カテゴリー: 日下和夫

  • 神経症21

    昨日のつづき

     子どもは生まれて間もない歳月のうちに、他に方法がないことから自分自身を締めだしてしまう。声が大きく口数の多い子どもは、息子や娘が礼儀正しくおとなしい子であって欲しいと願っている抑圧された両親に、そう長い間、大目に見てもらえるとは思えない。親たちは子どもがそうした振る舞いをしなくなるまで、暴力やせっかんをするであろう。そこで子どもは、自分の一部に対して死刑を宣言しなければならない。その子は自分ではなく、両親にふさわしい生き方をしなければならない。同じ種類の行動は、両親が子どものためにあまりにも多くのことをしてやるために、子どもが自分のために何の努力もしないですむ場合にも生じる。その子どもは、いわゆる両親の親切に窒息しているのである。

     もしも非現実の装いが効果を発揮できなかったときや、両親から人間的な反応を引き出せない場合には、子どもはもっと絶望的な防衛手段をとらなくてはならない羽目に追い込まれる。子どもは両親の機嫌を損ねないように、あるいは暖かく親切にしてもらうために、自分自身にまつわるすべてを締め出すことだろう。子どもは、まるでコンピュータのように硬直した、形通りの話し方をすることになる。そうした子どもの考え方は、小さく凝り固まった幅の狭いものとなり、目を細めうかがうような目つきをするようになる。要するにそうした子どもは、自分の両親を人間らしい人間にするために、自分自身の人間性を殺してしまったのである。そんな子は両親のために、ついには自分自身を裏返しにしてしまう。男の子が女の子になってしまう現象がそれだ。

     操体のようにインテグラルな反応だとする見方は重要である。愛の要求は、考え方を切り替えれば変えうるような、ただ単に大脳だけに絡んでいるものではない。愛の要求はからだの全組織に連動し、いきわたっているもので、当然に肉体と精神の両方を歪めることになる。その歪みが心の防衛である。

     緊張を押さえきれないと、その結果として症候が現われる。子どもはマスターベーションをし、親指を吸い、爪を噛み、オネショをしたりする。これらはより強力な解放を求める手段なのである。ところがあまりにもしばしば見受けられることだが、両親は子どものためを思って、緊張のはけ口であるこれらのことをやめさせようとして、問題をいっそうこじらせ、もっとほかの手段を子どもに探すことを強制する結果を招いている。ある患者は、自分の胃の調子が悪いと両親が信じていたので、自分は絶えずおならをしていたと訴えた。「おならは不随意なものだと両親は考えていたので、それだけは受け入れてくれたのです」と患者は語ってくれた。

     小さな子どもは、問題を抱えているのは両親の方であることを理解できない。両親の問題は自分が行なうこととは関係なく存在していることを、子どもは知らない。両親のいさかいを止めて、両親らを幸せにしてあげることや自由にしてやることが、子どもの役目ではないことが子どもらには分からない。子どもは生きていくために、自分にできることをしているのである。

     生まれて間もないときから馬鹿にされつづけてくると、子どもは自分に何か欠点があるのだと考えざるを得ない。子どもは気に入ってもらおうとあらゆる方法を試みるが、子どもが行わなければならないことは、悲劇的なことに、両親が自分たち自ら自由になり幸福になるすべを知らないがゆえに、漫然としている。両親が自分の気持ちを引き立ててくれないので、子どもは自分自身に頼らざるを得ない。子どもは目に入るものを手当たり次第に食べ、誰も見ていないときには、親指をなめ、マスターベーションをし、やがては誰ひとりとして慰めてくれない苦しみを和らげるために自分で薬を打つようになる。大人になったときには最早、ただたんに神経症にかかっているだけではない、もう立派な神経症そのものになっている。

    明日からの担当は香実行委員です、爽やかなそよ風をお贈りします。

  • 神経症20

    昨日のつづき

     心の防衛機制に関する概念は、フロイト学派をはじめとする多くの心理学理論のなかに見出すことが出来る。しかし、操体のような原始感覚的な理論からいくと、あらゆる防衛は神経症的なものであり、健全な防衛などというものはまったく存在しないと定義できる。フロイトの健全な防衛という考え方は、基本的な不安は保持されるべきものであり、すべての人間において遺伝的に備わっているものである、とする仮定に基づいているのだが・・・・・・。

