カテゴリー: 日下和夫

  • 原初からの解放(六日目)

    前日のつづき
    リバーシングによる苦痛の状態は呼吸器官が要求する以上に深く呼吸する結果、血液中の酸素の量が増え、炭酸ガスの量が減るので呼吸高進症候群にすぎないと、片づけたい気持ちにかられる。それゆえ、西洋医学の学者はこれらの変化を観察して、「過換気症候群」あるいは「過呼吸症候群」のレッテルを貼り、過度に速い呼吸や継続した呼吸は二酸化炭素が必要以上に排泄されてしまうことになり、そのために神経や筋肉の興奮性が高まり、ひどければ意識障害が起こったりするのだと説明することになってしまう。そして、この場合における標準的な治療法は、動脈血液中の二酸化炭素分圧を上昇させることであり、その状態が治まるまで患者の口に紙袋をあて、その紙袋中に吐きだしたガスで呼吸させるというものである。すると、自分の吐きだした二酸化炭素を再び吸いこむことになるので、動脈血液中の二酸化炭素が増え、症状が治まるというのだ。他に抗不安薬を投与して沈静したりするのも有効だとしている。西洋医学的には過呼吸が危険とは云わないまでも、健康的な行為ではないという考え方が多分に含まれているのだろう。
    しかし、そのような判断をすると二つの重要な要素を無視することになってしまう。ひとつには苦痛や不快感を感ずると、呼吸のプロセスが深まるという事実。もうひとつは呼吸高進症のほとんどの場合に、めまいや頭がフラフラする症候が伴うことである。ところがこうしたことは、苦痛を経験しているときには生じない。仮にめまいがすると患者が訴えたなら、それはその患者が苦痛を経験しているのではないと判断できる。また、過呼吸症候群が、特に大きなストレスにさらされている者によく見られる、という事実を西洋医学ではまだ説明することができないでいるし、過呼吸の利点もまったく無視されてきた。深い途切れることのない呼吸をある程度の時間続けると、否定的な収縮体験もやがて大いなる喜びに道を譲るということは体感すれば理解できることである。過呼吸は決してネガティブな症候群ではなく、むしろポジティブな解決をもたらす、それは生涯続いてきた低呼吸の治療なのである。
    療法的に行えば、過呼吸は身心を膨大なエネルギーで満たし、収縮したエネルギーを強力に解き放ち、浄化することができる。その単純な働きは十分に実証される。西洋医学が人間の生におけるエネルギーの動きを理解しない限り、呼吸とは何か、深い呼吸がどんな効果をもたらすかということを理解することはできない。
    今の医学界では心身医学の分野に真剣に取り組もうとする人は実際にはごく少数である。研究基金の配分に影響力をもつ学会でもっとも権威のある研究者たちは、研究課題の優先順位を決定し、心身医学の分野に取り組む仲間を低く見ているのが現状である。現代医学は心身医学を医学スクールで教えることはしない。また科学信奉主義の立場をとる生物医学の主流派の中では、心は脳の回路構成と生化学の産物にすぎず、まるで心は常に原因ではなく結果であり、人間の意識も征服するのを目前にして大いに意気を上げているといったところだ。精神はどのように身体に影響しているかというような心とからだの結びつきに関して、治癒における身心の相関的な側面に医学はもっと関心をもつべきである。
    また、リバーシングの感覚については何も不快なことばかりではない、快につながる変化もある。最初にピリピリちくちくとうずくような感覚だったのが、やがてエクスタシーといっていいほどの陶酔感に発展する場合がある。全身を波のように洗う性的な快感、非常に深いリラクセーション、生命のありようへのパワフルな洞察、深遠で神秘的なビジョン、忘れがたい魂の再体験など。このようなとき、人は呼吸と感情とエネルギーとの本質的なつながりを細胞レベルで見いだすかも知れない。このようにリバーシングは苦痛と呼吸の深さの関係を説明してくれている。
    この諸悪の根源ともいうべきバース・トラウマが精神や肉体に抑圧されたネガティブな印象を形成する。そしてそれを一生持ち続けることになるのであるが、それから救われるために寺院や教会に行き、自分は宗教的であり、救われるものと考えている。しかし、そういったものが宗教的な質ではなく、ただ単に恐れているだけなのだ。神や仏が救ってくれると思っている、が、そうではない。自分が自分自身を救わない限り、誰も自分を救うことなどできやしない。キリストやブッダであっても、我々を救えない。しかし、本人だけが自分自身を救うことができる。自分自身を救うことは自分の責任なのである。
    操体でも自分のからだの感覚をききわけるのは自己責任だと言っている。この自己責任というのは、まわりを否定することによる疑似的な安楽・解放ではなく、苦悩の根源を探るような自覚と反省の中で、自分自身に目覚めることによって責任を他に転嫁せずに自分自身で切り抜けていくということである。そして自分自身を救う方法とは再生すること、再び生まれるということである。それがリバーシングの意味することのすべてだ。
    明日につづく

