カテゴリー: 瀧澤 一寛(たきさわ かずひろ)

  • アート~ギブアンドギブ⑤

    自分の思惑どころか、快や不快が生まれる前の

    ただそのように感じられていることを愉しみたい。

     

    たまに、ひとりで海や森に行くことがあります。

     

    少し寂しくなった砂浜で、靴下と靴を脱ぎ、裸足で大地と直に接触してみる。

    何だか、動物的な自分が現れてくる。

     

    風をからだに受けながら、導かれるように「うごき」を感じてみる。

    何だか、植物的な自分が現れてくる。

     

    おさまるところにおさまっている、と感じたとき、目を開けて空をみる。

     

    風を感じるとか、雲を感じるとか、対象として感じるのではなく、

    風そのもの、雲そのもの的な自分が現れてくる。

     

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    ~あのうたこそはわたしのうたでひとしくおまえのうたである~

     

    ~そのときわたしは雲であり風であった。そしておまえも雲であり風であった。~

     

    宮沢賢治「竜と詩人」より

     

    せかいが滲んでくる。

     

    2021年秋季フォーラム

    2021年11月23日(火)勤労感謝の日 ハイブリッド開催

    テーマ「アートと操体」 

    https://www.tokyo-sotai.com/

  • アート~ギブアンドギブ④

    毎朝、コーヒー屋に行き、コーヒーを淹れていただく。

     

    「好みの味があったら言ってくださいね」と声をかけていただくけれど、

    いつも豆の種類はお任せにしている。

     

    酸味が効いていたり、苦みが効いていたり、

    日によって変わる風味はどれも美味しく感じられる。

     

    飲む度に、今日はこの風味だったんだなあ、と素直に感じられること。

     

     

     

    「からだ」に対しても、今日伝えようとしてくれていることは、

    こういうことだったんだね、と素直に感じられること。

     

    そんな「からだ」を、自分の意思が越えてしまうことは度々ある。

    伝わってくることを受け取る前に、こちらで修正してしまう。

     

    いつの間にか自分好みの色を「からだ」に重ねてしまっている。

     

     

    その度に、まっさらな状態に戻してくれるのは、「からだ」そのもの。

     

    そして、「からだ」から発せられた師匠や同志達のことば。

     

     

    「いただいている」ということは、共鳴しているということ。

     

    語る「ことば」はみな違っていても根っこは同じ。

     

    「からだ」は振動を感覚してくれている。

     

     

    感謝につながるわけはここにあると思う。

     

     

    2021年秋季フォーラム

    2021年11月23日(火)勤労感謝の日 ハイブリッド開催

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  • アート~ギブアンドギブ③

    文学や詩から影響を受ける、ということはありますが
    もっと身近に、一緒に学んでいる同志からの影響は特に強く受けます。

    ここ最近はわたくしの中でその傾向が増してきているように感じます。

    2021年秋季東京操体フォーラムまで2ヶ月を切りました。

    この時期になると、色々なメッセージが届き、ことば一つ一つが糸のように繋がって、己のボキャブラリーを越えて新たな着想を得る、ということも起きてきます。

    あることばをいただいたときに、
    「息をすること」がとても「素」のように感じられて、それこそ素敵だなと思えたことがありました。

    自分の知らない言葉と出会ったときに、語源を調べたり、派生語を調べたりして、
    イメージが広がっていく。

    それも愉しいけれども、爽風のように届いてくることばによって、
    自分自身の呼吸の深浅が変わっていく「からだ」の変化は格別に新鮮で愉しい。

    ことばによって呼吸が変わるというのは、ことばも呼吸している、ということなのではないか。

    「呼吸することば」というものもあると思うのです。

     