     原始感覚的な理論では、正常な人間に基本的な不安が宿っているとする考え方を認めるわけにはいかない。なぜなら防衛というのは精神を生物学的な現象であって、単なる精神的な行動ではないとしているからであり、収縮した血管と強迫性のおしゃべりは、防衛であるという点では変わりないからだ。

     原始感覚的な考え方からすると、防衛とは、原始的な感情を自動的に阻止しようとする一連の行動である。腹部が自動的に引き締まるとき、ある感情を呑みこむとき、追い詰められて顔が痙攣するとき、肉体というのは確実に感情を押し殺しているのである。

     心の防衛には不随意防衛と随意防衛に分けることが出来る。不随意の防衛は原始的な苦痛に対する精神と肉体の自動的な反応で、幻想を描くことやオネショ、それに反抗やまばたき、そして筋肉の緊張などを列挙することが出来る。これらは日常的に、まっさきに使われる防衛のやり方で、子どもたちに生得の防衛でもある。たとえば呼吸器官の収縮は、子どもの声の調子と音質に影響を及ぼし、呼吸器官の収縮の過程とその結果生ずる押し殺された声は、人格組織に織り込まれ、その一部となってしまう。こうして人格は防衛のまわりに築きあげられ、防衛の不可分な一部となることだろう。

     また不随意の防衛には緊張を高めるものと緊張を解放するタイプがある。胃の筋肉の収縮は、感情を鎮めるが、その結果、緊張が生ずる。意識的な防衛が弱まっている夜中に、床のなかでおしっこを漏らすのは、緊張の不随意の解放である。他に不随意の解放としては、歯ぎしりや溜息、それに悪夢などがある。

     一方、随意の防衛は、不随意の解放のメカニズムがその任務を果たし得ないときに限って働く。それは喫煙や飲酒や薬物の使用、過食などが、随意防衛の例である。それらは強い意志の力によって、やめることができる可能性をもっている。しかし随意の防衛は、過剰な緊張を解放するために必要とされるものであって、たとえば交通整理の警察官に荒い言葉を投げつけられただけで、神経症にかかっている人間の外面的な人当たりの良さは破壊され、酒を飲む必要が生じてくる。このように随意と不随意の防衛形態の目的は、現実である本物の感情を排除することにある。

     こういった心の防衛は昼も夜も休みなく機能しており、たとえば女々しい男が眠っている間に突然、男っぽくなったりすることはない。その男の女々しさは、起きているときも眠っている間も繰り返されている精神物理的な出来事である。それは有機生命のなかに深々と織り込まれているのであり、要するに、当の本人が自分の自然な傾向を感じとれないために、不自然な行動が規範になっているということだ。自分本来の自己を取りもどすまで、そうした人間は、現に行なっている歩き方や話し方、あるいは行動しかとれないのである。

     大体において両親は子どもに、そのような防衛を要求している。そして、子どもたちはひっきりなしにしゃべり、生意気な言葉を使う子どももいれば、黙りこくっている子どももいる。どちらの子どもも、両親の要求を感じとり、それに応えているのであって、どちらの子どもも、自分自身の一部を締めだしているということだ。

     このように心の防衛は有機生命を保存するための適応メカニズムとしてすばやく行動に移る。その意味で神経症は、我々全員が遺伝的に備なえている適応能力の一部とみなすことが出来る。神経症は適応能力であるから、神経症をショックで与える装置などで吹き飛ばしてしまうわけにはいかない。防衛は、人間がまったくそれなしで振る舞えるようになるまで、慌てずに順序立てて一時に少しずつ剥ぎとっていかなければならないものである。

    明日につづく

  • 神経症20

    昨日のつづき

     心の防衛機制に関する概念は、フロイト学派をはじめとする多くの心理学理論のなかに見出すことが出来る。しかし、操体のような原始感覚的な理論からいくと、あらゆる防衛は神経症的なものであり、健全な防衛などというものはまったく存在しないと定義できる。フロイトの健全な防衛という考え方は、基本的な不安は保持されるべきものであり、すべての人間において遺伝的に備わっているものである、とする仮定に基づいているのだが・・・・・・。

     原始感覚的な理論では、正常な人間に基本的な不安が宿っているとする考え方を認めるわけにはいかない。なぜなら防衛というのは精神を生物学的な現象であって、単なる精神的な行動ではないとしているからであり、収縮した血管と強迫性のおしゃべりは、防衛であるという点では変わりないからだ。