  • 原初からの解放(五日目)

    前日のつづき
    リバーシングというものの内容に触れると、この呼吸を発見し、体系化したレオナード・オルはこのように言っている『リバーシングは人に呼吸の仕方を教えるものではなく、呼吸そのものから自分で呼吸を学ぶ、直観的で繊細な行為である。直観に基づくゆるやかなリズムに沿って吸気と呼気をつないでいくうち、魂であり、呼吸の源である内なる呼吸が、外なる呼吸とひとつに溶け合うのである』と。
    リバーシングとは、なめらかに流れるような呼吸を長時間、休みなく、途切れることなく持続させる呼吸法である。決して息を止めず、間をおかず、吸気がそのまま呼気につながっていき、呼気もまた一瞬も間をおかず、そのまま吸気につなげていく。吸い込んで吐くという呼吸の動きが交互につながって入息と出息がなめらかな波動を描いて続いていく、そこに呼吸とエネルギーが連動してくる。深くて速い呼吸をするとそれだけ吸う酸素の量が増える。体内に酸素が増えれば増えるほど、ますます生き生きとして、それだけ動物的になる。動物たちは生き生きとしているが、人間は生きているのか死んでいるのかわからない、再び動物にならなければならない。そうしたときはじめて我々の中により高次のものが展開してくる可能性が生まれる。血液中に酸素が増せば増すほど、それだけ細胞の中のエネルギーも増大し、からだの細胞はそれだけ生き生きしてくる。このように酸素を得ることは体内に電気を生じさせ、この電気が生体エネルギーとして流れ出すのである。体内に電気が生じると、自分の内側深くに、自分自身を越えて進んでいくことができ、その電気は内部で働く。からだには独自の電源がいくつかあり、呼吸を増やし酸素を増やしてその電源が入れば、生体エネルギーは流れ始める。そして、ますます多くのエネルギーが体内を流れ、自分自身で肉体を感じることが少なくなってくる。するとだんだんエネルギーとしての自分を感じはじめ、物質としては感じなくなってくる。
    このようにリバーシングの呼吸に入っていくと、実にさまざまな変化があらわれてくる。手や顔、足などに温かくうずくような感覚をおぼえ、それが気持ちよく全身にひろがっていき、あるいは、脈うつようなうずきが徐々に強まり、通常はじめは手、次に顔、足そしてほかの箇所でも筋肉がけいれんを起こし、激痛を伴う場合もある。気が遠くなり、頭がクラクラして、集中力を保てなくなるかも知れない。ほとんど呼吸が止まってしまい、息をするのに大きな努力を要する時間が長く続くかも知れない。吐き気、呼吸困難、筋肉の震えが生じ、体温が極端に上下することも起こる。からだのどこか、それ以前に怪我や損傷を受けていたりして調子がよくないと感じていた部分があると、リバーシングによる呼吸をしている間、そこが過敏になり、より感覚的に捉えることができる。
    また自分の出生時のことを驚くべき明瞭さで想い出す人もいれば、胎児として子宮にいた頃を含め、過去の記憶が次々によみがえる人もいる。それは視覚的イメージとしてやってきたり、あるいは現在の肉体が実際にそのように動いて、はっきり表現したりする。そしてどの人も非常に強烈に何かを「感じる」ことは確実である。悲しみ、恥ずかしさ、怒り、不安、コントロールを失った感じ、無防備になった感じ、無力感、純然たる恐怖、そんな感情が波のように押し寄せてきて、今にも圧倒され、のみ込まれてしまいそうになる。つまり、リバーシングを続けていくと、例外なく感情が解き放たれてくる。
    明日につづく

  • 原初からの解放(四日目)