    2021年秋季フォーラム

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  • アート~ギブアンドギブ②

    ことば、というものにどうしようもなく惹かれるときがあります。

    ことばのひびきやそこから湧出するイメージ、
    誰が発したのか、どんな想いがのっているのか。

    惹かれる理由は色々あるのでしょうけれども、
    その中には、あたまの理解が追いつかないことばというものもあります。

    最近はあるメッセージと日々向かい合っています。

    そのメッセージを書き写し、声にして読む。

    「からだ」に尋ね、賢人のことばからつながりを感じられたとき、
    また一つ、また一つと、わたくしの中に光が射してくるように感じられることがあります。

    微粒子ほどのうごめきが、確かにわたくしを突き動かしている。

    そのようなとき、わたくしの中で時間の感覚は消失します。

    反対に、理解を急いてしまったり、あたまの中だけで処理しようとすると、
    途端に時間の概念が襲ってくる。

    そのようなこともことばをとおして感じています。

    2021年秋季フォーラム

    2021年11月23日(火)勤労感謝の日 ハイブリッド開催

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  • アート~ギブアンドギブ①

    香さん
    ブログ投稿ありがとうございました。

    今日から担当の瀧澤です。
    テーマは引き続き「アートについて」です。

    一週間よろしくお願いいたします。

    わたくしはそこから何かをいただいている。

    何かをいただいたことで、スイッチが入る。

    スイッチが入ることで、今度はわたくしを介して誰かにそれが届けられる。

    このように「アート」という営みを捉えてみます。

    「そこ」は至るところにあって、「何か」や「それ」は目には見えない現象も含めて。

    「スイッチ」は時としてぱちんと入ることもあれば、すーっと入ることもある。
    「スイッチ」が入ったことを、その瞬間に気づくこともあれば、後で気づくこともある。

    「スイッチ」が入れば、世界の感じ方は変わってくる。

    振動しながら伝わり続けていることがある。

    このように捉えてみますと、「からだ」とわたくしたち一人ひとりの関係性を軸にして、「アート」な営みの広がりがあるように思えてくるのです。

     

    2021年秋季フォーラム

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  • ひだりで次第に光りだす⑦

    力が伝わっていくこと。そこにはたらく力が邪魔されることなく伝わっていくこと。無駄なエネルギーを使わずに、その環境に見合った力が伝わって表現されること。そして、その影響を享受しているわたくしがいるということ。

    操体の学問をとおして頂いている「ひだり」という感覚をからだがききわけさせてくれているとき、息、食、動、想の営みを、接している環境を感覚するという点において、そうでないときとの違いははっきり自覚されてきます。

    「からだ」のうごきや呼吸をとおして感じられることは、自然や地球や宇宙やそこに作用する力の中で生かされていることの実感であり、目には見えなくともそこに存在しているものやことの輝きです。目に見えない輝きをキャッチするのは視覚ではなく皮膚感覚も含めた内部感覚。

    「ひだり」が、「からだ」が先にあってわたくしの認識も変わってくる。からだがききわけさてくれる感覚によって、世界がより鮮明に感じられるようになってくる。からだの中も外も「ひだり」で次第に光りだすように感じられてくるのです。

    それが身心の在り方に、健康維持増進にどうつながっているのかということを、自身のからだをとおして、臨床をとおしてこれからも感じていきたいのです。

    ほんとうのほんとうを共有できるように。

    からだの感覚、イメージや言葉、共有してくださったすべてに感謝致します。

    明日からは寺本さんの「ひだり」となります。お愉しみに!

  • ひだりで次第に光りだす⑥

    鉢に植わった二年目のプチトマトはまだ青い実をつけながら、日毎に生長しています。

    植物の上にうえに伸びていこうとする生命力は、仮に言葉を発することができるのならば、どんなふうに語りかけてくれるのでしょうか。

    わたくし自身の中にも縦を感じる感覚がある。からだがそのようにききわけさせてくれる感覚によってからだに備わっている植物性が目覚めてくるかのようです。

    植物にも原始感覚はあると、橋本先生は書籍の中で書かれています。トウモロコシだってその年の風の強弱で根の張り方を変えると。日光や空気、水や地とつながり、風圧といった環境の変化を受け取る。

    ほんとうに必要なものを受け取る力、その中で感じられる微妙な変化、左(然)程と思ってしまうようなそのほんのちょっとでスイッチが入りだす。

    植物性が目覚めるというのは、これもからだから頂いている感覚が言葉になったものですが、ただの比喩表現では終わらない。

    実際に、わたくしが意識することなく日々営まれているからだの無意識的な不随意的な領域である自律神経系。またの名を植物神経系。意識することなく拍動し続ける心臓、眠りの間の呼吸、ハラワタのうねり、等々。

    植物系そのもののバランスと、植物系(無意識)とわたくし(意識)とのバランス、その中に縦を感じる感覚も存在する。存在するからはかられるバランス。ヒトの「性」の中に動物も植物もあって、赤い血も蒼い血もこのからだに流れている。

  • ひだりで次第に光りだす⑤

    どちらの足から踏み出そうか。

    そんなことを考えずとも、日々繰り返される動き。

    たったそれだけの動きの中に、雄弁に語りかけてくれるからだのひびきがあります。それは、からだが何かに導かれることで自然とうごきが生じるという感覚にもつながってくる。

