カテゴリー: 未分類

  • 学ぶ

    ついついやさしい色の花に
    目がいきます。
    今日はモクレンにみとれてしまいました。

    操体を学びはじめ、
    からだで学ぶことに
    同じ学びは無いと
    感じています。

    介助や補助を繰り返し練習
    していると、
    同じ介助や補助であっても、
    からだは新しい学びを
    必ず教えてくれます。
    からだに通した介助や補助の
    数だけ、
    数以上に、
    からだは教えてくれるのだと
    思います。

    2014年4月27(日)
    東京操体フォーラムが開催決定!
    会場は東京千駄ヶ谷津田ホールです。

    「入眠儀式 快眠・快醒のコツのコツ」
    是非お越し下さい。

    http://www.tokyo-sotai.com/?page_id=644

  • 学ぶ

    桜の花が開きはじめ、より春の香りを感じます。
    しとしとと降る雨も、春の香りです。

    余計なことを考えずに学ぶ。
    私が、学びの奥深さを経験することができたのは、
    操体とのであいです。

    今までも、
    学習はしてきました。
    受動的な学びも、能動的な学びも
    ありました。
    しかし、その学びを
    からだで感じる奥深さを知ったのは
    操体でした。

    この学びに感謝します。
    ありがとうございます。

    2014年4月27(日)
    東京操体フォーラムが開催決定!
    会場は東京千駄ヶ谷津田ホールです。

    「入眠儀式 快眠・快醒のコツのコツ」
    是非お越し下さい。

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  • 学ぶ

     菜の花の黄色と緑のコントラストが
    とても美しく、からだにうつります。
    この景色も、かぜに香りをあたえてくれるのでしょう。

     学ぶとは
    学んだ後に、なぜ学ぶ必要があったのかを
    知る事ができるものである
    と考えるようになると、
    余計なことを考えなくなります。
    余計なこととは、
    本来の学びの内容以上に、その学び(学問)へ
    見返りを求めている状態です。

     余計なことを考えなくなると、
    学びの質はより高いものへ変化し、
    学びの本質に触れることができるような感覚を
    もちます。

    2014年4月27(日)
    東京操体フォーラムが開催決定!
    会場は東京千駄ヶ谷津田ホールです。

    「入眠儀式 快眠・快醒のコツのコツ」
    是非お越し下さい。

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  • 学ぶ

      なまあたたかい風は、とてもいい香りが
    するように感じます。これも春のイメージが
    そう感じさせるのでしょうか。

                    

    修業論 (光文社新書)

    修業論 (光文社新書)

     「修業論」より抜粋
     成熟を果たした人間にしか、「成熟する」ということの
    意味はわからない。幼児が事前に「これから、こんなふうな
    能力や資質を開発して、大人になろう」と計画して、そのように
    して起案されたロードマップに基づいて大人へと自己形成すると
    いうことはありえない。
     幼児は「大人である」ということがどういうことかを知らない
    から幼児なのであり、大人は「大人になった」後に、「大人になる」
    とはこういうことだったのかと事後的•回顧的に気づいたから
    大人なのである。成熟した後にしか、自分がたどってきた行程が
    どんな意味をもつものなのかがわからない。それが成熟という
    力動的なプロセスの仕掛けである。

     
     学ぶことも事後的•回顧的に気づくからおもしろいのだと
    感じる毎日です。

    2014年4月27(日)
    東京操体フォーラムが開催決定!
    会場は東京千駄ヶ谷津田ホールです。

    「入眠儀式 快眠・快醒のコツのコツ」
    是非お越し下さい。

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  • 学ぶ

     
     春の夜風は、きもちを弾ませるように感じます。
    植物たちの新芽パワーをからだ全身で受け取っているようです。

     学びを通して感じることは、学びたいと思うことがある
    しあわせです。学びたいと思える今があることで、私という
    存在が”豊かなとき”を得ているのです。

     学びを通して感じることは、学び舎にめぐまれていることです。
    学び舎とは場所や建物だけでなく、教えを受けることのできる師
    がおり、またその教えを受け取ることのできる空間があり、
    その空間を共有できる存在があることです。

