カテゴリー: 畠山裕美(はたけやまひろみ)

  • ひだり 其の七

    ちょっと時期はずれですが、お雛様を飾る場合、左大臣と右大臣というのがいます。
    彼らの仕事は、帝を守ること。つまりSPみたいなもんですが、
    太政大臣→左大臣→右大臣の順番です。太政大臣は不在のこともあったので、左大臣というのは、
    実は現在で言うなら、内閣総理大臣級なんだとか。
     
    面白いのは、左大臣は白髪の初老の男性で、右大臣は黒髪の若い男性です。
    調べてみても、左大臣の方が偉いんだそうです。
    元々日本では「左が上位」だったんだそうです。
    神様に近いという意味もあるようです。へ~。
     
    なお、亡くなった方に経帷子を着せますが、あれは左前です。
    神仏に近いからでしょうか。
    と思ったら、719年に「衣服令」(えぶくりょう)という法律が発令されました(元正天皇)。
    その中に「「右衽着装法(うじんちゃくそうほう)」というのがありこれで「着物は右前に着ることね~!」
     
    何でも、元々中国では、高貴な人は左前(神仏に近い?)、一般庶民は右前に着ていたので、当時の「中国のことは何でも真似する文化」だった日本は、それを真似したのです。
     
    一方、西洋では「右の方がエライ」というのが定説です。
    何せ「右」のことはright(ライト、正しい)と言いますから。
     
    世の中、身近な「左」ですが、まだまだ知らない事があるものです。
     
    1週間ありがとうございました。
     
    明日からは三浦寛先生です。
     

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  • ひだり 其の六

    20代の頃、操体を本格的に学ぶ前に、太極拳を習っていた。
    その時に、腰を反らさずに、背筋を伸ばし、足腰を安定させつつ、上半身を動かすという勉強をした。
     
    当時はそんなことは知らないので、先生(女子の日本チャンピオンになった人)から
    「お尻出しちゃダメ〜」と、よく怒られたものだった。
    しかし、後に操体の実技でこれは役に立った。
     
    ちなみに、太極拳(二十四式)は、まず左足から一歩踏み出すとともに、左手を前に出す。
     
    今の目線で見ると、単なる体操のようにみえるが、実は武術の型の集合体である。
    左からというのも、実践(実戦)的な何かがあるんだろうなと思う。
     

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  • ひだり 其の五

    昨年春、南無の会坐禅会がコロナ禍で中止になった。なかなかスケジュール調整がきかず、月二回の開催だったが、月イチのペースで通っていた。
     
    以前も書いたと思うが、改めてまとめておく。
     
    坐禅と言えば臨済宗と曹洞宗だが、この二派は全然違うんである。
     
    まず、臨済宗は「悟りに至る手段」である。臨済宗では、師匠と弟子が一対一で、問答を行うが、問答同様坐禅も悟りに至る手段の一つだ。
    一方、曹洞宗の坐禅は「悟るため」とかではなく「只管打坐」(ただひたすら座ること)である。
     
     
    また、坐禅中にばしっと叩かれるシーンがあるが、あの棒「警策」というが、臨済宗では「けいさく」と言い、曹洞宗では「きょうさく」という。
    私が参加していた坐禅会では、警策の出番はなかった。
     
    坐禅の時、参加者は手を胸の前で組む。
    これを叉手(しゃしゅ)というが、臨済宗では左手の親指を、右手で軽く握り、左手の他の四指を、右手にかぶせる
    曹洞宗では左手の親指を内にして握り、手の甲を外に向けて胸に軽く当て、右手のひらで覆います。
    (臨済では左手が上で、曹洞は右手が上で、左右逆になっている)
     
    なお、曹洞宗は「作法」にうるさいが、坐禅の時、入り口の柱側から、左足から入る。何故左足からなのかはわからないが、左足から入る。
     
  • ひだり 其の四

    私たち操体指導者には、特技がある。
     
    それは、相対した被験者に対して
    言葉の誘導を行うので、左右逆転で説明ができることだ。
    鏡に映った相手と言っても良いだろう・
     
    つまり、向かい合っているので、操者の右手側は、被験者の左手側になる。
    最初は戸惑うが、慣れてくると、鏡になった相手に対して、言葉の誘導をかけることができる。
    つまり「左手をこうやって」と言いながら、自分は右手で表現しているというわけだ。
     
    右手で示しながら「左手はこうやって」と鏡で示していると、不思議なことに、鏡になっている

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    相手の動きに没入することがある。

     
    これも操体指導をやっているから、わかることなのかもしれない。
     
     
  • ひだり 其の三

    昔いた黒猫(メス)は、ねこぱんちを繰り出す時、必ず右から繰り出してきました。
    何かやるときも、右からが多いので、右利きなんだな、と思っていました。
     
    ある時読んだ資料に「猫のメスは右利きが多く、オスは左利きが多い」と書いてありました。
    ご存知のように、左手(左足)を制御するのは、右側の脳、右手を制御するのは、左の脳です。
    男性ホルモンである「テストステロンは、左脳の発達を遅らせる作用があるため、オスは右脳が成熟しやすいんだそうです(ほんとかいな?)
    その結果、オスは右脳によって制御されている左手が利き手になりやすいんだそうです。
    人間でも、男性のほうが左利きが多いんだそうです。
    なお、面白いことに、この実験は、クイーンズ大学のウェルズ氏が行ったのだそうですが、実験対象となった猫達は、全て不妊去勢手術を受けていたということです。
    つまり、後天的なホルモンの量はあまり関係ないということのようです。
    胎児期に、すでに利き手が決まっている、ということでもありそうです。
     
    さて、猫ちゃんたち(ちびちゃん、まーちゃん、りんちゃん)の利き手(脚)は、どっちかな?
     

