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  • 神経症2

     昨日のつづき
     昨日は、心とからだを分離できない関係に結びつけている重要な神経組織について触れた。それほど大切な神経であるにもかかわらず、実は大きな問題が横たわっている。からだにも心にもそれぞれ治療法が確立されているが、神経においては未だ体系化されていないのがそれだ。今日の精神療法の世界では、分裂と特殊化が横行し、過去一世紀のうちに、神経症の形態は実に多様化し、その結果、「治癒」という言葉が、心理学者の間ではもはや使われないようになったばかりでなく、「神経症」という言葉そのものが、いくつもの問題領域に細分化されている。したがって、感覚、知覚、学習、認知などに関する本は出まわっているが、神経症を治すためになしうることについて書いた本はないのが実情だ。

     神経症の定義は、その人の理論的な傾向によってみな異なる有様である。恐怖症とする人もいれば、うつ病とする人もいる。心身相関の症候、機能不全、さらには優柔不断とする人もいる。ジクムント・フロイト以来、心理学者は原因ではなく症候と取り組んできた。治療の全期間を通じて、患者とどうとりくむべきかを具体的に示す指標となるべき、統合されたある種の体系を、我々は欠いているのである。我々は、神経症や精神病の人間として生まれてはこない。我々は、我々自身そのものとして、ただこの世に生まれ出ただけなのである。からだについても同じことが言える。操体の大家である三浦寛師は言っている、「人は悪いからだとして生まれてきたのではない! だから臨床においても悪いからだとしてではなく、よいからだとして診るように」と。

     我々は神経症ないしは不安の時代に生きている。したがって、人間が神経症にかかっていても何の不思議もない、と言いたいところだが、何もこういった合理化を引合いに出して自分を慰める気など、私にはない。それよりも社会的に受け入れられるように改善された機能や症候的な救い以上のなにものかが、それに人間の動機に対するもっと完璧な理解があるのではないだろうか。我々がこれまで考えていた状態とはまったく異なる状態がきっとあるはずだ、身心の緊張や自己防衛にも無縁な生活が。そのとき、人間はまぎれもなく自分自身になりきっていて、これまでよりも深い感情と内的なユニットを経験することができるのではないかと思うのである。

     この状態を操体によって経験することができるのだと私は信じている。それはくつろぎという快適感覚を味わうことで、患者はまぎれもなく自分を取りもどし、その自分にとどまることができる可能性もでてくるのだ。神経症は感情の病気の一つであり、その中心には、感情の抑制があり、抑圧された感情が、さまざまな神経症の行動に変化する。神経症の症候は、不眠症から性的な倒錯にまで至っており、あまりにも多様なために、我々は神経症をとかく分類して考えるようになってしまった。しかし、各症候は、別個の病気ではない。神経症はすべて、同一の特殊な原因のために発生するものであり、同一の特殊な療法に反応するものである。

     ジグムント・フロイトは、人間として生まれたときから既に神経症として生まれ、神経症に始まりはないという、これは一部正しいように思う。人間は神経症患者として生まれてはいない、が、神経症の人類の中に生まれ、周りをとりまく社会がどの一人をも残さず、遅かれ早かれ、神経症に追い込まれてしまう。また、もっとも防衛機能性の備わっている人間が、社会でもっともよく機能するのだともフロイトは言っている。しかし、私はこの概念を絶対的な真理として受け入れることには賛同できない。
    明日につづく

  • 神経症

     今週は日下が担当で、テーマは「神経症」である。すべての病気につながる原初的疾患と言われる神経症について考えてみる。

     身心健康の条件は、からだと心を通じて全面的なくつろぎの態勢が持続されなければならず、そのどこかに緊張、硬結があるようでは健康の恩恵に浴することは難しい。長い年月の間、健康法と呼ばれる種々の修練を真面目に行なってきたにもかかわらず、一向にさほどの効果もあげることができないのは、身心におけるくつろぎの状態にないからであろう。

