カテゴリー: 日下和夫

  • テレポーテーションとネガティブ・エネルギー

      今日は、エゴイスティックなネガティブ・エネルギーとテレポーテーションについて話してみたい。 

     

     テレポーテーションというのは、実際に存在しているものだ。 それは我々がいつもやっていることである。 我々が 「動き」 と呼んでいる考えは、本当は幻想であり、実際にはひとつの位置から次の位置へとテレポートしていることになる。 

     

     テレポートは、ゆっくりとした連続性を作り出すために、非常に小さなジャンプを積み重ねている。 もちろん、途中を抜かして、東京の渋谷地点から福岡の博多地点まで飛ぶこともできる。 博多に着いたとき自分が持っている波動に、いまの自分の波動を合わせたとき、博多に現われることができる。 

     

     今、渋谷にいる時の自分の固有振動数に自分を強く一致させることにより、博多地点における自分の波動となることができる。 そのあとは、ただ、自分を行かせてあげればいいのである。 しかしながら、我々は、社会の中で自分のネガティブなエネルギーであるエゴにしがみつくということを長い間訓練してきた。 だから、ほんの一瞬でも 「今の自分」 から離れることができなくなってしまったのである。

     

     エゴというのは、物理次元の構造の中にしか存在できないものだ。 だから、そこから一時でも完全に退くということは、自分自身がまったく消滅させられると思い込んでしまう。 テレポートするためには、もしくは、自分を異なる場所に再生するためには、瞬間的に肉体を持たない状態になることが必要である。 だから、ネガティブなエゴの部分を無条件の愛をもって、安心させてあげる必要がある。 そうすれば、エゴを失う怖れがなくなる。

     

     場所を移動するとき、我々の観念では、一番抵抗の少ないところに行くようだ。 水や電気が一番抵抗の少ないところを流れるように、いま自分のもつ最も強い観念に従って移動するのである。 自分がある場所に行くためには、飛行機や新幹線のほか、たくさんの方法があるが、まったく努力なしに楽に行ける方法もある。 それらを除外しないでほしい。

     

     それは、博多地点のバイブレーションである固有振動を感じながら、同時に、時間と空間のない状態、それでいて中心はしっかりと定まっている状態にする。 自分の魂の目を、すでに博多の場所に置いて、そこから見始めるのである。 ときには、これを二か所同時に行なうこともできる。 つまり、二つの異なる地点で同時に歩いていたりすることもできるのである。 これは 「バイロケーション」 という、肉体を伴った幽体離脱であるといえるものだ。

  • 無意識とネガティブ・エネルギー

     我々におけるすべての成長や変化は 「自分は本当に誰なのかを、さらに思い出してゆくプロセス」 だと言える。 我々は無限の一面であり、もうすでに、本当は無限の存在なのである。 ところが、この物理次元にあまりにも意識の焦点を絞りすぎたために、全体の意識としての自分、無限な存在としての自分を忘れる才能を身につけてしまった。

     

     自分の意識を、いろいろな小さな部分に分けてしまって、特定のエゴの部分や性格の中に閉じこもったままにすることを覚えてしまったのである。 なかなかすごい概念を創り出したわけだ。 例えば我々は、本当はたった一つの意識でしかないのに 「表層意識」 と 「潜在意識」 というものを創り出した。 実際には、いわゆる 「無意識」 は存在しない。 

     

     だがしかし、いま見たくないものをしまっておく場所として、「無意識」 を創りだしてしまったのである。 その中にはポジティブなものも、ネガティブなものもある。 こういった無意識レベルを持つことの長所は、物事をひとつずつ体験できるという便利さである。 この物理次元は、本質的にひとつずつ、時間に沿ってものを見ていく次元であるが、統合された意識では、すべての次元の現実で起きていることを、一度に見ることができる。

     

     無意識レベルを持つことのネガティブな側面は、自分で見たくないものや怖いものがあるとき、それを無意識の中にしまい込んで知らん顔ができることだ。 そこにない振りをしても、実際になくなったわけではない。 しまい込んだものは時々出てきて、我々の肩を叩いては 「ほら、私はここにいるのだよ」 といって知らせようとする。

     

     しかし、いつかは対処しなければならない。 だから 「忘れたものを思い出す」 という概念は、別の言い方をすれば 「統合するプロセス」 であると言ってもよい。 日常生活の中の性格を形作っている分離された部分を、再び、ひとつに統合するプロセスであると言える。 