    前日のつづき
    バース・トラウマを再び経験することで、湧きあがってくる恐怖の中で、そこに握るべき手があり、すがって泣ける肩があり、おだやかに力づけてくれる声がある。そういう介助、指南役が必要とされる。介助、指南役はともに呼吸し、ともに感じることが重要であり、安全性とサポートを保証することができるのである。介助、指南役の役割はそこに座っていること。相手のために全存在を提供し、その成長を積極的に見守ること、そしてともに呼吸して、感じることなのである。リバーシングも操体と同じ完全なる自力自療の典型だ。プロセスの単純さを絶対的な信頼関係にしている。リバーシングによってバース・トラウマを通り抜けることができたなら、無意識の内に生まれてきたときに何が起こっていたのかを、今度は意識的に見ることができたならバース・トラウマは一掃されることになる。意識的に経験されたものは一掃される。そして一掃されたなら自分の無意識はバース・トラウマという傷につかまえられてはいない。これが思考の作用過程である。そうなると本当に眼を開くことができる。世界はこの上もなく美しいことを理解する。松はもっと緑で、バラはもっと赤が鮮明だ! 世界はこれほど色あざやかだったのである。子宮の内は快適で良いものだったが、それは到達点ではない、成長の始まりにすぎなかった。子宮は確かに都合のよいものであった。が、依存の生活である。自由については何も知らない。都合がよく安全な生活ではある、が、単なる植物人間にすぎない。バース・トラウマを通り抜けたなら、人生には子宮などが与えてくれることのできない美しいものがあるということを観はじめる。今となっては、子宮は窮屈なものだった。安楽で暖かくて快適であっても独房であったことにはちがいがない。子宮の内の10か月は成長する上で、か弱くて傷つきやすいため、保護が必要であった。10か月も過ぎれば胎児は外に出ることを強くあこがれる。外に出て子宮から自由になりたい。そして、世間の歓びや苦しみを観る用意ができている。
    一度、バース・トラウマを意識的に経験し、苦痛の記憶を消し去ることができたなら、きっと驚くにちがいない。眼を開けば、木々は以前よりもっとあざやかで、世界がまったく違って見える。世界はなんてサイケデリックな色につつまれているのだろうと。極彩色はいつも眼の前に絶え間なくあったということを。リバーシングによってすべての記憶を通過したのなら、その子宮内からの記憶は自分に対して支配力を失い始める。まず、誕生を経験することになり、もし、それができたなら、次は誕生の10か月前に起こった死を経験できる。さらにその死も経験したのなら、過去の生も明らかになるだろう。そして、その全体像がわかったとしても、生きていく上で何の意味ももたないということも・・・・・・。
    明日につづく

  • 原初からの解放(三日目)

    前日のつづき
    リバーシングという呼吸法は、エナジーとは何かを知るのに一番てっとり早い方法である。リバーシングにより身体が浄化されるので、多くの病気の治癒がなされるのも事実である。また、バース・トラウマにより形づくられた、自分の生活のパターンを認識するのに役立つ。胎児は母親の子宮の内ではとても幸せに過ごしていた。我々はその子宮の中にいた記憶をそのまま持続している。記憶というのは脳の内だけではなく、身体のすべての細胞、すべての線維組織の内に存在する。その記憶は身体のすみずみに浸透している。子宮の内での10か月は、はてしない歓び、くつろぎ、まかせきった状態だった。容易に忘れることなどできるものではない。
    バース・トラウマによって意識の表面から断絶させられたとしても、無意識は依然としてそのことに憧れ続けている。その結果、科学は子宮を外側に創る努力をするようになった。エアーコンディショナー、新幹線、ジェット旅客機、快適な衣服とかは科学技術によって子宮を外側に創ったものに他ならない。子宮内で味わった「完全」への欲求のために、その努力全体が子宮と同じものを創ることに向けられている。しかし、科学技術がどれだけ発展しても、決して満足するまでに至らない。完全な状態には決してならない。そこには依然としてギャップがあり続ける。完全への欲求とともに生きることなどできるものではない。これが神経症の一つの原因をつくることになった。
    これにはバース・トラウマをもう一度経験することが役に立つ。バース・トラウマを意識的に通過することができたなら、そのときには誕生全体の意味が変わる。意識的に自分の無意識の内に入って、完全への欲求が湧きあがってくるところまで入り込んでいく。まずは子ども時代へ入っていき、家庭や学校そして社会での教育や条件付けされてきた幾層にも重なった倫理や道徳の皮をはがしていかなければならない。そして最後にバース・トラウマにたどりつく、自分の生まれたその日に・・・・・・。
    バース・トラウマを再び経験すること、それがリバーシングという呼吸法のすべてである。バース・トラウマをもう一度経験することによって一体、何が起こるのか? 全体の景色が変わってしまう。それを意識的に経験することができたなら、そして子宮から出てきたばかりの赤ん坊に後戻りができるとしたら、それは大変な苦痛と苦悩を通り抜けることになる。生まれた時と同じ痛みで苦しむ。呼吸は乱れて激しくなり、呼吸困難を感じ、それどころか呼吸はまったく止まってしまうかも知れない。身体は麻痺し、死につつあると感じるかもしれない。なぜなら、それは子宮から出てきたときに感じたことだった。とても狭くて、暗いトンネルの中を通過しているような息苦しさを感じる。そして大きな恐怖が湧きあがってくる。
    それゆえに誰か助けてくれる人が、介助、指南してくれる人が必要になる。誰か、護ってくれる人が必要だ。誰か力づけてくれる人が必要となる。「怖がらなくてもいい。心配しなくてもいい。それから逃げないで入っていきなさい、大丈夫だ」と言ってくれる人が・・・・・・。
    明日につづく