     中国の天童如浄禅師より「参禅は身心脱落である」との教えを乞うて悟りを開いたと言われる道元禅師は、この身心脱落が、まさに絶対的なくつろぎの境地であると言っている。しかし、そんなくつろぎを得るというのは決して容易なことではない。絶対的なくつろぎを得るのには、からだと心の両面からの工夫を要する。が、それよりも重要なことは、からだと心の中間にある神経を和らぎの状態におくことにある。なぜなら、くつろぎの基にあるのは神経の和らぎにあり、その神経を和らぎの状態にするためには、生命のしくみである緊張と弛緩のバランスとリズムが必須条件となる。神経組織、とりわけ心身一体の機構の鍵といわれる自律神経は、互いに対抗的にはたらく交感神経と・副交感神経からなっており、この両神経組織が調和しているときに、はじめて健康は保証されるのである。さらに左右両半身神経がバランスよくはたらいているときに、健康を維持することができる。

     ところで、緊張と弛緩のバランスというのは静的なものではなく、互いに相反する動きやはたらきの動的なつり合いの上に成立する。生体バランスというのは、生命のリズミカルな動きそのものであり、全身的なくつろぎを得る条件は、バランスとリズムが充たされない限り生まれてこない。だから、どんな流儀の健康法といえども、その技法のどこかで必ずバランスとリズムの条件を充たしている必要がある。そうでなければくつろぎをもたらすことはできない。しかし、そのくつろぎ自身もまた一つのリズミカルなバランスの中で緊張と拮抗している。

     操体のくつろぎにおいても、一方では操者の介助、抵抗する緊張と対抗すると同時に、他方では自分のなかに呼吸や心臓鼓動のリズムにともなう緊張と弛緩のバランスを包んでいる。操体のくつろぎは緊張を背景とし、且つ内に含む総合的な態勢なのである。そして操法の後に続く身心脱力における状態こそ、くつろぎの境地と言えるものだ。操体がこのような結果を生むのは、からだや心を整え且つ強める前に、まずその中間にある神経などの要素を調整し強化するからだ。この中間要素の調整強化ということは、全人的な健康を築く上に特に大きな意義をもっている。

     このようにからだと心の中間にある神経は単なる心でもからだでもなくて、しかも両者の一面をそなえている。心である精神と肉体であるからだと、そしてそれらをつないでいる神経という関係で身心一体の人間ができあがっているのだ。だから神経という中間段階を通路として心とからだは複雑微妙な交通関係にある。ゆえに心の動きは多少とも必ずからだに影響し、からだの状態の変化はやがては必ず心に結果を及ぼすことになってしまう。そのような関係の中間にある神経にもし疾患が、すなわち神経症にかかっていたら、身心一体の関係はどうなってしまうのだろう。

    明日につづく

  • p1*[岡村郁生(おかむら いくお)]良心と私と子供

    いったい、自分という存在はなんなのだろうか?
    存在とは、意識しなければなくなってしまうものなんだろうか?
    アイデンティティーというものは、幻想にすぎないのだろうか?

     思春期独特の悩みでなく、色恋沙汰は死ぬまで・・・とはいうが、
    悩みの相談といえば、週刊プレイボーイで掲載されていた人生相談
    は外せない。

    プレイボーイの人生相談―1966‐2006

    プレイボーイの人生相談―1966‐2006

    (まえがきは、あの島地勝彦先生である)

     柴田錬三郎先生、開高健先生、今東光大僧正、他にも錚々たる回
    答者が、さまざまな”生”と”性”にバッサバッサと答えてくれる
    だけでなく、それぞれ答える先生方に個性を感じられる。

     肉体に限りあってこそ悩める。「性」や「生」にも悩める。

     有り難いことに、子供時代から勉強が嫌でたまらなかったのに
    ”学びかた”を学ぶことで愉しめることを知り、”性”から”生”
    へ、興味を広げつつ、まさに愉しい悩みで学び続けてきた。 

     時には子供から「なんで勉強しなくちゃならないの?」という、
    質問を受けることがある。

     「一流」では納得できなをい親になった今、悩む愉しみを伝えるこ
    とはあるものの、言葉では伝えにくいコトも多い。

    子どもはなぜ勉強しなくちゃいけないの?