     

     また、時間と呼ばれているものも、我々の幻想であり、我々が創り出したものも、単なる道具でしかない。 我々なくして、時間は存在し得ないものだ。 我々が過去世、来世と呼んでいるものもすべて 「いま、ここ」 に同時に存在している。

     

     はっきりしているのは、いま、この人生が、我々が焦点を合わせている人生なのである。 他のすべての人生からも、常に情報が現世に漏れてきている。 ただ、普段はあまりこのことに気づいていないだけである。 なぜなら、この人生の中にうまく当てはまるような形で入ってくるからだ。 だから、他の自分の人生から、テレパシー的に直接情報が入ってきたとき、それを、当たり前のコミュニケーションととらえず、想像とか空想、インスピレーションと呼んだりしているのだ。

     

     同時に他の人生にも必要な情報が、この人生から様々な方法で伝達される。 だから、前世や過去世などにつながりを持つとき、 「私は、この人生だけの存在ではない。 いま自分が持っている性格だけがすべてではなく、それを超えた存在なのだ」 と気づくことができる。

  • 無意識とネガティブ・エネルギー

     我々におけるすべての成長や変化は 「自分は本当に誰なのかを、さらに思い出してゆくプロセス」 だと言える。 我々は無限の一面であり、もうすでに、本当は無限の存在なのである。 ところが、この物理次元にあまりにも意識の焦点を絞りすぎたために、全体の意識としての自分、無限な存在としての自分を忘れる才能を身につけてしまった。

     

     自分の意識を、いろいろな小さな部分に分けてしまって、特定のエゴの部分や性格の中に閉じこもったままにすることを覚えてしまったのである。 なかなかすごい概念を創り出したわけだ。 例えば我々は、本当はたった一つの意識でしかないのに 「表層意識」 と 「潜在意識」 というものを創り出した。 実際には、いわゆる 「無意識」 は存在しない。 

     

     だがしかし、いま見たくないものをしまっておく場所として、「無意識」 を創りだしてしまったのである。 その中にはポジティブなものも、ネガティブなものもある。 こういった無意識レベルを持つことの長所は、物事をひとつずつ体験できるという便利さである。 この物理次元は、本質的にひとつずつ、時間に沿ってものを見ていく次元であるが、統合された意識では、すべての次元の現実で起きていることを、一度に見ることができる。

     

     無意識レベルを持つことのネガティブな側面は、自分で見たくないものや怖いものがあるとき、それを無意識の中にしまい込んで知らん顔ができることだ。 そこにない振りをしても、実際になくなったわけではない。 しまい込んだものは時々出てきて、我々の肩を叩いては 「ほら、私はここにいるのだよ」 といって知らせようとする。

     

     しかし、いつかは対処しなければならない。 だから 「忘れたものを思い出す」 という概念は、別の言い方をすれば 「統合するプロセス」 であると言ってもよい。 日常生活の中の性格を形作っている分離された部分を、再び、ひとつに統合するプロセスであると言える。 

     

     また、時間と呼ばれているものも、我々の幻想であり、我々が創り出したものも、単なる道具でしかない。 我々なくして、時間は存在し得ないものだ。 我々が過去世、来世と呼んでいるものもすべて 「いま、ここ」 に同時に存在している。

     

     はっきりしているのは、いま、この人生が、我々が焦点を合わせている人生なのである。 他のすべての人生からも、常に情報が現世に漏れてきている。 ただ、普段はあまりこのことに気づいていないだけである。 なぜなら、この人生の中にうまく当てはまるような形で入ってくるからだ。 だから、他の自分の人生から、テレパシー的に直接情報が入ってきたとき、それを、当たり前のコミュニケーションととらえず、想像とか空想、インスピレーションと呼んだりしているのだ。

     

     同時に他の人生にも必要な情報が、この人生から様々な方法で伝達される。 だから、前世や過去世などにつながりを持つとき、 「私は、この人生だけの存在ではない。 いま自分が持っている性格だけがすべてではなく、それを超えた存在なのだ」 と気づくことができる。

