カテゴリー: 日下和夫

  • 神経症6

     昨日のつづき
     この世に生を受けた子どもたちが、はじめて感情を抑圧した瞬間に神経症は始まるのではないが、神経症につながるプロセスはこの時点から始まると言える。子どもは成長とともに段階的に、現実に背を向けるようになっていく。しかしある日、子どもを現実からそらしてしまう決定的な変化が起こり、現実的な要素より非現実的な要素のほうが多くなってくる。こういった臨界点に達した子どもは、神経症にかかったと判断してもいい。その後、その子どもは、二重の自己の構造、すなわち、非現実の自己と現実の自己に則して生きるようになる。現実の自己とは、有機生命体の現実の要求と感情である。非現実の自己とは、そうした感情の覆いであり、神経症の人間が自分の要求を満たすために必要な見せかけとなっている。

     自分の両親に絶えず馬鹿にされながら育った人は尊敬されることを望むようになり、自分の子どもが従順で敬愛の念が強く口答えをするとか、否定的なことを一切言わない子どもになることを要求する。また子どもじみた親は自分の子どもに、並はずれて早く成長し、あらゆる雑事をやってのけ、その準備が調うずっと以前に大人になることを望む。そう望むのは、自分がいつまでも大切にしてもらえる赤ん坊でいたいがために他ならない。

     子どもに非現実の人間になるよう求める要求が明白な形をとることは少ない。しかしながら、親の要求は、子どもにとっては暗黙の命令となる。子どもは両親の要求の渦の中に生まれ出てくるものであり、生活が始まった殆どの瞬間から、それらを満たすための苦闘が始まる。幸福そうに微笑んだり、声を出したり、バイバイと手を振ることを無理強いされる。もう少し後になると、座ること歩くことを、さらにその後には、両親が出来のよい子どもだと満足できるように、奮闘することを余儀なくされる。大きくなるにつれ、子どもに課せられる要求は、複雑になっていき、子どもはより成績を上げ、役に立ち、自分のことは自分でし、おとなしく、せがまず、しゃべりすぎず、利発なことを言い、活発であることを強いられる。子どもは自然で自分らしくあることを許されない。

     両親と子どもの間で繰り広げられている、子どもの自然で原初的な要求を否定する数多くのやりとりは、子どもを傷つける以外の何ものでもなく、ありのままの自分でいては、愛してもらうわけにはいかないぞ!と子どもに脅迫しているようなものである。こうした深い傷は、苦痛と呼ぶのに相応しい。このような原初的な苦痛とは、意識によって抑圧ないしは否定された要求と感情である。それらが害をおよぼすのは、それらを表現することも満たすことも許されていないためである。こうした苦痛は最後には、自分は愛されていないし、素地の自分では愛してもらえる望みは持てない、という思いに集約される。

     子どもは抱いてもらいたいと思っているのに抱き上げてもらえぬたびに、黙らせられたり、あざけられたり、無視されるたびに、あるいは限度以上に無理強いされるたびに、傷が蓄積されていくようになる。こういった傷が蓄積されるたびに、子どもはそれだけ現実の自分から離れ、神経症に近づいていく。そして、子どもが受けたこのような傷が、大人の潜在意識の中に苦痛として延々と棲みついている。実は我々はこの苦痛についてほとんど無知なのだ。

     操体は何故、快にこだわるのか? その理由はどうやら苦痛や不快といった感覚の奥深くに原因があるのを感づいているからだろう。そんな苦痛や不快感の根底に凄む神経症に対して、肉体からアプローチすることにより、快感覚を味わうというプロセスに操体は基づいている。神経症は神経に歪みがあるのであるが、その神経の両端につながっている心やからだにも当然に歪みを生じさせることから、その歪体を正すメソッドとして操体は最適な療法と言えるのではないだろうか。神経症についても操体は大いに期待できるものと思う。
    明日につづく

  • 神経症5

     昨日のつづき
     神経症というのは耐え難い心理的な苦痛から逃れるための象徴的な行動であると既に述べたが、象徴的な満足では決して現実の要求を満たしてくれるわけではない。だから神経症は、長年にわたって影響を及ぼし続けることになる。現実の要求は、まず感覚的に感知され経験されることにより、はじめて満たされるが、残念なことに、苦痛が現実の要求を押し隠す働きをしてしまう。苦痛がその要求を押し隠すとき、有機生命体はいつもはりつめた状態に置かれ、そのはりつめた状態こそが緊張というものである。その緊張は赤ん坊を、後には成人を、どんな手段を使ってでも、とにかく可能な方法で要求を満たす方向に押しやってしまう。この非常にはりつめた状態は、赤ん坊が生存を維持するためには欠かせないことなのである。いつか自分の要求が満たされるという希望を失ってしまったら、その赤ん坊は死んでしまうかも知れない。そんな有機生命体は、あらゆる代償を払ってまでも生き続ける生命力をもっている。その代償が「神経症」と言われるものだ。

     このような神経症による心理的苦痛はあまりにも強く、到底耐えられるものではない。そこで満たされない肉体的な要求と感情を一気に押し殺してしまうことになる。これらから言えるのは、自然なものはすべて現実の要求であるということだ。たとえば、自分のペースで成長し、発達することがそうである。子どものときに、あまり早く乳離れをさせられたり、適正な成長期が来ないのに歩くことを強要したり、また話すことを強いられたり、運動神経器官がまだ発達していないにもかかわらず、ボール遊びなどをさせ、そのボールを手でキャッチさせるようなことを押しつるべきではない。

