カテゴリー: 日下和夫

  • 感じる(4日目)

    昨日の続き
    頭の理性が緊張という結果を生じ、大勢をしめてくると、神秘的な非理性は復讐に走ることになる。文明先進国は、理性というひとつの中枢を疲労させ過ぎてしまった。そして非理性は報復をしはじめ、秩序全体を混乱に落し入れている。無政府的なもの、無規律なもの、反逆的なもの、非論理的なもの、他にも色々とそういったものが噴出している。それは音楽とか絵画といった芸術の中にも表れている。今、まさに非理性が報復を開始して、既成秩序はその立場を譲りつつある。
    現代抽象絵画の巨匠といわれているサルヴァドール・ダリパブロ・ピカソの絵画はどうであろうか? しばらく眺めていると、気分が悪くなってくる、いや、吐き気さえ、覚えるのではないだろうか。理性は全体性ではない。もし、理性がすべてということになったら、文化全体が緊張してしまう。一人の人間にあてはまる同じ法則は、文化全体、社会全体にもあてはまるのである。これらの法則には、からだを通しての理解が必要だ。その理解によって我々に変化を促しはじめ、その理解そのものが一つの変容となる。からだは「自分」がその中にいないがゆえに緊張してしまった。
    しかし、我々の精神的な存在は決して緊張することはない。だが、精神的な領域に接触することがない。からだとの接触さえ持てないのに、精神性との接触は決してあり得ない。精神性の方が、からだより深い領域だからである。我々は性行為においてパートナーを触れずに触れることができる、それは難しいことではない。もうすでにそれを知っているはずだ。性行為の中で誰かを愛撫するとき、我々はパートナーに触れないでいる、なぜなら、触れるためには「自分」はその手に向かっていかなくてはならない、手に向かって移動しなくてはならない。自分の指に自分の掌そのものに、ちょうど自分の魂が手に行くようにして、なりきってしまわなくてはならない。そのとき初めて、触れることができる。通常、性行為の中には死んだ手がある。それは触れているように見えるが、触れてはいない。我々は本当には触れていないのだ! 我々は誰かに触れることを恐れている。何故なら象徴的に触れることはセクシャルなことになっているからだ。身体には触れることができる、が、その身体の中への移動はSEXの罪悪感が禁止しているのである。しかし、この無感覚こそ醜悪だ。
    自分の外側の境界線との接触すらないとしたら、内なる中枢との接触など到底持てはしない。精神性の領域はいつもくつろいでいる。まさに今この瞬間においてもくつろいでいる。実を言うと、精神性の領域こそ、くつろぎの領域であって緊張など一切ない。それは緊張の理由となるものが精神性の領域では存在できないからだ。我々は精神性の領域なしでは存在できない。しかし、その領域を忘れることはできる。が、その領域がなければ我々は絶対に存在できない。なぜなら、我々がその精神性そのものだからである。その領域は我々の存在であり、純粋な実存なのである。それなのに、からだにも頭にも大変な緊張があるせいで、その精神性に気づいていないのだ。もし肉体の領域や思考での緊張がなかったら、我々はおのずと精神性の至福、安らぎを知ることができる。からだと頭の緊張を解いてはじめて、精神性を深く探ることができ、至福を知ることができる。まずは、からだとの接触をもつことから始めなければならない。からだとの接触には「ただ、感じる」ということが必須条件になる。それには操体の渦状波がとても役立つ。皮膚への接触によってからだに「自分」が戻れるきっかけとなりうる。
    明日につづく

    日下和夫

  • 感じる(3日目)