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  • ひだり 其の二

    操体を勉強するまでは、どちらが利き目か、なんていうことはあまり気にしたことはありませんでした。
    調べてみると、どうやら手は右利きなのに、目は左目が利き目です(視力も左のほうがいい)。
    利き目は、普段はあまり気にすることはありませんが、ファインダーのついたカメラを使う時は別です。
     
    私はカメラが趣味の一つでもあるので、数年前、一眼をマニュアルで使いたいと思い、一年ほどスクールに
    通いました。
    以前にも誰かから「ファインダーを覗くのは、利き目」と聞いていたのですが、スクールで、改めて、カメラを「自分仕様」に設定する際に、
    「ファインダーを覗くのは、利き目」と教わりました。
     
    最初は右目を使っていたのですが(最初はやりにくかった)、左目を使うようになって、段々慣れて来ました。
     

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  • ひだり 其の一

    ” data-en-clipboard=”true”>そして
    こんにちは。畠山裕美です。
    今回のテーマは「ひだり」です。
     
    その昔、私が開業して間もない頃、ある人が操体を受けにやって来ました。
    大学院で、航空宇宙とかそんなことを研究している人でした。
     
    「私は右利きで、左手は殆どつかいません」 というのが、その人の話でした。
     
    そんな人もいるんかいな、と思いましたが、
    「バランスがとれるから、左もたまには意識して使ったほうがいいですよ」と伝えておきましたが、その方には何故か
     
    「左手は使いたくない」という強固な?意志が見えました。
     
    どうしてですか?と、聞きたくなりましたが、聞くのはやめたことを思い出しました。
     

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  • 「あなたに操体・操体法をお薦めする理由」七日

    七日目となりましたが、私があなたに操体・操体法をお薦めする最も大きな理由です。
     
    それは、橋本敬三先生がおっしゃったように
    「操体は面白いぞ。一生たのしめるからな」という言葉です。
     
    私もこの前書類を書いていたら、開業して26年経っていることがわかりました(汗)。
     
    操体とお付き合いを始めてから、そんなに経っているわけです。
     
    そして、その間に色々人生上の出来事もありました。
     
    そう言うとき、やっぱり人間って迷いますよね。
     
    損か得か。正しいか正しくないか。好きか嫌いか(快か不快か)
     
    こう言う場合、私は常に操体に助けられました。
    好きか、嫌いか(快か不快か」)というのもそうですが、最近は
     
    「それは美しいか?」とい問いも使っています。
     
    「その行動は、自分にとって美しいか?」
     
    「好きか嫌いか」「快か不快か」よりも、こちらの問いかけのほうが、なんとなく操体の真実に近いかな?という気がします。
     
    1週間ありがとうございました。
     
    明日からは三浦寛先生の番です、と思ったら、また猫ちゃん達が書いてくれるそうです。おたのしみに。
     

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  • 「あなたに操体・操体法をお薦めする理由」六日目

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    「想」という部分では大分助けられました。
     
    「自己肯定感を高めることができる」のではないかと思います。
    自己肯定感が低いというのは、非常によく聞く話です。
     
    自己肯定感とは、自分をどのくらい肯定的に思っているか、否定的に思っているか、自分に対する評価や判断のことです。
    もうちょっと言うと「ありのままの自分」を認めているか、ということも関わってきます。
     
    このように書くと「ダメな自分のままでいい」ということにもなってしまいますが、そうではなく、「ダメな自分」を良し悪しで評価するのではなく、それをありのままに認めることです。
     
    つまりは、何でもガチポジティブというのではなく
    「自分はダメだな」→落ち込み
    というよりも
    「自分はダメだなって、落ち込んじゃってるな」(と、認識)→前向き
    という感じでしょうか。
     
    これは数年前の東京操体フォーラムでも発表しましたが「アナ雪」で「ありのままに」というのが流行りました。あれ、最初はみんな「ありのままの私を愛して~」みたいな想像をしたようなんですが、実は「私は偽らずに、ありのままの自分で生きていく。それで嫌われたって、私は構わない」という、エルサ(姉)の、人生における自立宣言の歌なんです。知ってました?
     
