カテゴリー: 日下和夫

  • からだ

    今週は、播州と摂津の国境に位置する旧有馬郡であった三田盆地より発信しています。

    いつだったか、中谷実行委員との会話の中で、エーテル体という「からだ」についての話題になった。これはブログにはもってこいの内容であると思ったので、「お題」をいただくことにした。今日から一週間、日替わりで「七つのからだ」について述べてみようと思う。
    「からだ」を広義の意味合いで見た場合、古代インドの哲学者は個人の「からだ」というものを、幾重にも重なり合っている層から成るものと考えていたのである。まず、肉体がいちばん外側の層にあり、内部へ内部へと重なり合うことによって、個人的な人間存在ができ上がっていると考えたのだ。からだというのは人間が外から内へと重なり合った七つの要素で構成されているという構想である。
    こういったからだの要素のなかで、あるものは現代の精神分析学や超心理学などによって受け入れられているものもあるが、近代科学にとって、こういう人間構造論の理解と評価は一様ではない。しかし、今日の心理学も人間は多様な要素の複雑な重なり合いから成っていると考えている点は合致している。また、人間のさまざまな可能性はこのからだの複合的構造に根差しているといっても差しつかえはない。
    「七つのからだ」とは、はじめに「肉体」がいちばん外側にあり、二番目に「エーテル体」、三番目に「アストラル体」、四番目に「メンタル体」、五番目に「スピリチュアル体」、六番目に「コスモス体」、そして七番目の「ニルヴァーナ体」へと続く。七つのからだを説明するには、七つのからだに共通している生命エネルギーという側面から眺めてみようと思う。
    生命エネルギーというのはインドで「プラーナ」と呼んでいる。我々のなかにあるエネルギーのこと、生命のことである。まず、一番目のからだ、「肉体」に関して言うと、肉体におけるエネルギーは呼吸というかたちで顕われる。呼吸には、入る息と出る息があるが、双方対立している。「呼吸」と書くと、出息と入息はひとつのものと見なされているが、呼吸には入息と出息という二つの極性がある。
    エネルギーにはすべて両極性があり、すべて二つの対立する極において存在している。他のかたちでは存在することができない。その対極どうしの緊張と調和によってエネルギーが生じる。入息は出息に相反するものであり、出息は入息と正反対のものである。ほんの一瞬であるが、入息は誕生、出息は死のようなものに見える。一瞬のうちに二つの正反対の生と死が起こっている。肉体ではこのようなかたちで生命エネルギーが顕われている。この生命エネルギーは生まれて八十年ぐらい後には死ぬことになる。入息と出息から始まり、昼と夜という同じような現象のより大きいものが生と死である。
    この息というのはそれ自体がプラーナといわれる生命エネルギーではない。プラーナというのは内へ入ることと外へ出ることを言うのであって、その両極性によって顕われる生命エネルギーのことである。息を吸い込むというエネルギーそのものがプラーナであり、息そのものはプラーナではない。息を吸い、息を吐いているそのエネルギーこそプラーナなのである。七つのからだすべてにこういったプロセスがある。

    操体の教義の中心に、からだと生命に関して「息・食・動・想」というそれぞれに天然の法則があり、「知らないと間違ってしまう、よく勉強すること」とは、故橋本敬三師が諭された言葉である。そして「息」は操体臨床における動診、操法にあっても息を通すことの重要さが説かれているところだ。
    明日につづく

    日下和夫

    新刊情報:皮膚からのメッセージ 操体臨床の要妙Part 2(三浦寛著)、たにぐち書店より発売。 
    11月20、21日千駄ヶ谷津田ホールにて2010年秋季東京操体フォーラムが開催されます。
    2010年8月、社団法人日本操体指導者協会を設立しました。

  • 操体プラクティショナー(Sotai Practitioner)

    実は今、新幹線の中でパソコンに向かっている。のぞみ5号だ。今、品川を出たところだ。新横浜で岡村氏(フォーラム実行委員長)と合流予定。

    ***

    1995年に私が開業した時、屋号は『貞山療術院』と言った。ご存じの通り、貞山公とは伊達政宗公の諡号だ。操体の発祥の地であり、私も縁深い仙台のご縁で有難く使わせていただいている。仙台を訪れる時は必ず瑞鳳殿に向かい、お名前を貸していただき、ありがとうございます、とお礼を言うのが私の習慣でもある。その後、1999年、全国操体バランス運動研究会に前日の打合せから参加させていただき、これを機会に三浦先生とも親しいご縁を持つことができた(私が先生に師事するのはその直後である)。新たな気分で、屋号を以前から温めていた『操体プラクティショナー TEI-ZAN』に変えたのである。

    整体をやる人を整体師という。しかし私はどうもそれにならった『操体師』という言葉が好きではなかった。それで1998年辺りから何かいいのはないかと考えていた。
    鍼灸師にせよ、いくら操体を勉強しているといっても「鍼灸師」という肩書きが「操体」を邪魔することもある。三浦先生は1995年位から『操体スーパーバイザー』を名乗っておられたが、何かこのような感じでいい名称はないかと思っていたのである(流石に「操体スーパーバイザー」を名乗るのは憚られたので、未だ以て「操体スーパーバイザー」は三浦先生只一人である)。
    つまり、「操体プラクティショナー」の上に「操体スーパーバイザー」が存在するイメージだ。

