カテゴリー: 瀧澤 一寛(たきさわ かずひろ)

  • やってみる・ききわける④

    最近基本に立ち還るということに興味がある。

    そうやって、実際に「立つ」ということを感じてみると、重くなったり、軽くなったり、ふわふわしたり、踏ん張ったり、いろいろな変化が感じられておもしろい。

    すぐに動かないことを「腰が重い」とか言うけれど、確かにそんなふうにからだを使っているし、反対にスッと動けるときは身軽で、確かにそんなふうにからだを使っている。ふわふわ感じる時は、足が地についていない感じがするし、じゃあ、踏ん張ればいいかというと、それもちょっと違う感じがする。そもそも、「からだをこういうふうに使おう」だと、コントロールに対しての反発みたいなものが飛んでくると感じることもある。

    からだの使い方もからだに委ねてみると、今までとは違った基本が見えてくるように感じていて、大げさかもしれないけれど、それを感じることで世界の見え方、感じ方が変わってくるんじゃないかと思う。僕の中でも、固まっていたものが溶け出したり、硬かったものが柔らかくなったり、入らなかったものが入るようになったり、変化はある。「からだってどんなふうに動くのかな」と感じてみると、ありのままを見せてくれるような気もして嬉しくなる。

    これも距離感なのかなって感じていて、コントロールしようとくっつぎ過ぎると「からだ」は窮屈になるし、無視してしまうと「からだ」と離れてしまうし、感じてみるくらいの距離感が「すき間」ができてちょうどいい。

    2020年春季東京操体フォーラムはWeb配信で開催致します

  • やってくる・ききわける③

    昨日、電磁気力の話を少し持ってきたから、あとちょっとだけ。

    磁石のN極とS極は引きつけ合う。これは引力だ。そして、N極とN極、S極とS極は反発し合う。これは斥力だ。くっつくか、離れるか。二者択一。

    ソーシャルディスタンスという言葉がある。今はウィルスの感染予防策として人と人との距離が社会的に図られている。本当は近づきたいのに近づけなかったり、本当は距離を置きたいのに置けなかったり、N極とS極の関係があべこべになっているように感じる。終息するまでは、必要な措置ではあるけれど、これを機に情報も含めた他者との距離感を再考するきっかけにもなった。

    飛び交っている想念に対して、くっつくか、離れるかの磁石みたいな自分は今までにもけっこうあったけれど、特に今回は、知らず知らずのうちに引っ張られてしまったり、反発したりなんてことも体験してきた。これはけっこう消耗するし、きもちもせわしなくなるし、「からだ」も固まってしまう。

    こうなると、今の世の中同様コントロールしようにもどうしようもない。だから、コントロールを放棄して「からだ」に委ねてみた。

    有難いことに電磁気力同様、目に見えないけれど常に影響を受けている「力」の存在がある。

    2020年春季東京操体フォーラムはWeb配信で開催致します

  • やってくる・ききわける②

    目に見えないから不安になる。それはすごくわかる。

    身近なところでも、「何を信じていいのか分からないねえ」という言葉をよく耳にするようになった。

    確かにここのところのニュースからはそんなふうに感じる。

    電磁気力という力がある。

    小学生の頃、理科の授業で棒磁石の周りに砂鉄をまくと、ある方向に沿って砂鉄の模様が出来上がる実験をした。この砂鉄の模様は、普段からそこにある「電磁場」が可視化された状態なんだそうだ。

    難しいことは抜きにして、普段目に見えていなかった電磁場が、磁石と砂鉄によって目に見える状態になったということだ。

    電磁場に限らず、視覚で捉えられないけれど、あるものはある。

    「目に見える」より先んじて、「目に見えない」が存在している。

    何か目に見える基準があれば、安心できるのかもしれない。何かを信じられるようになるかもしれない。ただ、こんなときだからこそ、普段見えなかったこと、気づけなかったこと、本当は気づいていたのに見て見ぬふりをしてきたことに光が当たるチャンスでもある。

    何を信じていいのか分からなければ、「からだ」にききわけることもできる。

    言葉や目に見える形で飛んでいたもの以上に、その背後にあるものや何かの存在に気づけるかもしれない。

    2020年春季東京操体フォーラムはWeb配信で開催致します

  • やってくる・ききわける①

    香さん
    一週間ありがとうございます。

    今週担当の瀧澤です。
    テーマは引き続き「飛ばす」です。
    よろしくお願いします。

    今、世間は新型コロナウィルス一色だ。僕が住んでいる岩手県久慈市では、まだ、コロナウィルスの感染は確認されていないけれど、僕を取り巻く空気はなんとなく重苦しく感じることがある。