     
    かといって、先日、あるところで、
    「おい、それってあやまるとこだろ」というところで
    「ありがとうございました」と超ポジティブな返事を返されて「イラッ」(笑)とした私です。。。
     
    なお、もう一つ思い浮かぶのは、
    「他人が自分のことをどう考えているか気になって仕方ない」という人です。
    全く考えないのも考えもの?ですが、常に「あの人は自分のことをどう思っているんだろう」と悩む。
     
    ここで思い出すのが「救いと報い」の話です(知らない方は、橋本敬三先生の「からだの設計にミスはない」か「生体の歪みを正す」を
    お読みください。操体を勉強する上では避けては通れない話です)。
     
    橋本敬三先生は
    「中学の後半から、猛烈な自己嫌悪と劣等感に悩まされた」(からだの設計にミスはない P42)とあります。
    そりゃ若い頃は、自意識過剰とか、若気の至りとか、精神的なことと、肉欲との板挟みとか、それは色々あるでしょう。
     
    その頃の苦悩は深刻で飯も喉につかえて通らぬ日がたびたびありました。自己批判やら及第の不安やら
    恋愛のことやらが、二重にも三重にもなって私を責め立て、宗教などとは無関係に平気でやりたいことをやっている人たちが羨ましかった。
     
    これが、23歳の時、平野栄太郎先生という盛岡の牧師に出会い、悩みから解放されるわけですが、
    何故解放されたかというと、
     
    ちょっと長文ですが、引用します
     
    私はこの時、「ああ、そうか、そうだつたのか」と素直にうなずけた。なあんだ、今までがんばれ、がんばれと言われてがんばってきたけれども、別にがんばることもなかったんだな、俺はもう初めから救われていたんじゃないか。
    俺のこの生命は、俺が生まれる前からもうあったんだな。だとしたらこの生命は神と同格の永遠の生命そのものじゃないか。何もこんなに罪を犯したの犯さないのとジタパタすることなんかないじゃないか、と。
     
    ーーその時のうれしさ、喜ばしきっていうのは、とても私には表現できないね。
    自分が救われたいなんて望む必要はきらきらないんだ。自分が何をしようが、そんなことは問題じゃない、これほどラクなことはないじゃないか、と。
    そして、私はこの”救い”ということが、自分の行為や思わくとは何んの関係もない、ということを知ると同時に、”報い”ということをも平野先生から教えられた。
    自分のそうした思わくや行為は必ず報いられて、自分の上に遅かれ早かれ現われてくる。この地上に私たちが生きている限り、私たちはか報い。を避けることはできない。
    人間の設計にミスはないこの世は因果応報の世界なのだと。
     
    中略
    この”救い”と”報い”を端的に言うなら、”救い”は絶対、”報い”は相対だということである。”救い”は絶対の無罪宣言であり、神性相続様であり、何者もくつがえすことのできない久遠の真理である。”報い”は現世における歩み方の努力に対する相対的評価である、と言えるでしょうか。
     
     
    この時の経験、つまり「救い」(最初から、救われているという絶対。私はよく、縦軸と言います)と「報い」(この世で行ったことに対する相対的評価。私はよく横軸と言います)の違いを知ったことにより、その後の橋本敬三先生は
     
    何ゃったって大丈夫だ、俺がその報いを受ければいいんだからと、締めくくっています。
     
    これは、まさに自己肯定感が高まった時のことを示しています。
     
    私達は、橋本敬三先生の若き日のエピソードを学ぶことによって「自己肯定感」というものを学ぶ事ができたのです。
     
    息食動想の「想」の部分です。
     

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  • 「あなたに操体・操体法をお薦めする理由」五日目

    ご存知のように、現在はなんだかとんでもないことになっています。
     
    また、良く言われていますが、情報過多になっているので、本当の情報もニセの情報も、入り交じっています。
    そこから、如何にして情報を取捨選択するか。それが大事であることは、皆さんご存知ですよね。
     
    先にも書きましたが、操体を学んでいると「快か不快か」をききわける力、原始感覚が蘇ります。
     
    現在の人間は、この「原始感覚」が鈍っているといわれています。それには色々な要因がありますが、その原始感覚を蘇らせる方法は、ただ一つ。
     
    「快を味わうこと」だと思います。
     
    例えば、足趾の操法®をはじめて受ける人がいるとします。
    最初は「うん、きもちいいけど、めちゃくちゃきもちいいっていうわけではない」と言います。
    「ちょっと痛いところがある」とか言ったりします。この時は、まだちょっとネガティブな感情があるかもしれません。
    しかし、足趾の操法を例えば2ラウンドくらいやると
    「めちゃくちゃ気持ちいいです。。」
    あるいは寝息を立ててあちらの世界へ行ったりします。
     
    ここで、質の高いきもちの良さを味わうと、あきらかに感覚が変わります。
     
    私はこんな時「原始感覚が蘇ってきたぞ」と、心の中でにんまりします。
     
    そういえば、この前、年配の女性が娘さんに連れられていらっしゃったのですが、足趾の操法を受けている最中、ずっと「きもちいい」とおっしゃっており、帰り際には
    「こんなにきもちの良さを味わえるなんて、本当にありがたいことです」と言って帰られました。
     
    きもちよさ→ありがたい
     
    こんな感覚を日々の中で味わうことによって(自分では味わえない人は、我々がお手伝いします)、原始感覚が蘇ります。
     
    原始感覚が蘇ると、免疫力もアップしてきます。
    これが、操体のお陰なんです。
     

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