     原始感覚的な考え方からすると、防衛とは、原始的な感情を自動的に阻止しようとする一連の行動である。腹部が自動的に引き締まるとき、ある感情を呑みこむとき、追い詰められて顔が痙攣するとき、肉体というのは確実に感情を押し殺しているのである。

     心の防衛には不随意防衛と随意防衛に分けることが出来る。不随意の防衛は原始的な苦痛に対する精神と肉体の自動的な反応で、幻想を描くことやオネショ、それに反抗やまばたき、そして筋肉の緊張などを列挙することが出来る。これらは日常的に、まっさきに使われる防衛のやり方で、子どもたちに生得の防衛でもある。たとえば呼吸器官の収縮は、子どもの声の調子と音質に影響を及ぼし、呼吸器官の収縮の過程とその結果生ずる押し殺された声は、人格組織に織り込まれ、その一部となってしまう。こうして人格は防衛のまわりに築きあげられ、防衛の不可分な一部となることだろう。

     また不随意の防衛には緊張を高めるものと緊張を解放するタイプがある。胃の筋肉の収縮は、感情を鎮めるが、その結果、緊張が生ずる。意識的な防衛が弱まっている夜中に、床のなかでおしっこを漏らすのは、緊張の不随意の解放である。他に不随意の解放としては、歯ぎしりや溜息、それに悪夢などがある。

     一方、随意の防衛は、不随意の解放のメカニズムがその任務を果たし得ないときに限って働く。それは喫煙や飲酒や薬物の使用、過食などが、随意防衛の例である。それらは強い意志の力によって、やめることができる可能性をもっている。しかし随意の防衛は、過剰な緊張を解放するために必要とされるものであって、たとえば交通整理の警察官に荒い言葉を投げつけられただけで、神経症にかかっている人間の外面的な人当たりの良さは破壊され、酒を飲む必要が生じてくる。このように随意と不随意の防衛形態の目的は、現実である本物の感情を排除することにある。

     こういった心の防衛は昼も夜も休みなく機能しており、たとえば女々しい男が眠っている間に突然、男っぽくなったりすることはない。その男の女々しさは、起きているときも眠っている間も繰り返されている精神物理的な出来事である。それは有機生命のなかに深々と織り込まれているのであり、要するに、当の本人が自分の自然な傾向を感じとれないために、不自然な行動が規範になっているということだ。自分本来の自己を取りもどすまで、そうした人間は、現に行なっている歩き方や話し方、あるいは行動しかとれないのである。

     大体において両親は子どもに、そのような防衛を要求している。そして、子どもたちはひっきりなしにしゃべり、生意気な言葉を使う子どももいれば、黙りこくっている子どももいる。どちらの子どもも、両親の要求を感じとり、それに応えているのであって、どちらの子どもも、自分自身の一部を締めだしているということだ。

     このように心の防衛は有機生命を保存するための適応メカニズムとしてすばやく行動に移る。その意味で神経症は、我々全員が遺伝的に備なえている適応能力の一部とみなすことが出来る。神経症は適応能力であるから、神経症をショックで与える装置などで吹き飛ばしてしまうわけにはいかない。防衛は、人間がまったくそれなしで振る舞えるようになるまで、慌てずに順序立てて一時に少しずつ剥ぎとっていかなければならないものである。

    明日につづく

  • 神経症19

    昨日のつづき

     緊張は肉体のあらゆる部位で感じとられるが、それが集中する特別な器官が存在している。それはまぎれもなく「胃」である。腹部全体におよぶ胃の筋肉の強い収縮は、神経症にかかっている人間の内面的な痛み止めのようにさえ思える。だから、従来からある精神療法の多くは、患者の腹のまわりの緊張をやわらげることを中心にしているが、それらがまさにそのことを証明してくれている。

     神経症患者のほぼ全員が、胃に緊張が集中していると訴えているのは決して偶然なことではない。「言いたいことを、飲み込まなければならなかった」、「それについて我慢できない!」、「あなたの根性が憎い!」、「腹を割って話し合おうじゃないか」といった物言いは、その重要さを証明している。

     神経症患者は精神療法家が緩めてやるまで、自分の胃がどれくらい緊張しているか気づいていない場合が、きわめて多い。サイコ・セラピーなどを施している間に、緊張が胃を離れ、上へ昇っていき、胸がしめつけられ、次にのどに圧迫を感じ、歯ぎしりが起こり、顎が緩む。そして肝心なことを口にすると、もうそんなことはなくなる、と神経症患者たちは口々に訴える。