  • 占星術とネガティブ・エネルギー

     2015冬季フォーラムでは 「スピリチュアリスト、臨床家がネガティブなエネルギーから身を守るには占術を臨床に活かす」 というのがテーマであった。 私も僅かの期間ではあるが、占星術に関わっていたことがある。 占いには四柱推命やタロット占いとか、ほかにもあれやこれやといろんなものがある。 こういった占いに関して少しコメントしてみたい。

     

     占いというものはすべて、自分の超能力の部分であるアストラル体に、どのように同調したらいいのかを知っているということだ。 占い師は媒体、すなわち引き金となるだけである。 ここで占いの本質について述べると、未来の予言というものは、存在しないということだ。 しかし、未来の予想を感じる事ならできる。 

     

     予言をするとき、その占い師は占う相手の 「今の」 エネルギー、すなわちネガティブなエネルギー、若しくはポジティブなエネルギーを感じているということだ。 ただし、占い師が 「本当にその人のエネルギーを感じていれば」 の話である。 よく自分のエネルギーを占う相手のエネルギーに混ぜてしまう占い師がいる。 

     

     占い師のエゴ、または観念で、現在の波動にいろいろな色づけをしてしまうことがよくある。 占う相手のエネルギーを感じるとき、占い師自身の翻訳になってしまうことがあり、占い師の解釈が加えられることになってしまうのである。 

     

     そういった色が殆んどついてないにしても、現在においての方向性しかわからないということだ。 どういうことかと言うと、今のエネルギー状態がわかって、しかもそれが変化をしないまま、その方向に進んで行ったときに、いま予言したことが起きやすいということである。 しかし、エネルギーが変われば、その予言はまったく役に立たないものになる。 だから、次の瞬間に、新しいエネルギーを感じなければならない。

     

     予言というのは絶対に起きるということではない。 むしろその代わりに、もし我々が今の自分のエネルギーが嫌だったら、今こそそれを自分の望む方向に変えるいいチャンスだと教えてくれているということだ。 よくいろんな人が 「人の死」 を感じることがあるが、それは、実際の死というより、本当は大きな 「変化」 「変革」 であることも多い。 こういった解釈の仕方を知らないときに、これは 「死」 だと、ひとつの解釈だけで、文字通り受け取ってしまうことがある。 

     

     また、参考までに言っておくと、占い師だけでなく、我々全員に言えることだが、午前三時~四時は、超能力の部分であるアストラル体が非常に鋭くなって、いろいろなものをテレパシー的に受け取る能力が大きくなる時間である。 我々のエネルギーが一番高いのが、午前三時で、一番エネルギーが低いのが、午後三時になる。 ということは、我々の文明では、ほとんど自分の中の生物学的なペース、サイクルに、まったく合わないような機構をどうやら作ってしまったようだ。

     

     だから占う相手としては、心をオープンにして、それらのエネルギーをコミュニケーションのひとつとして受け取るべきであり、自分の役に立つような応用を考えることが必要である。

  • 占星術とネガティブ・エネルギー

     2015冬季フォーラムでは 「スピリチュアリスト、臨床家がネガティブなエネルギーから身を守るには占術を臨床に活かす」 というのがテーマであった。 私も僅かの期間ではあるが、占星術に関わっていたことがある。 占いには四柱推命やタロット占いとか、ほかにもあれやこれやといろんなものがある。 こういった占いに関して少しコメントしてみたい。

     

     占いというものはすべて、自分の超能力の部分であるアストラル体に、どのように同調したらいいのかを知っているということだ。 占い師は媒体、すなわち引き金となるだけである。 ここで占いの本質について述べると、未来の予言というものは、存在しないということだ。 しかし、未来の予想を感じる事ならできる。 

     

     予言をするとき、その占い師は占う相手の 「今の」 エネルギー、すなわちネガティブなエネルギー、若しくはポジティブなエネルギーを感じているということだ。 ただし、占い師が 「本当にその人のエネルギーを感じていれば」 の話である。 よく自分のエネルギーを占う相手のエネルギーに混ぜてしまう占い師がいる。 

     

     占い師のエゴ、または観念で、現在の波動にいろいろな色づけをしてしまうことがよくある。 占う相手のエネルギーを感じるとき、占い師自身の翻訳になってしまうことがあり、占い師の解釈が加えられることになってしまうのである。 

     