     学びを通して感じることは、学びは終わらないということです。
    終りがないということは、それだけの自由を与えられているのだと
    思います。

    2014年4月27(日)
    東京操体フォーラムが開催決定!
    会場は東京千駄ヶ谷津田ホールです。

    「入眠儀式 快眠・快醒のコツのコツ」
    是非お越し下さい。

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  • 学ぶ 

     今日から一週間担当いたします、香(こう)です。
     よろしくお願いいたします。

     東京も桜の開花がまもなくという季節になりました。
    桜が咲くころは、多くの別れ、そしてあらたな出会いの
    季節でもあります。別れによって導かれる2014年春、
    大切にしたいと思います。

     別れの一つに卒業があります。卒業は、「そこでの学びを終えて、
    次の学びをしてもいいよ」と許可されることで、新たな学びを続ける
    環境に恵まれることだと思います。学ぶ環境に恵まれることは、
    とてもしあわせな事です。それは、決して一人ではできないことだから
    です。学びを導くすべてのことが、絶妙のタイミングで重なり合うことで、
    今の学びがあるのです。なにか一つでも欠ければ、学びを続けられない
    可能性がでてくるのです。
     学びを続けられることは”あたりまえ”ではなく、めぐまれている証なのだ
    と思います。

    2014年4月27(日)
    東京操体フォーラムが開催決定!
    会場は東京千駄ヶ谷津田ホールです。

    「入眠儀式 快眠・快醒のコツのコツ」
    是非お越し下さい。

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  • 神経症14

     原始的な苦痛の底流には、生き延びようとする生命の要求が横たわっている。小さな子どもは両親を喜ばすために、やらなければならないことを行なう。あるクライエントはその点について語った。「私は自分自身から自分を取り除いてしまった。私は自分を殺した。なぜなら私は気性が荒っぽくて手がつけられず、心も騒がしいのに、両親はおとなしくデリケートであることを望んでいたからだ。こんな不自然な気違いじみた両親と一緒に生きていくためには、自分自身を追い払わなければならなかった。しかし私はかけがえのない自分を殺してしまった。それは割の合う取引ではなかった。しかしそうするしかなかった」と。

     我々は統合された存在であり、現実の自己はたえず表面に立ち現われ、精神的な結合をしようとする。仮に本来の性質をすべて持ち備えていたいとするやみがたい要求がないならば、現実の自己を永久に退けておくことも出来よう。それは我々自身の内部におとなしくとどまり、我々の行動の中に割り込んでこようとは一切しないはずである。神経症の人間を駆り立てている要求は、ふたたびすべてを備えた人間に、すなわち本来の自分に立ち帰ろうとする要求である。非現実の自己は障害であり敵であって、最終的には破壊しなければならないものである。

     原始的な苦痛の最も重要な一面は、それが始まったその日のままの強さを持って内部に閉じ込められていることである。それは当人のいかなる生活環境や経験によっても、触れられることはない。50歳になるクライエントたちが45年以上も前に受けた小さなときの痛みを、あたかも現に経験しているような破壊的な強度をもって始めて経験する。その苦痛が全面的に経験された例は、それまで一度もなかった。その全面的な衝撃を感じそうになると、それは食い止められ、押し隠された。しかし苦痛は非常に忍耐強い。それは毎日の生活の中で、自らの存在を主張するために、我々の注意をひこうとする。しかし滅多に解放を求めて叫んだりすることはしない。苦痛が人格体系のなかに織り込まれてしまい、感じとられることがなく、ほとんど認識されることもない方が多い。

     そのとき神経症的な体系は、苦痛を無意識な行動にすり替えてしまう。それは実に自動的に行われる。認識されるかどうかに関わりなく、苦痛は何らかの吐け口を持たずにはおれないからである。吐け口は「私につらくあたらないで」と訴えかけるようにいつも微笑みを絶やさない形をとって、「私の世話を看てください」と要求する肉体的な病気の形をとる。あるいは、「私に注意を払ってください、お父さん!」というために、社会的な集まりの席で声高に行動するとか、立派に振る舞ったりする。

