分でいては、愛してもらうわけにはいかないぞ!と子どもに脅迫しているようなものである。こうした深い傷は、苦痛と呼ぶのに相応しい。このような原初的な苦痛とは、意識によって抑圧ないしは否定された要求と感情である。それらが害をおよぼすのは、それらを表現することも満たすことも許されていないためである。こうした苦痛は最後には、自分は愛されていないし、素地の自分では愛してもらえる望みは持てない、という思いに集約される。
子どもは抱いてもらいたいと思っているのに抱き上げてもらえぬたびに、黙らせられたり、あざけられたり、無視されるたびに、あるいは限度以上に無理強いされるたびに、傷が蓄積されていくようになる。こういった傷が蓄積されるたびに、子どもはそれだけ現実の自分から離れ、神経症に近づいていく。そして、子どもが受けたこのような傷が、大人の潜在意識の中に苦痛として延々と棲みついている。実は我々はこの苦痛についてほとんど無知なのだ。
操体は何故、快にこだわるのか? その理由はどうやら苦痛や不快といった感覚の奥深くに原因があるのを感づいているからだろう。そんな苦痛や不快感の根底に凄む神経症に対して、肉体からアプローチすることにより、快感覚を味わうというプロセスに操体は基づいている。神経症は神経に歪みがあるのであるが、その神経の両端につながっている心やからだにも当然に歪みを生じさせることから、その歪体を正すメソッドとして操体は最適な療法と言えるのではないだろうか。神経症についても操体は大いに期待できるものと思う。
明日につづく
昨日のつづき
神経症というのは耐え難い心理的な苦痛から逃れるための象徴的な行動であると既に述べたが、象徴的な満足では決して現実の要求を満たしてくれるわけではない。だから神経症は、長年にわたって影響を及ぼし続けることになる。現実の要求は、まず感覚的に感知され経験されることにより、はじめて満たされるが、残念なことに、苦痛が現実の要求を押し隠す働きをしてしまう。苦痛がその要求を押し隠すとき、有機生命体はいつもはりつめた状態に置かれ、そのはりつめた状態こそが緊張というものである。その緊張は赤ん坊を、後には成人を、どんな手段を使ってでも、とにかく可能な方法で要求を満たす方向に押しやってしまう。この非常にはりつめた状態は、赤ん坊が生存を維持するためには欠かせないことなのである。いつか自分の要求が満たされるという希望を失ってしまったら、その赤ん坊は死んでしまうかも知れない。そんな有機生命体は、あらゆる代償を払ってまでも生き続ける生命力をもっている。その代償が「神経症」と言われるものだ。
このような神経症による心理的苦痛はあまりにも強く、到底耐えられるものではない。そこで満たされない肉体的な要求と感情を一気に押し殺してしまうことになる。これらから言えるのは、自然なものはすべて現実の要求であるということだ。たとえば、自分のペースで成長し、発達することがそうである。子どものときに、あまり早く乳離れをさせられたり、適正な成長期が来ないのに歩くことを強要したり、また話すことを強いられたり、運動神経器官がまだ発達していないにもかかわらず、ボール遊びなどをさせ、そのボールを手でキャッチさせるようなことを押しつるべきではない。
こういった神経症的な要求は不自然な要求であり、それらは現実の要求が満たされないことから生ずるのである。また我々は、ほめ言葉をかけてもらいたい要求をもってこの世に生まれたわけではない。が、事実上、生を受けてからずっと自分の真剣な努力に対し、ケチの連続で、所詮何をしたところで両親の愛情を勝ち得ることはできないと感じてしまうと、その子どもはほめ言葉を強く求めるようになる。同じように子どもが自己表現しようとする要求は、それに耳を貸す人がいないことによって抑圧される。そうした拒否が、止めどなく話す要求に転ずる場合もある。
愛されている子どもは、自然な要求が満たされており、愛情が子どもの苦痛を取り除いてくれている。逆に愛されていない子どもは、満足していないために傷ついている子どものことである。また愛されている子どもは、ケチをつけられたことがないので、ほめてもらう必要がない。そんな子どもは、両親の望みを満たす能力ではなく、ありのままの自分を大切にしてもらっている。それゆえ愛されている子どもは、セックスに対するあくなきことを知らない切実な要求を持った大人にはならない。両親に抱っこしてもらい可愛がってもらって大きくなったので、小さなときの要求を満たすためにセックスに頼る必要がないのである。