    この頃丁度海外に行く機会があり、ショッピングセンターのドラッグストアで、ビタミン剤を手に取って箱を眺めたとき、偶然に「Practitioner」という単語が目に入った。確か「あなたのHealth Practitionerに相談して下さい」という事が書かれていたのである。これにピンときた私は早速辞書で調べてみた。この言葉には『専業者』『専門家』という意味がある。医療関係の専門家という意味もある。そこでこの言葉を採用することにしたのだ。

    それから何年か経って、東京操体フォーラムが発足した。
    現在の体制になったのは2003年からだが、その後フォーラムは着実に成長し、参加している実行委員も学びを重ね、ますます磨きがかかってきた。そんな時実行委員の何人かに、『操体プラクティショナーって、操体の専門家を指すために私が考えたのですが、使ってみたいですか?』と聞いてみたところ、やはり操体の専門家をあらわす名称が無くて困っており、是非使いたいという答えが返ってきた。彼らはいずれも私の考えに賛同してくれ、私が考えていた認定条件を見事パスしているメンバーばかりであった。本当に素晴らしい操体の専門家達だ。
    というわけで「操体プラクティショナー」という名称を操体の専門家として公の認定資格にしたいと考えた。そして、これを商標出願し、登録が認められたのである。時間はかかったが、これも一重に助けてくれた仲間のお陰だ。

    操体プラクティショナーは、規定の講習受講(240時間以上)、認定のための筆記試験、実技試験を受け、国家資格、あるいは公認運動指導資格、または同等の社会活動経験を持ち、操体臨床経験、登録料、年会費の納入、認定更新研修の受講を以て認定、更新がなされる。協会の認定によって、「操体プラクティショナー」を名乗ることができる。ハードルは決して低くはない。

    また、操体プラクティショナーの他にも社団法人認定の操体指導者資格を設立し、操体指導者の資質向上、国民の健康に寄与していきたいと思っている。この「操体プラクティショナー」という名称が、操体の専門家の呼称として根付くことを願ってやまない。それは操体指導者の、操体自体の質の向上に直結する。

    なお、記念すべき第一期に認定された操体プラクティショナーは以下のとおりである。(50音順)

    秋穂一雄(あきほ整骨院
    岡村郁生(操快堂)
    日下和夫(北六甲操体院)
    小代田綾
    小松広明(松濤院)
    平直行(大操体法研究所)
    辻知喜(いずみ操体研究所)
    友松誠(からだバランス調整院)
    中谷之美(愉楽堂)
    西田尚史(皮膚身堂 操体研究所)
    畠山裕美(TEI-ZAN操体医科学研究所)
    福田勇治(操体法 導軆力学研究所導體力学研究所)
    森田珠水(操体健康医療研究所/森田珠水鍼灸治療院)
    山野真二
    猿飛佐助
    山本明

    これらの操体プラクティショナーをスーパーバイズしているのが、三浦寛(人体構造運動力学研究所、東京操体フォーラム理事長)である。

    畠山裕美

    8月28、29日は大徳寺玉林院にて「東京操体フォーラム in 京都」開催
    9月18、19日スペイン、マドリードにて「操体フォーラム in マドリード」開催
    2010年操体法東京研究会定例講習は9月から始まります。

  • 生命エネルギーと感覚(最終日)