     しかしどんな社会的な地位に就いていようと、どれほど謹厳で「成熟」した人格者であろうとも、少しばかり引っ掻くと、その装いの下から傷ついた子どもが顔を覗かせるのが確実に見てとれる。原始的な苦痛の経験とは、ただ単に苦痛について知ることではないことを、理解しなければならない。それは苦行と化すことである。我々は精神物理的な存在であるので、その統合を分離するいかなるアプローチも成功できるはずがない。神経症は感情の病気でもなければ精神の病気でもない、それは間違いなく両方の病気である。そして本来の自分を全部取りもどすには、その分裂を感じとり、認識し、人間をふたたび統合する結合を声に出して叫ぶことが必要である。それにはカタルシス、すなわち浄化作用を必要とするのだ。逆説的ではあるが、分裂を強く感じるほど、統合をもたらす経験はいっそう強烈で本質的なものとなりうる。
    次回につづく、かも?

    2014年4月27(日)
    東京操体フォーラムが開催決定!
    会場は東京千駄ヶ谷津田ホールです。

    「入眠儀式 快眠・快醒のコツのコツ」
    是非お越し下さい。

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  • 神経症13

     原始的な感情は、深い井戸のようなものであり、我々はそこから感情を汲み出している。神経症は、いわばその井戸の蓋の役目をしている。それはほとんどあらゆる感情を抑圧する働きをする。それに、苦痛というのは言うまでもなく喜びまでも抑圧する。それだからこそ、ブレスセラピーによって原始の苦痛を感じ、自分自身を開放したクライエントは一様に、「私はまた感じることができるようになった」ということができるのだ。クライエントらは子どものとき以来はじめて本当に感じ取れる喜びを口にする。

     神経症の人間の内部に苦痛の深いスペースがあるとするこの考え方は、単なるたとえではない。表現の方法こそ異なれクライエントが口にしていることは、自分の内部に痛みのスペースを持ち歩いているということだ。たとえば、父親にぶたれるたびに子どもは、「お父さん、お願いだから優しくしてちょうだい。お願いだよ、こんなに恐い思いをさせないでよ」という気持を持つ。しかし子どもはいろいろな理由から、そんなことは言葉に表しはしない。ふつうそうした子どもは酷い闘いの状態にあるので、自分の感情に気づかない。かりに気づいたとしても、そんなことを言ったりしたら、「恐がらせないで、お父さん」などと言おうものなら、父親にあらたに懲らしめられかねない。そこで子どもは無意識のうちに、探りを入れ、すぐに謝り、でしゃばらず、礼儀正しくきちんと振る舞うことによって、口にできないことを表現しようとしている。

     このように原始的な苦痛は一つずつ蓄積され、吐け口を求めて張りつめている緊張のあらゆる層に入り込んでいく。それはその寄ってくる原因と結合したときにのみ、解消されることになる。それぞれの出来事が追体験されるとか、結合される必要はないが、多くの経験の下に横たわっている共通の感情は感じとられなくてはならない。だから父親にぶたれた子供は、漠然とした感情が自分の内部にある痛みのスペースの中に蓄えられている父親と結びつけられると、父親に恐い思いをさせられた記憶が次々によみがえってくるのだ。

     このことはとりもなおさず、主要な原始感覚的な情景の存在を証明している。それは中心的な感情につながらずにはおかない数多くの経験を代表するものである。しかし恐い思いの感覚は、脅威と思われる出来事を解決するために必要な感情の動きでもある。それは闘うか、逃げるか、あるいは変容によって成長を遂げるかの本質である。したがって恐れを深く感じていけば、それだけ知性的でバランスのとれた対応ができるようになって自らを癒すものとなりうる。それには深くて途切れることなく続ける意識的な呼吸を通してその瞬間を感じることができる。原始感覚的とも言えるこの手法は自分の内部にある苦痛のスペースを手順よく踏んで、空にすることができる、そしてスペースが空になったとき、その人間は本物に、あるいはよくなったと、見做すことができるのである。
    明日につづく