     こういった神経症的な要求は不自然な要求であり、それらは現実の要求が満たされないことから生ずるのである。また我々は、ほめ言葉をかけてもらいたい要求をもってこの世に生まれたわけではない。が、事実上、生を受けてからずっと自分の真剣な努力に対し、ケチの連続で、所詮何をしたところで両親の愛情を勝ち得ることはできないと感じてしまうと、その子どもはほめ言葉を強く求めるようになる。同じように子どもが自己表現しようとする要求は、それに耳を貸す人がいないことによって抑圧される。そうした拒否が、止めどなく話す要求に転ずる場合もある。

     愛されている子どもは、自然な要求が満たされており、愛情が子どもの苦痛を取り除いてくれている。逆に愛されていない子どもは、満足していないために傷ついている子どものことである。また愛されている子どもは、ケチをつけられたことがないので、ほめてもらう必要がない。そんな子どもは、両親の望みを満たす能力ではなく、ありのままの自分を大切にしてもらっている。それゆえ愛されている子どもは、セックスに対するあくなきことを知らない切実な要求を持った大人にはならない。両親に抱っこしてもらい可愛がってもらって大きくなったので、小さなときの要求を満たすためにセックスに頼る必要がないのである。

     現実の要求というのは、内から外へ向かうもので、その逆ではない。抱っこして可愛がってもらいたい要求は、感覚に対する要求の一部である。その可愛がってもらい愛撫するのに接触する皮膚というのは人間の最大の感覚器官であり、少なくとも他の感覚器官と同じだけの感覚を必要としている。それは小さなときに皮膚に対して十分な感覚を受けないと、破滅的な結果につながらないでもない。どうやら各種の器官は、感覚を受けないと萎縮しはじめるようである。逆に正しい感覚を受けると、発達し成長することがわかっている。このように精神と肉体には、常に優しい感覚を必要とするのである。

     子どもにとって満たされなかった要求は満たされるまで、他のあらゆる人間活動に優先し、要求が満たされたとき、子どもはそれを感じることができる。子どもは自分の肉体と環境を経験できるということだ。しかし、要求が満たされなかったとき、子どもが経験するのははりつめた緊張だけになる。緊張とは意識から切り離された感情であり、その必要な結合を欠いているために、神経症にかかっているものはそれを感じとれなくなってくる。神経症とは感情の病気であり、このような感覚は神経が伝達するのではあるが、それは決して刺激であってはならない。だからこそ操体における皮膚への接触は軽くソフトタッチなのである。操体では皮膚からからだの無意識に問いかけるというが、これは意識から切り離された感情を再び呼び戻すという微細な働きかけなのである。

    明日につづく

  • 神経症4

     昨日のつづき
     我々はこの世に生を受けたと同時に要求をもっている。しかしながらほとんどの人は、その要求を満たされることなく、人生の闘争の末に一生を終えることになる。生まれてすぐの原初的な要求というのはお乳を飲ませてもらい、おむつが濡れるとすぐにとりかえてもらい、マイペースで成長し、知能も発達し、抱っこされたり話しかけてもらいたいだけのことである。このような最も基本的、原初的な要求が幼児を形成している。

     神経症へ向かう第一歩は、こういった要求が一時的であっても、満たされないときに始まる。赤ん坊が泣きだしたら抱っこしてあやしてやるべきであり、また、あまり早く乳離れさせるべきではないが、そんなことは赤ん坊自身、知る由もない。だからといってそんな基本的な要求が無視されると、赤ん坊は大変傷つくことになる。幼児は自分の要求を満たすために、自分にできるあらゆることをしなければならない。お腹が空くと泣き、どこか痒いところでもあれば、そういった自分の望みに気づいてもらうべく、足をばたつかせたりする。そのような要求が長い間、無視されたり、抱っこしてもらえなかったり、おむつを変えたりお乳を飲ましてもらえなかったりしたら、何とかして両親に自分の要求を満たしてもらうか、あるいは自分の望みをあきらめ、その苦しみを押し殺してしまうまで、赤ん坊は苦痛を味わうことになる。その苦痛があまりにも激しい場合には、実際に死に至ることもあるほどだ。

     そんな赤ん坊は空腹感にも打つ手はなく、愛情の代用品を見つけ出せないので、空腹感や抱っこしてもらいたい自分の感覚を、意識から分離せざるを得ない。自分の要求や感情から自分自身を切り離すという分離は、耐え難い苦痛を締め出すための本能的な行動である。精神療法ではそれを精神分裂と呼んでいる。人間のような有機生命体が分裂するのも、自らの継続性を守るために行う本能である。しかし、満たされない要求がその分裂によって解消されるはずがない。その反対に、満たされない要求が生涯を通じて、影響を及ぼし、関心性を方向づけ、自分の要求を満たすために動機づけを行うのである。

     そういった満たされない要求は、苦痛を伴い、意識に上ってこないように押し殺す。そこで、我々は代わりの満足を求めずにはいられない。要するに自分が要求する満足を象徴的に追及することになる。たとえば自分の意思表示することを許されない赤ん坊は、成人した後も自分の話を他人に聞かせ、理解してもらおうと強要する傾向がある。いずれは耐え難い意識からの分離に導いていく無視された要求ばかりか、無視された思いも、より大きな制御や解放を得られる方向に向かう。そして、感情は、幼児の場合では寝小便することによって、後にはセックスによって解放を得る、呼吸においては息を殺すことで制御する。

     このように要求を満たされなかった赤ん坊は、自分の要求を象徴的なものに偽装し変化させる方法を絶えず学びとる。また適正期よりも早く乳離れさせられた幼児は、成人してからもガムを噛んだり、タバコをふかしたりするようになる。ほかにも象徴的な欲求として、どんどん食べ続けて食べ物を詰め込んでしまうようになる。それなのに、満たされた感覚をもつことは決してない。本当の欲求というのは愛に対してであって、食べ物に対してではない。が、食べ物と愛とは大変深い相関関係をもっている。だから、愛への欲求が感じられない時、あるいは抑圧されている時、食べ物への偽の欲求が創り出され、止めどとなく食べ続けられるようになる。しかしその欲求は偽物だから、それは決して満たされることがない。だが我々はその偽の欲求の中に住んでいるがゆえに、満たされることがないのだ。こうした食べ続けることや、タバコをふかしたい要求は象徴的な要求であり、神経症の本質は、象徴的な満足の追及にこそある。

