カテゴリー: 瀧澤 一寛(たきさわ かずひろ)

  • セルフケアだけど6

    何を食べようか迷っているときは大抵、
    からだがご飯を要求していないときだ、と感じます。

     

    スーパーに行って物色するものの、
    結局買わずに出てくることも多いのです。

     

    昔から外食しに行くときに、
    すぐにお店を決められないことがけっこうありました。

     

    当時は「なんて優柔不断なんだろう」と思っていましたが、
    「そもそも食べることをからだが要求していない」と考えると
    合点がいきます。

     

     

     

    「食べる」という行為を出すところまで、と捉えていくと、
    毎日の便の出方や便の状態を観察しつつ、腸内に住む微生物に想いが至ります。

     

    どんな出方やどんな状態のときも、
    微生物を介して食と想が絡み合うなんてことを想像しつつ、
    力むことなくすっと出るとき、息に委ねる。

     

    「食べない」ということも含めて「食」の範囲が広がれば、
    感じられる世界も広がってくる。

     

     

     

     

    これを食べると調子がいいと感じられるのは納豆ご飯とおにぎり。

    よく咀嚼して味わうこの「食」を、
    何とつながっているのか、というふうに考えてみるのも愉しいです。

    2021年春季東京操体フォーラム開催
    2021年4月29日(木)昭和の日にオンライン・会場で開催致します。
    テーマ「操体法クロニクルズ2~呼吸とセルフケア特選~(仮)」

    f:id:tokyo_sotai:20210220175822p:plain

     

     

     

  • セルフケアだけど5

    最近は空いた時間にセルフで動画を撮っています。

     

     

     

    昨年の秋のフォーラムやその準備段階に操体関連の
    動画をいろいろと共有して頂きました。

     

    そのような動画を観ていて感じるのは、感覚は画面を
    超えて伝わってくるんだな、ということ。

     

    きもちよさをからだにききわけて、味わっている動画であれば、
    観ているこちらまできもちよさを共有している。

      

    観ているだけでセルフケアになっているのかもしれません。

     

     

     
    セルフで操法の動画を撮っているときは、
    それ自体セルフケアになっているのですが、感覚の世界を
    客観視するのもおもしろい。

     

    iMovieというアプリを使って遊んでいるのですが、
    動画を二つ並べて再生できる機能があります。

     

    同じ操法でも、何に意識をおくかで随分と表現が変わります。

     

    二つ並べて同時に再生すると、
    その違いを目にできておもしろいのですが、

     客観視とはいいつつも、感覚として伝わってきてしまう、
    というところがいかにも操体法でおもしろいです。

     

     

    2021年春季東京操体フォーラム開催
    2021年4月29日(木)昭和の日にオンライン・会場で開催致します。
    テーマ「操体法クロニクルズ2~呼吸とセルフケア特選~(仮)」

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  • セルフケアだけど4

    操体臨床もセルフケアとして捉えています。

    相手のからだの変化だけでなく、自分のからだの変化もききわける。

     

    呼吸の深さやお腹の音、
    意識の具合や快適感覚のききわけなど、

     

    感じ味わいながらからだに委ねていくと、
    自分のからだにも臨床を行っているような感じになります。

     

     

    その場がしーんとなって、
    深く息が入ってきたときやお腹が鳴ったタイミングで、

     

    加湿器の水やストーブの灯油がボコボコッと動き出すと、
    その場も含めて何かが変化しているのかも、という気もしてきます。

     

     

    その場から受け取る感じの変化というものもおもしろい。

     

     

    臨床の場となる空間内で、普段からどのように振る舞うか、
    ということにも興味があります。

     

    どのようにからだを使っていくか、意識を使っていくか。

    どのように呼吸をとおしていくか、言葉を発していくか。

     

    掃除一つをとっても、食事一つをとっても、それが、
    その空間の悦ぶようなことにつながっていると感じられたら、
    なんだか気分がいいのです。

     

     

    相手のからだと向き合うまでのプロセスの中で、自分のからだや
    空間と向き合っていく。

     

    もしかしたら、相手以上に自分自身が変化しているのかもしれません。

     

     

    2021年春季東京操体フォーラム開催
    2021年4月29日(木)昭和の日にオンライン・会場で開催致します。
    テーマ「操体法クロニクルズ2~呼吸とセルフケア特選~(仮)」

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  • セルフケアだけど3

    朝は目覚ましをかけません。

    だいたい4時から5時の間に目を覚まします。

    身支度、掃除など、いつものルーティンが終わったら、
    その日の空気を感じに歩きにいきます。

    今は寒いですが、その寒さも込みで、朝の空気に触れに行く。

    一度派手にすっ転んでしまいましたので、雪道のときは慎重に。

     

     

    日の出も少しずつ早くなりました。

    今は七時頃ともなれば、太陽は顔を出してくれる。

    いつもとおる橋の上から、その日の空模様を見上げ、
    呼吸と共に今日の一枚を写真におさめます。
     f:id:tokyo_sotai:20210211070455j:plain