    2014年4月27(日)
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  • 神経症12

     苦痛に対するクライエントの反応の仕方は我々療法家にとって非常に重要である。そこでこの苦痛における理解を深めるのに役に立つ調査研究を取り上げてみる。一定の原始感覚に対する「瞳の収縮と拡張」について調査したE・H・ヘスは、感覚が快の場合に瞳が拡張し、不快な場合には収縮することをつきとめた。それによると拷問の絵を見せられた被験者の瞳はひとりでに、無意識のうちに収縮した、というような実験結果であった。

     子どもが不快なシーンを目撃したときにも同じことが、しかも全身に生ずるはずである。それは苦痛から逃れようとする全身的な反応であり、それにはE・H・ヘスの実験の場合と同じように、各種の感覚器官、脳の働き、筋肉組織などが関係しているものと思われる。これについては操体においても、触診での痛覚から逃れようとする、いわゆる逃避反応から動診、操法につなげていく興味あるメソッドを用いている。進化を続けている操体のことだから、いずれ精神的な療法としても確立することだろう。

     このように強度の苦痛から逃れようとするのは人間の反射的な行動であり、それは熱いやかんから手を引っ込めることや、恐怖映画のぞっとするシーンから眼をそらすこと、それに辛い思いや感情を押し殺すことにまでおよんでいる。この苦痛の原理が神経症の発展に本来つきまとっているものと考えられる。そこで原始感覚的な情景に直面すると、子どものからだは全面的な認識を拒んで機能を停止し、その認識を意識しなくなる。ひどい肉体的な苦痛に苛まれると、このうえなくしっかりしている人でも意識を失うのと同じことである。

     原始感覚的な苦痛は、経験されぬ痛みであり、この観点から、神経症を反射、すなわち、苦痛に対して全身が瞬間的に示す反応だと見なすことができる。また催眠術をかけた被験者の生理学的な実験結果がある。それによると被験者は間違いなく目覚めていたが、「あなたは何も感じることができなくなった」と催眠をかけられたうえで、痛みを伴う刺激を与えられた。そのとき、物理的な測定は被験者がそれに反応していたことを示していたが、被験者は何の痛みも感じないと報告している。しかしこの実験では、催眠をかけられて何の痛みも感じないと報告した被験者の脳波にはっきりと変化が生じていた。

     原始感覚的理論の見地からすると、このことは、苦痛を与えられていることに当の本人が気づいていないときですら、肉体と脳はたえずそれに反応している事実を物語っている。ということは痛覚に対して鎮痛剤を与えられた後でもなお、被験者の肉体が依然として苦痛を伴う刺激に反応していることを、心理的な測定データは示している。苦痛に肉体が反応することとその苦痛を意識していることとは、まったく別個の現象なのである。そこで肉体が耐え難い苦痛を締め出そうとするとき、原始感覚的な苦痛を隠し押さえておくために、何かが必要とされる。それには神経症がその役割を果たすのである。それは苦しんでいる人を苦痛から逸らし、希望へと向かわせてくれる。すなわち、自分の要求を満たすことができる対象に向かわせるのである。

     神経症の人間はそのような切迫した、しかし満たされていない要求を持っているので、その知覚と認識作用は現実から遊離するしかない。それでも苦痛は阻止される、なぜなら感情は有機生命体の統合された総合的プロセスであり、原始感覚的な苦痛のように大きな重大な感情を退けるとき、我々は感じとる能力が全面的に阻害されると信じているからである。
    明日につづく

    2014年4月27(日)
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  • 神経症11

     我々は本物の現象として生まれてくる。そして本物の現象であるためには、何の努力も必要としない。現実の自分のまわりに我々が築く殻は、フロイト学派の人ならばさしずめ「防衛機能」とでも呼ぶものであろう。フロイト学派では、防衛機能は人間に必要なものであり、最も強固な防衛機能を備えていることが健全で均衡のとれた人間であると彼らは信じている。しかしとてもそうは思えない。真実はまったくその逆で、無防備な人や非現実の自己と無縁な人こそ正常だと、私は思っている。現実的に言って、防衛力が強いほど、その人の病は重いと云わざるを得ない。すなわち、非現実の自己の要素が異常に強いからである。