     臨床での問診においても、こういった患者は、自分の症状を執拗に話し込み、理解してもらおうとせずにはいられないのである。また操体の動診にいたっては、自分の感覚を意識から分離してしまっているので、十分にからだの動きを表現できないでいる。自分の感情やからだの要求から自分自身を切り離すというのは、「快」を味わうことに初めから遠ざかっているということだ。こんな場合、皮膚への軽い接触によってブロックが解除される可能性がでてくることに操体は深くかかわっている。どうだろう、操体に興味をもたれただろうか。
    明日につづく

  • 神経症3

     昨日のつづき
     神経症には感情の抑圧があると昨日、述べた。この抑圧というのは常によくないものだ。いや絶対的に悪い、例外なく悪い。抑圧はただ、自分の生エネルギーを理解していないことを意味しているにすぎない。抑圧は我々の生エネルギーを無意識へと押しやって、我々の実在の地下深くに投げ出してしまっていることを意味している。そこでは、その無意識の生エネルギーは育ち、沸騰しつづけているだろうが、遅かれ早かれ爆発してしまうことになる。そんなふうにして、多くの人が気違いになってしまうのだ。狂気は抑圧の表だったものであるからこそ、こんなにも多くの人が、世界中で精神をかき乱されている。

     いかなる種類の抑圧であろうとも、それはからだや心や魂を破壊してしまうことは確実だ。生エネルギーは、抑圧されるのでなく、それを超えていかなければならない。生エネルギーというのは、我々の自然な潜在的財産だ。我々はそれに磨きをかけることで、それは精神的開放につながってくる。抑圧すると、我々は束縛の中に捕らわれてしまう。だからといって放縦的になるというのではない。抑圧的にも放縦的にもならずに、もっと意識的に注意深くあらねばならない。

     自分の生エネルギーに対して友好的で共鳴的にいることだ、決して極端になってしまわないことである。極端は分裂をつくりだしてしまい、そうなればいつも矛盾の中にいることになる。そんな自分自身のエネルギーと闘うことは不必要な浪費である。自分自身のエネルギーと闘っているとき、それは自分自身と闘っていることになり、とても勝てるわけがない。こうやって我々は人生のすべての機会を逃がしてしまう。だから、いつも抑圧しないよう気をつけていなければならない。抑圧しないこと、そして気ままにもしないこと。ただ気をつけて、あたりまえでいなければならない。その生エネルギーに受け入れやすく、呼吸しやすくさせるには、より感覚的になることだ。感覚的でないと、何も感じなくなり、存在の中でくつろぐことはとても不可能になってくる。それは、気もちよさを感じないに違いない、心地よさを感じないに違いない、至福を感じないに違いない、自然を感じないに違いない、きっと解放を感じないに違いない。

     そういった感覚は神経組織が支配しているからこそ、その神経に働きかけるのである。何もしないそのままの神経は精神に人格を与えてしまう。それはゲオルギー・グルジェフがクンダバッファーと呼んだ精神的緩衝機のことであり、そもそも緩衝機とは車両と車両をつなぐ装置で衝撃を緩和するためのものだ。神経から与えられた人格は人生の質問にある既成の答えを持っていて、ある状況に対して、その決められたパターンから反応するというものだ。もし、神経が調整強化されていれば、精神には人格ではなく意識を与える。そして意識の人間は反応ではなく、感応することができる。どんな状況であろうとも受け入れることができ、その現実をあるがままに反映し、行為することができる。このように神経は重要なキーポイントになっているのだ。

     この神経に直接アプローチできるのが操体であると、私は思っている。操体的感覚というのはまさに生エネルギーに友好的、共鳴的に接しており、それによってもたらされる快感覚こそが神経を調整強化するもっとも最適な妙法であると言えるだろう。

    明日につづく

  • 神経症2

     昨日のつづき
     昨日は、心とからだを分離できない関係に結びつけている重要な神経組織について触れた。それほど大切な神経であるにもかかわらず、実は大きな問題が横たわっている。からだにも心にもそれぞれ治療法が確立されているが、神経においては未だ体系化されていないのがそれだ。今日の精神療法の世界では、分裂と特殊化が横行し、過去一世紀のうちに、神経症の形態は実に多様化し、その結果、「治癒」という言葉が、心理学者の間ではもはや使われないようになったばかりでなく、「神経症」という言葉そのものが、いくつもの問題領域に細分化されている。したがって、感覚、知覚、学習、認知などに関する本は出まわっているが、神経症を治すためになしうることについて書いた本はないのが実情だ。

     神経症の定義は、その人の理論的な傾向によってみな異なる有様である。恐怖症とする人もいれば、うつ病とする人もいる。心身相関の症候、機能不全、さらには優柔不断とする人もいる。ジクムント・フロイト以来、心理学者は原因ではなく症候と取り組んできた。治療の全期間を通じて、患者とどうとりくむべきかを具体的に示す指標となるべき、統合されたある種の体系を、我々は欠いているのである。我々は、神経症や精神病の人間として生まれてはこない。我々は、我々自身そのものとして、ただこの世に生まれ出ただけなのである。からだについても同じことが言える。操体の大家である三浦寛師は言っている、「人は悪いからだとして生まれてきたのではない! だから臨床においても悪いからだとしてではなく、よいからだとして診るように」と。