    昨日の続き
    我々の頭というのは緊張で一杯だ。そんな頭など必要とされない、我々が常に混乱を引き起こしているために頭は緊張している。たとえば、SEXのことを考えている人は混乱を生み出している。というのも、SEXはあれこれ考える筋合いのものではないからだ。思考の中枢はそういうことのためにはつくられていない。SEXにはSEXの中枢がある。それなのに我々は頭を使ってSEXの中枢の仕事をしている。SEXにおいては、からだという感覚の中枢へ深く飛び込まなければならない。SEXはひとつの総体的行為である。性交の中では頭から投げ出され、バランスを失ってしまう。それが理由でSEXの恐怖が非常に強くなる。我々は頭と同一化しているが、SEXは頭無しの行為だ。もし、SEXの中で何かの知的プロセスがそこにあるとしたら、そこには真実の性行為はなくなってしまう。そのとき、そこにはオーガズムはなく、性行為そのものが非中心的で知的なものになる。
    現代社会がSEXの押さえ難い欲望、ひどい渇望が蔓延しているのは、社会がよりセクシャルになったからではない。我々自身がSEXを総体的な行為としてエンジョイすることができなくなったからだ。SEXの行為が頭に変換され、思考するようになってしまった。特に男性はSEXに対して考え、読み、ポルノグラフィティーを見て楽しんでいる。そのことを楽しんではいるが、SEXの実際のその瞬間が来ると、突然、興味が無いと感じてしまう。インポテンツになってしまったとさえ感じる。SEXについて考えているときは、活きたエネルギーを感じるのに、実際の行為に移ってゆく時、そこにエネルギーが、その欲望さえも無いと感じる。肉体が死んでしまっていると感じる。男性に何が起こっているというのか? SEXという行為でさえ知的になってしまったのだ。男性はSEXについて考えることはできるが、それをすることができないでいる。
    今までにSEXについて聞いたこと、SEXについて学んだこと、それらについて社会が話していることのすべてを忘れて、SEXの中に移ってゆかなければならない。総体的にSEXの中に巻き込まれなければならない。むしろSEXにとりつかれるのが自然な行為だ。それをコントロールすべきではない、狂ってしまったかのようにその中に移ってゆくべきだ。頭無しの状態というのは狂気に似て見える。SEXでは肉体にならなければならない、動物にならなければならない、なぜなら動物は全体だから。
    恋愛の中にあるときでさえ、SEXについて考えてしまう。それを決して感じはしない。感性の中枢が働いていないということだ。またしても文明人であればあるほど、このように知性の中枢はますます過労になる。ほかの中枢は働いていない、いや、機能していないのである。それもまた緊張を生み出すことになる。何故なら、本来働くべき中枢が、働くべき特定のエネルギーのある中枢が何もすることなく放っておかれているからだ。その中枢は、その使われていないエネルギーで過剰な重荷を負う。
    頭という知性の中枢は過労になり、感じられないにもかかわらず、感じるよう強要される。しかし、頭は感じることはできない。考えることしかできない。思考の範疇は、感覚の範疇とは全く違う。ただ違うばかりではなく、正反対である。感覚の論理は知性の論理ではない。愛には愛の思考法がある。それは頭の思考法ではない。なのに、頭はもともとそうするようにはできていないことまでやらなければならないわけだ。そのために頭は過労になり、緊張が生まれることになる。もし中枢がそれぞれの仕事をしていたなら、そこにはくつろぎがある。頭だけが中枢ではないのに、我々は頭だけが中枢であるかのように動くために、静寂やくつろいだ姿勢を、人間の森羅万象との波長をすっかり壊してしまった。
    頭は働かなければならない。頭には機能がある。しかし、それは非常に限られている。頭には荷が重すぎる。我々が受けた教育はすべて、この一つの中枢にしかかかわっていない。まるで中枢が一つしかないかのように教育されている。それは頭の中枢、数学的理性的な中枢なのだ。生は理性ばかりではなく、むしろ生の大部分は非理性的だ。この理性的な部分は、ほんの一部にすぎない。それは全体ではない。また、全体とみなされてはならない。さもなければ、緊張が結果として生じてくる。この緊張はからだの筋肉細胞にもっともよくあらわてくる。だからこそ操体の般若身経には深い意味がある。なぜなら、般若身経のような意識的なからだの動きというのは、思考や感情に連結しており、感じるという感覚の範疇に入る可能性がもっとも高くなるからである。
    明日につづく

    日下和夫

  • 感じる(2日目)

    昨日の続き
    からだをくつろがせるというのは、本当はさほど難しいことではない。が、文明の発達につれて、からだとの接触が失われてきたがゆえに、それは難しくなってしまった。今や我々はからだでは生きていない。我々の存在は基本的には、頭脳的、精神的になっている。現代人はからだで愛することすらできない。頭で愛しているのだ。からだはあたかも重荷のように付き従うだけで、誰かに触れるとしても、それは相手のからだではない。そこには感受性はない。頭が触れているのである。しかし、頭が本当に触れることなどできない。そこでは二つのからだが出会っていても、交流はない。からだは死んでいる。二つのからだが抱き合っていても、それは二つの死体が抱き合っているだけだ。我々はからだで生き、からだの中で存在してはじめて本当に抱き合うことができるのだ。
    我々がSEXを使用している現状では、それを非常に間違った方法で使っている。その間違った方法は自然ではない。動物でさえ我々より優れている。動物はそれを自然のやり方で使っている。我々の仕方は邪道に入りこんでいる。SEXは罪悪だという間断ない鉄拳が人の心に降り注ぎ、我々の中に、ひとつの深い障壁を創り出してしまった。我々はSEXの中にあって、決してトータルな手放し状態に任せることができない。何かがいつも非難しつつ立ちはだかっている。我々が意識的に「重荷を負っていない! 捉われていない! 自分にとってSEXはタブーでない」と、言うかも知れないが、何世紀にもわたって建てられた人類の過去をそんなに簡単に肩から降ろせるものではない。意識的に罪悪として非難しなくても無意識層はいつもそこに在って間断なく非難し続けているのだ。我々は決してトータルにSEXの中に入れなくて、いつも外に残されているのである。
    我々は幽霊のようにからだの外にいる。からだの周りをうろうろするが、決して中に入れない。文明人であるほど、自分のからだとの接触が少なくなる。その接触が失われてしまうと、からだが緊張してくるのだ。本来、からだには緩みくつろぐメカニズムがある。疲れたとき、からだを横たえる・・・が、「自分」はそこにいないために、からだはリラックスできないでいる。我々はからだの中にいなければならない。頭に「我」がいてはマズイ、それはよくない、ダメだ。さもなければ、からだのその緩みくつろぐメカニズムは効果を失ってしまう。自分がからだにいなかったら働けない。からだは自分を必要とする。この「自分」とは、アロンネス、単独という意味だ。社会に存在する我ではなく、独りである自分がからだにいなければならないのである。アロンという言葉はオール・ワン、全一という意味からきている。アロンネスはすべてひとつであり、全体性という肯定的な姿勢だ。一方、我というアイアムネスは消極的で否定的な態度である。
    自分がからだの中にいないと、一人では眠ることはできない。くつろげなかったり、眠れなかったりするのは、からだとの接触がなくなっているからである。我々はからだの中にいない。だから、からだは適切に機能できないでいる。からだはからだ自体の知恵で働くことができない。からだには何世紀にもわたって培われてきた遺伝的で生得の知恵がある。この知恵は自分がからだの中にいないと緊張が生じてしまう。そうでなかったら肉体は基本的には自動的なものである。自分がからだの中にいることができれば、からだは自動的に働くのである。自分がいるということが必要なのだ。そのときには、からだの緩みくつろぐメカニズムは機能しはじめる。操体臨床における「頭で考えないで、からだにききわける」とは、頭から「我」がいなくなり、自分がからだの中に存在すること、すなわち自分自身になることなのである。
    明日につづく