    前日の続き
    潜在的な宇宙エネルギーであるクンダリニーがひとたび上昇しはじめると、多くの病気が発病しはじめるかも知れない。というのも生物学的には全身をかき乱してしまったことになるからだ。クンダリニーの上昇に伴い「頭熱足寒」の状態になると循環障害が起こってくる。通常、人の体温は例外なく心臓を中心に37℃前後あり、上半身の方が高く、下半身は低くなっており、特に足もとは31℃以下になっている。そこへ「頭熱足寒」になるというのは、よりいっそう下半身の体温が低くなってくる。病理学的には低体温によって血管が縮み、抹消部が循環不全に陥り、動脈血流の減少や静脈血のうっ血が起こってくる。俗に言う血のめぐりが悪くなるのである。こんな状態がある程度の期間続くと、抹消部の毛細血管の中に血球が溜まって血流が遅くなり、ひどくすると止まりそうにさえなる。西洋医学では「血球スラッジ」と呼んでおり、東洋医学では「悪血」とか「瘀血」と言っている、また民間の素人医学の方では「ふるち」と呼んでいるものである。この血液というのは、からだ全体の細胞に養分や酸素を供給し、炭酸ガスや老廃物を運び去るといった働きをしているのであるが、血液の循環が悪くなると細胞が機能低下を起こしたり、細胞の機能が狂ったりする。ひどくなると壊死状態に陥る、つまり細胞が死んでしまうのだ。これが内臓の中で起こると、機能低下をきたすばかりか、病的物質の産出である結石や免疫力の低下、あるいは潰瘍が形成されるとか、腫瘍細胞の発生などにつながっていくのである。
    仏陀はひどい病みようで死んだと言い伝えられている。ジャイナ教マハーヴィーラもひどく病んで死んだと言う。聖者ラーマナ・マハリシはガンで死んだし、同じくラーマ・クリシュナもガンになって死んだ。その理由は上述したように生物学的な組織全体がかき乱されてしまったことにある。ほかにもいろいろと言われてはいるが、そういった理由は根本的なものではなく馬鹿げている。生理的で自然なエネルギーの流れというのは下の方に向かう。霊的、精神的な流れは上方に向かう。そして、健康的な肉体組織全体の流れとしては、そもそも下の方に向かうようにできている。
    クンダリニーやチャクラは肉体の中にあるのではなく、エーテル体という精気体に属するものである。ただし、肉体のなかにはそれらに対応する部位がある。それはちょうど愛を感じるとき、自分の胸のところ、ちょうど心臓あたりに手をあてるようなものだ。何も心臓に「愛」というようなものがあるわけではないが、心臓は「愛」に対応する肉体上の部位になっている。愛を感じて胸に手を当てたなら、それはエーテル体に属するチャクラに手をあてているということになる。その部位はほぼ心臓に平行しているアナハータ・チャクラと言われているものである。
    クンダリニーは、それ自体では生命力ではなく、むしろ、生命力のための特殊な通路と言える。しかし、この生命力はほかの道を通ることもできる。必ずしもクンダリニーを通り抜けることを必要とはしない。クンダリニーを通過しなくても解脱に至ることは可能である。ところが、クンダリニーが何故これほど重要視されるのかというと、解脱に至る最も短い道であるからだ。この生命力がクンダリニーを通り抜けるときには、チャクラは振動し、開花しはじめる。このチャクラを図象化すると、花弁で表わすのは、まさに開花というにふさわしいからである。生命力のエネルギーがチャクラに至るが早いか、チャクラは生き生きしてくる。このチャクラの意味するサンスクリット語の正しい訳語は「車輪」という意味である。チャクラをよく「中枢」という言葉で訳しているが、あまり正確な表現ではない。「中枢」とは定着していて不動的な意味合いを持つが、チャクラは反対に動的なものである。言うならば、動く中枢とか回転する中枢と言った方がより正確である。チャクラは生命力が到達するまでは、ただの「中枢」であり、そこへ生命力が流れ込んだ瞬間にチャクラとして存在しはじめるのだ。こうなると「中枢」ではなく、回転する車輪ということになる。各車輪は新しい進化したエネルギーを生み出していき、そのエネルギーがさらに進化した次のチャクラを回転させるため再活用されていくのである。生命力が上方のチャクラを通過するにつれて、チャクラはますます活気にあふれ、生き生きとしてくる。クンダリニーという通路を生命力が通り抜けてゆくのであり、その生命力は背骨の根底にある性の中枢「ムーラダーラ・チャクラ」に蓄えられている。これを性エネルギーとして使うと、生物的生命を生み落とすことになるが、その同じエネルギーが上昇したら、クンダリニーという通路が開くのである。
    ここで注目したいのが、この生命力を性エネルギーとして使う場合、種族保存という動物本能からではなく、「歓喜」という快感覚を味わうこともできるということだ。タントラという左道密教では、性のオーガズムから恍惚の忘我へ、そして「快」そのものとなって性エネルギーを昇華させるというのである。何も「頭熱足寒」という不健康状態に陥ることなく、解脱という請願成就を可能ならしめることができると、タントラは説いている。仙道の房中術も手法は違えど、目的とするのは同じである。操体もまた、この類い無比なる「快」を根本に据えている。操体の深化、進歩に大いに期待されるところである。

    一週間にわたって気ままにお騒がせしてしまった。このあとは、生命エネルギー漲る小松実行委員にバトンを譲りたい、ではよろしく。

    日下和夫

    8月28、29日は大徳寺玉林院にて「東京操体フォーラム in 京都」開催
    9月18、19日スペイン、マドリードにて「操体セミナー in スペイン」開催

  • 生命エネルギーと感覚(6日目)