     そういった色が殆んどついてないにしても、現在においての方向性しかわからないということだ。 どういうことかと言うと、今のエネルギー状態がわかって、しかもそれが変化をしないまま、その方向に進んで行ったときに、いま予言したことが起きやすいということである。 しかし、エネルギーが変われば、その予言はまったく役に立たないものになる。 だから、次の瞬間に、新しいエネルギーを感じなければならない。

     

     予言というのは絶対に起きるということではない。 むしろその代わりに、もし我々が今の自分のエネルギーが嫌だったら、今こそそれを自分の望む方向に変えるいいチャンスだと教えてくれているということだ。 よくいろんな人が 「人の死」 を感じることがあるが、それは、実際の死というより、本当は大きな 「変化」 「変革」 であることも多い。 こういった解釈の仕方を知らないときに、これは 「死」 だと、ひとつの解釈だけで、文字通り受け取ってしまうことがある。 

     

     また、参考までに言っておくと、占い師だけでなく、我々全員に言えることだが、午前三時~四時は、超能力の部分であるアストラル体が非常に鋭くなって、いろいろなものをテレパシー的に受け取る能力が大きくなる時間である。 我々のエネルギーが一番高いのが、午前三時で、一番エネルギーが低いのが、午後三時になる。 ということは、我々の文明では、ほとんど自分の中の生物学的なペース、サイクルに、まったく合わないような機構をどうやら作ってしまったようだ。

     

     だから占う相手としては、心をオープンにして、それらのエネルギーをコミュニケーションのひとつとして受け取るべきであり、自分の役に立つような応用を考えることが必要である。

  • ポジティブ・エネルギーとネガティブ・ネルギー

     ネガティブなエネルギー、そのものについても少し触れておきたい。 なぜなら、ポジティブやネガティブというのもすべてが自分の意識の中にあるからだ。 我々の意識には、外というものはない。 我々が考えられるもの、知覚できるものは、すべて我々の意識の中にある。

     

     ネガティブなエネルギーというのは、「肉体」 とスピリットである 「霊的な部分」 と頭で考えるマインドの 「思考部分」 という三つが調和していないから起こってくる。  からだというのは、自分のペースに合わないことを知らせてくれるようになっていて、 それが病気という形で表れてくることもある。

     

     もし、頭の部分が一所懸命、先に行こうとして、からだの部分を無視しようとするとき、そのからだの自然のペースを無視してしまうことになる。 頭で一所懸命急いでばかりいて、からだに無理をさせると、結局は自分の思うことができなくなってしまうのだ。

     

     いつの間にか我々の頭は 「忘れる能力」 を創りだしてしまった。 それは自分がすべてのことを選択しているのだということを忘れさせてしまった。 そのような 「表層意識」 と 「潜在意識」 を創りだしてしまったがために、ときにはその潜在意識を選択していることもあるが、今ここという現在で体験していることはすべて、自分が選択した結果であるということを理解しなければならない。

     

     選択というのは、自分の中にある一番強い観念が実現するような状況を、自身に引き起こす傾向が強くある。 たとえば、「嫌なことが起きるのではないか」 と怖れているとき、よりポジティブなものよりも、怖れているネガティブなもののほうが起きると信じていることになる。 心配性の人の病気が重症化するのも、強い怖れからくる観念がその原因であることに間違いない。

     

     この怖れるということは、ネガティブな現実を自分で選択しているということになる。  しかし、この現実世界のすべての状況は、本質的には絶対的な中立であり、それ以外には存在しない。 

     

     我々は自分の中の観念や価値観を使って、それがポジティブである、あるいはネガティブであると決めているわけだ。 その選択に際して、好奇心と驚きをもって何かを選ぼうとするとき、ポジティブな結果が出てくる。 それとは逆に、恐れから何かを退けようとするときには、ネガティブな解釈を選択してしまう。 その結果、ネガティブなものを呼び寄せることになる。

  • ポジティブ・エネルギーとネガティブ・ネルギー

     ネガティブなエネルギー、そのものについても少し触れておきたい。 なぜなら、ポジティブやネガティブというのもすべてが自分の意識の中にあるからだ。 我々の意識には、外というものはない。 我々が考えられるもの、知覚できるものは、すべて我々の意識の中にある。

     

     ネガティブなエネルギーというのは、「肉体」 とスピリットである 「霊的な部分」 と頭で考えるマインドの 「思考部分」 という三つが調和していないから起こってくる。  からだというのは、自分のペースに合わないことを知らせてくれるようになっていて、 それが病気という形で表れてくることもある。