    日下和夫

  • 感じる

    このたびの東日本巨大地震被災された方に対し、何とお慰めしてよいか言葉もありません。被害も甚大のようですが、ご安否のほど心もとなく、たいへん憂慮しています。
    不安の多い毎日でしょうが、当該地域ご一同のお力を合わせて、この苦境を乗り切られますよう心からお祈りしています。

    さて、リレーブログですが、今週は日下が担当します。
    今回のシリーズ・テーマは「性」について。操体では切っても切れないツールである「感じる」をタイトルに据えて「性」にアプローチしてみたいと思う。
    ところで、操体で「感じる」と言えば、原始感覚を指すのであるが、「快感」となれば、SEXも同じ「快」という感覚を享受している。しかし、そもそも感覚というのは我々自身が在りのままの自然に対立しており、自分のからだが何を欲しているのか知らないでいる。自身のあるがままは何であるのか、自分のからだの真摯な欲求が何であるのかを知らない。そして、その時の我々は、まったく真摯とは遠い欲求を追い続けることになる。何故なら、「感じる心」だけが、本当の欲求が何であるのかの感覚と方向を与えることができるからである。だからこそ操体では「感じる」を媒体に使っているのだ。もし感じる心が抑圧されているとしたら、我々は象徴的な欲求を創り出す。たとえば、アルコールや喫煙それに砂糖の入った甘いもので常習性のあるものを自分自身に詰め込んでしまう。それなのに充たされた感覚を決して持つことができない。
    本当の欲求というのは「愛」に対してであって、酒やタバコや甘いものに対してではないのだ。この愛というものは、生まれてすぐに母親の「母性愛」に包まれることから始まる。そして次に「同性愛」の時期に入る。男の子は男の子どうし、女の子は女の子どうしで遊んでいるのが自然だ。英才教育と称して、習い事や塾通い等によって、この時期にそれが充分満たされていないと、大人になって、ホモやレズのような同性愛者になってしまう。何故なら同性愛を卒業していないから大人になってやり直さなければならないということだ。この成長が順調に進んでいったなら、「異性愛」の時期に移行し、恋とか恋愛を経験することになる。ここで、これらの経験が不充分であると、老人になっても異性への欲求がまとわりつき、俗に言う、いやらしいスケベー老人になってしまう。エロ爺が汚く見えるのはそのためだ。さらに成長してゆくと、「自然愛」に入っていける。ここまでくると、すべての生物、いや道端に転がっている石ころにさえ愛を注ぐことができるようになっていく。老人になると、植木や盆栽に興味を持つのもうなずけることだ。これは正常な人生を過ごしてきた場合での話である。
    このように欲求が充たされた感覚というものが、いかに重要であるかということがよくわかる。そして原始感覚にも欲求があり、人生の始まりから終わりまで、ずっと存在していて、それが求めているのは快適感覚なのである。一方、性行為でのオーガズムは、異性愛の時期に限られており、それは快適感覚ではなく「歓喜」なのである。しかし、この快的感覚や歓喜に共通して言えることは「緊張」と「くつろぎ」があるということだ。
    からだに緊張があるとき、その緊張は感覚できる。そしてその緊張が解かれたとき、そのくつろぎも感覚できる。この「くつろぐ」ということは、基本的には実存的なものである。もし我々の生への姿勢が実存的なところで緊張しているとしたら、くつろぐことなどできない。そのときは、くつろごうと努力しても、それは不可能である。実際のところ、くつろごうという試み自体がナンセンスだ。くつろごうという馬鹿げた努力は、くつろぐことを妨げる有害なものでしかない。くつろごうとすることなどできるものではない。我々にできるのはただ、「くつろいでいる」ことだけ。くつろごうとする「我」がいること自体、くつろぐことを妨げる。くつろぎとは、我という不在を意味する。それは我々の側のどんな努力もしないことによって我が不在になりうる。どんな努力も努力である限り我がいるということを強めてしまう。それはそうなって当然なのだ。
    我々が何をやろうとそれはすべて我の行為になる。その行為を通して我が強められ、我がさらに「濃縮」され、我がますます「結晶」してゆく。その意味において、我々はくつろげない。我がいなくなってはじめて、くつろぎがやってくることができる。我の行為そのものが自我の一部となり、我の努力そのものが我々自身の延長となる。我がいなくなる瞬間、くつろぐことができる。我がいるということ自体が緊張なのである。我というのは緊張なしには存在することなどできない。この我こそが緊張そのものなのだ。我というのはアイアムネス、私であること、つまり社会の中に存在する私であるという意味だ。
    橋本敬三師の教えに「バルの戒め」というのがあり、その中に「頑張るな」というのがある。頑張る我が邪魔だと言っているのだ。くつろぎが実存的なものだと言うとき、それが意味しているのは、操体の逆モーションと同じ理論である。つまり、くつろぎではなく、緊張を理解することにある。我々にとって緊張は理解できるが、くつろぎは理解できない。それはとても無理なことだ。我々が理解できるのは緊張だけだ。緊張とは何か、どのようにそれがあるのか、どこからやってくるのか、それはどのように存在し、どんな手段で存在しているのか。そうやって緊張というものを全体的に理解する方法に「動診」なるものがある。からだの末端からの動きを通して全身への連動のプロセスの中で「表現」というからだの理解があらわになる。そのとき、緊張が解ける瞬間がやってくる。そうしたとき、くつろいでいるのはからだばかりではない、存在全体がくつろいでいるのを体験することになる。
    明日につづく