     我々は神経症ないしは不安の時代に生きている。したがって、人間が神経症にかかっていても何の不思議もない、と言いたいところだが、何もこういった合理化を引合いに出して自分を慰める気など、私にはない。それよりも社会的に受け入れられるように改善された機能や症候的な救い以上のなにものかが、それに人間の動機に対するもっと完璧な理解があるのではないだろうか。我々がこれまで考えていた状態とはまったく異なる状態がきっとあるはずだ、身心の緊張や自己防衛にも無縁な生活が。そのとき、人間はまぎれもなく自分自身になりきっていて、これまでよりも深い感情と内的なユニットを経験することができるのではないかと思うのである。

     この状態を操体によって経験することができるのだと私は信じている。それはくつろぎという快適感覚を味わうことで、患者はまぎれもなく自分を取りもどし、その自分にとどまることができる可能性もでてくるのだ。神経症は感情の病気の一つであり、その中心には、感情の抑制があり、抑圧された感情が、さまざまな神経症の行動に変化する。神経症の症候は、不眠症から性的な倒錯にまで至っており、あまりにも多様なために、我々は神経症をとかく分類して考えるようになってしまった。しかし、各症候は、別個の病気ではない。神経症はすべて、同一の特殊な原因のために発生するものであり、同一の特殊な療法に反応するものである。

     ジグムント・フロイトは、人間として生まれたときから既に神経症として生まれ、神経症に始まりはないという、これは一部正しいように思う。人間は神経症患者として生まれてはいない、が、神経症の人類の中に生まれ、周りをとりまく社会がどの一人をも残さず、遅かれ早かれ、神経症に追い込まれてしまう。また、もっとも防衛機能性の備わっている人間が、社会でもっともよく機能するのだともフロイトは言っている。しかし、私はこの概念を絶対的な真理として受け入れることには賛同できない。
    明日につづく

  • 神経症

     今週は日下が担当で、テーマは「神経症」である。すべての病気につながる原初的疾患と言われる神経症について考えてみる。

     身心健康の条件は、からだと心を通じて全面的なくつろぎの態勢が持続されなければならず、そのどこかに緊張、硬結があるようでは健康の恩恵に浴することは難しい。長い年月の間、健康法と呼ばれる種々の修練を真面目に行なってきたにもかかわらず、一向にさほどの効果もあげることができないのは、身心におけるくつろぎの状態にないからであろう。

     中国の天童如浄禅師より「参禅は身心脱落である」との教えを乞うて悟りを開いたと言われる道元禅師は、この身心脱落が、まさに絶対的なくつろぎの境地であると言っている。しかし、そんなくつろぎを得るというのは決して容易なことではない。絶対的なくつろぎを得るのには、からだと心の両面からの工夫を要する。が、それよりも重要なことは、からだと心の中間にある神経を和らぎの状態におくことにある。なぜなら、くつろぎの基にあるのは神経の和らぎにあり、その神経を和らぎの状態にするためには、生命のしくみである緊張と弛緩のバランスとリズムが必須条件となる。神経組織、とりわけ心身一体の機構の鍵といわれる自律神経は、互いに対抗的にはたらく交感神経と・副交感神経からなっており、この両神経組織が調和しているときに、はじめて健康は保証されるのである。さらに左右両半身神経がバランスよくはたらいているときに、健康を維持することができる。

     ところで、緊張と弛緩のバランスというのは静的なものではなく、互いに相反する動きやはたらきの動的なつり合いの上に成立する。生体バランスというのは、生命のリズミカルな動きそのものであり、全身的なくつろぎを得る条件は、バランスとリズムが充たされない限り生まれてこない。だから、どんな流儀の健康法といえども、その技法のどこかで必ずバランスとリズムの条件を充たしている必要がある。そうでなければくつろぎをもたらすことはできない。しかし、そのくつろぎ自身もまた一つのリズミカルなバランスの中で緊張と拮抗している。

     操体のくつろぎにおいても、一方では操者の介助、抵抗する緊張と対抗すると同時に、他方では自分のなかに呼吸や心臓鼓動のリズムにともなう緊張と弛緩のバランスを包んでいる。操体のくつろぎは緊張を背景とし、且つ内に含む総合的な態勢なのである。そして操法の後に続く身心脱力における状態こそ、くつろぎの境地と言えるものだ。操体がこのような結果を生むのは、からだや心を整え且つ強める前に、まずその中間にある神経などの要素を調整し強化するからだ。この中間要素の調整強化ということは、全人的な健康を築く上に特に大きな意義をもっている。

     このようにからだと心の中間にある神経は単なる心でもからだでもなくて、しかも両者の一面をそなえている。心である精神と肉体であるからだと、そしてそれらをつないでいる神経という関係で身心一体の人間ができあがっているのだ。だから神経という中間段階を通路として心とからだは複雑微妙な交通関係にある。ゆえに心の動きは多少とも必ずからだに影響し、からだの状態の変化はやがては必ず心に結果を及ぼすことになってしまう。そのような関係の中間にある神経にもし疾患が、すなわち神経症にかかっていたら、身心一体の関係はどうなってしまうのだろう。

    明日につづく

  • 京都フォーラム当日

    昨年はこのホテルに二泊したのだが、二日ともイノダコーヒー本店で朝食をとった。今年もそうしようと歩いていったが、7時少し過ぎなのに長蛇の列。イノダコーヒーは諦めて、スタバに移動した。