     感じる能力を備えている現実の自己が抑圧されている典型的な例として、赤く熾っている炭火の上を歩くとか、針のベッドに寝てみせるとか、そういったアクロバティックなヨーギ(ヨーガ行者)に見ることができる。だが、これは決して宗教的な苦行などではない。そのようなヨーギーは肉体的な苦痛を感じないように、感覚を意識から切り離しているだけのことだ。それと同じように神経症の人間は、苦痛を和らげるために感情を完全に切り落としてしまい、もはや心理的な痛みを感じることができないようにしている。

     ときに神経症の人間が、自分自身を垣間見ることがある。病に伏せっているとか、休暇で非現実の自我の闘いに引きずり込まれるようなことが殆どない状態におかれると、自分自身の中へ投げ込まれてしまう。ときにそれは精神病的な症候につながることもありうる。すると、突然、無意識のまま動作を繰り返しているような「人間喪失感」や「奇妙さ」を感じることがある。この人格喪失感は往々にして現実の始まりなのであるが、神経症の人間は自分の非現実を信じているために、自分の現実の自己を何か異質な力と感じてしまう。一般にそうした人間は、慣れ親しんだ自分の非現実の世界に引きこもり、そのとたんに現実の自己を取りもどしたように感じてしまうのである。

     もしももう一歩踏み込めたら、もしも突き進んでいって自分の非現実性を確認できるならば、その人間は現実の自分を取りもどせるはずである。そこで神経症にかかった人間の場合には、現実の感情を伴った自己は、最初の苦痛を受けたときにしまい込まれてしまう。自分自身を解放するために最初の苦痛を感じる必要があるのは、このためである。苦痛の否定が非現実の自己を生みだしたのとちょうど反対に、苦痛を感じることがそれを叩き潰す。非現実の自己は二重の体系であるために、肉体は苦痛があたかも異質の要素でもあるかのように拒否するようである。このように衝動は常に現実を指向している。

     神経症的な両親は子どもたちが本物であることを何としても許そうとしないので、子どもたちは現実に到達するために迂回ルートをとることになる。すなわち神経症を選ぶのだ。神経症とは本物であろうとしてとる非現実的な方法であるにすぎない。非現実の体系は、肉体の状態も狂わせ、生成を阻害し、発達を止める。それは本物の内分泌系を抑圧したり、過度に刺激したりする。それは弱いさまざまな器官に不当な緊張を強い、周期的な「機能停止」の原因となる。要するに、非現実の体系は総合体であり、単なる特定の行動ではない。神経症だということは、全面的に現実ではないことを意味している。したがってすべての面で、スムーズに正常に機能できないことになる。神経症は正常と同様に、無限のものである。それは人間が行うすべての面に及んでいる。

     このような神経症の人間に、ただひたすら速くて深い呼吸を導いて、自分を駆り立てているさまざまな苦痛に直面させる精神療法がある。なぜそれが効果的なのかといえば、それは神経症の人間が、より強い感情をもっており、湧き上がってくる感情に対するもっとも基本的・自動的な反応が、からだを緊張させ、呼吸を抑制することだからだ。それが好ましくない感情に対するための効果的な闘いであるからだ。その感情は神経からなり、神経は呼吸を通じて流れている。だから、味わいたくない感情は、神経の動きを止める、つまり呼吸を止めることで、感じなくなれる。そして呼吸をほんの少しでも抑えれば、自分の中のあらゆるレベルで神経の動きを減少させるので、神経の「ボリュームを絞り、感情を意識している部分のスイッチを切ることができるからである。

     そこでひたすら呼吸を連続させ、出てくるあらゆる感覚をひたすら肯定するように導く。そういったブレスセラピーの中で現実の自己に加えられた最初の攻撃が新しい人間の状態、すなわち神経症を生み出すのとまったく同じように、非現実の自己に対する組織だった攻撃は、新しい性質の人間、すなわち正常さをもたらすことができるようになる。苦痛は内部に入り込むばかりでなく、外部へ出てくるものであるからだ。
    明日につづく

    2014年4月27(日)
    東京操体フォーラムが開催決定!
    会場は東京千駄ヶ谷津田ホールです。

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