     

     もし、頭の部分が一所懸命、先に行こうとして、からだの部分を無視しようとするとき、そのからだの自然のペースを無視してしまうことになる。 頭で一所懸命急いでばかりいて、からだに無理をさせると、結局は自分の思うことができなくなってしまうのだ。

     

     いつの間にか我々の頭は 「忘れる能力」 を創りだしてしまった。 それは自分がすべてのことを選択しているのだということを忘れさせてしまった。 そのような 「表層意識」 と 「潜在意識」 を創りだしてしまったがために、ときにはその潜在意識を選択していることもあるが、今ここという現在で体験していることはすべて、自分が選択した結果であるということを理解しなければならない。

     

     選択というのは、自分の中にある一番強い観念が実現するような状況を、自身に引き起こす傾向が強くある。 たとえば、「嫌なことが起きるのではないか」 と怖れているとき、よりポジティブなものよりも、怖れているネガティブなもののほうが起きると信じていることになる。 心配性の人の病気が重症化するのも、強い怖れからくる観念がその原因であることに間違いない。

     

     この怖れるということは、ネガティブな現実を自分で選択しているということになる。  しかし、この現実世界のすべての状況は、本質的には絶対的な中立であり、それ以外には存在しない。 

     

     我々は自分の中の観念や価値観を使って、それがポジティブである、あるいはネガティブであると決めているわけだ。 その選択に際して、好奇心と驚きをもって何かを選ぼうとするとき、ポジティブな結果が出てくる。 それとは逆に、恐れから何かを退けようとするときには、ネガティブな解釈を選択してしまう。 その結果、ネガティブなものを呼び寄せることになる。

  • イメージングとネガティブ・エネルギー

     今回のタイトルについては、ネガティブなエネルギーそのものがポイントではなく、臨床家がそのエネルギーをどうはね返すのか、あるいはどのようにして身を守れるのか、という趣旨に基づいた内容になるようにというサインを受けた。 しかしながら、私は2015冬季フォーラムにおいて、すでにこのタイトルについて話をさせていただいたこともあり、今回の趣旨から少々脱線するかも知れないことをお断りしておく。

     

     まず始めに臨床家は、施術に際して、ある決まった周波数の波動エネルギーを流しているという事実がある。 そういった能動的な波動手段は色々あるが、手技療法もそのひとつである。 そのような臨床家のフィールドにやってくるのは、その臨床家の波動エネルギーに共鳴して同期化しようとする患者さんたちである。 なぜならそれによって助けてもらえると思って、臨床家のもとに患者さんはやって来るからだ。 それは、臨床家が患者さんに与える電磁気的な波動エネルギーの中に浸りたいと思ってやって来るのである。

     

     そして、臨床家の高い波動をヒントにして、患者さんは自分自身の波動エネルギーを高めていくことになる。 ということは、臨床家が患者さんを治療する、癒してあげるというよりは、臨床家が示しているその高い波動に患者さんが自分の波動を合わせていくということだ。 それによって、患者さん自身が癒される、ということを臨床家の波動が教えているのである。 このようにすべての治療というものは、結局「自力自療」すなわち、自分自身で自分を癒すということにつきるわけである。

     

     ところで、臨床時において、患者さんの疾患が臨床家に痛みという形でくる場合がある。 それは痛みをどこに見つけるかというひとつの臨床方法であり、ネガティブなエネルギーとして受容しているということになる。 しかしながら、臨床家が自分で感じたくなければ、実際に痛みを感じる必要はないということを知って欲しい。 

     

     まず、基本的なことを理解しなければならない。 それはこのようなことだ。 臨床家が患者さんを施術しているのをイメージしてみよう。 そのとき、自分がまったく透明な水晶のようなものだと思って欲しい。 そして、患者さんの波動エネルギーを読んでいるとき、自分は透明だから、患者さんの波動エネルギーが自分を通り抜けてしまって、ひっかかることはないということ。 患者さんのエネルギーが自分の中で、少し濃くなったり、滞ったりするところがまったくないような、透明な自分をイメージするのである。

     