    ★折角行ったのに入れなくて残念

    その後、チェックアウトしていよいよ大徳寺へ向かう。

    発表者プロフィール


    ★会場の様子。後ろの襖絵は重要文化財なのだ

    パソコンとプロジェクタをセットし、参加者が続々と集まり「2011年東京操体フォーラム in 京都」が始まった。テーマは「愛と生 Love & Life」

    毎度の事ながら福田理事が総合司会をつとめ、岡村理事(実行委員長)の開会の挨拶と進み、最初のセミナーは、奈良漢方治療研究所(奈良操体の会)の北村翰男先生による、『生きている“からだ(いのち)”と生かしめる“こころ(わたし)”』北村先生は「無の操体」という概念を説いておられる。私は最初この概念が今ひとつ理解できなかったのだが、ある時気がついた。北村先生は、一般の方が生活に活かす操体を指導しておられる。東京操体フォーラムは、臨床家の育成、臨床家を育成できる指導者の養成が目的である。その辺りが少し違うところだ。
    私達は「快」「楽」「不快」という3つの感覚で考えている。ボディに歪みがあると、「快」か「不快」を感ずる。これが「快不快の法則」の成立である。一方「楽」は「ニュートラルで楽で何とも無い」という状態を示す。
    楽でニュートラルなところに「快」を問いかけてもきもちよさがききわけられるはずがない。
    現在「きもちよさを探して」という指導をしている先生方は「楽」に対してきもちよさを問いかけているので、患者は「何ともないじゃん」という感想を持つ。そこでこまった先生方は「きもちよさを探してぇ」と言ってしまうである。

    北村先生は「不快以外は全部快」という捉え方をされているのではないかと思う。その『快』の中に「楽で何とも無い『無』」が存在しているのではなかろうか。つまり「無」というのは「楽で何とも無い」ということではないのだろうか。

    北村先生の講義は「痛みから逃げる」「気がついたらちょこちょこ動かして調整する」という指導がメインである。
    今回も昨年に引き続き「操体前」と「操体後」に、本人の自覚症状の変化を書き込むチャート図を配布して下さったが、本人に「どれくらい変化があったのか」を実感させるのは重要なことであり、多いに参考にしたいところだ。


    ★北村翰男先生の講義

    その次は「きもちよさ体験」。
    参加者の方々に「足趾の操法」(一般社団法人日本操体指導者協会商標登録済み)を体験していただくのが目的である。橋本敬三先生が、足操術の先生から習ったものをアレンジしたのが3つ(揺らす、落とす、揉む)、それに三浦先生が5つのバリエーションを加え、それまでなかった「納め(おさめ)」を導入した。この「納め」によって、質の高い快感度を提供できるようになったのである。それに加え、私が20年近く研究している「趾廻し」(あしゆびまわし)を入れたものだ。
    「ユビモミは他力だ」という時代もあったようだが、現在では「快適感覚をききわけ(診断)、味わう(治療)」というスタンスで操体臨床をすすめているので、他力(というか手伝い)で、本人にしかわからないきもちよさをききわけていただき、味わっていただく、つまり自力自療であると考えている。また、足の趾は手や他の関節と違って一本一本動かすことが難しいという理由もある。寝たきりである、動くのが辛いとか、幼児や小児、言葉の通じない外国の方などにも、十分なきもちよさを提供できる(昨年スペインで実演。大きな反響があった)。また「きもちよさでよくなる」という橋本敬三先生の言葉を実感できるものでもある。
    参加している実行委員が全員操者役となり、参加者に対して足趾の操法を行った(当然私も操者をやっていたので写真はない)。途中から気持ちよさそうなイビキや『あ〜、きもちいい』という呟きが聞こえてきた。

    なお、終わってから見よう見まねで足趾の操法を真似している参加者がいた。足趾の操法はおおよそ60時間の講習で修得する。勿論、厳密な「作法」があり、操者のポジショニング、重心移動などを守ってやるのである。「操体法」が様々なスタイル(ヘンなものもある)で広まったのも、このように「見よう見まね」で広まっていったからなのかもしれない。
    冷たいようだが、見よう見まねで覚えた「テクニック」で、人様からお金を頂戴する、あるいは臨床を成功させるというのは虫が良すぎる。取得したメンバーは、60時間以上の講習を受けているのだから、お金を頂けて当然なのだ。

    昼食は、玉林院さん出入りの仕出屋の美味しいお弁当をいただいた。一つひとつが丁寧で上品な味で、なかなか東京ではお目にかかれないようなものだった。

    午後は日下実行委員の『意識と呼吸から見た『自己診断としての動診』。


    ★日下和夫実行委員。

    日下氏は若い頃インドでヨーガの修業をしていた。呼吸に関しては実行委員の中で一番詳しいのではないかと思う。意識と呼吸は密接に繋がっている。今の世『原始感覚』が鈍っている人が多いが、呼吸と意識の用い方によって、原始感覚を鋭敏にすることができるのではないかと思った。操体の基本は自然呼吸だが、意図的に「操者が行う呼吸」もある。
    私達操体指導者が一番苦労するのは「動きの指導」である。動ける人はまだマトモで、症状疾患を抱えた人達はどう動いていいかわからない。
    「本には『きもちよく動け』と書いてあるけど、痛いんだからきもちよくなんか動けないし、動けばわかると言われてもわからない」というのが多くのクライアントの悩みである。『動ける人』のように、ある程度健康な方を診ているのだったら「きもちよく動け」でも「ちょこちょこ動いて感覚をチェックしろ」と言えるのだが、いかんせん「感覚」をキャッチする『原始感覚』が鈍っている方々が多いのが今日この頃の現状である。
    その問題をふまえ、日下実行委員は「動きの意識づけ」「目線をつける」「呼気で動きはじめる」「感覚をききわける」「動きの表現」と、順を追って説明してくれた。いきなり『動け』というのは操者の配慮のなさである。健康体操指導や、元気な方だったらこれでもいいと思うが、操体の臨床を受けたい方々は、何らかの症状疾患を抱えて来られるのである。
    思うに『自分が動けちゃう』人は、いきなり「動きの表現」に行ってしまう。殆どの方は動き方が分からない。無理矢理分からせるとすれば、最大圧痛点を押すかどうにかして、逃避反応を起こさせるしかない。これはこれで操体の原点でもあるかもしれないが、被験者にあまり痛い思いはさせたくない。