現実の要求というのは、内から外へ向かうもので、その逆ではない。抱っこして可愛がってもらいたい要求は、感覚に対する要求の一部である。その可愛がってもらい愛撫するのに接触する皮膚というのは人間の最大の感覚器官であり、少なくとも他の感覚器官と同じだけの感覚を必要としている。それは小さなときに皮膚に対して十分な感覚を受けないと、破滅的な結果につながらないでもない。どうやら各種の器官は、感覚を受けないと萎縮しはじめるようである。逆に正しい感覚を受けると、発達し成長することがわかっている。このように精神と肉体には、常に優しい感覚を必要とするのである。
子どもにとって満たされなかった要求は満たされるまで、他のあらゆる人間活動に優先し、要求が満たされたとき、子どもはそれを感じることができる。子どもは自分の肉体と環境を経験できるということだ。しかし、要求が満たされなかったとき、子どもが経験するのははりつめた緊張だけになる。緊張とは意識から切り離された感情であり、その必要な結合を欠いているために、神経症にかかっているものはそれを感じとれなくなってくる。神経症とは感情の病気であり、このような感覚は神経が伝達するのではあるが、それは決して刺激であってはならない。だからこそ操体における皮膚への接触は軽くソフトタッチなのである。操体では皮膚からからだの無意識に問いかけるというが、これは意識から切り離された感情を再び呼び戻すという微細な働きかけなのである。
明日につづく
昨日のつづき
我々はこの世に生を受けたと同時に要求をもっている。しかしながらほとんどの人は、その要求を満たされることなく、人生の闘争の末に一生を終えることになる。生まれてすぐの原初的な要求というのはお乳を飲ませてもらい、おむつが濡れるとすぐにとりかえてもらい、マイペースで成長し、知能も発達し、抱っこされたり話しかけてもらいたいだけのことである。このような最も基本的、原初的な要求が幼児を形成している。
神経症へ向かう第一歩は、こういった要求が一時的であっても、満たされないときに始まる。赤ん坊が泣きだしたら抱っこしてあやしてやるべきであり、また、あまり早く乳離れさせるべきではないが、そんなことは赤ん坊自身、知る由もない。だからといってそんな基本的な要求が無視されると、赤ん坊は大変傷つくことになる。幼児は自分の要求を満たすために、自分にできるあらゆることをしなければならない。お腹が空くと泣き、どこか痒いところでもあれば、そういった自分の望みに気づいてもらうべく、足をばたつかせたりする。そのような要求が長い間、無視されたり、抱っこしてもらえなかったり、おむつを変えたりお乳を飲ましてもらえなかったりしたら、何とかして両親に自分の要求を満たしてもらうか、あるいは自分の望みをあきらめ、その苦しみを押し殺してしまうまで、赤ん坊は苦痛を味わうことになる。その苦痛があまりにも激しい場合には、実際に死に至ることもあるほどだ。
そんな赤ん坊は空腹感にも打つ手はなく、愛情の代用品を見つけ出せないので、空腹感や抱っこしてもらいたい自分の感覚を、意識から分離せざるを得ない。自分の要求や感情から自分自身を切り離すという分離は、耐え難い苦痛を締め出すための本能的な行動である。精神療法ではそれを精神分裂と呼んでいる。人間のような有機生命体が分裂するのも、自らの継続性を守るために行う本能である。しかし、満たされない要求がその分裂によって解消されるはずがない。その反対に、満たされない要求が生涯を通じて、影響を及ぼし、関心性を方向づけ、自分の要求を満たすために動機づけを行うのである。
そういった満たされない要求は、苦痛を伴い、意識に上ってこないように押し殺す。そこで、我々は代わりの満足を求めずにはいられない。要するに自分が要求する満足を象徴的に追及することになる。たとえば自分の意思表示することを許されない赤ん坊は、成人した後も自分の話を他人に聞かせ、理解してもらおうと強要する傾向がある。いずれは耐え難い意識からの分離に導いていく無視された要求ばかりか、無視された思いも、より大きな制御や解放を得られる方向に向かう。そして、感情は、幼児の場合では寝小便することによって、後にはセックスによって解放を得る、呼吸においては息を殺すことで制御する。