    10分ちょっとのみちのりですが、
    太陽を拝んで、空気を感じて、接地感を味わって、呼吸を愉しむ。

    適度な空腹感があれば、それも呼吸と一緒に味わう。

    からだの外の環境も、からだの中の環境も、
    自分をつくってくれている、と感じられたら、ほんの10分ちょっとの間が
    うんと広がるようにも感じられます。


    2021年春季東京操体フォーラム開催

    2021年4月29日(木)昭和の日にオンライン・会場で開催致します。
    テーマ「操体法クロニクルズ2~呼吸とセルフケア特選~(仮)」

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  • セルフケアだけど2

     

    最近坊主にしました。

    約10年振りです。

    この間いろいろな髪型にしてきましたが、
    変える度に気分が上がるので、これも僕にとっては
    セルフケアになっているのかもしれません。

     

     

    坊主になって洗髪(洗頭?)しやすくなったので、
    朝は顔を洗うついでに頭も洗います。

    今期から故あって、冬でも水を使っています。

    氷点下の朝などは水が一層冷たく感じられますが、
    慣れてくるときもちいい。

    掌や指先で、顔や頭の皮膚をやさしくなで洗いしていると、
    水の冷たさと共に、手に顔や頭の熱感も伝わってきます。

     日によって、熱感が違うということもおもしろいですし、
    計った体温と伝わってくる熱感が必ずしも一致しないということもおもしろい。

     

    先日、スマホを使って調べ物をしていたら、どうしようもなく
    顔が火照って、頭がのぼせてきました。

    そこで、スマホで調べるのをやめてみると、徐々にのぼせが消えてくる。

    手持ち無沙汰になったので、一見関係なさそうな本を読み始めると、
    のぼせはすっかりなくなり、頭を手で触れてみても、もうほとんど熱感はない。

    からだの方で「今はスマホじゃない」と教えてくれたかのよう。

    おもしろいのが、関係なさそうな本を読んでいたのに、
    「おっ」とひびく情報がすーっと入ってきたこと。

    からだにききわけていたら、受信モードになって、
    何かをキャッチしやすくなっていたのかもしれません。

    2021年春季東京操体フォーラム開催
    2021年4月29日(木)昭和の日にオンライン・会場で開催致します。
    テーマ「操体法クロニクルズ2~呼吸とセルフケア特選~(仮)」

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  • セルフケアだけど1

    香さん
    一週間の投稿ありがとうございました。

     

    今日から「私のセルフケア」担当の瀧澤一寛です。
    よろしくお願い致します。

     

     

    「セルフケア」って自分一人でできるけれども、
    「自分一人」でやっているわけじゃないんだよなあ、
    なんてことを最近感じています。

     

    操体を学び始めて、学んだことを日々実践していて、つくづく想うこと。

     

    生きることは「からだ」という現象のお陰様。

     

     

    朝、目が覚めたら、布団の中で、
    その日、その時、その瞬間限りの「からだ」の状態を確認します。

     

    スッと起き上がりたいのか、

    ゆっくり起き上がりたいのか、

    まどろんでいたいのか、

     

    布団の中で色んな感じをからだにききわけて、
    今日も新たに生まれた気分に浸ってみる。

    起き上がったら、昨年から習慣になりましたが、体温を測ります。

    イスに座って体温を測りながら、呼吸にも意識を向けてみる。

    今日もからだが呼吸をしてくれているな、と感じられると嬉しくなります。

     目覚めの感じ、呼吸の入ってくる感じ、立ち上がってくる感じなど、
    毎日違うからだの調べ。

     日々変わっていくからだの状態を「感じられる」ということが
    セルフケアの第一歩かもしれません。

    2021年春季東京操体フォーラム開催
    2021年4月29日(木)昭和の日にオンライン・会場で開催致します。
    テーマ「操体法クロニクルズ2~呼吸とセルフケア特選~(仮)」

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  • 私のズッコケ操体クロニクル~その7~

    ご婦人に左手を内旋するように促し、介助、補助、言葉の誘導を用いて、全身の動きへとつなげていく。きもちよさも、味わってみたい要求も、からだにききわけていただけたようだ。