    日下和夫

  • からだ(最終日)

    昨日の続き
    七番目のからだはニルヴァーナ体という。ニルヴァーナとはサンスクリット語で「涅槃」という意味であり、真理、絶対なるものは七番目のニルヴァーナ体のなかにある。ニルヴァーナ体は最後のからだであるゆえに、そこにあるのは創造と破壊ですらない。そこにあるのは「存在」と「非在」あるいは「顕在」と「非顕在」と言えるものが二つの息である。そのいずれをも自分と同一視してはいけない。
    ニルヴァーナ体の言語は存在と非在である。非在の言語は出息の言語であり、その非在の言語から語られるのは「実体は空だ」と言う。一方、存在の言語は入息の言語であるがゆえに「創造こそ究極の実体だ」と言う。これが仏陀イエス・キリストの表現の違いだ。入息を選ぶと、肯定的な用語を使い、出息の方を選んだがゆえに否定的な用語を使う。しかし、もうひとつの選択がある。それは「真理」だ。真理は語ることができない。どうしても言葉にするなら「絶対存在」とか「絶対的非在」と言えるが、真理はいかなる宗教にも属していない、何故なら、空想に支配された「神」というのは、ひとつの仮説であり、虚構であるからだ。真理を知るには、空想を完全に避け、現実の実存と実存の接触に生きなければならない。ニルヴァーナ体は、これらをも超えている。なぜなら無身体だからである。
    ニルヴァーナ体は存在か非在か、肯定の言語か否定の言語か、いずれかを選ばなければならない。そこには二つの選択しかない。否定的な選択をすると何ひとつ残らない。今ひとつは肯定的な選択、これはすべてが残る。ニルヴァーナ体では、人間に関する限り、そして世界に関する限り、生命エネルギーは多重次元の領域の中で顕われる。生命があるところ、どこへ行ってもいたるところに、中に入ったり、外に出たりするプロセスがある。生命はこの両極性なくしては存在できない。それだからこそ、プラーナとはエネルギー、宇宙エネルギーと言われているのである。
    我々は、はじめに肉体の中でそのプラーナに親しむ。プラーナはまず肉体の息として顕われる。それから、他の形態をとったからだの息として順々に顕われる。「感化」→「磁性」→「想念」→「生命」→「創造」そして「存在」。我々がそれに目覚めたら、常にそれを超越して真理に達する。その真理に達した瞬間、そのからだを超越して次のからだに入る。肉体からエーテル体へ入り、それから次が続いてゆく。超越しつづけていってニルヴァーナ体まで来ても、そこには、まだ依然として無身体という「からだ」がある。が、ニルヴァーナ体を超えると、そこは「空」である。そのときには純粋になり、我々は分裂していない。そこにはもはや両極性はない。そうなったら「不二」だ。そうなったら「ひとつ」だ。その意味するものは、大宇宙の真理と個人の内奥に存在する真我とは同一であるという根本原理に目覚めることにある。

    操体には「同時相関相補連動性」という理論がある。これは健康の回復や精神の安定といった心身の活性と目覚めに卓越した効果が証明してくれる。そういった効果はどのような原理によって生じ、現れてくるのであろうか。それは大自然の理法に基づき、波動に共鳴、共振すること、すなわち、からだと心が生命の法則と一体となって完全に調和していれば病気になることはないのである。宇宙的な広がりをもつとさえ言われている、からだと心の相関性のからくりが、近い将来において、操体によって明らかにされると、私は信じている。
    一週間にわたって長々と、しつこく、呼吸の出入りと七つのからだ、そして生命エネルギーについて、おつき合いいただいた。明日からは身も心もすっきりした小松さんによろしくお願いしたい。 

    日下和夫

    新刊情報:皮膚からのメッセージ 操体臨床の要妙Part 2(三浦寛著)、たにぐち書店より発売。 
    11月20、21日千駄ヶ谷津田ホールにて2010年秋季東京操体フォーラムが開催されます。
    2010年8月、社団法人日本操体指導者協会を設立しました。

  • からだ(6日目)