     それはまるで水晶で作った鐘のような純粋な音、そのような波動で共鳴することができる。 患者さんを診るとき、その水晶の鐘になった自分を想像してみる。 すると、身体の中で共鳴して、患者さんの体験していることを読むことができる。 そして、患者さんのエネルギーを全部通過させて、自分の身体に影響を与えないようにすることも、このようなイメージングによって可能になってくる。 

     

     また、患者さんと自分の間に交流しているエネルギーを、青紫色の電磁波の光であるとみる。 そして、患者さんのエネルギーを感じ、患者さんにエネルギーを送りながら、自分の身体をできるだけ解放して、深くて静かな呼吸を行なう。 それからエネルギーが、自分と患者さんの両方が浄化されて双方の光がより輝くようにイメージしてみる。 

     

     自分の望まないものは水晶の中にとどめず、流れ出てしまうのを想像する。 すると、自分の現実の中に欲しくないものは、すべてスルリと身体から出て行ってしまうだろう。 そして深くて静かな呼吸をするのを忘れないで、その一定の呼吸を続ける。

     

     このようなコミュニオンは、一所懸命しようとすると、より疲れてしまう。 臨床家は無条件の愛をもって、ただやるとき、自分自身に多くのエネルギーが戻って来て、とても元気になる。 理解していただけただろうか?

  • イメージングとネガティブ・エネルギー

     今回のタイトルについては、ネガティブなエネルギーそのものがポイントではなく、臨床家がそのエネルギーをどうはね返すのか、あるいはどのようにして身を守れるのか、という趣旨に基づいた内容になるようにというサインを受けた。 しかしながら、私は2015冬季フォーラムにおいて、すでにこのタイトルについて話をさせていただいたこともあり、今回の趣旨から少々脱線するかも知れないことをお断りしておく。

     

     まず始めに臨床家は、施術に際して、ある決まった周波数の波動エネルギーを流しているという事実がある。 そういった能動的な波動手段は色々あるが、手技療法もそのひとつである。 そのような臨床家のフィールドにやってくるのは、その臨床家の波動エネルギーに共鳴して同期化しようとする患者さんたちである。 なぜならそれによって助けてもらえると思って、臨床家のもとに患者さんはやって来るからだ。 それは、臨床家が患者さんに与える電磁気的な波動エネルギーの中に浸りたいと思ってやって来るのである。

     

     そして、臨床家の高い波動をヒントにして、患者さんは自分自身の波動エネルギーを高めていくことになる。 ということは、臨床家が患者さんを治療する、癒してあげるというよりは、臨床家が示しているその高い波動に患者さんが自分の波動を合わせていくということだ。 それによって、患者さん自身が癒される、ということを臨床家の波動が教えているのである。 このようにすべての治療というものは、結局「自力自療」すなわち、自分自身で自分を癒すということにつきるわけである。

     

     ところで、臨床時において、患者さんの疾患が臨床家に痛みという形でくる場合がある。 それは痛みをどこに見つけるかというひとつの臨床方法であり、ネガティブなエネルギーとして受容しているということになる。 しかしながら、臨床家が自分で感じたくなければ、実際に痛みを感じる必要はないということを知って欲しい。 

     

     まず、基本的なことを理解しなければならない。 それはこのようなことだ。 臨床家が患者さんを施術しているのをイメージしてみよう。 そのとき、自分がまったく透明な水晶のようなものだと思って欲しい。 そして、患者さんの波動エネルギーを読んでいるとき、自分は透明だから、患者さんの波動エネルギーが自分を通り抜けてしまって、ひっかかることはないということ。 患者さんのエネルギーが自分の中で、少し濃くなったり、滞ったりするところがまったくないような、透明な自分をイメージするのである。

     

     それはまるで水晶で作った鐘のような純粋な音、そのような波動で共鳴することができる。 患者さんを診るとき、その水晶の鐘になった自分を想像してみる。 すると、身体の中で共鳴して、患者さんの体験していることを読むことができる。 そして、患者さんのエネルギーを全部通過させて、自分の身体に影響を与えないようにすることも、このようなイメージングによって可能になってくる。 

     

     また、患者さんと自分の間に交流しているエネルギーを、青紫色の電磁波の光であるとみる。 そして、患者さんのエネルギーを感じ、患者さんにエネルギーを送りながら、自分の身体をできるだけ解放して、深くて静かな呼吸を行なう。 それからエネルギーが、自分と患者さんの両方が浄化されて双方の光がより輝くようにイメージしてみる。 

     

     自分の望まないものは水晶の中にとどめず、流れ出てしまうのを想像する。 すると、自分の現実の中に欲しくないものは、すべてスルリと身体から出て行ってしまうだろう。 そして深くて静かな呼吸をするのを忘れないで、その一定の呼吸を続ける。

     

     このようなコミュニオンは、一所懸命しようとすると、より疲れてしまう。 臨床家は無条件の愛をもって、ただやるとき、自分自身に多くのエネルギーが戻って来て、とても元気になる。 理解していただけただろうか?