    前日の続き
    瞑想はクンダリニーやチャクラをもち込まなくても十分に説明できる。そんな必要はまったくない。瞑想そのものはクンダリニーやチャクラとは全然かかわりがないのである。瞑想はそれに関係していないので、クンダリニーやチャクラを持ち込むことによって葛藤を生み出すことになってしまう。瞑想は直接説明できるものであり、クンダリニーやチャクラにかかわる必要はない。瞑想に入ってゆく中、もし通路が滞っていたら、クンダリニーを感じるようになるかも知れない。そして次にチャクラが現れてくる。しかしそれは完全に不随意であるということを憶えておく必要がある。自分の意志など全然必要ではないということを絶対に憶えておかなければならない。その道が深まるほど、ますます不随意的になってゆく。
    たとえば、自分の手を動かしてみる、これは不随意的な道である。しかしながら自分の血液は動かすことはできない、もちろん試すことはできる。何年にもわたる訓練をこなして、血液循環を意のままにすることは可能である。ハタ・ヨーガにはそういう技法がある。ヨーギは実際にそれをすでにやってきている。それは不可能なことではないが、不毛なことだ。ただ血液の運動を制御するためだけに何十年にも及ぶ訓練をするというのは、無意味であり馬鹿げている。制御からは何も創造することはできない。血液循環は不随意的な機構であり自分の意志を必要としない。たとえば食事の際、食物が体内に入った瞬間、自分の意志は必要としなくなる。肉体組織や肉体機構がそれにとってかわるからだ。肉体の組織や機構は必要なことを何でもやってくれる。また眠りも、生も、死も随意的なものではない。それらもみな不随意のメカニズムである。クンダリニーは、それよりなおいっそう深い。死よりも深く、誕生よりも深く、血よりも深い現象だ。なぜならクンダリニーは第二番目の身体、エーテル体の循環系だからである。血液は肉体という生理学上の身体の循環系、クンダリニーはエーテル体の循環系であり、徹頭徹尾、不随意的なものだ。ハタ・ヨーガの行者でさえそれを随意的にどうこうしようということはできない。
    瞑想に入るとエネルギーが動き出す、この内側のエネルギーが上昇しはじめるとエネルギーの流れの変化を感じる。それはさまざまな感じ方で感覚できる。その変化は生理的にも感じられる。一般的に言って生物学的には「頭寒足熱」は健康のしるしとされている。その反対の「頭熱足寒」が起こったら、その人は病気だということになる。しかしクンダリニーが上昇してくると、病気の時と同じ現象が生じてくる。実際に足は冷たくなってくる。健康の目安である「足熱」という現象は性エネルギーの下降にほかならない。クンダリニーという生命エネルギーが上昇することによって、すぐその後に性エネルギーが続いていくのである。性エネルギーは上に向かって流れていき、やがて「頭熱足寒」が始まっていく。生物学的には頭より足が温かくなる方がいいのだが、霊的、精神的には足がいっそう冷えてゆく方が健康的だ。それはクンダリニーという潜在的な宇宙エネルギーが上昇しているというしるしなのである。

    操体の臨床においては、からだの無意識に問いかけていき、その無意識の発動から「快」を発することになる。「快」もクンダリニーやチャクラが発現するのと同様に不随意のものである。からだの無意識に問いかけた瞬間、自分の意志はいらなくなる。からだの無意識が必要なことは何でもやってくれるのだ。操体臨床のあるべき姿とは無意識に問いかけるという不随意的なメカニズムなのである。
    明日につづく

    日下和夫

    8月28、29日は大徳寺玉林院にて「東京操体フォーラム in 京都」開催
    9月18、19日スペイン、マドリードにて「操体セミナー in スペイン」開催

  • 生命エネルギーと感覚(5日目)

    前日の続き
    仏教の始祖である仏陀は決してクンダリニーについての法話はしなかった。仏陀のからだにクンダリニーがなかったというわけではない。エネルギーの通路がすっきり開けていたためにどんな抵抗もなかったということだ。かくして、仏陀は一度もクンダリニーを感じなかった。ジャイナ教の開祖マハーヴィーラクンダリニーについては一切、語ることはなかった。そのために間違った概念が生じて、マハーヴィーラに従うジャイナ教徒たちは、「クンダリニーなど馬鹿げている」そして、「クンダリニーのようなものは存在しない」という考えを持つに至った。かくしてマハーヴィーラ自身がクンダリニーを感じなかったという理由で、ジャイナ教の伝統は2500年もの間、クンダリニーなどは実在しないと主張していて、それを否定し続けてきたのだ。だが、マハーヴィーラクンダリニーについて何も語らなかったのはまったく別な理由があった。マハーヴィーラのからだにはブロックが一つもなかったがために、クンダリニーを感じなかったのである。故にクンダリニーを感じるということは必ずしも必要なことではないのである。
    そして、クンダリニーを感じないことは、チャクラも必然的に無視されてしまう。なぜならチャクラの働きはブロックを破壊するためにのみ必要なものである。それ以外にチャクラはまったく必要とされない。ブロックのためにクンダリニーが滞ってしまったならば、その通路の近くにあるチャクラが滞って進めなくなったクンダリニーのために動き始めるのである。それは非常に活発になる。チャクラは滞ったクンダリニーのせいで活発に動き出す。しかもそれは非常に速く動くためにある種のエネルギーを生じ、このエネルギーがブロックを破壊してくれる。もし、エネルギーの通路が開いていたのならチャクラなどというものは何ら必要としない。そして何も感じることは起こらない。本当のことを言うと、チャクラはクンダリニーを助けるためにだけ存在しているにすぎない。もしもクンダリニーが滞っていたとしたら、そのときには助けはすぐ近くにある。いずれかのチャクラが滞っているエメルギーを引き受けてくれる。もし、エネルギーがそれ以上進めなくなった場合、それは後戻りしてしまう。そして、それが後戻りしてしまう前にチャクラがそのエネルギーを完全に吸収することによってクンダリニーはチャクラの中を動いてゆくことができる。この動くことを通してエネルギーはより活気に満ち溢れてますます生き生きとしてくるのである。そしてそれが再びブロックに戻ったとき、今度はそのブロックを破壊してしまうのだ。したがってチャクラというのはひとつの「取り決め」であって、単なる「手助け」にすぎない。クンダリニーが動くとき、ブロックがなければどんなチャクラであっても感じることなどできない。だからこそ、ある者は九つのチャクラを感じ、他の者は十のチャクラを感じ、別の者はたった三つか四つ、あるいは一つ、あるいは全然感じとれないということが起こってくる。それはその人次第なのだ。まったく実際のところ、チャクラは無限に存在する。そしてあらゆる動きにあってクンダリニーの各、前進ごとにチャクラが脇に待機していて助けてくれる。助けの必要なときには、チャクラが与えてくれるのである。