    昨日の続き
    六番目のからだはコスモス(宇宙)体である。ここまでくると、もはや生命でさえない。五番目のスピリチュアル体を過ぎると、「我」が落ちる、そのときにはどんな自我もない。我々は全体とひとつになる。そうなってくると今度は、出たり入ったりするのは我々の何かではない。なぜなら、自我はないからである。そして、一切が宇宙的になる。宇宙的になるがゆえに、その両極性は「創造」と「破壊」というかたちをとる。その大気圏は創造力と破壊力だ。
    コスモス体は創造性と破壊性、創造力と破壊力というこの広大な大気圏の中にある。瞬間ごとに、創造が起こり、瞬間ごとにあらゆるものが崩壊してゆく。この宇宙にひとつの星が生まれつつある、それは我々の誕生なのだ。今度はその星が消滅してゆく、それは我々の消滅だ。天地創造はひとつの星が誕生すること、その星は混沌から生じる、それはあらゆるものが存在の中へ入ってくる。そして、あらゆるものが消え去る、あらゆるものが死滅する。星が死に、存在が非存在の中へ移ってゆく。コスモス体は、自我中心的ではない、宇宙的になってくる。コスモス体においては、創造に関するすべてが、天地創造のすべてがわかるようになる。
    天地創造」というのはコスモス体に関することを言っている。コスモス体のなかにある人、コスモス体にまで達した人は、死んでゆくあらゆるものを自分自身の死として見る。ジャイナ教の開祖、マハーヴィーラのような人は蟻一匹殺すことができない。非暴力という戒律があるからではなく、マハーヴィーラ自身の死と受け止めているからだ。死ぬものすべてが彼の死なのである。我々が創造と破壊、たえず生じるものと、たえず滅びるものを自覚するとき、その自覚はコスモス体のものである。
    ひとつのものが滅びるときはいつでも、ほかのものが生じている。太陽が死滅すると、もう一つの太陽がほかのどこかで誕生しつつある。この地球が死滅すると、もうひとつの地球が生じるであろう。しかし、我々はコスモス体においてさえ執着するようになる「人類は死滅してはならない!」と。が、生まれたものは、すべて死ななければならない、人類も死ななければならない。核兵器は人類を滅ぼすためにつくられた。我々が核兵器をつくるが早いか、ただちに別の惑星へ行くという憧れをつくりだす。核兵器がつくられたということは、地球が間もなく死滅するということにつながる。この地球が死滅する前に、生命はどこかほかのところで進化しはじめることだろう。
    コスモス体は宇宙的な創造と破壊の感覚である。創造と破壊は入息と出息。コスモス体に達すると、我々はその両極性に目覚める。創造と破壊に目覚めたら、この二つの位相を自覚したら、その両極性を超えた第三の位格である「保持」というものを知るに至る。これこそが我々の実体なのである。
    ユダヤの旧約的キリスト教バビロニア神話、シリア神話の大洪水、あるいは世界終局を語るヒンドゥー神話のプレラーヤなどは宇宙的なひと出息、呼吸する宇宙の力だ。森羅万象が存在のなかに入り、また非在のなかへと還ってゆくのである。こういった大洪水やノストラダムスの予言にあるような世の終末について話すとき、それらはみなコスモス体について語っている。このように神話や昔話などの比喩がコスモス体の言語であり、本質なのである。
    臨床心理学には「現象学」と「実存主義」をとり入れたゲシュタルト療法なるものが存在する。ゲシュタルト心理学は、ジャン・ポール・サルトル実存主義を根本に据えており、「我ゆえに我あり」とは、このサルトルの主張であるが、これは、「実存」が「本質」に優先するというものである。しかし、臨床においては本質が実存に優先していないと治療は成立しない。なぜなら本質的に病人というものは存在せず、ただ、病気という現象が実存しうるだけだ。本質的に健康があるからこそ、病気から戻ることができるのである。

    操体の臨床には「言葉による誘導」というのがある。はじめて操体の臨床に接した方は、この言葉の誘導に悩まされる。「からだの中心を使って表現して」、「全身で表現して」、「首で表現して」、はては「へそで表現して」と、次々に言葉がやってくる。さあ、どうしたらいい? いったい何をしろと言っているのか? さらには「からだにききわけて」と、くる。からだにどうやってききわけろといっているのか? 「頭」で考えるとますますわからなくなってくる。しかし、からだはちゃんとわかっているのだ。感覚というのはこの「頭」からさえ降りてしまえば、あとはからだがうまくやってくれる。言葉の誘導はからだに対して「操体言語」を用いて話しかけているのである。「頭」と話しているのではない。操体の言語で話しかけ、そしてききわけさせている。操体での言葉の誘導はコスモス体というからだの本質にききわけさせているということだ。
    明日につづく

    日下和夫

    新刊情報:皮膚からのメッセージ 操体臨床の要妙Part 2(三浦寛著)、たにぐち書店より発売。 
    11月20、21日千駄ヶ谷津田ホールにて2010年秋季東京操体フォーラムが開催されます。
    2010年8月、社団法人日本操体指導者協会を設立しました。

  • からだ(5日目)