    子どもはなぜ勉強しなくちゃいけないの?

     (↑「勉強しなさい」と繰り返す必要がなくなる?)

     
     そう。なんでだろうね・・・・。
     正直、わからないから学んでいる。
     子供の問いを受けとめて「なぜ?」を、意識しながら追及する。

    心の生み出すストレス現象とは、妄想の具現化にすぎないのだろうか?
    心は必要なんだろうか?揺れ動く心は収める必要があるのだろうか?

     操体臨生。

     快復機序に関する説明は、お茶を飲みながら。

     臨生は、ゆとりと空間さえあればいい。

     騒々しさは「快」の土壌に育たない。

    「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」
    わからないことは尋ねるのもいいが、落ちるまで思考するのもいい。

     夜の帳に練って、陽の循環を置いて発酵させ、陰を重ねて熟成して
    いくのも、なおのこと味わい深く、滋味・旨味が抽出されてくる。
     
     「臨生」には、「生」も「性」も分け隔てなくなり遠慮はしない。

     テーマを持って、今、学べる理由を問いかけて生きるしかない。

    常に、自分自身の一部であっても丁寧に扱う。

    謙虚という「良心」を見つめ、それに答えを結ぶように・・・。

     日々言葉を磨き、言葉を見つめ、言葉は形を有していく。

    ことだまの科学―人生に役立つ言霊現象論

    ことだまの科学―人生に役立つ言霊現象論

    (・はじめにことばありき・ひふみよい・)

     囚われなく、アイデンティティーを思考する旅路は続いていく。

    自然法則に問いかける、やり遂げたいことを見いだせた生き方を。

    一週間のおつきあい、有難うございました。

    明日からは、日下実行委員の登場です!

  • p1*[岡村郁生(おかむら いくお)]ジャッジメント

     学ぶことは、”面白い”ここに大きなヒントがありそうだ。。。

    一般的ではないが、検証された結果は実際にあり、可能性としても
    充分ながら、一般的になり得ない事実は山ほどある。

     私の場合も、面白いことが前提となり、学び続けるモチベーショ
    ンも維持できているのであって、学修を続けるほどに「操体」は、
    その第一級レベルの驚きと感激を導いてもらえる。

    <自然の営みとしては・・驚いたその①>

     頸椎損傷について。
     人が歩くことは、脊髄レベルでの学習効果によるものでもあり、
    頸椎を損傷している場合でも、その後適切な訓練を受けていれば、
    歩行機能も回復を見込める・・・・。

     この結果から原因を考え、自分自身が納得できるように努めた。
    人がどうのこうのではない、私自身が”感覚的に”納得できるなら
    それでいいのだから。

     「LIFE IS・・・」ある歌手のPVで”頸椎損傷”を負った方が立
    ち上がっていて驚いたのだが、その後、”損傷から十年以上かけて、
    杖さえ使わずに歩く姿を・・・実現していた。
     これは、明らかに驚き、感動して勇気付けられることだ。

    それにも関わらず、私を含め医学の勉強では上位の脊髄損傷のあっ
    た場合、未だに歩行などあり得ないと、教えられて覚えてしまう。

     ある医師の方は語っていた。
    、最先端の論文を3〜5程度読み進め理解できてこそ、エビデンス
    からバイアスを抜いた信憑性の高い医学も理解していける・・と。

     然り。確かに。
     バイアスをかけてしまいがちな私にとって、大切にしたい言葉だ。
     ウソかホントか、やってみることを忘れず、その工夫を重ねたい。

     ・・・少し脱線した話を元に戻そう。

     否定されてしまうなら・・・・。
    「もし」「それならば」「そう来るならば」という、”if・then”的
    な展開を、見込むことは出来なくなる。

     間違ってしまうのが人間だから、始めから否定してしまうもある。
     ただ、適切な指導を受けたら、”素直に”受け取ってみる。
     考え方を否定せず、行動を徹底すればいい。
     ウソかホントかやってみればわかるのだから。

     そういえば、運動生理学をある程度習得している方なら、脳幹を残
    し、腹部をぶら下げた犬が反射的に四肢をじたばたと動かす反射を見
    たことがあるだろう。

     この反射は、何かを感じとろうとするシンプルな{うごき}では?
    猫や犬においても、そして人間でも”脊髄”レベルで歩行コントロー
    ル出来る可能性は、”感じとる”ことから始まっているじゃないか。

     人間においてそのような検証をされているデータはあるのだろうか?
    ググってみると・・・あった!