    操体には「連動学」というのがある。からだの動きは連動する、そしてからだのストレス、歪みも連動に基づいている。患部のストレス、歪みはその患部のみでは耐えがたく、持ちこたえられないゆえに、他の局所が肩代わりしてくれる。つまり、疾患を分かち合うのである。この肩代わりがストレス、歪みの連動であり、治癒への手助けとなるものだ。クンダリニーとチャクラの関係にたとえると、ブロックが疾患であり、滞りが症状といった見方ができる。そしてストレス、歪みが連動した局所こそチャクラであると思って差しつかえない。
    明日につづく

    日下和夫

    8月28、29日は大徳寺玉林院にて「東京操体フォーラム in 京都」開催
    9月18、19日スペイン、マドリードにて「操体セミナー in スペイン」開催

  • 生命エネルギーと感覚(4日目)

    前日の続き
    クンダリニーやチャクラは西洋医学の解剖学や生理学とは一線を画するものである。クンダリニーやチャクラは、微細身あるいはエーテル体、精気体、霊妙体とも言われているものであって肉体のものではない。むろん、そこには肉体に対応する部位はある。チャクラはエーテル体に属するといっても生理学や解剖学にはそのチャクラに対応する諸部位がある。自分の内なるチャクラを感じとったときに初めて、その肉体に対応する部位を感覚として捉えることができる。さもなければ全身を解剖してみてもチャクラのようなものは見いだせない。
    肉体にクンダリニーやチャクラのようなものがあるという俗説や論理的思考による証拠や科学的な根拠に基づく主張といったものはすべて馬鹿げていてまるっきり無意味だ。確かに肉体に対応する部位はあるけれども、そういった部位は自分自身の中で本当にチャクラを感じとってはじめて肉体に対応する部位も感じられるものである。医学的に解剖したところで何ら発見されるものではない。そこには何もない、まったくもって解剖学上のものではない、これははっきりと区別されなければならない。
    また、必ずしもチャクラを通過する必要はないということである。それは必須のものではなく、チャクラを迂回することも可能だ。それに解脱に至る前にクンダリニーを感じる必要などない。こういったクンダリニーの現象は一般に考えられているものとは随分違っている。クンダリニーが上昇するからといって必ず感じられるというわけではない。クンダリニーはエーテル体の中ですっきりと通りのよい通路をもっていないときにだけ感じられる現象なのである。もし通路がくっきりと開いているのであれば、エネルギーが流れてもそれを感じることはできないということを理解する必要がある。
    我々はエネルギーの流れに抵抗するものがあるときに、そのエネルギーを感じることができる。エネルギーがその通路を上昇する過程においてブロックがあり、エネルギーの通りが悪い状態にあるときにはじめて、そのクンダリニーというエネルギーに気づく。クンダリニーを普通以上に感じるというのは通路にブロックがあるということにほかならない。エネルギーの通路の中にたくさんのブロックがあって、クンダリニーは上昇することができなくなっているのである。
    このようにエネルギーの通路に抵抗があるときに、はじめてクンダリニーというものが感じられることになる。もし、この通路に抵抗がなかったら、クンダリニーというエネルギーを直接に感じることは決してない。たとえば、自分の手を動かしてみるとわかる。手に何の抵抗もないとしたら、その手の動きはまったく感じられない。空間で動かせば、空気の抵抗があるからこそ、手の動きが感じられる。しかし、水の中での水の抵抗ほどは強く感じられない。水の抵抗があればもっと強く手の動きを感じることができる。また、真空の状態の中だったとしたら動きはまったく感じない。何故なら動きと抵抗は相対的なものであるからだ。

    操法においても、からだの中の内なるエネルギーを感じることがある。これはからだの無意識の領域から発せられた快からのメッセージである。からだの内を流れる気の通路に緊張がブロックを形成する。このブロックは快を味わうことで解放されるのであるが、クンダリニーとチャクラの関係と似ているとは思えないだろうか。
    明日につづく

    日下和夫

    8月28、29日は大徳寺玉林院にて「東京操体フォーラム in 京都」開催
    9月18、19日スペイン、マドリードにて「操体セミナー in スペイン」開催

  • 生命エネルギーと感覚(3日目)