    自ら(みずから)動くのか、それとも自ず(おのず)と動くのか。「自動」の意味も改めて考えてみると、「運動」と「うごき」の違いにまた一歩近づける。

    ただ、そんなことを認識しながら歩いているわけではなく、言葉になる前の感覚が瞬間的に「あっ」とやってきたとき、感覚と言葉の回路がつながり出す。感覚はいつも言葉の未来からやってくる。

    「ひだり」を感じていると、時間の流れは過去から未来の一直線では無くなるときがあります。直線ではなく循環のように感じられるときがある。それはまるで、空間と一つながりのからだのようです。

    その瞬間までからだの外にあった空間が吸気と共にからだの中にやってくる。心臓を介した体循環の流れと肺循環の流れの中で、からだの中の空間は呼気としてからだの外に抜けていく。

    この繰り返しの中で繊細にからだがききわけてくれている感覚は、先に進むというよりもその場にいながら循環し上昇していく螺旋のような時間感覚を生んでくれる。

    新鮮に感じられる感覚はわたくしが記憶していないだけで、もしかしたら「はじめまして」なのではなく「おかえりなさい」なのかもしれない。

    一つひとつの「うごき」を通してこんなことを考えてしまうのも「ひだり」のせい(性)なのかもしれません。

  • ひだりで次第に光りだす④

    できる限り左右差をなくすことでパフォーマンスを上げる「運動」成果を得る前に感じられていた素直な感覚とそこから生まれる感情。

    違和感を違和感として素直に受け取り、不自然なことは不自然と納得できずにいた頃のはなし。

    小学校低学年の頃に父親が買ってくれた野球のグローブはなぜか右利き用のグローブでした。後から聞いた理由はもう覚えていませんので、対した理由ではなかったのかもしれません。

    右手で投げるという慣れない行為を続けた結果、愉しくはないもののある程度はキャッチボールもできるようになりましたが、ある日、友達同士で草野球をしていたときに、その中に左利きの子がいてその子から左利き用のグローブを借りて驚きました。

    あののびのびと左手で投げられたときの解放感。何かセーブしたようにグローブからそれないように、コントロールすることばかりに意識がいってしまっていた今までの右投げとは全然違う感触。

    左手を大きく振って、左側がのびながら投げられる遠慮の無いうごきの解放感は、コントロールすることから解放される意味もあったのでしょう。

    後天的に学習する「運動」において、素直に感じられていた違和感も納得できずにいた不自然さも、獲得した運動能力と引き換えに陰を潜めてしまうこともあるでしょう。

    そうであると感じられる素直さと、そのようになっていることが自然であると感じられることは、愉しさにも悦びにもつながってくるという体験をわたくしはかつてしていたのです。

    わたくしはたまたま左利きとしての体験となりましたが、ここに「運動」と「うごき」の違い、そして、「ひだり」ということが大きく関与しているように思えてくるのです。

  • ひだりで次第に光りだす③

    言葉以前の感覚を受け取り、誰かに伝えるために言葉にしていくとき、言語化するために左脳は回転し出す。

    言語を習得する以前の幼児は、まず初めに右脳が活発に働き、言語の習得と共に左脳も働き出す。胎児の頃の記憶は右脳に納められている。そのような可能性を示唆するような話もあります。

    感覚をインプットし、言語をアウトプットしていく。右脳をつかい、左脳をつかう。なんという自然な流れなのでしょう。

    後天的に身に付けていく学習の前に、先天的にもともと備わっているものや順序、道筋、がいかに大切かということも「ひだり」は教えてくれます。

    わたくしは子供の頃から左利きでもあり右利きでもあるいわゆる両利きでした。自身の感覚としては左七割、右三割といったところです。

    「左利きだ」と自覚するのは大抵からだを動かしているときでした。野球では左投げ、左打ち、サッカーではボールを遠くまで蹴り飛ばせるのも、ボールをコントロールするのも左足。バスケットボールにおいてもメインで使うのは左手でした。

    「右利きだ」と自覚するときは字を書くときと箸を使うときです。

    今振り返ってみると、全身で動き、かつ、周囲の空間の状況を把握しながら力を発揮するときは「左」をつかい、局所的に同じような動作を繰り返す動きの中で力を発揮するときは「右」をつかっていたのかな、なんて思ったりもします。

    ただ、繰り返し学習していけば、その努力に見合った分だけの成果を上げられることも事実であり、それは「運動」を通してわたくし自身も体験してきたこと。

    「左右同じように使えた方がいい」という考えの下、「運動」においては苦手な「右」をいかに得意な「左」に近づけるかという学習を行っていました。

    まだ「ひだり」にひかりが灯っていなかった頃のはなしです。