     「苦痛が胃から口へ昇っていくのを目撃できる」というのに抵抗を感じるかも知れない。しかし臨床の現場では苦痛はカラダのなかをのぼってゆき、叫び声となって口から出てゆく。そのとき患者は、はじめて自分の胃にしこりを感じなくなったと訴える。それまでは緊張のために胃が明らかに小さく固まっていたので、食べ物が完全に消化されることはなかったのである。

     しかし緊張のために、食べ物をとれなくなるとは限らない。その反対のことが起こる場合もある。食べ物を詰め込むことによって、自分の感情を押し戻すのである。緊張には降下と上昇の両面の現象がある。緊張の上昇は防衛機制が弱まり感情が意識に近づくときに起こる。不安という緊張の上昇は、食べ物をとることを不可能にする場合が多い。一方、緊張の降下は、神経症患者の感情を食べ物によって食い止め、緊張が不安に転じないようにすることを可能にする。一般的に言って、極度に体重オーバーな人は、深く隠された苦痛の持ち主であると言える。そのふくよかな脂肪の層は、緊張の降下に対する絶縁体の役割を果たしていることになる。操体で言う「アンバランスのバランス」とはこのことだ。

    明日につづく

  • 神経症19

    昨日のつづき

     緊張は肉体のあらゆる部位で感じとられるが、それが集中する特別な器官が存在している。それはまぎれもなく「胃」である。腹部全体におよぶ胃の筋肉の強い収縮は、神経症にかかっている人間の内面的な痛み止めのようにさえ思える。だから、従来からある精神療法の多くは、患者の腹のまわりの緊張をやわらげることを中心にしているが、それらがまさにそのことを証明してくれている。

     神経症患者のほぼ全員が、胃に緊張が集中していると訴えているのは決して偶然なことではない。「言いたいことを、飲み込まなければならなかった」、「それについて我慢できない!」、「あなたの根性が憎い!」、「腹を割って話し合おうじゃないか」といった物言いは、その重要さを証明している。

     神経症患者は精神療法家が緩めてやるまで、自分の胃がどれくらい緊張しているか気づいていない場合が、きわめて多い。サイコ・セラピーなどを施している間に、緊張が胃を離れ、上へ昇っていき、胸がしめつけられ、次にのどに圧迫を感じ、歯ぎしりが起こり、顎が緩む。そして肝心なことを口にすると、もうそんなことはなくなる、と神経症患者たちは口々に訴える。

     「苦痛が胃から口へ昇っていくのを目撃できる」というのに抵抗を感じるかも知れない。しかし臨床の現場では苦痛はカラダのなかをのぼってゆき、叫び声となって口から出てゆく。そのとき患者は、はじめて自分の胃にしこりを感じなくなったと訴える。それまでは緊張のために胃が明らかに小さく固まっていたので、食べ物が完全に消化されることはなかったのである。

     しかし緊張のために、食べ物をとれなくなるとは限らない。その反対のことが起こる場合もある。食べ物を詰め込むことによって、自分の感情を押し戻すのである。緊張には降下と上昇の両面の現象がある。緊張の上昇は防衛機制が弱まり感情が意識に近づくときに起こる。不安という緊張の上昇は、食べ物をとることを不可能にする場合が多い。一方、緊張の降下は、神経症患者の感情を食べ物によって食い止め、緊張が不安に転じないようにすることを可能にする。一般的に言って、極度に体重オーバーな人は、深く隠された苦痛の持ち主であると言える。そのふくよかな脂肪の層は、緊張の降下に対する絶縁体の役割を果たしていることになる。操体で言う「アンバランスのバランス」とはこのことだ。

    明日につづく

  • 神経症18

    昨日のつづき

     現実にある恐れとは、生命が脅かされているという感情であり、それは緊張も、感覚や精神の鈍化も伴わずに起こる。そういった本物の恐れを抱いた有機生命は、恐れを直感する準備が完全にできているということだ。原始的な恐れは、それが破滅的な恐怖であるがゆえに、鈍化をもたらすことになる。原始的な恐れは、両親らが自分を愛していないという原始的な苦痛が消え去らないがためにいつまでも残っている。すなわち古い恐怖が現在にまでつながっており、その恐れを不安に変えているのである。不安というのは結合されていない古い恐れである。なぜなら、結合というのは破滅的な苦痛を意味するからだ。たとえば山のなかで自分に向かって突進してくるイノシシに対する反応が恐れであり、イノシシが自分の方に向かってくるかも知れないという感情が不安である。