    操体における「呼吸」はこれからますます注目度が高くなると思う。呼吸は皮膚に続く「お宝の山」になることは間違いないだろう。日下実行委員には、これからも呼吸の研究を深めていただきたいと思う。

    次はいよいよ「現代の巫女」こと、さがゆきさんによる、パフォーマンス。私は何度か彼女のライブを見たことがあるし、昨日の出雲大社での「即興」を目の当たりにしている。最初に「完全即興とは何か」という話から始まり、話の区切りがついた時何かが「降りて」きた。「素」の彼女は明るくて楽しい人なのだが、一瞬にして変わるのである。落語を寄席に見に行った事がある人なら経験があるだろう。テレビでやっているような落語は「マクラ」が抜けている。本来落語は「マクラ」「本編」「オチ」で構成されているのだが、放送されているようなものは、「マクラ」を飛ばしていきなり本編から入るものが多い。私が初めて生で寄席に行った時、「マクラ」から「本編」に移る時のタイミングに度肝を抜かれた。丁度マクラから本編へ移るような時のように、突然「降りてくる」のである。

    ★さがゆきさん。この後「降りてくる」

    歌詞があるわけでもない、決まったメロディがあるわけではない。まるで皮膚で聞いているような感じがした。本堂に響き渡る声に、一同は引き込まれた。さがさんの即興(インプロ)は、是非生で聞いていただくことをお勧めする。

    最後は三浦寛理事長による「第2分析の体系化」。昨年に引き続いての講義である。最初に橋本先生の話から始まった。参加者の中には、橋本敬三先生の「生体の歪みを正す」を読んだことがない、という方々が結構おられたが、操体を勉強するのだったら是非読んで欲しい。
    からだの動きは全部で8つある。対なる二つの動きを「楽か辛いか」で、比較対照すると、4つの動診が考えられる。首だったら、前屈と後屈、右傾倒と左傾倒、右捻転と左捻転、牽引と圧迫の4とおりの動診が考えられる。これが第1分析である。原則として「きもちよさ」ではなく「らくかつらいか」で分析する。

    第2分析は、一つ一つの動きに快適感覚の有無を問いかけるので、全部で8つの動診ができる。前屈、後屈、共に快適感覚がききわけられる場合もあるからだ。
    第2分析を体系化された図表があるが、昨年からよりよく改良され、一層理解しやすくなっていた。


    三浦寛理事長


    ★左から三浦理事長、北村先生、廣畑先生、秋のフォーラムで講義予定の川崎隆章氏

    その後、質疑応答、記念撮影、9月のマドリッドでの操体フォーラムの案内、11月6日の秋季フォーラムの告知を経て、2011年東京操体フォーラム in 京都は無事終了した。

    お楽しみはこれからだ。

  • 感じる(最終日)

    昨日の続き
    操体の動診というのは一種の浄化である。それも静かな浄化作用といえるものだ。長年にわたってからだの中に溜まってきた緊張がすべて発散されなければならない。そして可能な限りの自然な動きができるように、からだは軽く、楽にならなければならない。そうしたとき、操体とは対照的ともいえるイスラム密教の旋回舞踏と同じような意識の動きが動診において可能となる。からだのエネルギーには「静」と「動」があり、エネルギーそのものはどちらも同じ活力に満ちている。静なるエネルギーである動診では、連動という全一的な動きから、やがて自分のコントロールを失う瞬間がやってくる。その瞬間こそが必要なのだ。決して「我」がコントロールしてはならない。なぜなら、我のコントロールこそが障壁であるからだ。我自身が障壁そのものなのである。我のコントロール機能、つまり我々の頭が障壁になっているのだ。だから操体臨床では快感覚を媒介に使って、その快でからだのつくりを操らせる。それはからだの無意識の動きになり、さらに快に従いつづけるよう促すのである。もちろん、最初は「我」が動き始めなければならない。だが、やがて我が無意識の動きに乗っ取られる瞬間がやってくる。そして、コントロールがきかなくなったと感じてくる。
    んむ・・・。 この流れ、似ていると思わないだろうか。そう、SEXにおけるオーガズムこそが元祖なのである。しかし、このオーガズム、夫婦の間にはほとんど起こらない。なぜなら夫婦というのは社会的な現象であり、人間関係ではないからだ。ひとつの制度として、強制された社会現象なのだ。夫婦の間には、お互いが固定的な役割を演ずることが法的に強制される。しかし、自然な性エネルギーは、妻や夫以外の異性を求めることになる。いわゆる不倫というのはオーガズムに導かれた性的自己革命なのだ。
    オーガズムは二人の恋人でなければ起こらない。もちろん、夫婦であって恋人同士であることは可能である。が、そんなことはごく稀にしか起こらない。恋人たちの間ではオーガズムというものが何か達するに値するものだということに、まず、女性が気づく。そして女性がオーガズムを持てないと、男性もまた本当にそれを持つことができない。オーガズムとは二人の出会いであり、お互いの中に溶け合ったとき、それを持つことができる。オーガズムは一人が持てて、もう一人が持てないかも知れないようなものではない。そんなことはあり得ない。性行為での放出はあるだろうし、射精は可能だ! 慰めも可能だ! しかし、それらはオーガズムではない。オーガズムとは、からだが、もう物質としては感じられないような状態のことをいい、電気エネルギーのように振動し、深く波打つ現象なのだ。
    イスラムスーフィのダービッシュダンスでもそれと同じことが起こる、その同じ感覚を味わうことができる。しかし、スーフィではとても激しい動きが要求される。一方、動診においては媒介者の誘導のもと、静なる動きを通してそれが可能なのである。そのとき、我は淵に立っている。我々は再びからだに帰ってきた。意識はまわり中に開いている。あらゆるものが入ってきて、どんなものも除外されない。あらゆる感覚に対して開いている。
    意識の中には一切の感覚が含まれる。心とはひとつの流体、感覚の流れである。本来、意識と無意識のあいだには境界線など存在しない。これらは二つの別々の心ではない。「意識する心」とは「頭」に依存し、「無意識の心」とは打ち捨てられ、黙殺され、閉ざされてきた部分を指し、からだに依存している。これが分裂をつくり、亀裂を生じさせる。いつも内部に葛藤があるのはそのためだ。無意識の部分は使われざる潜在性、用いられざる可能性、経験されざる冒険として常にからだに存在している。だが、この潜在性、この無意識が花開くことを許されて、はじめて我々は実存の歓びを感じることができる。生の至福を、エクスタシーを感じることができる。操体はこの感じることを旗じるしとして日進月歩の道を歩む。
    一週間、「感じる」から「性」へのアプローチを試みてきたが、何とか関連付けできたように思う。こじつけだとしか思えないようなところもあったかも知れないが、そこはご容赦願いたい。
    明日からは静岡の小代田実行委員の担当です。よろしくおねがいします。