  • 原初からの解放(二日目)

    前日のつづき
    かわいそうな赤ん坊は、このような西洋医学の産科学に基づいた安心、安全な出産というものに委ねられることになる。それは母子みずからの陣痛を待たないで、薬剤の力を借りて収縮を誘発することにより、多くの赤ん坊が医師や病院のスケジュールに従って取りあげられている。母体や胎児のからだの有機的なタイミングには何の意味もないかのように扱われているのだ。そして胎児はつねにモニターされ、生命活動標準数値が外れようものなら、さらなる介入が行われる。西洋医学にとっては完璧で安全な環境かもしれないけれど、子宮の中で10か月も過ごした胎児を出迎えるやり方としては、ばかばかしいほど非人間的であると、言わねばならない。
    この産科学の最大の遇行は、ヘソの緒を早く切ってしまうことにある。子宮を出て最初に行われる呼吸はもっとも基本的な意味で個の自律的存在として自らを確立することである。自力で呼吸するというのは、本当の意味で自由に生きるための第一歩である。新生児の脳にとっては一定量の酸素がつねに確実に供給されなければならない。母体につながったヘソの緒による呼吸から肺呼吸への移行はスムーズに途切れることなく行われなければ酸素欠乏に陥ってしまう。酸素欠乏はのちに重大な心身への悪影響を及ぼすことになる。もっとよく注意して観察して欲しい、大いなる自然はヘソの緒から肺への呼吸の移行を十分すぎるほど保護してくれている。赤ん坊が生まれたあとも数分間は酸素を送り続けているのだ。新生児自身が肺で呼吸できることを発見し、時間をかけて少しずつ試み、やがて完全な肺呼吸を覚えて確立するまでヘソの緒は脈打ちつづけ、酸素を送り続けるのである。それが必要なくなったとき、はじめて機能を停止する。実を言うと赤ん坊がみずからヘソの緒を切るようなものなのだ。このように準備ができたら、ちゃんと母親から離れていくことができる。
    病院の都合によるスケジュール出産を思い浮かべると涙があふれてくる。無理矢理ヘソの緒を切られて一時呼吸が止まってしまう、酸素の供給が突然ストップするのだ。さし迫る生命の危険、死がすぐそこまで来ているのにどうすることもできない赤ん坊、パニックが起こる! すると突然、赤ん坊は踵をつかまれて乱暴に逆さに吊るされ、背中を思いっきりどやされる。背中をどやされた赤ん坊は、暴力をふるう手から逃れようと本能的にからだを縮めてしまう。恥ずかしさ、怒り、憎しみの入り交じった最悪の気分から逃れようと感情的にも収縮し、さらに、心理面でも退却してできるだけ小さくなり、自分の内部に身を隠す手段として呼吸を抑えることになる。瞬時に自動的に、これだけのことをやっているのだ、ほかに対応のしようがないからである。ああ、もはや首をふって嘆息するしかない、そして産声を上げると、元気な赤ん坊だと言って騒ぎ立てる。誕生は野蛮で不合理な拷問、この世の暴力への入門式となってしまった。肺呼吸の仕方を学んだことが、人生でもっとも深く傷つけられた出来事になるとは・・・・・・。

    幸いなことにフランスの産科医フレデリック・ルボワイエールが開発した分娩法によってこれらの原初的な苦痛を避けることが可能になった。が、我が国においては未だ改善が見られない。F・ルボワイエール著『暴力なき出産』松村博雄訳(KKベストセラーズ、1976年)他にトマス・バーニー著『胎児は見ている―最新医学が証した神秘の胎内生活』小林登訳(祥伝社、1987年)、デーヴィッド・チェンバレン著『誕生を記憶する子どもたち』片山洋子訳(春秋社、1991年)の一読を勧める。
    明日につづく