     幼児や小さな子どもは、状況をじかに感じとり、自分の感情にそくして行動する。しかし、時が経つにつれ、恐れを表すことすら神経症的な両親に批判されるかもしれない。たとえばこう言われる、「さあ、泣くのはよしなさい! 何も恐ろしいことなどないじゃないか」、それで恐れは否定され、原始的なストックに蓄積され、緊張の度合いが高まってゆくことになる。この否定された恐れは、自分の感情そのままに、しごく当然な反応をすることは許されないということを意味する。そして自分の感情をはっきりととらえ、緊張を解き放つために、恐れの対象物を考案しなければならなくなる。

     自分が怖気づいていることを神経症の人間に理解させるには、原始的な恐れを行為で発散させるよりも、感じとるよう強いる方がよっぽど役に立つ。神経症の人間をその恐れのなかに、さらにはその彼方へ連れ込むときに、我々は原始的な苦痛のなかへその人間を移動させているのである。

     幼児がお腹を空かして泣いてもそのまわりにお乳を与える人が一人もいないと、その状況で泣くことは不適切な反応となり、泣いたところでつらい、不愉快な状況を変えるのに何の役にもたたないので、やがてまったく泣かないようになる。生まれてから間もないうちに、絶えず欲求が充たされない苦痛をなめさせられた人は、幼児時代に戻って思い切り泣き叫ぶまで、反応が閉ざされる場合が多いことを、リバーシングなどの精神療法で目にすることが出来る。

     原始的な苦痛の影響は、それが感知という全面的な経験がされるまで続くと考えられる。要するに原始的な苦痛を有機生命から追い出す条件を調えることができないのである。したがって人間は、苦痛の表面的な表出である喫煙や飲酒、それに薬物の常用にふけったり、その報いを受けたりするが、苦痛そのものを変えようとはしないのである。このように苦痛は、完全に感知されるまで、神経症的な何らかのはけ口を求め続ける。

     神経症にかかっているものは、緊張を和らげるために、非現実的で象徴的な行動をとる。したがって小さな子どもの時代に持ってしまった自分は愛されていないという気持ちにまったく気づかないまま、愛されていると感じとるために、セックス行為に駆り立てられがちになる。性にとりつかれたフロイト理論の根拠はまさにここにある。

    明日につづく

  • 神経症18

    昨日のつづき

     現実にある恐れとは、生命が脅かされているという感情であり、それは緊張も、感覚や精神の鈍化も伴わずに起こる。そういった本物の恐れを抱いた有機生命は、恐れを直感する準備が完全にできているということだ。原始的な恐れは、それが破滅的な恐怖であるがゆえに、鈍化をもたらすことになる。原始的な恐れは、両親らが自分を愛していないという原始的な苦痛が消え去らないがためにいつまでも残っている。すなわち古い恐怖が現在にまでつながっており、その恐れを不安に変えているのである。不安というのは結合されていない古い恐れである。なぜなら、結合というのは破滅的な苦痛を意味するからだ。たとえば山のなかで自分に向かって突進してくるイノシシに対する反応が恐れであり、イノシシが自分の方に向かってくるかも知れないという感情が不安である。

     幼児や小さな子どもは、状況をじかに感じとり、自分の感情にそくして行動する。しかし、時が経つにつれ、恐れを表すことすら神経症的な両親に批判されるかもしれない。たとえばこう言われる、「さあ、泣くのはよしなさい! 何も恐ろしいことなどないじゃないか」、それで恐れは否定され、原始的なストックに蓄積され、緊張の度合いが高まってゆくことになる。この否定された恐れは、自分の感情そのままに、しごく当然な反応をすることは許されないということを意味する。そして自分の感情をはっきりととらえ、緊張を解き放つために、恐れの対象物を考案しなければならなくなる。

     自分が怖気づいていることを神経症の人間に理解させるには、原始的な恐れを行為で発散させるよりも、感じとるよう強いる方がよっぽど役に立つ。神経症の人間をその恐れのなかに、さらにはその彼方へ連れ込むときに、我々は原始的な苦痛のなかへその人間を移動させているのである。