    日下和夫

  • 感じる(6日目)

    昨日の続き
    自分のからだとの深い沈黙の感受性から愛が生まれたら、そして誰かを好きになったら、もし誰かを本当に愛していたら、我々はふりをして見せかける必要はなくなる。それが真実だったらあるがままの自分になれる。そして仮面を脱いでくつろぐことができる。逆に愛していないときには、仮面をかぶる必要がある。そこに他人がいるから、たえず緊張している。我々は見せかけなければならないので、いつも警戒していなければならない。攻撃的であるか、防衛的であるか、そのいずれかでなければならない。それは闘いであり、戦闘なのだ。これではくつろげるはずがない。愛の幸福はくつろぎの至福でもある。誰かを愛しているとき、我々はくつろぎを感じ、ありのままの自分でいられる。「あるがまま」という意味において裸になれる。自分のことで気をもむ必要などないし、ふりを見せかける必要もない。我々は開いていて、殻が壊れやすくなっている。そのような開放的になるということでくつろぎ安らいでいることができる。
    もし、そのように愛することができたら、それと同じことが自分のからだにも起こる。我々はくつろぎ、自分のからだを大事にする。自分自身のからだと恋に落ちることが起こっても不思議はない。それはナルシスト的なことでもない。それこそ精神性への第一歩なのである。操体の動きがからだから始まるのはそのためだ。それも末端から始まる。胴体から動くのは重すぎる、四肢の局所でもまだ重く感じる。四肢末端から動きを始めることによって、心が拡がり、意識が拡がる。全身が打ち震え、活気づいた存在になる。今や全身への連動がより楽になる。今ではからだ全体が感覚に導かれたひとつの動きになっている。考えることが邪魔することはより少なくなる。我々は再び生き生きとなる。もう頭の条件づけはそこにはない。からだは頭ほど条件づけられてはいない。頭は条件づけられているが、からだは、まだ自然の一部なのである。
    しかし、宗教はすべてからだに反対している。からだとともにあっては、感覚とともにあっては、頭やその条件づけは失われるからだ。それだから、宗教はSEXを恐れてきたのである。SEXにあっては、条件づけしようとする頭が失われる。そして我々はふたたび大きい生命圏の一部となることができ、その生命圏と一体になれる。だから頭は常にSEXに反対する。SEXが日常生活において頭に反対する唯一のものだからだ。我々はすべてのものをコントロールしてきたが、ひとつだけコントロールされずじまいで残っているものがある。それがSEXなのだ。だからこそ頭はSEXに強く反対する。それがからだと頭をつなぐ唯一残された鎖であるからだ。もしSEXが完全に否定されたら、我々は全面的に頭脳的になり、まったく肉体ではなくなってしまう。SEXに対する恐怖は基本的に肉体に対する恐怖でもある。というのも、SEXにあっては全身が生き生きとなるからだ。SEXがからだを乗っ取るが早いか、頭はうしろへと押しやられてしまう。もう、頭はそこにない。呼吸がそれに取って代わるのだ。呼吸は激しくなり、生気にあふれてくる。呼吸に伴って自分のからだ全体を隅々まで感じはじめるようになる。
    しかし、ここで性行為をひとつの放出行為としてはならない。SEXに入る時、急いではならない。男性はひとつの放出行為を欲しており、溢れて流れ出るエネルギーが放出されると、気が楽になる。この気楽になることはひとつの弱さであり、溢れるエネルギーは緊張、興奮状態を創っている。それゆえ急いで何かをしなければと感じてしまう。そのエネルギーが放出されると弱さを感じてしまい、この弱さを弛緩状態だととる可能性がある。興奮はもうなく、溢れ出るエネルギーがもうないのでリラックスできるのは確かなことではある。だが、このリラックスというのはネガティヴなリラックス状態だ。SEXを急いではいけないというのも、性行為には最初と最後の二つの部分があり、最初の状態のままでいなければならないからである。最初の部分は、よりリラックスし、暖かい。その暖かさの中にとどまらなければならない、急いで最後へと移動してはいけない。最後のことは完全に忘れてしまうことが必要だ。射精を追求するのではなく、それを完全に忘れなければならない。
    性行為をどこか他所へ行く手段にしては駄目だ。それはそれ自身で目的なのである。二つのからだ、二つの魂の出会いを楽しみ、互いに没入し、互いに溶け合うことが求められる。が、生理的に、女性はムードを欲し、男性はムードを欲しない。だが、愛があれば女性はムードがなくてもいけるように敏感性が作られ、男性は忍耐力ができてムードが作れるようになる。暖かさとは愛の存在、その愛で二人が互いに溶け合うための状況を作りだすことができる。もし、愛がなければ、性行為はひとつのせわしい行為になってしまう。接吻は互いのバイ菌の移し合いにしかならない。愛がある性行為には、からだの諸感覚は打ち震え、激しく振動し、叫びはじめることもある。そして、からだが激しく動くことを許されると、性行為はからだ全体に拡がってゆくことができる。こうして自分がからだに占領されてしまうと、自身でそれをコントロールできなくなってしまう。我々はそれを避けるためにその動きを抑制してしまい、これが問題を引き起こすことになる。
    特に女性達が打ち震えることのすべてを抑圧している。女性はただの受け身のパートナーでしかない。なぜ、男達は女達をそんな風に抑えつけているのか? そこには恐怖がある。なぜなら、ひとたび女性の肉体がコントロールする力を持つと、一人の男が彼女を満足させることは非常に難しくなる。なぜなら、女性は連鎖的オーガズムを持ち、男は持つことができないからだ。男はたった一つのオーガズムしか持ち得ないが、女性は連鎖的オーガズムを持ち得る。どんな女性でも鎖状に最低でも三つのオーガズムを持っているが、男はただの一つだ。そして男のオーガズムによって、女性のオーガズムは刺激されて、より深いオーガズムへの準備をする。そうなると、ことはさらに難しくなる。そのときは、どうしたらよいのか? 彼女は直ちに次の男を必要とする。しかし、社会はグループSEXを禁じている。それはタブーだ。我々はもうすでに一夫一妻制社会を創り出してしまった。まるで、我々男性は女達を抑圧している方がいいと感じているかのようだ。
    不感症の人妻が裏付けているように、性行為において性的な感情をまったく経験しない人間を探し出すことは難しくはない。SEXに意味を与えているものは、状況全体がかもし出した感情なのである。実に全女性の90%がオーガズムというものが何であるかを知らないのである。彼女らは子どもを産むことができる、そして男を満足させることもできる。しかし、自身は決して満足していないのである。
    SEXにおいては、このように「自分」のポジションを頭に置くのか、からだに置いているのか、よくよく注意しなければならない。そして自分が愛とともにからだの中にいることができるなら、我々の意識はからだを超えて拡がってゆくことができるだろう。橋本敬三師が人生においてSEXをテーマにすべきだと提唱されている真意というのはきっと、こんなことを伝えたかったものと思料されるのである。
    明日につづく