    昨日の続き
    五番目のからだ、スピリチュアル体は霊体とも云うが、ちょうど低次元のからだの住む大気圏が想念や息や磁力や愛憎であったりしたと同じように、スピリチュアル体の住む大気圏は「生命」である。スピリチュアル体にとっては、生命、それ自体が大気圏だ。だから入ってくるときが生の瞬間、出てゆくときが死の瞬間になる。スピリチュアル体にまでくると、生命が自分のなかにあるものではないということに気づく。からだの中に入ってきて、そしてからだから外へ出てゆく。生命それ自体はからだの中にはない。それはちょうど息のように単に中に入ってきては外に出てゆくものだ。だからこそ、このスピリチュアル体のゆえに「息」と「プラーナ」が同義語になったのである。
    スピリチュアル体ではプラーナという言葉は重要になる。それは中に入ってくる生命と外へ出てゆく生命のことであり、死の恐怖が絶えず我々につきまとっているのはそのためだ。我々は、いつも死がすぐそばにいて、角で待ち受けているということに気づいている。それはいつもそこにいて待っている。死がいつも我々を待ち受けているというこの感覚、不安、死、暗黒のこの感覚はスピリチュアル体にかかわっている。それは非常に暗い感覚、非常に茫然としている。というのも、我々はその感覚に完全に無自覚であるからだ。スピリチュアル体に達して、そのからだを自覚する。と、我々は生と死は両方ともスピリチュアル体にとって、入っては出てゆく息にすぎないということを知るようになる。それに気づくとき、我々は死ぬことはできないということも知る。死は先天的な現象でなく、生もまたそうである。
    ジグムント・フロイトはどこかで、それをどのようにかはわからないが、垣間見たにちがいない。フロイトはヨーガの達人ではなかった。もし、彼がヨーガの達人だったとしたら、それを理解するところまでいっただろう。フロイトはそれを「死の意志」と呼んだ。そして誰もが生に憧れ、ときには死に憧れる、と言っていた。人間には相反する二つの意志がある、生への意志と死への意志だ。それは西洋人の心にとってはまったく馬鹿げたことだった。この矛盾する二つの意志がどうやって、ひとりの人間の中に共存できるだろう? が、フロイトはこう言う。「自殺があるのだから、死への意志もあるに違いない」
    人間以外のどんな動物も自殺することができない。動物はスピリチュアル体を自覚することができないばかりか、生きていることも自覚できないし、知りえないから、自殺することは不可能なのである。自殺するには必要な条件がある、生きているということの自覚が必要になる。だが、動物たちは生を自覚していない。もうひとつ必要なことがある、自殺するには、死に対して無自覚でもなければならない。動物たちは生を自覚していないがゆえに自殺できない。が、我々人間は、生は自覚していても死を自覚していないがゆえに自殺が可能なのである。もし、人間が死に対して自覚するようになったら、自殺などできるものではない。
    死は五番目のからだの相、スピリチュアル体のものである。それは特定のエネルギーの流出と流入だ。世の中には、ときに自殺を考えたことのない人間はただのひとりもいない。なぜなら、死は生のもう一つの側面だからだ。この側面が自殺か殺人か、いずれかにつながりうる。そのいずれかになりうるのである。
    もし、生にとり憑かれたら、もし、生を完全に否定したいほど生に執着したら、我々は他人を殺すかも知れない。他人を殺すことによって、自分の死の願望を、死への意志を満足させることになる。そういうトリックを使って死への意志を満たすのである。そして他の人が死んだからもう自分は死ぬ必要はないと考える。
    ヒトラームッソリーニなど大虐殺を犯した人たちは、みなそれにもかかわらず非常に死を恐れていた。彼らはいつも死に対して非常におびえている。だから、その死を他人に投影する。他の誰かを殺せる人は、自分が死よりも力強いと感じる。自分は他人どもを殺すことができる、「手品まがいのやり方」、「魔法の公式」を使って彼はこう考える。自分は他人を殺せるから死を超えている、自分が人に対して為すことは、自分の身には為され得ないと。これは死の投影である。だがしかし、それは自分に戻ってくる。我々が多くの人を殺し、しまいには自殺するとしたら、それは我々に戻ってくる投影なのだ。ヒトラーの一生はまさにこれだった。
    スピリチュアル体においては、生と死が自分にやってきたり、行ってしまったりすることに、人はそのどちらにも執着できない。もし、執着しているとしたら、我々は生と死の両極性をその全体において受け入れていないということになる。そして我々は病気になるだろう。死を生の別の面と見なして受け入れることは最も難しい。生と死を相似・同一現象、ただ同じもの、ひとつのものの二つの側面として見なすのは、最も難しいが、スピリチュアル体ではそれが両極性なのである。それがスピリチュアル体におけるプラーナ的存在なのだ。

    橋本敬三師は「生かされている」という生命観について触れられているが、これはまさにスピリチュアル体のことだ。師は、「心身は、大自然が生んだ機動機関であり、生命エネルギーの入力出力を繰り返す」また「生命エネルギーの入力出力のバランスは原始感覚の安定感、満足感である」と言っておられる。これら操体哲学の中枢は生命の根幹に土台を据えているということだ。
    明日につづく

    日下和夫

    新刊情報:皮膚からのメッセージ 操体臨床の要妙Part 2(三浦寛著)、たにぐち書店より発売。 
    11月20、21日千駄ヶ谷津田ホールにて2010年秋季東京操体フォーラムが開催されます。
    2010年8月、社団法人日本操体指導者協会を設立しました。

  • からだ(4日目)