    「McGill大学のBarbeauの1989年に終了した試験的研究」では、脊髄損
    傷のある10人の患者に、40%の体重まで支えるハーネス(支持)を使っ
    て、トレッドミルの訓練を受けさせたのだ。

     驚くことにその結果は、トレッドミル(歩行機器)上や、地面におい
    て、実験に参加した患者の体重やスピードなど、歩行スタート時に支え
    なしで歩けたかどうかにもよるが、約一ヶ月半後に、かなりの歩行機能
    の回復を認めている・・というの(他に肯定している研究もある)
     
     ここで大切なのは、「立つ」ということと「歩く」ということを明確
    に識別して”訓練”しているかどうかであろう。
     「操体」を学び続けている同志には嬉しいことに、上位脳を介さず脊
    髄を介して歩行運動を行うには、「感覚の学習」が必要不可欠である。

     ・・・・なのだそうである。
     操体の学習から得た言葉で私自身が語るのならば・・・!!

    そう、運動の分析も大切だ。
    その、運動の分析を充実させているのは、紛れもなく”感覚の分析”。

    そう、構造力学の検証による、身体の構造と機能を学び取ることは大切。
    その、構造力学の検証によって、からだの運動と機能は学び続けること。

    操体法入門―からだの連動のしくみがわかる 手関節からのアプローチ

    操体法入門―からだの連動のしくみがわかる 手関節からのアプローチ

    (筋肉は連なり=連動を理解に!)

    操体法入門 足関節からのアプローチ

    操体法入門 足関節からのアプローチ

    (筋肉の経絡=経筋の理解に!)
     ホントかうそか、やってみているので、言おう。
     「生きていていいんだよ」
     
     イノチはいつも見守っていて、有り難い。
     感謝を忘れていても許しているのだから、有り難い。

  • p1*[岡村郁生(おかむら いくお)]アナトミーフライト3

    ある臨床家はこう語っていた。

     どんなに治療が上手であっても、ただ覚えたことを繰り返すだけ
     では、”記憶の樽”にすぎない・・・、と。

     オカムラも、それだけは勘弁・・・その為に学び続ける。

     そもそも、試験に合格するための勉強として考えた場合、筋肉
    なら固有名詞を覚え、支配神経や主な運動作用と起始と停止を暗記
    しておく必要がある。

    つまり、言ってみればパーツとしての人体を丸暗記しておく作業に
    陥りやすいのである。しかし、実際に国家試験に合格した後こそ本
    当の勉強は始まっていくのだと言っても過言ではないだろう。

    なぜなら、「あなたが訴えている筋肉の名前は○○です、云々」と、
    覚えたことをただ羅列するが如く説明できたとしても、苦しむ患者
    さんを目の前にして通用することなど無いに等しい。

    改訂版 クリニカルマッサージ―ひと目でわかる筋解剖学と触診・治療の基本テクニック (DVD付)

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    (支配神経の記載はない!↑=勉強できる)

    では、実際に臨床で必要になってくるのは何なのか?と聞かれたら、
    色々あるが一つの指針として“縮退”という概念を挙げてみたい。

    エネルギー本来の循環は一つの流れであって、自然な流れに逆らわ
    なければ、おのずと一つの振動数には一つの流れが生じてくるのが
    自然である。

    しかし、患者さんは本来の身体のメカニズムを知らない、知らない
    が故に、自然な筋肉の運動作用と異なった支点を用いてしまうこと
    もありうる、つまり筋肉をパーツとして捉えて本来あるダイナミッ
    クな動きの流れから分離してしまうということである。