    こちらにもきもちよさを味わっている感じが伝わってくる。

    その間がしばらく続いたので、「今どんな感じですか?」と伺ってみると、

    「天国にいるみたいで、きもちいいねえ」 とのこと。

    そこまでの答えが返ってくるとは思っていなかっただけに、内心「おおっ!」という感じだった。

    施術後、日課にされていた施設のカーテンを閉めに、元気よく車イスを漕いでいかれた後ろ姿が印象的だった。

    現場で操体法をするのは多分初めてに近かったと思うけれど、「からだにききわける」って凄いなと、第三者を通じて感じられた出来事だった。

    初めて操体法を目の当たりにした特別授業の中で、もう一つ印象に残っていることがある。

    講師を務めてくださった先生が「今は操体法も楽とか、快とか、分かりづらくなっているけれど……」とおっしゃっていたことだ。

    当時は、何のことだかさっぱり分からなかったけれど、「からだにききわける」ということを学習してきたお陰ではっきりした。

    「快」を受けとることができるのは「からだにききわける」からこそで、それを体験できれば、「楽」と「快」の違いは識別できる。

    けれども、思考すると(からだにききわけないと)、「快」は全くの別物になってしまう。以前の「私」が勘違いしてしまったように。

    もし、操体、操体法を学ぶなら、「快」とは何なのかを学ぶなら、「からだにききわける」ということを指導してくれる人の下で学んだ方がいい。

    たとえズッコケることがあったとしても、ちゃんと気づかせてくれるから。

    一週間ありがとうございました。

    明日からは寺本さんの「私のズッコケ操体クロニクル」です。

    よろしくお願い致します。

  • 私のズッコケ操体クロニクル~その6~

    これまで操体、操体法を一から学んだことがなかったので、このレッスンで三浦先生からお借りしていることがスタンダードになっていく。

    また、初回からずっとレッスンのサポートをしてくださっていた現実行委員長の寛幸氏には、大いに助けて頂いた。

    当時、職場での業務は保険を使ったマッサージ、機能訓練がメインで、施術の内容や施術の部位は医師の同意書に基づいて決められていた。

    施術時間も二、三十分と限られており、「習ったことを現場で即使ってみよう」というきもちはあまり起こらなかった。

    どちらかというと、「からだにききわける」ことで自分のからだがどう変化していくのか、そのことにきもちが向いていた。

    この間、職場も新たに変わるが同じような業務が続く。

    そのうちに慣れてくると、習ったことを現場でやってみたい、と段々に想うようになっていた。

    ある時、車イスに乗った高齢のご婦人に第二分析をやってみよう、という気分になった。

    脳梗塞後遺症で右半身に不全麻痺のある方で、伺うといつも車イス上で麻痺側を中心にマッサージや関節運動を行った後、立ち坐りの機能訓練を行っていた。

    それを、左手を外旋にきめて、そこから内旋の動診を試みたのだ。

  • 私のズッコケ操体クロニクル~その5~

    当時の職場は土日が休みだったので、毎週土曜日にレッスンを組んで頂いた。時間に追われることなく開始できたことはありがたかった。

    レッスン当初は、三浦先生にからだを診て頂くことが多かったのだけれど、ここで大切なことを教えて頂く。

    レッスン開始から一ヶ月が経った頃、いつものようにからだを診て頂いた後、「今日はどうだった?」という三浦先生の問い掛けに、

    臨床後の余韻にぼうっと浸りながら、「この前やって頂いた時の方がきもちよかったです」と口にした。

    この時のことは今でもはっきりと記憶に残っているし、昔のノートを見返すとちゃんと記録にも残っている。

    ~「快の感覚」、自分のからだ、瞬時、他者や前回(以前)のきもちよさと比較すべきものではない、その都度、その都度、からだにききわければいい、快に優劣はない~

    操体、操体法の初学者は、きもちよさを頭で理解しようとしたり、探そうとしたりすることがある。

    それは、一度味わった「本人が感じているきもちよさ」が、その人のきもちよさの基準になってしまうからだろうと思う。

    そのきもちよさをもう一度味わおうと、あれこれ思考し、探してしまう。

    そのきもちよさを一つの基準にして、優劣をつけて比較してしまう。

    この時までの「私」は、まさにそのような「私だらけのきもちよさ」の中で勘違いしていた。

    ここから、「からだにききわける」学習が始まった。

  • 私のズッコケ操体クロニクル~その4~

    三浦先生には二ヶ月くらいの間に三回診て頂いたけれど、「操体を学ぼう」というきもちは初回でもうできあがっていたようなものだった。

    初めて診て頂いた時、訳も分からず、「からだとの対話」という世界を体験していた。言葉で何かを説明されたのではなく、皮膚に軽く触れられることで、その世界に入っていった。

    本で読んだ内容が、からだに直当たり的にヒビいていたんだと思う。

    今まで自分が思っていた「きもちよさ」とは全然違う。

    確かに「快からのメッセージ」はあるんだ、と実感できた記念すべき日でもあった。

    三浦先生の、「オレがすごいんじゃない、からだがすごいんだ」という言葉も印象的で、この時初めて「からだ」という存在に触れられたような気がしている。

    この時のインパクトが強すぎて、それからしばらくの間、「それ、御法度だよ」というようなことをやってしまうことになる。

    一人で寝転がりながら、「あの時こんな感じで手が勝手に動いていたよな」、「こんなふうに背中の方がきもちよくなったよな」とあれこれモゾモゾやってみて、

    「きもちよさが出てきたかも」という具合に、きもちよさを思考し、きもちよさを探し、きもちよさが出てきたと喜んでいたのである。

    そんなことをしても、あの時体験した「からだに委ねることで味わえるきもちよさ」を再び味わえるわけでもないのに、

    「からだにききわける」ということをちゃんと学んでいないがために、見事に勘違いしてしまったのだ。

    あの時触れた「からだ」はどこへ行ってしまったのやら。

    そんな勘違いを抱えたまま、個人レッスンを開始して頂くことになる。