  • 神経症21

    昨日のつづき

     子どもは生まれて間もない歳月のうちに、他に方法がないことから自分自身を締めだしてしまう。声が大きく口数の多い子どもは、息子や娘が礼儀正しくおとなしい子であって欲しいと願っている抑圧された両親に、そう長い間、大目に見てもらえるとは思えない。親たちは子どもがそうした振る舞いをしなくなるまで、暴力やせっかんをするであろう。そこで子どもは、自分の一部に対して死刑を宣言しなければならない。その子は自分ではなく、両親にふさわしい生き方をしなければならない。同じ種類の行動は、両親が子どものためにあまりにも多くのことをしてやるために、子どもが自分のために何の努力もしないですむ場合にも生じる。その子どもは、いわゆる両親の親切に窒息しているのである。

     もしも非現実の装いが効果を発揮できなかったときや、両親から人間的な反応を引き出せない場合には、子どもはもっと絶望的な防衛手段をとらなくてはならない羽目に追い込まれる。子どもは両親の機嫌を損ねないように、あるいは暖かく親切にしてもらうために、自分自身にまつわるすべてを締め出すことだろう。子どもは、まるでコンピュータのように硬直した、形通りの話し方をすることになる。そうした子どもの考え方は、小さく凝り固まった幅の狭いものとなり、目を細めうかがうような目つきをするようになる。要するにそうした子どもは、自分の両親を人間らしい人間にするために、自分自身の人間性を殺してしまったのである。そんな子は両親のために、ついには自分自身を裏返しにしてしまう。男の子が女の子になってしまう現象がそれだ。

     操体のようにインテグラルな反応だとする見方は重要である。愛の要求は、考え方を切り替えれば変えうるような、ただ単に大脳だけに絡んでいるものではない。愛の要求はからだの全組織に連動し、いきわたっているもので、当然に肉体と精神の両方を歪めることになる。その歪みが心の防衛である。

     緊張を押さえきれないと、その結果として症候が現われる。子どもはマスターベーションをし、親指を吸い、爪を噛み、オネショをしたりする。これらはより強力な解放を求める手段なのである。ところがあまりにもしばしば見受けられることだが、両親は子どものためを思って、緊張のはけ口であるこれらのことをやめさせようとして、問題をいっそうこじらせ、もっとほかの手段を子どもに探すことを強制する結果を招いている。ある患者は、自分の胃の調子が悪いと両親が信じていたので、自分は絶えずおならをしていたと訴えた。「おならは不随意なものだと両親は考えていたので、それだけは受け入れてくれたのです」と患者は語ってくれた。

     小さな子どもは、問題を抱えているのは両親の方であることを理解できない。両親の問題は自分が行なうこととは関係なく存在していることを、子どもは知らない。両親のいさかいを止めて、両親らを幸せにしてあげることや自由にしてやることが、子どもの役目ではないことが子どもらには分からない。子どもは生きていくために、自分にできることをしているのである。

     生まれて間もないときから馬鹿にされつづけてくると、子どもは自分に何か欠点があるのだと考えざるを得ない。子どもは気に入ってもらおうとあらゆる方法を試みるが、子どもが行わなければならないことは、悲劇的なことに、両親が自分たち自ら自由になり幸福になるすべを知らないがゆえに、漫然としている。両親が自分の気持ちを引き立ててくれないので、子どもは自分自身に頼らざるを得ない。子どもは目に入るものを手当たり次第に食べ、誰も見ていないときには、親指をなめ、マスターベーションをし、やがては誰ひとりとして慰めてくれない苦しみを和らげるために自分で薬を打つようになる。大人になったときには最早、ただたんに神経症にかかっているだけではない、もう立派な神経症そのものになっている。

    明日からの担当は香実行委員です、爽やかなそよ風をお贈りします。