このように要求を満たされなかった赤ん坊は、自分の要求を象徴的なものに偽装し変化させる方法を絶えず学びとる。また適正期よりも早く乳離れさせられた幼児は、成人してからもガムを噛んだり、タバコをふかしたりするようになる。ほかにも象徴的な欲求として、どんどん食べ続けて食べ物を詰め込んでしまうようになる。それなのに、満たされた感覚をもつことは決してない。本当の欲求というのは愛に対してであって、食べ物に対してではない。が、食べ物と愛とは大変深い相関関係をもっている。だから、愛への欲求が感じられない時、あるいは抑圧されている時、食べ物への偽の欲求が創り出され、止めどとなく食べ続けられるようになる。しかしその欲求は偽物だから、それは決して満たされることがない。だが我々はその偽の欲求の中に住んでいるがゆえに、満たされることがないのだ。こうした食べ続けることや、タバコをふかしたい要求は象徴的な要求であり、神経症の本質は、象徴的な満足の追及にこそある。
臨床での問診においても、こういった患者は、自分の症状を執拗に話し込み、理解してもらおうとせずにはいられないのである。また操体の動診にいたっては、自分の感覚を意識から分離してしまっているので、十分にからだの動きを表現できないでいる。自分の感情やからだの要求から自分自身を切り離すというのは、「快」を味わうことに初めから遠ざかっているということだ。こんな場合、皮膚への軽い接触によってブロックが解除される可能性がでてくることに操体は深くかかわっている。どうだろう、操体に興味をもたれただろうか。
明日につづく
昨日のつづき
神経症には感情の抑圧があると昨日、述べた。この抑圧というのは常によくないものだ。いや絶対的に悪い、例外なく悪い。抑圧はただ、自分の生エネルギーを理解していないことを意味しているにすぎない。抑圧は我々の生エネルギーを無意識へと押しやって、我々の実在の地下深くに投げ出してしまっていることを意味している。そこでは、その無意識の生エネルギーは育ち、沸騰しつづけているだろうが、遅かれ早かれ爆発してしまうことになる。そんなふうにして、多くの人が気違いになってしまうのだ。狂気は抑圧の表だったものであるからこそ、こんなにも多くの人が、世界中で精神をかき乱されている。
いかなる種類の抑圧であろうとも、それはからだや心や魂を破壊してしまうことは確実だ。生エネルギーは、抑圧されるのでなく、それを超えていかなければならない。生エネルギーというのは、我々の自然な潜在的財産だ。我々はそれに磨きをかけることで、それは精神的開放につながってくる。抑圧すると、我々は束縛の中に捕らわれてしまう。だからといって放縦的になるというのではない。抑圧的にも放縦的にもならずに、もっと意識的に注意深くあらねばならない。
自分の生エネルギーに対して友好的で共鳴的にいることだ、決して極端になってしまわないことである。極端は分裂をつくりだしてしまい、そうなればいつも矛盾の中にいることになる。そんな自分自身のエネルギーと闘うことは不必要な浪費である。自分自身のエネルギーと闘っているとき、それは自分自身と闘っていることになり、とても勝てるわけがない。こうやって我々は人生のすべての機会を逃がしてしまう。だから、いつも抑圧しないよう気をつけていなければならない。抑圧しないこと、そして気ままにもしないこと。ただ気をつけて、あたりまえでいなければならない。その生エネルギーに受け入れやすく、呼吸しやすくさせるには、より感覚的になることだ。感覚的でないと、何も感じなくなり、存在の中でくつろぐことはとても不可能になってくる。それは、気もちよさを感じないに違いない、心地よさを感じないに違いない、至福を感じないに違いない、自然を感じないに違いない、きっと解放を感じないに違いない。
そういった感覚は神経組織が支配しているからこそ、その神経に働きかけるのである。何もしないそのままの神経は精神に人格を与えてしまう。それはゲオルギー・グルジェフがクンダバッファーと呼んだ精神的緩衝機のことであり、そもそも緩衝機とは車両と車両をつなぐ装置で衝撃を緩和するためのものだ。神経から与えられた人格は人生の質問にある既成の答えを持っていて、ある状況に対して、その決められたパターンから反応するというものだ。もし、神経が調整強化されていれば、精神には人格ではなく意識を与える。そして意識の人間は反応ではなく、感応することができる。どんな状況であろうとも受け入れることができ、その現実をあるがままに反映し、行為することができる。このように神経は重要なキーポイントになっているのだ。
この神経に直接アプローチできるのが操体であると、私は思っている。操体的感覚というのはまさに生エネルギーに友好的、共鳴的に接しており、それによってもたらされる快感覚こそが神経を調整強化するもっとも最適な妙法であると言えるだろう。
明日につづく