     幼児がお腹を空かして泣いてもそのまわりにお乳を与える人が一人もいないと、その状況で泣くことは不適切な反応となり、泣いたところでつらい、不愉快な状況を変えるのに何の役にもたたないので、やがてまったく泣かないようになる。生まれてから間もないうちに、絶えず欲求が充たされない苦痛をなめさせられた人は、幼児時代に戻って思い切り泣き叫ぶまで、反応が閉ざされる場合が多いことを、リバーシングなどの精神療法で目にすることが出来る。

     原始的な苦痛の影響は、それが感知という全面的な経験がされるまで続くと考えられる。要するに原始的な苦痛を有機生命から追い出す条件を調えることができないのである。したがって人間は、苦痛の表面的な表出である喫煙や飲酒、それに薬物の常用にふけったり、その報いを受けたりするが、苦痛そのものを変えようとはしないのである。このように苦痛は、完全に感知されるまで、神経症的な何らかのはけ口を求め続ける。

     神経症にかかっているものは、緊張を和らげるために、非現実的で象徴的な行動をとる。したがって小さな子どもの時代に持ってしまった自分は愛されていないという気持ちにまったく気づかないまま、愛されていると感じとるために、セックス行為に駆り立てられがちになる。性にとりつかれたフロイト理論の根拠はまさにここにある。

    明日につづく

  • 神経症17

    昨日のつづき

     神経症の緊張をスポーツや運動によって、機械的に払いのけることは一応、可能である。現実に神経エネルギーを拠りどころにジョギングなどをしている人の大半は、緊張を振り切ろうとしている。しかし、原始的な感情を振り切る方法など実際には皆無であり、緊張は永遠に続くようにしか思えない。緊張を振り払おうと懸命な人たちを見ていると、まるで首を切られてなお動いている鶏のように見えてしまう。ある意味で神経症にかかっている人は、肉体で行なっていることとそうした行動をしているわけを結合できるようになるまでは、頭を切り落とされた状態にあるとしか言いようがない。

     緊張に対する肉体反応の拡がりに応じて、それを測る方法はいくらでもある。そのひとつに筋肉の収縮を尺度に緊張を定義する方法がある。それによると緊張は肉体にある種の逃走運動を準備させるので、その結果、筋肉繊維が短くなる。その筋肉繊維の変化は電圧、すなわち電気的な圧力の上昇をともない、それは筋電図として電子装置で測ることができる。しかしこの筋電図は筋肉繊維のきわめて小さな変化までは測定できない。だがこの方法の言わんとしていることは、緊張すると肉体の全筋肉も緊張するので、寝ても覚めても自身はくたびれているという点にある。これは神経症にかかっている人が、眠っているときより目覚めたときの方がさらに疲れている場合がままある理由を、解明する手がかりとなっている。

     緊張というのは全身的症状ではあるが、ことさら弱い部位に集中しがちである。ふつう人間の器官のなかには、ストレスを受けると緊張度が特に高まりを見せる特定の領域があることがつきとめられている。たとえば首の左側が慢性的に痛む人の場合だと、ストレスがかかっている状況では、右側より左側にずっと大きな緊張が生じている。

     緊張は感情が否定された結果もたらされる内面的な圧力であるが、その経験の仕方は各人によってもそれぞれ異なってくる。気分がすぐれない人もいれば、胃にしこりを感ずる人もいるし、骨格筋の緊張、胸のつかえ、歯ぎしり、嫌悪感、今にも悪いことが起こりそうな不安感、吐き気、咽喉のしこり、あるいはただ不安に悩まされる人もいる。緊張のせいで、口は動きつづけ、あごの筋肉は締めつけられ、瞼はふるえ、胸はドキドキし、心は落ち着かず、足は小刻みに動き、眼は飛び出さんばかりに大きく見開かれている。このように緊張は耐え難いものなので、さまざまな形をとって外に現われる。

     実に多くの人が緊張を経験するので、我々はそれを人間につきものの一つだと考えるようになった。しかし、真実はそうではない、だが不幸なことに、多くの心理学説が、緊張の避けがたさを自分たちの仮説の根拠にしているのは、とても残念なことだと思う。その一つの学説を打ち立てたジグムント・フロイトは、我々が健康であるためには、基本的な不安の周囲に防護網を張り巡らさなければならないと断定しているが、決してそんなことはない、なぜなら基本的な不安というのは、非現実の機能のひとつにほかならないからだ。