    前日の続き
    クンダリニーやチャクラに関してどんな理論的知識も役に立たないと言ってきた。それは何か理論上の知識をもってしまうと、自分自身にその知識を押しつけ始めるからである。物事を自分が学んできた理論どおりになるように視覚化してしまうのだ。やがてこの視覚化は自分自身の個人的な状況に対応できなくなってしまい、多くの混乱を引き起こすことになってくる。
    チャクラというのは感じるべきものであり、それに関して知識をもつようなものではない。まずははじめに感じなければならない、自分の内部深くに触手を伸ばさなければならない。知識は自分のチャクラを、そしてクンダリニーとその通路を感じた時には役に立つものであるが、それらを感じもしないうちは何の役にも立たない。反対に知識は内面世界だけに関して言えば非常に破壊的な立場であり続けてきた。知識を得れば得るほど、ますます真実かつ真正なものから遠ざかってゆく。知識を得ることによって感じとる可能性は確実に失われていく。知識を得れば物知りになるかも知れない、しかし、その代償は高価なものとなるだろう。感じることから離れてしまい、借り物の知識で生きていくようになってしまう。
    我々は自分自身に自分の知っていることを押しつける習性がある。誰かヨーギが「この部位にチャクラがある」などと言おうものなら、その部位に自分のチャクラを視覚化しはじめる。が、それはそんなところに全然ないかも知れない。自分で想像上のチャクラを生みだしてしまう。我々には生みだせる力がある、想念にはそういう能力が存在しており、想像上のチャクラをつくりだすことなど簡単にやってのけるのだ。そうなると、自分のその想像のせいでクンダリニーではない何か単なる想像上の世界が創り出される。それはまったく幻想的で夢想的な現象にすぎない。ひとたびチャクラをありありと想い浮かべ、想像上のクンダリニーをつくり出すコツを身につけてしまったなら、どんなものでも造作もなく創りだせるようになる。そうなったら想像上の体験が次から次へとあとに続き、自分の内側にはうそ偽りの空想の世界が繰りひろげられる。なるほど、言われれば外界も幻覚には違いないが、自分の内側につくり出す偽りの世界ほどではない。心の内側に向かう時、気をつけなければならないのは、内面にあるものすべてが必ずしも真実でも真理でもないということだ。なぜなら想像もまた内側にあるし、夢想もまた内面にあり、真実と偽りは同居しているということを心得ておかなければならない。
    想念には夢想したり、幻覚を生みだしたり、投影したりという能力が、非常に強い能力が備わっている。瞑想に入るにはクンダリニーやチャクラのことなどまったく知らないまま進むのが好ましい。まずはクンダリニーやチャクラを感じるようになってから知識を得ればいい。そのときにはじめて理論や知識を追求すればよいのである。もし、瞑想していてチャクラが動くのを感じ、クンダリニーが上昇するのを感じだすかも知れないが、まずは、その感覚をはじめにこさせなければならない。想像などしないことだ。それについてあれこれ考えないこと、前もって理解しようという知的な努力などまったくいらない。それは不必要なだけではなく大いに有害である。

    操体の動診において、快感覚を能動的に探すのではなく、受動的に快感覚を受け止め、その快に従うのだと教える。このように操体も感じることができなければ操法へとコマを進めることはできない。そして快感覚も個人的なものであり、何か知識に基づいて探したり、創り出したりするものではない。それは感じるべきもので定義できるものではないのである。
    明日につづく

    日下和夫

    8月28、29日は大徳寺玉林院にて「東京操体フォーラム in 京都」開催
    9月18、19日スペイン、マドリードにて「操体セミナー in スペイン」開催

  • 生命エネルギーと感覚(2日目)

    前日の続き
    クンダリニーやチャクラに関しての知識が障害物になる理由は、クンダリニーという宇宙エネルギーの神秘的な知識は一般化してしまったからである。そういったものには個人差があり、その根元は必ずしも同じであるとは言えない。内なる生命には個人差があり、理論上の知識を通して何かを身につけようとしてもそれは役に立たないどころか、かえって邪魔にさえなる。何故なら、その知識は自分自身に関するものではない、それは自分に関するものではあり得ない。自分自身について知ることができるのは、自分の内部に深く入っていき、感覚として捉えることができたときだけに限られる。
    また、チャクラの存在やその数についても個人によってそれぞれ違っている。ある人にはチャクラが七つ、ある人には九つあるかも知れない、またある人にはもっとたくさんあるかも知れないし、別のある人はもっと少ないかも知れない。だからこそ世間には多くの異なった伝統が発達してきたという理由なのである。密教系の仏教徒は九つのチャクラについて語り、ヒンズー教徒は七つのチャクラについて語り、チベット密教の人たちは四つのチャクラについて語るが、それらはすべて正しいと言える。
    潜在的な宇宙エネルギーであるクンダリニーが通り抜ける通路も各個人によって違っている。内部に入っていけばますます個人的になってゆく。たとえば、からだの中では顔がもっとも個性的な部分である。その顔の中では眼がさらにもっと個性的になる。顔はからだの他のどの部分よりも生き生きとしており、顔はもっとも個人差を強く帯びている。そして、ある特定の年齢になるとほぼ一生続くような顔つきになるということに気づいているだろうか。特定の年齢とは性的成熟の年齢ということであり、性的成熟以前には顔が色々変化していたのが、性的に成熟すると個性が定まって一定の型ができ上がり、顔はだいたい同じままになる。その顔の中で眼はもっと生き生きしており、とても個性的で絶えず変化している。
    精神性の頂点である解脱に至らないかぎり、決して眼が固定することはあり得ない。解脱に至るというのは、もう一つの成熟なのである。性的な成熟に伴って顔が固定し、眼が固定してくるようなもう一つの成熟というのは解脱に至った者の眼にはどんな変化もよぎらないということだ。むろん、肉体は老い、やがては朽ち果てる。だが解脱した者の眼は永遠に変わることはない。このことは指標のひとつになってきた。誰かが涅槃を成就したという、その人が本当に成就したのかどうか第三者が判断できる唯一の指標が眼である。もう眼は決して変化することはない。何もかもが変わっても眼は依然として同じままであり内面世界における永久不変の表現なのである。しかし、クンダリニーはそれよりなおいっそう深い。