    その拘りを生じてしまうポイントこそが“縮退”場所であり、プラ
    エントロピー(退化)を生じてくるのだから、まさに、癖も筋肉
    の一部に投影されており、“縮退”ポイントを私たち臨床家に訴え
    ているのである。

     要するに、身体の設計図を知らなければ、恣意的な動きを繰り返
    してしまうこともあるので、日々の生活で少しずつ固執してしまっ
    たともいえるだろう。

    だからこそ違和感を訴えることになるのだが、その際どこに“その
    方の支点”が生じていて“縮退”しているのだろうか?という大き
    な視野をもって運動器系のみならず、全体的に身体を診させていた
    だくのである。

    「からだ」を丸ごと捉えて観る臨床では、”歪み”として映される。

    では、ダイノセクションを通じた解剖実習によって、何がわかり何
    が変わっていける可能性を持つのだろう。

     それは、指導していただいた先生方が何度も解剖実習中に口に出
    されていた、人体の「レイヤー」構造と、筋膜・腱膜・胸膜・腹膜
    などによる「コンパートメント」との関係もその一つであり、試験
    対策として学んできた情報を実際の臨床で体感的に映せるかどうか
    であり、それに大きく関与してくる。

     勿論、御献体は話をしない。

     しかし、私たちの意思次第で非常に雄弁にもなるのだから、聞こえ
    ぬ声を聞き取り、見えなかった世界を見せてくれる素晴らしい体験
    なのは間違いない。

     私は今回、解剖中に気づいたこと、ヒントとなるものを書き込み、
    ノートに”血”や、ホルマリンや、何かの液体も付けてきたのだが、
    「岡村さん、ノートと一緒に(日本に)帰っちゃうよ」と言われ、そ
    の時「ドキッ」としたのは、そう感じたのは私だけじゃかったから。

     物見遊山で行ってみるつもりも正直あったことは認めよう。
     昔から解剖学で覚えたことを臨床に広げるのも得意では無かった。

     そこを根本から覆した今、観る”不視”にヒトの肉体は感じられ、
    まさに「からだ」と「身体」は違い、「からだ」とは全てを含有する。

     人の肉体は死ぬのだが、生命そのものはそうとは想えない。
     プラスの”エントロピ”ーには逆らっても仕方が無い。
     それは一般的にいえば、無理難題というものだ。

    三浦理事長は、ある日の個人レッスンで語ってくれた。

    オカムラ操体というのは、”ネゲントロピー”・・だな」

    そうだったのか!想うに、命の”レイヤー”を知った瞬間でもあった。

  • p1*[岡村郁生(おかむら いくお)]アナトミーフライト4

    (百聞は一見にありての血肉となりき・・)

    皮膚にも表情があるが、脂肪にも表情があるのだと知った。
    脂肪は付着している部位により粒状にも膜状にも腫瘤状にも変化
    している。結合組織もまた”無為自然”である。

     特に腹部の大網にお付着している脂肪は面白い。
     腹部の弱いところに移動して炎症を抑えやすくしたり、腫脹を防
    いだり、保温に努め、速やかに直しうる状態を補助してくれる。
    また個人差が激しいのは知っていたが、臓腑の周囲や腋下・膝窩
    鼠径部などの隙間には、おびただしいほど粒状に付着していた。

    提供された御献体モデル2体は、非常に対照的であった。
    脂肪が少なすぎる老年の献体モデルと、壮年で筋肉質やや肥満のモ
    デルは、いかなる環境にも対応できる”イノチ”の柔軟性を感じる。

     操体では「動きの分類は8つ」とあり、それに対応した”連動”が
    ある。その一つの片鱗を伺わせるのはレイヤー(=層)、コンパート
    メント(仕切り)、それぞれの筋肉を連結されたユニットとしての働
    きを考えた際、筋膜の連なりを持って想像することが如何に重要であ
    るか、更にイメージしてみる必要を感じた。