     神経症は、自分が緊張していることに自ら気づくことすらないように、緊張を拘束する。だが緊張していても不安であるとは限らない。恐れと不安の違いは状況に左右されるもので、生理学上の問題ではないからだ。恐れと不安の生理学的なプロセスは同じものだと思えるが、恐れの場合、人間は現在の状況に反応しているのに対し、不安にかられている人間は、過去に対してそれがあたかも現実であるかのように反応している状況だと言える。精神療法を受けに来るのはふつう、緊張が不安に転じたこの時点においてである。
    明日につづく

  • 神経症17

    昨日のつづき

     神経症の緊張をスポーツや運動によって、機械的に払いのけることは一応、可能である。現実に神経エネルギーを拠りどころにジョギングなどをしている人の大半は、緊張を振り切ろうとしている。しかし、原始的な感情を振り切る方法など実際には皆無であり、緊張は永遠に続くようにしか思えない。緊張を振り払おうと懸命な人たちを見ていると、まるで首を切られてなお動いている鶏のように見えてしまう。ある意味で神経症にかかっている人は、肉体で行なっていることとそうした行動をしているわけを結合できるようになるまでは、頭を切り落とされた状態にあるとしか言いようがない。

     緊張に対する肉体反応の拡がりに応じて、それを測る方法はいくらでもある。そのひとつに筋肉の収縮を尺度に緊張を定義する方法がある。それによると緊張は肉体にある種の逃走運動を準備させるので、その結果、筋肉繊維が短くなる。その筋肉繊維の変化は電圧、すなわち電気的な圧力の上昇をともない、それは筋電図として電子装置で測ることができる。しかしこの筋電図は筋肉繊維のきわめて小さな変化までは測定できない。だがこの方法の言わんとしていることは、緊張すると肉体の全筋肉も緊張するので、寝ても覚めても自身はくたびれているという点にある。これは神経症にかかっている人が、眠っているときより目覚めたときの方がさらに疲れている場合がままある理由を、解明する手がかりとなっている。

     緊張というのは全身的症状ではあるが、ことさら弱い部位に集中しがちである。ふつう人間の器官のなかには、ストレスを受けると緊張度が特に高まりを見せる特定の領域があることがつきとめられている。たとえば首の左側が慢性的に痛む人の場合だと、ストレスがかかっている状況では、右側より左側にずっと大きな緊張が生じている。

     緊張は感情が否定された結果もたらされる内面的な圧力であるが、その経験の仕方は各人によってもそれぞれ異なってくる。気分がすぐれない人もいれば、胃にしこりを感ずる人もいるし、骨格筋の緊張、胸のつかえ、歯ぎしり、嫌悪感、今にも悪いことが起こりそうな不安感、吐き気、咽喉のしこり、あるいはただ不安に悩まされる人もいる。緊張のせいで、口は動きつづけ、あごの筋肉は締めつけられ、瞼はふるえ、胸はドキドキし、心は落ち着かず、足は小刻みに動き、眼は飛び出さんばかりに大きく見開かれている。このように緊張は耐え難いものなので、さまざまな形をとって外に現われる。

     実に多くの人が緊張を経験するので、我々はそれを人間につきものの一つだと考えるようになった。しかし、真実はそうではない、だが不幸なことに、多くの心理学説が、緊張の避けがたさを自分たちの仮説の根拠にしているのは、とても残念なことだと思う。その一つの学説を打ち立てたジグムント・フロイトは、我々が健康であるためには、基本的な不安の周囲に防護網を張り巡らさなければならないと断定しているが、決してそんなことはない、なぜなら基本的な不安というのは、非現実の機能のひとつにほかならないからだ。

     神経症は、自分が緊張していることに自ら気づくことすらないように、緊張を拘束する。だが緊張していても不安であるとは限らない。恐れと不安の違いは状況に左右されるもので、生理学上の問題ではないからだ。恐れと不安の生理学的なプロセスは同じものだと思えるが、恐れの場合、人間は現在の状況に反応しているのに対し、不安にかられている人間は、過去に対してそれがあたかも現実であるかのように反応している状況だと言える。精神療法を受けに来るのはふつう、緊張が不安に転じたこの時点においてである。
    明日につづく

  • 神経症16

    昨日のつづき

     「人格」というのは保護手段として生長していき、その人格の機能は子どもの要求を充たすことにある。要するに子どもは自分がいずれは愛してもらえるように、両親の望みに適う人間になろうと努力するのである。しかし両親好みの人間になろうとするとき、必ず緊張が生ずるリスクを負う羽目になる。しかしありのままの自分自身であるときには、その緊張はいとも簡単に取りのぞかれる。