  • 原初からの解放

    今週の担当は兵庫県三田市から送信しています。
    今回はリバーシングという呼吸法にふれてみたい。
    リバーシングとは再誕生。米国の精神科医レオナード・オルによって発見された呼吸法である。あるとき、彼はバスルームでシャワーを浴びているときに、床に落ちていた石鹸に気づかず、その上に足をのせて転んでしまった。あまりの勢いのせいか、手をつく間もなく仰向けに全身を強打してしまった。一瞬にして呼吸は止まり、意識あるものの身動きとれない状態に陥った。息を吸おうとするも吸うことができない。そして全身の緊張が極限にきたとき、本能的な全身の弛緩とともに息を吐いていた。すると、その後に僅かではあるがこれも本能的に息を吸っている。彼はこれに賭けた、ひたすら息を吐くことに意識を集中した。少しずつではあるが息を吸っているのが肉感として感じられる。生への執着も手伝って、ひたすら呼吸することにだけ集中し全身全霊を傾けている。このとき、意識の変化を感じ始めていた。自分の記憶が遡っていくのだ、表層意識にはない1〜2歳の頃の記憶がはっきりと意識上に現れてきた。彼はまるで何かに導かれているかのように深くて速い呼吸をリズミカルに力強く続けていたのである。そしてその時はやってきた、呼吸困難を感じ、呼吸は乱れて激しくなり、ときとして呼吸はまったく止まってしまう。身体は麻痺し、死につつあると感じていた、それはまさに子宮から出てきたときに感じたことであった。彼は恐怖心から通常の呼吸に戻していった。この強烈な体験が彼を呼吸の研究に向かわせたのであった。その後の彼は精神学科の教授でもあったことから自分の学生らに何度も実験を重ね、療法として体系づけられたものが今日のリバーシングという精神療法としての呼吸法を確立したのである。

    そのリバーシングとは自分の誕生を想い出すことができ、再びその誕生を経験させてくれる。バース・トラウマという出産時に受ける肉体的、精神的ショックから解放されることによって、潜在意識の中にある誕生時の原初的な苦痛を快へと変質させられる。バース・トラウマは出産時に関係した産科医や助産師たちが、赤ん坊が何を必要としているかを知らず、逆に必要でないものを与えたことによってできた傷である。
    出産時における強烈なライトは医師には大変便利であっても、赤ん坊のような敏感な眼にはまぶしすぎるし、まわりでたてる大きな音や声は赤ん坊には騒がしすぎる。また目の粗い布や、荒々しい触り方はデリケートな肌には耐えられない。このようなしうちは赤ん坊にとってひどい苦しみである。それでもまだ肉体的な苦痛は精神的な苦痛と比べると問題にならない。
    また、子宮から出たばかりの赤ん坊はヘソの緒をとおして呼吸しているのだが、それをすぐに切り取ってしまう。かわいそうな赤ん坊は窒息して死んでいくようなパニックに陥るのである。そしてはじめて肺に空気が送り込まれるのであるが、それは熱い空気が肺を焼き尽くすような苦痛であると言われている。このような暴力で迎えられるという恐ろしい出生体験のあと、さらにぎゃあぎゃあ泣きわめく見知らぬ連中とともに新生児室に放置され、にせの食物を与えられることになる。
    明日につづく

  • ブログ最終日

    一週間のおつき合い、どうも有難うございました。どのような形で、締めくくったらよいのか、思いだけが大きくふくらんで、まとまりのつかない今の心境です。きっとブログ担当の期間に重なったフォーラムの影響でしょう。

    今こうしていても、あの二日間の一コマ一コマがふっとわいてきては、次々に重なり、とりとめもなく思いだされてくるからです。この二日間のできごと、その一コマ一コマの感動はどのような言葉で表現しても語り尽くすことはできないであろうと思います。実行委員、役員一人一人が胸(ハート)におさめておくのが最もふさわしいように思います。なにか、言葉にするとあの感動が消えていくような気もします。なんと表現したらいいのか、私達が企画したこととはいえ、我々も含めて一人一人が名指しで招待状を受け取って参加させてもらった、ディナーショーのような、そんな気分を味わったのです。ただ声をかけられて参加したのではなく、一人一人選ばれて、招待状を受け取った者だけが、参加を許されたような思いがします。それだけに、あの二日間のあのハーモニーのすばらしことといったら、招待状を受け取った参加者のみが味わった、夢のような感動と興奮のひとときをだったと思います。

    僕は君達に、あえて厳しさを求めて接してきました。しかし、君達の姿に接した島津先生、そして奥様が私に直接言われた言葉が印象に残ります。「なんて、すばらしいお弟子さん達なのでしょう。よくここまで行きとどき、育てられましたね。ありがとうございます。」と・・・・・これが人さまの評価なのです。この評価がなくして東京操体フォーラムも成り立っていくことはありません。