    昨日の続き
    四番目のからだは精神体、メンタル体のことである。メンタル体では想念が入ってきて、想念が出てゆく。この現象も肉体における入息・出息と同じ種類の現象だ。心の内に想念がやってきては出てゆく。想念はそれ自体がエネルギーである。メンタル体ではエネルギーが想念の往来として顕われ、肉体では呼吸として顕われる。だからこそ呼吸に応じて想念を変えることができるのだ。
    このメンタル体をうまく利用しているのが俳優だ。俳優は呼吸を使って想念を意のまま操ることができ、その場にあった役柄をうまく演じることができるのである。そこには相互の関係がある。息を吸うのを止めたら、想念がやってくるのも止む。呼吸を止めることによってメンタル体での想念も止むことになる。そして肉体が不安定になるにつれて、メンタル体も不安定になる。肉体は息を吸いたがるし、メンタル体は想念を入れたがる。空気が肉体の外側に存在するように、想念もメンタル体の外に広がってくる。
    想念は入ってきて出てゆく。自分の息が、いつか他人の息となりうるように、自分の想念もまた他人の想念になりうる。毎回、息を吐いているのと同じように、自分の想念を投げ捨てている。ちょうど空気が存在するように想念もそのように存在する。空気が汚されるように、想念も汚される。空気が不純になるように、想念もまた不純になる。想念を取り入れ、想念を投げ出すエネルギー、そのエネルギーも同じプラーナ、生命エネルギーである。
    この「入ってくる想念」と「出てゆく想念」にも相似・対応するものがある。息を吸っている間に想念が浮かんだら、そのときはじめて独創的な考えが生じる。息を吐くときは無力な瞬間だ。その瞬間にはどんな独創的な想念も生まれない。ある独創的な想念が生まれる瞬間には、呼吸さえ止む。独創的な想念が生じるとき、息は止まる。対応する現象はそれだけだ。想念が出てゆく際には何ものも生じない。それはただ死んでいる。だが、入ってくる想念と出てゆく想念に気づいたら、そのときには次の五番目のからだを知ることができる。四番目のメンタル体のところまでは、理解するのは困難ではない。というのも我々にはそれらを理解する拠り所となりうる何らかの体験があるはずである。

    操体では「自分でなければやれぬことは、息と食と動と想の四つがあり、他人に代わってもらえない」という教訓がある。この内、「想」はメンタル体の「想念」のことを言っている。病にかかった想念はすべて少なからず、神経症を伴っており、この神経症をいかに溶解するかということである。操体の動診という技法は、肉体から出発するのであるが、その神経症は肉体組織にまで及んでいて、抑圧をつづけている。この「想念」の抑圧を解放するのに動きから導かれる「表現」がとても効果的だ。動診での「表現」における意識からメンタル体の「想念」に気づかされるのである。メンタルチックに言えば、「動診」というより、むしろ「表現診」といったほうがふさわしい。
    明日につづく

    日下和夫

    新刊情報:皮膚からのメッセージ 操体臨床の要妙Part 2(三浦寛著)、たにぐち書店より発売。 
    11月20、21日千駄ヶ谷津田ホールにて2010年秋季東京操体フォーラムが開催されます。
    2010年8月、社団法人日本操体指導者協会を設立しました。

  • からだ(3日目)

    昨日の続き
     エーテル体での好きと嫌いという両極性に気づくようになり、観照者でいることができるようになったとき、三番目のからだである「アストラル体」を知るようになる。アストラル体は星気体とも言うが、媒体は「磁力」であり、アストラル体の「息」だ。
    武道を志している者なら、すでに気づいていると思うが、柔道では相手が無力になるときを見てとる技法がある。その時が攻撃の瞬間だ! 相手が力に満ちているときは、負けるに決まっている。相手の磁力が出てゆく瞬間を見てとり、そのときに攻撃しなければならない。そして自分の磁力が入っているときに、相手に攻めるようそそのかすのである。
    この磁力の往来は呼吸と一致し、対応している。何か困難なことをしなければならない時、息を内側に保たなければならない。たとえば重いものを運ぼうと思っても、息が出てゆくときには持ち上げることなど到底できっこない。だが、息を吸い込んでその息をこらえているときにはそれができる。息はアストラル体のからだに起こっていることに対応している。だから柔道では息が出てゆくとき、相手の磁力が出ていっている瞬間である。そのときこそ攻撃の機会だ! これこそが柔道の秘訣である。相手がおびえて無力になるときの秘密を知っていたら、自分より強い人でさえ打ち負かすことができるのだ。磁力が出ているとき、無力になるのは当然のことである。だから、アドルフ・ヒトラーのような男でさえ無力なときがあり、死を非常に恐れていたという。逆にどうしようもない臆病者でさえ勇敢なときがある。
    この磁力、磁性というのは、ある瞬間には力強いが、次の瞬間には無力になっている。ある瞬間は希望に満ちているが、次の瞬間には失望している。そして、ある瞬間は自身に満ちているが、次の瞬間には自信を一切失う。それは磁性が入ってくるのと、外へ出てゆくことなのである。磁力が入ってきているときは卓越している。逆に磁力が出ていってしまった時、取るに足らぬ人になっている。神をも、ものともしない瞬間があると思えば、影にさえおびえる瞬間もある。アストラル体というのは、ちょうど空気のような「磁力圏」に生きている。まわり中にある磁力を吸い入れ、吐き出している。この磁力に気づいた時、その両方を超越することができる。
    また、この磁力は肉体の良能作用に密接な関係がある。遠隔治療といわれるものもアストラル体のこの磁力に関与している。呼吸に意識をつけて直接、磁力に働きかけて「強力」と「無力」のバランスを図り、自然治癒能力を正常に戻すことを目的としている。

    操体には渦状波というのがある。渦状波は肉体的には皮膚への接触によってからだの自覚できない無意識に問いかけていくのであるが、この自覚できない無意識の緊張の解放は、からだの細胞が柔軟に本来の力が発揮できる状態を促すことにある。これはアストラル体の磁力に直接、働きかけているものだ。渦状波による操法では生命力の「強力」と「無力」のバランス受けて、自然良能作用が著しく向上するのを体感していただけるものと思う。
    明日につづく