    操体でもこの「眼」を重視しており、目線を動診に大きく活かしている。目線は全身への連動を促すものであるが、目線そのものもからだの動きとして捉えている。「目指す」という言葉があるように、局所に目線を置いて全身連動という「目当て」に至るのである。
    明日につづく

    日下和夫

    8月28、29日は大徳寺玉林院にて「東京操体フォーラム in 京都」開催
    9月18、19日スペイン、マドリードにて「操体セミナー in スペイン」開催

  • 生命エネルギーと感覚

    今回は「瞑想」において切り離すことができない、クンダリニーとチャクラについての真相に迫ってみたい。日本でも幾度かのヨーガブームにのってクンダリニーやチャクラという言葉を耳にしたことがあると思う。それゆえに誤解されていることが少なくなく、その誤解を理解へつなげてみようと試みるものである。一週間、お付き合いいただきたい。
    クンダリニーやチャクラに関する経典によると、ハタ・ヨーガにはチャクラ(輪)と霊的資質の開発との関係について独自の理論があり、チャクラとは超心理学に属する生命エネルギーの中枢であるとしている。それには、チャクラは人体の中に七か所あって一連の体系をなしている。それは単なる生理的な肉体組織ではなく、エーテル体、あるいは幽体というからだの組織であり、肉眼では確認することはできない。しかし、熟達したヨーギはチャクラの存在をはっきりと実感することができるというのである。また、そのチャクラがクンダリニーという宇宙エネルギーの働きで活性化されると、肉体と精神の両面に色々と超能力が具現してくるのだと経典では記されている。
    超心理学的に言うと、人体の中には生命エネルギーであるプラーナ(生命素といわれる気)が流れるナーディ(管、経脈)が7万2千本ある。古代アトランティス文明を受け継いだアーリア民族が、5000年も昔にヒマラヤの奥地に住みついてあみだしていった英知であるとされている。このナーディーという経脈に関して、プラクティー・ヨーガでは中国医学で行う鍼灸療法の経穴・経絡の原点となったものや、ヴィアヤーマ・ヨーガはナーディース治療法(幽点刺激法)というものがあり、人体の急所的部位を探求し集大成したもので指圧の原点となったものがある。これらのナーディーの内、最も重要なものが背骨の中央を流れるスシュムナーという中央の気道、左側を流れるイダーという月の気道、右側を流れるピンガラという太陽の気道の三本の管(経脈)である。
    中央の気道であるスシュムナーは背骨の下底に始まって頭上に達しており、その周りをイダーとピンガラが交互にとぐろを巻いて上がり、それぞれ左と右の鼻孔に通じている。この三つの管が背骨の最下底のところで合流している場所に「三回転半とぐろを巻いて眠っているヘビ」として象徴されるクンダリニーという潜在的な宇宙エネルギーが未活性の状態で存在している。
    このクンダリニーがヨーガの行法によって活性化すると、その潜在的なエネルギーが、あたかもヘビが目覚めて立ち上がるように、スシュムナーの気道を上昇し、六か所のチャクラを次々と打ちつらぬいて、最後に男神シヴァが鎮座している頭頂のサハスラーラチャクラに到達するのである。このようにチャクラが最下底から上に向かって打ち破られていくにつれて、次第に霊的、精神的物質が発現し、サハスラーラチャクラに至った時、究極的な「解脱」であるエンライトメント(光明)を得るといわれている。
    クンダリニーはもともと、女身シャクティの分身であって、それが男性神であるシヴァ神とサハスラーラチャクラで合一するときに初めて人間存在の完成が実現する。つまり、人間に内在する地の霊である陰の原理と、天の霊である陽の原理との結合を将来するのがチャクラ理論のねらいであると、経典は綴っている。
    しかし、このような理論的な知識が役に立ったということは未だかってあったためしがない。クンダリニーをどんなに解剖学的に視覚化してみたところで、実際のところ瞑想にとってはどんな意味ももっていない。何もクンダリニーやチャクラの存在を否定しているのではない。クンダリニーもチャクラも確かにあるだろう。ただし知識としての理解は微塵も役に立ちはしない。むしろ知識は邪魔にさえなる。それは多くの理由から障害物にならざるを得ないのである。
    こんな理論的知識を追い求める傾向は操体を学ぶ我々にも同じように言えることである。知識なら書籍やビデオからでも得られるが、「百聞は一見にしかず」である。実際に「見て感じる」という心構えが求められている。この「見て感じる」というのは、本当の意味において、その時、その場にいなければならないということを理解する必要がある。
    明日につづく

    日下和夫

    6月13日、行徳ゴールドジムにて第四回「臨床家による操体セミナー」開催
    8月28、29日は大徳寺玉林院にて「東京操体フォーラム in 京都」開催
    9月18、19日スペイン、マドリードにて「操体セミナー in スペイン」開催