    たヾ単に、自分と私達がたのしい、おもしろい、うれしい、それだけの学びだけでは一個人、一集団のみの評価であって、それは人さまがくだす評価とは違います。君達の無心にとり組む、心を一つに励んできたすばらしさの中に、人さまは心を打たれ絶賛して下さるのです。この無心さも、厳しく取り組む学びのなかから育ってくるものです。フォーラムは私達の学びの場でもありますが、人さまに公開し、ご披露しているわけですから、人さまの評価も「すばらしい」といふ言葉として返ってくるように努めることです。その為にも、学ぶことの豊かさ、妥協なき自己への厳しさが求められてくるのです。その自分に求められてくる生ける真心が鏡のごとく人の心(鏡)に写し出されてくるのです。それが品性となって人様の心を打つのではないですか。人に対するやさしさ、いたわり、思いやり、いつくしみに顕現するのです。それが「楽しい」「愉楽しい」の違いです。それは自己に対する誠意であり、隣人に向けたマナーです。愛する心です。私が君達に求めている、学ぶということの厳しさとはそういうことだったのです。人さまの評価を得ていく、ということは、そう簡単なことではないですね。私達は学びのなかで、人さまの心を解(と)かしていくことです。真理であることが学びです。それは一人一人が真理の化身であることに目覚めることです。真理が真理の力で立てる、それが自己の目覚めであって、人さまと共感し、調和してまざりあっていくことだと思います。

    ブログを終えるにあたって、最後の一言

    愛するものの弱さとは
    ひとりきりでは
    生きていけないってことです

    神さまもそうでした

    神は愛なり といいます
    神さまも愛に生きている
    生きる為に
    我が息子が、我が娘が必要だったのです
    神のその存在こそ、共に生きている姿であって
    ひとりっきりでは なかったのです

    実行委員の皆さん、ご苦労もあったでしょうが、君達はスゴすぎる、なんてたまげた存在なんだと思いました。本当に大きく大きく成長して実ってくれましたね。私への招待状、ありがとうございます。心から・・

    理事長

    前列左より
    橋本敬三先生(写真で参加)、三浦寛、島津兼治先生、畠山裕美、森田珠水
    二列目左より 鵜原増満、小代田綾、佐伯惟弘、秋穂一雄、平直行、友松誠
    三列目左より 三浦寛幸、日下和夫、小松広明、辻知喜、岡村郁生、山野真二、山本明、福田勇治
    四列目左より 西田尚史、中谷之美、横森昌裕、甲斐田泰平

  • Sotai Moving Arts  〜全てに息づく操体の波動〜

    東京は梅雨あけしたようです。今年は暑い夏になりそうです。
    少し気が早いようですが、 2009年秋のフォーラムのテーマとプログラムをご紹介致します。

    私共、東京操体フォーラム橋本敬三師の創案された操体法を継承しつつ、より発展向上を目指して日々研究に励んでおります。その成果の発表の場として、春と秋の年二回フォーラムを開催しております。

    今年の秋は、操体にご縁のある、お二人の講師を招いての特別講義を開講します。

    今回のテーマは Sotai Moving Arts 〜全てに息づく操体の波動〜

    お一人は、「最後の本物の武術家」と言われる、柳生心眼流竹翁舎主催の島津兼治先生と、南画家、いえ南画家というカテゴリーに当てはまらないContemporary Artist(Sumi-e) 、田中稲翠先生のお二方です。

    島津先生は柳生心眼流を継いでおられ、なおかつ柔術(やわら)医術の普及と指導を行っておられます。今回は平直行相談役とのご縁がきっかけで、フォーラムで講義していただけることになりました。日本人の身体文化についての膨大な知識、からだの秘密をほんの少し明かしてくださることでしょう。『武術』からどのような話が操体に関わってくるのか非常に楽しみです。

    田中稲翠先生は三浦寛、畠山裕美とのご縁があり、実際に操体でからだの変化を知っておられます。また、芸術家と操体臨床家の間に流れる秘密に気がついていらっしゃるようで、三浦、畠山と芸術と操体について語り出すと、時間があっという間に過ぎてゆきます。今回は稲翠先生の講義と共に、三浦寛との対談を企画しております。芸術と操体の二卵性双生児のような関係が明らかになるかもしれませんし、「楽」と「快」の謎も解けるかもしれません。

    二人の先生の講義内容は追ってお知らせ致します。

    2009年秋季東京操体フォーラム

    11月22日(日)