    日下和夫

    新刊情報:皮膚からのメッセージ 操体臨床の要妙Part 2(三浦寛著)、たにぐち書店より発売。 
    11月20、21日千駄ヶ谷津田ホールにて2010年秋季東京操体フォーラムが開催されます。
    2010年8月、社団法人日本操体指導者協会を設立しました。

  • からだ(2日目)

    昨日の続き
    二番目のからだはエーテル体だ、精気体ともいう。このエーテル体にも肉体の呼吸と同じように入ってきては出てゆくプロセスがある。肉体以外のからだから何か感覚がやってくるのであるが、エーテル的な位相にあるのは息でも想念でもない、「感化」というものである。感化がただ、入っては出てゆく。
    たとえば、面識のない誰かと会った場合において、当然、その人と話したことがなくても、その人の何かを感じる。そして、その人を受け入れるか、放り出すかのどちらかを選択している。そこには微妙な感化がある。愛かも知れないし、憎しみかも知れない、好感あるいは反感であるかも知れない。これらはエーテル体のものである。誰かを好きになったばかりなのに、もう次の瞬間には嫌いになり、反感を抱くことになる。誰かを好きになったら息を吸いこんでいる。そうすると今度は息を吐き出し、嫌になる。愛の瞬間には必ず嫌悪の瞬間が続いてやってくる。
    このように生命エネルギーは両極性のなかで存在している。決してひとつの極に存在するのではない、それはありえない! そうしようとする時には必ず何か不可能なことをやろうとしているときだ。だから、「昨日の友は今日の敵」という言葉があるように、友が敵になるのは当然のことである。この出たり入ったりすることは七番目のからだに至るまで起こってくる。この入ってきては出てゆくプロセスなしにはどのからだも存在できない。ちょうど肉体が呼吸なくしては生きられないように、それは不可能なことである。
    しかし、エーテル体では、憎しみはそこにあってはならず、愛がそこになければならないという強迫観念を我々はもっている。それは選びはじめているということだ。その選択が動揺を生み出すことになる。肉体に関する限り、呼吸を対極のものとは見なしていない。だから、それにかき乱されることはない。自然法則下にある「生」は入息と出息の間にどんな差別もつけない。そこには道徳的な差別は何もない。何ひとつ選ばれることなく、両方とも同じでその現象は自然なものなのだ。だから、肉体の方がエーテル体よりも健全であると言える。エーテル体はいつも葛藤している。倫理、道徳からの選択が、そこから「地獄」をつくりだしてしまった。愛がやってくると幸福に感じ、憎しみがやってくると不安に感じる。しかし、憎しみは必ずやってくる。だからこそ両極性というものを理解しなければならない。
    ものごとは来てはまた去ってゆく。この両極性を理解すれば、入ってくるものに魅きつけられもしないし、出てゆくもののために嫌になったりもしない。ただ、無関心であって観照しているということが求められるのである。もし、どちらか一方に執着したら、もう一方の極に何が起こるかお解りいただけるものと思う。そう、気を病むことになる、気を病んで病気になって気楽ではいられなくなる。親密な関係にある者との死別によって嘆き悲しみ、気を病んで病気になるというのはこのことである。この両極性に分裂しつづけるならば、地獄の生を生きることになる。
    しかし、この両極性ゆえに肉体は存在することができる。肉体が存在するには緊張が必要である。入ることと出ることの、この絶えざる緊張が必要である。誕生と死というこの絶えざる緊張が必要だ。肉体はこの緊張のおかげで存在している。それは絶えず両極の間を動いている。さもなければ存在することなどできなかった。
    エーテル体では、愛と憎しみが基本的な両極性である。基本的な両極性は「好き」と「嫌い」が瞬間ごとに「好き」は「嫌い」になり「嫌い」は「好き」になる。我々はこの仕組みがわからないでいる。「好き」が「嫌い」になるとき、その「嫌い」を抑圧して、いつも「好き」で通そうとする。「嫌い」を嫌い続けるのだ。その「嫌い」が「好き」になった瞬間を見るのを許そうともしない。我々は敵に愛を抑え、友には「憎しみ」を抑えて抑圧してばかりいる。我々はひとつの動きしか許さない。しかし、「好き」と「嫌い」はちょうど肉体における息のようなものである。どんな違いもない。
    エーテル体は肉体で空気が媒体であると同様に、このような感化が媒体になる。「好き」と「嫌い」という両極性を通じてこそ、エーテル体が存在できるのである。「好き」と「嫌い」はエーテル体の息だ。もし、このことにただ無関心で観照者になることができたなら、もう笑うしかない、それはただの自然現象だということを知る。

    臨床においても「好き」と「嫌い」を選択し、一方に選択していて、それが原因で病気を招いている、そういったクライアントも少なくない。このようなケースではエーテル体に対するカウンセリングを経た上で、施術に入ることにしている。そうすることによって期待した成果が得られることが多い。
    明日につづく

    日下和夫

    新刊情報:皮膚からのメッセージ 操体臨床の要妙Part 2(三浦寛著)、たにぐち書店より発売。 
    11月20、21日千駄ヶ谷津田ホールにて2010年秋季東京操体フォーラムが開催されます。
    2010年8月、社団法人日本操体指導者協会を設立しました。