     神経にしても同様である。
     例えば11脳神経支配の副神経では延髄から出て僧帽筋と胸鎖乳突筋
    を支配しているのだが、実際に筋膜から枝状に分布して僧帽筋のかな
    り下方まで神経枝を伸ばしているのを確認すると、”経絡”であったり、
    “アナトミートレイン”であったり、運動力学の連動システムまでも、
    イメージは強化されていくだろう。

     「ツクリがあってウゴク」筋肉にも形状はあり、機能作用を成す。
    その働きから抜けて形状でとらえつつ考えても面白い。

     筋肉には膜状の筋と紡錘状の筋があり、大菱形筋と小菱形筋と肩甲
    拳筋の作用は共に肩甲骨を引き上げて寄せるのだが、肩甲挙筋は随分
    と分厚い紡錘形であるのに対し、後は平たく強靭な膜状であった。

     この膜状の筋肉内には固有受容体が多く、その周囲をセンサーする
    働きのほうが重要であるとの説明に加え、実際に見て触れて覚えてい
    る知識をすり合わせることができた事は、まるでクロスワードパズル
    を解いた快感のようだった。

     関節の周囲はホルマリンの匂いがキツく、関節包内を切開するたび、
    鼻だけでなく、眼を刺すような刺激があった。
     すなわち、関節の周囲にはそれだけ密度を通じて閉じ込めておく働
    きがあるのだろうか。

     肩関節の周囲ならば、内旋筋と外旋筋に分けて試験対策では覚える。
     それは記憶するには便利だが、実際にローテーターカフとしてクロ
    スした上腕骨頭における膜状の構造を確認してみると、それ自体がス
    ムースに動くこと自体、奇跡的なバランスであるように思えてくる。

     解剖学の本も、実際の解剖も、読む側のイメージ力は必要なのだ。
    好奇心を持って眺め、触れて、確認すると、時間が惜しい程きりがな
    くなり、そこから感じて得られるメッセージは際限がない。

      一つ一つ理解できたことは、臨生を通じて学んできた証。
    諦めないで学ぶ。それは、法則の応用貢献を忘れなかったからである。
    橋本敬三師の語る「操体は一生愉しめる」よう頂いている。有り難い。

    解剖学の抜け穴―解剖学教室の講義余録から

    解剖学の抜け穴―解剖学教室の講義余録から

    (↑非常識の中に真実を観る視点が面白い)

  • p1*[岡村郁生(おかむら いくお)]アナトミーフライト2

    ハワイ大学のダイナセクション>

     バスが迎えに来て、Aジョーンズ校解剖教室にて1日目は始まった。
     この時期大学構内はお休みとなっているようで、静かなものだった。

     芝の生えた広場に植えてある、見事に育った椰子の木の数々は、ハ
    改めてハワイにいることを教えてくれる。

     セキュリティーチェックに入り、初めに契約書に同意のサインする。
    そして今回、お世話になる教授と指導教員に挨拶した。
     
     紳士的な歓迎をしてくれたスコット・ロドルフ教授に、終始笑顔の
    スティーブン・ラブラシュ助教授、日本人アスレチックトレーナー研
    修生であるお二人が紹介された後、私たちは緊張しつつも期待に溢れ
    かえりながら、二日間お世話になる解剖研修室のドアをあけた。

     そこは36畳を遙かに超える広さであり、20体を超える御献体が保管
    してあり、そのうちお二方の御献体が私達の行うダイナセクションに
    提供して頂けたのである。

     解剖衣に袖を通し、帽子、手袋、靴袋を身につける頃、日本人でア
    スレチックトレーナー科に在籍するアシスタントの紹介があった。
     
     実際に今回のダイナセクションは非常に充実していたのだが、それ
    を可能としてくれたのはこのお二方の存在を抜きに語れない。
     二日間という短期間にかかわらず、重要性の高い解剖部位は、二人
    の手早くも押しつけない指導と、メスに慣れていない私達へのフォロ
    ー、的確な状況によるアドバイスがあってこそであったと思う。