    総合司会 福田勇治 東京操体フォーラム 理事 副実行委員長

    ■快と楽の違いを紐解く■  
    岡村郁生 東京操体フォーラム 理事 実行委員長

    ■快感至上主義と感情に伴う呼吸の抑制■
    日下和夫 東京操体フォーラム 実行委員

    ■第一分析・第二分析・第三分析の反応について 〜生理学からの考察〜■
    横森昌裕 東京操体フォーラム 

    ■武術と格闘技 似て全く異なるもの■
    平直行 東京操体フォーラム 相談役 

    特別講義 島津兼治 柳生心眼流竹翁舎主催

    ■般若身経■
    ■第1分析、第2分析■
    三浦寛 東京操体フォーラム 理事長
    畠山裕美 東京操体フォーラム 常任理事

    ■懇親会■
    於:ユーハイム(津田ホールB1) 司会: 平直行

    11月23日(月)

    司会 秋穂一雄 東京操体フォーラム 理事

    ■動診と操法−似て非なるもの■
    福田勇治 東京操体フォーラム 理事 副実行委員長

    操体小僧日記 〜気持ちのよさは魔法〜■
    中谷之美 東京操体フォーラム 実行委員

    操体をすると何故呼吸が楽になるのか■
    山野真二 東京操体フォーラム 実行委員

    ■般若身経■
    三浦寛 東京操体フォーラム 理事長
    畠山裕美 東京操体フォーラム 常任理事

    特別講義 田中稲翠 

    ■対談 ■
    田中稲翠&三浦寛 
    『Art&Sotai』(仮)

    ■メインセミナー■
    三浦寛 三浦寛 東京操体フォーラム 理事長

    皆様の「2009年秋季東京操体フォーラム」へのご参加を、実行委員一同心よりお待ち申し上げております。  

    2009年7月吉日 東京操体フォーラム実行委員一同

  • 続タントラ

     日本においては、仏教の伝来とともに弘法大師空海によって密教が大成された。空海の開いた真言宗の中から、当時、民間信仰として根強い伝統を持っていた性器崇拝の傾向を巧みに捉え、性崇拝の教理を組織的につくりあげた立川流真言なる左道密教が発生したことは見逃せない事実である。すでに陰陽道と融合した真言宗はこれを男女に配合し、真言宗立川流曼荼羅によると、天に陰陽、神にイザナギイザナミ両みことの二神、人間には男女、仏に金(知)・胎(理)の両部が描かれている。真言宗の根本経典である『大日経』には、理知冥合して仏事を成すとあり、男女の交合は、理知の冥合にして、成仏の因をなし、これ当相即道の妙にして、余教を超越する大秘密なりと、唱えた。これはかなりの力をもって、民間に流布していった。立川流真言の「受法用心集」などを見ると、性的というよりは、妖風をおび、ドクロ(髑髏)本尊なるものを箱に納め、それに、男女交会和合の液を塗ること百二十回、毎夜、真夜中に反魂香なるものを焚いて、煙をあてるべし、そうして反魂真言を誦すること千べんに満ち、金銀の箔を捺し、曼荼羅を描き、錦の袋に納め、昼は仏壇に納めてお供物をし、夜は行者のそば近くにおいて、供養し、こうすること八年に達すれば、行者に悉地(真言宗の仏語、成就という意味で秘法を修してして成就すること)なるものを与える。そして上品に成就したる者には、この本尊が、声を出して、三世のことを告げ悟らせ、中品に成就した者は、夢中に一切のことを告げ、下品に成就した者は、夢うつつの内にお告げはないが、一切ののぞみ、心のごとく成就すべし。といったようなことが書かれている。
     即身成仏の秘法とは、つまり、両性交媾の修法と説き、男の僧は尼僧を求めて両者(男女)が密室において、いわゆる霊肉一致の修法を試みる。この修法を具体的に象徴する男女二神の抱擁・交接をいとなめる歓喜天が全国各所の密教寺に奉安されているのである。
     インドにおいては紀元前四世紀ごろに書かれた性典「カーマ・スートラ」なるものが存在する。恋愛結婚を支持し、婚前求愛の必要性を強く叫び、男女の行為こそ人間同士が昇華し合える極限の美しい姿だと断言している。現代の破綻する夫婦の殆どが、肉体的・精神的な不調や性的無知から起因していることを考えると、この「カーマ・スートラ」の持っている内容は恐ろしいほど近代的であるように思える。
     若い頃、あるタントラグループに参加した時の苦い体験のなかで教示を受けたことをもとに話を進めたい。どこかで見たことがあるかも知れないが、古い時代の錬金術の絵で、男と女が裸で三つの型の内側に立っているのがある。第一の型は四角、第二の型は正三角形で、第三の型は円である。これは、性行為のタントラ的分析であり、三つの可能性があるということだ。
    普通の状態では、性行為をしている時、そこには四人がいる。二人ではない。そしてこれが第一の四角なのである。四つの角がそこにある。なぜなら自分自身が二つに分けられている。思考している部分と感じている部分とに。相手もまた、二つに分けられている。だから四人いることになる。二人の人間がそこで出会っていない。四人の人間が出会っている。そこでは深い本当の出会いは在り得ない。そこには四つの角があり、出会いは、ただの偽りの行為である。出会っているかのように見えるが、そうではない。そこには共有がない。自身のより深い部分が隠されている。同じように相手のより深い部分もまた隠されているのだから。そして、ただ、二つの頭だけが出会っている。ただ二つの思考のプロセスが出会っている。それは二つの感覚のプロセスではない。それは隠されている。
     次に第二の型の出会いは、三角形に似る可能性がある。自身と相手は二個である。三角形の土台の二つの角である。突然の瞬間に二人はひとつになる。ちょうど三角の第三の角のようになる。これは四角の出会いより良い。なぜなら、少なくともほんの一瞬間でもそこに一体性がある。この一体性が健康と活力を与えてくれる。生き生きと感じ、再び新鮮になる。しかし、第三の型こそ最良のもの、この第三の型がタントリックな出会いである。二人は円になる。そこには角がない。そして出会いは一瞬のことではない。その出会いは実につかの間の出会いではない。そこには時間がない。そしてこのことは、男性が射精を求めれば、その時、それは三角の出会いになる。なぜなら射精がそこにある瞬間、接触点が失われるからである。最初の状態を保たなければならない。最後へと移動しないことである。どのようにして最初にとどまるのか。
     「性交の始まる時、最初の火に注意を深く保ち、そしてそれを続けて、最後の残り火は避けよ」とタントラは云っている。最初の行為を終わらせることを急がなければ、行為は次第にセクシャルでなくなり、さらにスピリチュアルになってゆく。これこそひとつの歓喜、宇宙意識である。そして、もし、これを知り得ることができれば、これを感じ、実感し得るなら、性意識は非性的になる。と、教えを受けたのであるが・・・・・・。
     そういえば数年前のフォーラムの発表で、草階女史が「操体とSEXの気持ちよさの類似」について論じておられたのを思い出すが、気持ちよさ、心地よさ、歓喜、昇天、オーガズム等は、みな二面性を持っているのではないだろうか。肉体原理としての気持ちよさがあり、精神原理としての気持ちよさがある。そしてそれらをつないでいる呼吸こそが鍵を握っているのではあるまいか。
     一週間にわたってお送りしました呼吸シリーズはこれで終了です。
     明日からは草階女史の登場です。よろしくおねがいします。