     小さな男の子が父親に抱いてもらいたいと望んでいるのに、父親ときたら、「男というものは抱き上げてキスしたりするものではない」と考えているとしたら、その男の子は、父親のために男らしくなろうと必死に努力し、自分の要求を否定して、荒々しく振る舞うことになってしまうことだろう。

     しかし、この男らしいという荒々しい人格は、緊張を生むとともにその緊張を拘束してしまう。そしてこの少年はやがて、一種の精神的な潰瘍を患い、将来において精神療法の世話になることが想像できる。この少年が荒々しくなったのは、何よりも父親に愛してもらいたいためであったのだが、その動機はとうの昔に忘れ去られてしまっている。こういう男らしさの象徴とでも言いそうな荒々しいことをやめさせることは、愛と承認を失うことに、すなわち、原始的な絶望に直面しろと、その男の子に迫っているようなものだ。

     このように過去に否定された意識に上らない感情に基づいて現に行なっている行動は、すべて象徴的な行為である。要するに、その人間は、否定された古めかしい要求を充たすために、現在あることをやり通そうとしているのである。こうした無意識の要求に基づいて現に行なっているすべての行動を、象徴的な無意識の行動と呼んでいる。その意味で人格とは、神経症患者の象徴的な無意識の行為であり、神経症患者の自己保存の方法、それに、表情や喋りかたや歩き方に至るまで、古くて葬られたさまざまな感情に対する反応にほかならない。

     こうした慢性的で、神経症的な緊張を止めることができるものは、ただひとつ、結合だけである。他の行為は緊張を一時的にごまかすことはできるが、決して解決するものではない。生まれつきの緊張や基本的な緊張ないしは基本的な不安などというものは現実には存在していない。それらは幼かった頃の神経症的な状態から派生したものにすぎない。神経症とは、当人が意識しているかどうかにかかわりなく、緊張した状態のことうをいうのである。

     神経症とは防衛の同義語ではなく、人間のさまざまな防衛方法全体を意味する広義でいう言葉なのである。したがって、神経症のさまざまなタイプは、当人の独特な防衛機制を示しているにすぎない。神経症を患っているものは、日常生活のなかであらゆる種類の防御手段を用いるので、典型的なタイプなどというものもない。しかし、神経症の人間はあるひとつのスタイルをとりがちであり、たとえば、異常に知的なものにこだわる傾向がある。便宜上、これもある種の神経症と名づけることはできる。

     どんな神経症も例外なく、現実の感情を緊張に追いやっている非現実の体系の存在を証明するものであり、人間の感情と要求のほとんどは、似たりよったりのものである。複雑なのは、それらに対する我々の対処の仕方である。しかし、その下にひそんでいるものに、もし達することが出来るならば、その複雑さにかかわり合う必要はまったくない。

     原始的な苦痛が存在しているかぎり、神経症にかかっているものはそれらに対して構えざるを得ない。神経症の人格は、自分自身を守るために自らが見つけ出した、多少なりとも確かな方法である。原始的な苦痛を取り除くことは、とりもなおさず神経症の人格を取り除くことになる。つまり、最初の一連の原始的な感情が、神経科学的エネルギーであって、それがたえず肉体的な運動や内的圧力を強いる運動エネルギーや機械エネルギーに変化しているのである。

     操体でいう神経症患者の自力自療というのは、この変型したエネルギーを本来の状態へ戻し、内部的な力に強制されて行動することが二度とないようにするところにある。まず肉体レベルで自分の欲求が満たされたとき、快感がやってくる。そしてその快感に根ざした感情が喜びになる。逆に肉体の望みが満たされないときは、悲しみの感情が起こる。この喜びや悲しみの感情をつかさどっているのが、脳の前頭葉と言われているところだ。この部分は系統発生的にも新しい皮質で、高等動物ほど発達しており、快を味わうというように感情豊かに暮らすことは、前頭葉の進化により寄与するものと考えられる。

     神経症にかかっている実に多くの人たちが、不快感や怒りや恐怖といった動物的で情動的な反応があり、次にそれに根ざした感情から圧力を受けていると感じているために、興奮ないしは混乱しているのである。だから、じっと坐っていることが出来ず、いつも何かをせずにはおられない状態にある。それは緊張が、からだ全体に連動していることを証明している。感情を阻止され、要求が充たされないたびに、からだの全組織に影響をおよぼす内面的な圧力の度合いが強められることになっていく。

    明日につづく