     お二方の日本語は勿論、見事に英語も堪能。医学的専門用語に至る
    まで通訳は完璧なことに加え、解剖学の知識に詳しいだけでなく実際
    にトレーナーとして活躍されているので、各筋肉の神経支配に起始部
    から停止部、作用関節の運動方向まで、こちらへの質問を交え丁寧に
    説明して頂いたことも感謝に絶えない。

     かつ決して上目線ではなく、この解剖研修を本物の財産として持ち
    帰って、更なるステップアップのきっかけにして欲しい・・・。
     そんな想いが伝わっての一期一会は心に響き、嬉しかった。

    心から、この瞬間に全ての居合わせた全てに・・・「マハロ!」
    そう感じてダイノセクションは始まったのである。

    ※マカロ=感謝する・ありがとうの意味

  • p1*[岡村郁生(おかむら いくお)]リラクセーション&フラストレーション

    リラクセーション(relaxation)
    フラストレーション(frustration)

    日本語で言えば、前者は、”くつろぐこと”、
    精神・神経・筋肉の
    ”過度に加わった緊張状態”を取り除いたり、和らげること。

    後者は、”理”に添っていない。
    つまり、”欲求不満”という現象変化。

    故に、ストレス=欲求不満ではないのである。
    たとえ、ストレッサー(ストレスの原因)が加わっても、

    ”その人にとって”・・・の、
    時間的・空間的な如限度を越えなければ、ストレスは受けない。
    つまりフラストレーションは成立しない。

    これは運動量の過多=運動系の故障とならない理由にもなる。

    しかし”そのひとによって”こそ、曲者なのであり、
    ハッキリ言ってしまえば・・・自己責任なのである。

    「全ては(例外なし)手前で責任をとれ!」と、なってしまう。
    (コ、コレって厳しすぎじゃ・・・!?)

    だから私は、ホントかウソかやってみながら、

    納得せざるを得ない「操体
    健康維持増進医学を修めている途中なのである。

    では、それを学ぶことのない人間はどうなるのか?

    ”無知”ゆえに、こんなもんだろうな・・・となる。
    こんなもんで済ますには、術(すべ)を知って、
    法(のり)を知らないのが肝心であろうと思う。

    まあ、それでも充分!
    何とかなる人も確かに沢山いる。

    ただ、無知でいられるほど、
    人間は我慢強く出来ていないようである。

    なぜなら、知りたい欲求あってこその人間、
    それこそ人間の本質なのだから。

    ウソだと思うなら、
    澄み切った青空の向こうを見上げてみるといい。
    そこには光が見えるだろう。

    それこそ、
    先人達の残してくれた”思考の輝き”と思って間違いない。
    宇宙哲学と人間の哲学の共通点を、
    ホンの少しでも学んでみたらわかるだろう。

    故に、厳しいかもしれないこの現実世界を、師はこう語った。

    「この世は極楽だ!」
    「有り難く出来ているんだな」
    「動きよりも感覚の勉強をしなさい」

    また、先日書いたように、100%例外無しの”絶対”はある。

    生まれてきたこと。
    存在していること。
    死ぬと言うこと。

    私が思うにそれは、
    そのワケがあるってことでもあり、
    その”ワケ”とは、生命の法則性であり、故に自然。

    「からだ」を通してみると生命感覚とは、
    本当にわかって欲しいことがあるんだな・・・と理解る。

    道元

    道元

    道元正師は痛快に語る。

    「生より死にうつると心うるは、これあやまり也。生はひと
     ときのくらゐにて、すでにさきありのちあり」 ※注

    橋本敬三師は操体の哲学思想を語る。

    「人は天地の間で摂理を与えられている」

    三浦理事長は師の意志を継ぎ、深化して語る。

    「イノチは『快』に従いたいという意志を持っている」

    オカムラも、時に迷走し、真時に自律すると、ふと想う。

    「死ぬとか生きるとか気にならない・・・。
     その瞬間に出会えた自分自身は、愛おしくてたまらない」と。

    ※注訳:「生は、生きているときの、ひとときの状態で完成している」

  • p1*[岡村郁生(おかむら いくお)]リビング・ウィル

    (Living will)