    日下和夫

  • 息を止める

     呼吸を一時とめるのを「クンバカ」とヨーガでは云う。人は一日のうちで何度も無意識的に止息をしている。物を注意して見ようとするときは、誰でも自然に息を止めるのは、注意力が高まるからである。重いものを持ち上げるときも息を止めるのは、筋力が強まるからである。俳優は、ここ一番というときに息を止めて演技力をつくる。それを「つめる」と云っている。相撲もここぞというときに息を止めて、金剛力を出している。それを「おし」と言い馴らしている。

     この止息というものを訓練することによって健康度が高まる。吸息によって十分肺が膨らんだ時に止めると、肺胞七億が一斉に脹らんだままになる。畏縮しがちな肺胞が、これによって十分拡張することを覚えるので、肺活量が増し、酸素の吸収力が上がってくる。
     特に、高血圧、心臓、癌、神経痛といった疾患は、決まって酸素欠乏症といえるので、止息の訓練によって肺活量を高めると、必ず好転するものである。
     酸素が乏しくなってくると、からだよりも先に脳がやられる。大脳がやられて思考力が鈍ってくると、間脳以下の自律神経が侵されて血循が止まる。これが難病といわれるものの素因である。脳はからだと比較してはるかに小さいが、恐ろしい酸素消費者である。酸素は脳の食物であるが、同量の筋肉の十倍も要求してくる。

     止息は酸素の吸収力を高めるというのは肉体に関してではあるが、精神力発揚のためにも偉大な貢献をしている。脳に酸素が満たされると、注意力が高まるので今までわからなかったことが忽然とわかるようになってくる。注意力は決断力をつくり、意志力は忍耐力をつくる。いわば実行力の人をつくる、とヨーガで教える。

     重いものを持ち上げようとして、ギックリ腰になったというが、重いからではなく、止息が足らなかったのである。腰を十分に後方に引き、腹に力をこめ、相撲の「おし」の要領で持ち上げることである。

    日下和夫