    日下和夫

  • 感じる(5日目)

    昨日の続き
    肉体的な緊張というものは、宗教が一役を担っている。宗教は半肉体的な姿勢を説いてきた連中によって生まれた。そして緊張も生み出された。特に、西洋の宗教は強硬に、肉体に反対してきたために偽りの分裂、深淵が人間と人間の間につくられた。そうすると、我々の姿勢は全面的に緊張を生み出すものとなる。
    我々はひとつのものをリラックスして食べることさえできない。リラックスして眠ることもできない。からだで行うことはすべて緊張になってしまう。もう今では、肉体は敵になってしまった。しかし、肉体なしでは生きられない。我々は肉体にとどまらなければならない。この敵と一緒に暮さなければならないのだ。そこには間断ない緊張があり、我々は決してリラックスできない。肉体は敵ではないし、どんな意味においても非友好的であることはない。我々に対して無関心ですらない。肉体の存在自体が至福なのである。肉体をひとつの贈り物、宇宙からの贈り物として受け取ることが、もしそれができたならば我々は肉体へ帰ることができる。そして肉体を愛し、肉体を感じるだろう、その感じ方は微妙だ。
    自分自身の肉体を感じたことがなければ、他人の肉体を感じることはできない。自分の肉体を愛したことがなければ、他人の肉体を愛することもできない。それはとても無理だ。自分の肉体を大事にしたことがなければ、他人の肉体も大事にできはしない。なのに、我々は自分自身のために自分のからだを大事にすることはなく、自分のからだを愛してもいない。そして自分のからだを愛することができなければ、からだの中に入っていることはできないのである。自分のからだを愛することができれば、そうすれば、我々はいままで感じたこともないようなくつろぎを感じるだろう。
    誰かを愛するとき、パートナーの手を取りたい、時には抱きしめたくもなるだろう。愛していれば声を聴くだけでなく、顔も見たくなるに違いない。電話の声だけでは充分ではない。パートナーを目のあたりにすればより満足できる。パートナーに触れれば、より満ち足りる。より以上に満足するのだ。SEXとはこういった二つのエネルギーの深い出会いだ。手を取り合うだけでなく、お互いの身体を抱き合うだけでなく、お互いのエネルギーの領域にまで浸透していく。愛の中にあってSEXは自然な成り行きなのである。愛はリラックスさせてくれる。愛があれば安らぎがある。もし、誰かを愛したら、その時にはくつろぎが訪れる。我々が誰かとともにいてくつろげたら、それこそが愛の唯一のしるしだ。
    この愛に導かれたSEXは激しい、しかし最もくつろげるものだ。もし、くつろげなかったら愛してなどいないことになる。そこにはいつも他人という敵がいるのだ。ジャンポール・サルトルは言う、「他人とは地獄だ」と。サルトルにとっては、そこには確かに地獄があったに違いない。二人のあいだに愛という感情エネルギーが流れていないとき、相手は地獄になる。そうあって当然だ。しかし、もしその感情エネルギーが流れていたら、相手は天国だ。相手がどちらになるかは、あいだにその感情エネルギーが流れているかどうかにかかっている。それには自分のからだを大事にしなければならない。自分のからだをいたわり、愛に包まれているとき、必ず沈黙がやってくる。そして、言語は失われ、言葉は無意味になる。自分のからだとの深い沈黙が自分とからだを包んでくれるだろう。その沈黙の中で感受性が育まれる。
    明日につづく

    日下和夫