    日本語で言えば、
    本人の”死”に対する考え方の表明であり。
    延命治療について、生前の本人の意思表明。

    このような考え方の表明には、思想が必要となると思われ、
    操体では「想(念)」に「息」での表明となりうる。

    つまり、思想とは、”生きかた”と密接な関係にあり、
    精神文化表現の一種と、言えるかもしれない。

    特にホスピスのような終末期医療の現場では、
    メンタル・ヘルス(=精神衛生)が問題になるのだが、
    それ自体、生命倫理学に関わってしまうので、

    生きていただけでは”生きかた”は浮いてしまう。

    幸いにして私達は「橋本敬三宗教観と哲学」に触れ、
    ”生きかた”とは、”死にかた”の表裏という哲学思想も育つ。

    息をしているのは、オカムラなのか?
    それとも息をさせられているのが、オカムラなのか?

    一瞬たりとも静止状態を100%維持できない・・それがオカムラ

    ではオカムラが100%、信頼性100%、つまり絶対であるのは何か?

    生まれてきたこと。
    存在していること。
    死ぬと言うこと。

    この三つは、”絶対”である。

    オカムラは意志を表明して生きている。

    だから、アノヨも、あの夜も、あの世も、
    極端に言えば、同じように茶の間で語られていい。

    死に逝く様々、生き抜く様々に思いを巡らせること、
    つまり、普遍性を持つ精神文化こそ、
    生命倫理学に適い、生命の遺伝子の学修(学習ではない)となる。

    操体を通じ、自然法則を体感しつつ、

    幸せになってくれヨ・・・有り難さってものを受け取ってくれヨ。

    オカムラは想う。

    そのようなことを橋本敬三師は「想(念)」で伝えたかったのだろうナ。

    オカムラもアナタも同じ、
    地球という生命体を理解する上で必要不可欠なのだから。

    生き方は星空が教えてくれる

    生き方は星空が教えてくれる

    Okamura considered man (to be) the universe in microcosm.

  • p1*[岡村郁生(おかむら いくお)]アナトミーフライト

     昨年、操体の講習会を三日間の日程で、鍼灸按摩マッサージ指圧の
    国家試験養成学校を卒業している先生方に限定し、「操体法講座」の
    研修の講師として講義することができた。

     今までも、市の施設を借りてみたり、治療院でのセミナーを開催す
    ることはあったのだが、一般の人であり、医療者ではなかった。

     それ”のみ”では、広がることも広がらないこともあるだろう。

     なので、実行委員の三浦寛幸氏に助手をお願いしながら、創始者
    橋本敬三師に、操体の講義を”捧げるつもり”でやり遂げた。

     これは師が、治療者よりに偏ることなく操体の”指導者”に期待し
    たからであり、操体のプロを育成し、地位向上の為の勉強会を通じて
    いける、今の(一社)日本操体指導者協会にも繋がっている。

     そして今年の春。
     卒業後も御縁のある校長先生から連絡があり、海外研修の一環だ
    った中医学研修を、近年のから社会情勢を鑑みて中止、代わりに日
    本では医師・医学生のみ法的に許される、“メス”を用いた解剖を
    ハワイ大学・A・ジョーンズ校にて行う“ダイノセクション”を可
    能となったようで、一緒に如何ですかとの誘いであった。

     国家試験習得してから18年、当時より明らかに身体の不思議さを学
    び続けている私でも、実際にダイノセクションによる解剖実習の機会
    を得るチャンスなど、これからもあるかどうか・・・。

    これを踏まえ考えていると、また“臨床から生まれた良心の声”は、
    参加費用と臨時休業による収入減少のマイナス要因など無いに等しい、
    と教えてくれる。個人では、このような体験が出来ることではない。
     
     “良心の声”は、「からだ」を通して伝えてきた。
     ・・・「迷わず行け!」と。

     参加した結果から言えば、実際に体の表面からイメージした「身体」
    とは、自分なりの理解であったかの温度差でもあった。
     改めて臨床に向き合い、学び直すチャンスとなったのである。

     「百聞は一見にしかず」・・・私はこうして参加した。

    (アナトミーフライト2に続く)