  • 原初からの解放(最終日)

    前日のつづき
    血も凍るようなバース・トラウマからの無意識の叫びに導かれて、病める心とからだに巣食う共通の苦痛がある。それは出生時に拒否された原初の記憶である。出生時のあの出来事が、一挙一動が、赤ん坊の心を傷つけ歪め、そしてその傷は一生つきまとって身心を苦しめる。人生の始まりにおいてはじめて受けた傷であり、そのうえに後日、神経症が芽生えてくる。そうした苦痛が、神経症の形態とは関係なく、すべての神経症の人間の生活のあらゆる瞬間にまとわりついている。こうした苦痛は意識されないことが多いのは、それらがからだ全体にひろがっているためである。それらはさまざまな器官、筋肉、それに血液とリンパ組織に影響を及ぼし、人間は歪んだ行動をとるようになる。なぜ、他人の評判が気になるのか、なぜ、わけもなくいらいらするのか、なぜ、今の自分は本当の自分ではないと思ったりするのか。それらは心とからだの不自然な緊張が慢性的になっているのである。正常な緊張は、我々が生きていくうえで必要である。緊張というのは自分の重みであり、そこに緊張がなければ無重力状態になってしまう。出生時に否定された感情と要求が及ぼす圧力が不自然な緊張をつくりだすことになる。この緊張度が高いほど、気分が悪く、神経症にかかっている者が見せる行動は、少しでも気分をよくしたいと望んで行っている。そしてこの不自然な緊張を伴わない神経症はあり得ない。神経症の一部を形成している緊張は、必要を満たしたり、破滅的な感情から人間を守ったりする方向に肉体を動員する、いわば生存のためのメカニズムである。いずれの場合にも、緊張はその人間の継続性と統合性を保ち続けようとする。
    この神経症は呼吸にもっともよく現れてくる。神経症的な呼吸は苦痛を押しとどめることを目的としており、リバーシングによる深くて速い呼吸を強要すると、抑圧のふたをあける助けになる場合がよくある。その結果、爆発的な力が流出する。高血圧、高体温、手の震えといったさまざまな形をとっていたものが一気に噴出され、その途中で記憶の阻止が解除されることになる。深くて速い呼吸は肉体内部の並はずれた苦痛を解き放つのにとても役立っている。神経症患者は呼吸を制止するという特徴があるが、呼吸の制止には感情の制止が伴う。というのも呼吸の制止は肉体的な抑制のメカニズムであり感情の抑圧である。これが神経症の基本的なメカニズムなのである。この神経症に認められる呼吸の障害は腹部の緊張によってもたらされ、この状態が浅い息づかいをもたらし、またひどく驚いたときに、腹部の収縮によって息を殺すのである。
    リバーシングは生命エネルギーの強い流れを促し、長年抱いてきた感情的な収縮のパターンを解放へと導く。時には、このエネルギーの動きが本人をかなり混乱させるようなことも起こる。これは新しいエネルギー的現実が急激に表れたために、からだ、心、感情、魂にさまざまな影響が及ぶ可能性がある。最悪の場合は強迫神経症、神経衰弱、うつ病などの重度の発作を伴う精神病を思わせるような現象が出てくるかも知れない。生命エネルギーの観点から見ると、それらはヒーリングが進行中であることを示している。ただ解決がプロセスの途中であり、終わっていないということを理解しなければならない。危機的状況に瀕していると思われるときは、何よりもまず呼吸を意識し、鼻からゆっくりとした呼吸をするだけで、気持ちが落ち着いてくる。数分も続ければ、心身ともにリラックスしてくるだろう。補助的には操体でおこなう渦状波などのボディワークも肉体的・感情的にリラックスさせる効果をもつものなら、非常に助けになり役に立つ。たとえば、被験者の胸の下のほうを手のひらでおして呼吸の循環を深めると、感情が解放され不自然な緊張が弱められ、それだけ気分がよくなってくる。このような危機的状況にある場合、西洋医学的治療は危険だ。西洋医学は、生命エネルギーやそのエネルギーの影響について無知なため、危機的状態での理解ができない。この危機的状態を病気であるとし、化学の投薬や入院での電気ショックを処方することになる。だが、そんな治療方法で危機的状態が改善されることは決してない。それまで生命エネルギーの進化を遂げつつあった人々が精神科を受診することによって病棟を埋めてしまうことになる。これは悲劇としか言いようがない。危機的緊急状態はヒーリングが進行中である。そんなときこそ、あくまでも呼吸を続け、出てくる感覚を見つめ、操体法の渦状波のような手段を使ってからだをリラックスさせ、このプロセスを絶対的に信頼することによって、完全な解決を促すべきなのである。

    最後に、リバーシングを行う際には、心臓疾患やてんかん、妊娠後期、内出血のある人などは注意と配慮が必要になる。無理をせずに忍耐強く時間をかけ、からだによくききわけて取り組む限り、それらの状況も深い呼吸の恩恵を被ることができる。
    一週間にわたってリバーシングという呼吸法について述べてみた。

    明日から京都の小松さんがリレーブログに登場されます。よろしくおねがいします。