    この空気をつくっているのは何かといえば、ウィルス以上に飛んでいるひとり一人の想念なんじゃないかと思っている。

    それは、身近にいる人達の想念だったり、毎日ニュースや新聞で目にしたり、耳にしたりする誰かの想念だったりもする。当然僕の想念も含まれる。

    多分みんな、自分が感染することも怖いけど、誰かに感染させてしまう怖さもあるんだと思う。先行きが見えない怖さだってある。一方的に飛んでくる情報はあんまり安心材料にはならず、僕自身もそのことと向き合わざるを得なかった。

    それでも、結論から言うと、ちゃんと向き合ってよかったと思う。なぜなら、自分が何に対して怖いと感じていたのか、その中で大切にしていきたいことは何かが見えてきたから。

    三密とかマスクとか、消毒とか、もちろん、そういった情報も大切で優先すべきことだけれど、僕らがとばせる情報は、もっと他にあると思う。

    そこに気づかせてくれたのは、日々操体で勉強していることだ。僕には操体を学ぶにあたって、師匠と同志たちがいてくれる。常に一緒の関係ではないけれど、本当に大切だと僕自身の納得できることに気づかせてくれる。

    僕たちを生かしてくれているものとのつながりを土台に自分自身で考えていく。自分の足で立って、軸を立てていく。

    今、そんなふうに思い至っている。

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  • その都度

    一日目のその後

    「日日是好日」の映画を観た後、

    原作も読んでみたいと思っていたら思いがけず本がやってきた。

    一月に上京した際、畠山先生がこの本を手渡してくださった。

    同じタイミングで映画を観ていたらしい。

    偶然が重なることはあるけれど、さすがにこれには驚いた。

    その後、改めて購入し、再読すると、

    お茶の稽古に向かう主人公(作者)の心の葛藤に目がいく。

    稽古をとおして、その都度心の葛藤がほどけていく様子が素敵だと思った。

    「ととのう」におしまいはない。

    やっぱり、こんなふうにととのいたいと思う。

    一週間ありがとうございます。

    寺本さん、明日からよろしくお願い致します。

  • つりあう

    操体をとおして「ととのう」のイメージが変わってきた。

    以前は「かためる」で、今は「つりあう」。

    「ゴール」と「プロセス」の違いのような感じかもしれない。

    たまに抜けてしまうこともあるけれど、

    「からだに感覚をききわける」ことに出会えたことは大きい。

    般若身経や作法をとおしても、身心の状態で感じ方は変わる。

    どこに意識を置くかでさらに変わってくる。

    感じ方は違うけれど、「バランスがとれている」と感じる瞬間がある。

    この瞬間が「今ととのっている」ということなのかもしれない。

  • 「感覚」が抜けると

    先日、クライアントに立ち方の作法を指導していた時、

    どうも立ち姿が力んでいるように見えた。

    原因は、何度も来られている方だったので

    「拇趾球で立てているだろう」と勝手に思い込んでしまったことにある。

    実際は「親趾のつけ根」で立っていた。

    たった数センチの違いでも、「拇趾球」と「親趾のつけ根」では、

    「立った時の感覚」が全く異なる。

    修正したところ、力みはなくなった。

    作法をとおすことばかりに意識がいって、

    肝腎の「感覚」がすっぽり抜けてしまっていたのだ。

    勉強になった。

  • 操ってもらう

    「からだ」が自然にととのう。

    「からだ」を意図的にととのえる。

    前者は「からだ」が主語で、後者は「私」が主語になる。

    両者をつなげてくれるのが、操体で大切にしている「感覚」だ。

    「からだの使い方」に関しても、

    「からだ」の邪魔をしないように意識しながら、

    「からだ」がききわけている「感覚」に委ねながら表現していく。

    「からだ」を操っていたつもりが、

    「からだ」に操ってもらっていたっていうのが面白いと思う。

  • 気遣いとして

    自然に「ととのう」と意図的に「ととのえる」。

    「からだ」に関してはどっちだろう。

    自然とそうなるようにととのうのが一番いいような気もする。

    ただ、そうはいかないこともあるから意識も必要になってくる。

    操体はそのバランスを大切にしている。

    操体には「からだの使い方」に関して、

    法則とかルールという言葉を使うこともあるけれど、

    マナーやお作法というニュアンスでもいいかなと思ったりもする。

    「からだ」に対する気遣いみたいに捉えてみる。

  • ジグソーパズル

    子供の頃、ジグソーパズルが好きだった。

    同じパズルを何度も繰り返していると、

    そのうち完成図はいらなくなってくるし、色んな手順を試したくなってくる。

    ここからが面白かった。

    枠から作っていっても、図柄で合わせていっても、

    やっているうちに覚えたピースの形からつなげていってもいい。

    バラバラだったピースが一つの絵にととのうまで色んなやり方があった。

    最後はどれだけ早く作れるか、時間を計ってやったりもしたが、

    先日、娘も全く同じようにパズルをやっていたのが可笑しかった。