カテゴリー: 日下和夫

  • 正義③

    昨日のつづき

     

     宗教的な人々は正義や道徳について話すのが大好きだ!  しかし道徳は自己暗示にすぎない。  本当に必要なのは道徳ではなく良心である。  賢い人は子どもたちに道徳などは教えない。  いかにして良心を見つけるかを教えるのである。  

     

     こう言うと人々はあまりいい顔をしない。  世間の人はそれに対して 「愛」 がないと言う。  そう言いたい気持ちはわかる。  宗教の教えのように人の弱さと偽善を勧めないばかりか、反対にすべての仮面を取り去ってしまうからである。

     

     真実を求める者は愛や宗教については話さない。  自分がそれらからいかに離れているかを知っているからだ。  宗教の教えは信者のためのものだ。  仏教徒とは、仏教の教えに従って生きる、つまり教えに従ってすべてを行なう者のことである。  

     

     愛や道徳を語る人は本当にイエス・キリストの教えに従って生きることができるだろうか。  もちろんできっこない。  しかしこの類の会話は常にあるだろうし、また、言葉が何よりも大事である人たちがまわりに常にいるだろう。  これは間違いようのない徴候である。  そんなふうに話す者は空っぽの人間であり、時間を費やすだけの価値はないということだ。

     

     このように道徳と良心とはまったく異なったものである。  ある良心は他の良心と矛盾することは決してない。  しかし、ある道徳はいつでも他の道徳と容易に矛盾してしまい、それを完全に否定することができる。  

     

     自分の内に緩衝システムをもつ人間は非常に道徳的であるかも知れない。  またそれらの緩衝システムは互いに非常に異なったものでもありうる。  これはつまり、二人の非常に道徳的な人間が互いを非常に不道徳だと考えることもありうるということだ。  一般的には、ほとんど必然的にそうなってしまう。  つまり、道徳的であればあるほど、人は他の道徳的な人を不道徳と考えるのである。

     

     

     

    明日につづく

  • 正義②

    昨日のつづき

     

     「正義」 の概念としての 「良心」 の象徴は 「火」 である。  比喩的にいうとガラスの蒸留器の中の粉末をすべて融合させることのできる唯一の火である。  また、正義論というような自己探求を始める時点では欠けている統一を生みだす火なのである。

     

     「正義は道徳的な正しさや良心に適った概念」 ということになっているが、「良心」 という概念は 「道徳」 という概念と何の共通点もない。  良心は普遍的で恒久的な現象である。  良心はあらゆる人間にとって同一であり、それは緩衝システムがないときにのみ存在することができる。  

     

     人間のさまざまなカテゴリーを理解するという観点から見れば、内部にまったく矛盾をもたない人間には良心があると言えるかも知れない。  この良心は苦しみではなく、それどころか我々にはわからないまったく新しい性質の喜びなのである。  

     

     しかし、何千という、異なった 「私」 をもつ人間にとっては、ほんの一瞬の良心の覚醒でさえ苦痛を伴わずにはいられない。  もし、良心のこのような瞬間が長くなれば、またもし、恐れるどころか協調しながらそれを保持し、継続させようとするなら、非常に微妙な喜びの要素が徐々にこれらの瞬間の中に入ってきて、未来の 「明晰な意識」 を前もって味わうことができるのである。

     

     ところが 「道徳」 の概念には普遍的なものは何も無い。  なぜなら、道徳は自己の内にある緩衝システムによってできているからだ。  だから、普遍的な道徳というものは皆無である。  例えば、日本で道徳であるものはドイツでは不道徳で、ドイツで道徳であるものは日本では不道徳である。  東京で道徳であるものは大阪では不道徳で、また大阪で道徳であるものは東京では不道徳である。  社会のある階層で道徳であるものは他の階層では不道徳であり、その反対もしかりである。

     

     道徳は常に、どこにおいても人為的な現象である。  それは種々の 「タブー」、つまり、制限やさまざまな要求から成っており、それらの根拠は時には筋が通っていることもあるが、時にはまったく無意味になっていたり、もともと何の意味もなかったりする。  さらには誤った基盤の上に、つまり迷信や偽りの恐怖の上につくられていることもある。

     

     そんな道徳というものは自己の内にある緩衝システムでできている。  そして緩衝システムには多くの種類があるために、また異なった国や時代、さらに、社会のさまざまな階級における生活状態が多様であるために、それらによってつくりだされる道徳も非常に異なり、矛盾している。  つまり、すべてに共通な道徳など存在するはずがない。

     

     道徳に対する何らかの普遍的な観念が、たとえば日本に存在するということは不可能でさえある。  欧米の一般的な道徳は 「キリスト教道徳」であると思われる。  しかし、そのキリスト教道徳という観念そのものが非常に多くの異なった解釈を許し、また多種多様な犯罪がキリスト教道徳によって正当化されてきている。   

     

     いずれにせよ、もしキリスト教道徳やイスラム教道徳が現に進行している戦争を世界にもたらしたのだとすれば、現代日本においては、それらの道徳をどう理解しようと、それと共通するものはほとんどない。

     

    明日につづく

  • 正義②

    昨日のつづき

     

     「正義」 の概念としての 「良心」 の象徴は 「火」 である。  比喩的にいうとガラスの蒸留器の中の粉末をすべて融合させることのできる唯一の火である。  また、正義論というような自己探求を始める時点では欠けている統一を生みだす火なのである。

     

     「正義は道徳的な正しさや良心に適った概念」 ということになっているが、「良心」 という概念は 「道徳」 という概念と何の共通点もない。  良心は普遍的で恒久的な現象である。  良心はあらゆる人間にとって同一であり、それは緩衝システムがないときにのみ存在することができる。  

     

     人間のさまざまなカテゴリーを理解するという観点から見れば、内部にまったく矛盾をもたない人間には良心があると言えるかも知れない。  この良心は苦しみではなく、それどころか我々にはわからないまったく新しい性質の喜びなのである。  

     

     しかし、何千という、異なった 「私」 をもつ人間にとっては、ほんの一瞬の良心の覚醒でさえ苦痛を伴わずにはいられない。  もし、良心のこのような瞬間が長くなれば、またもし、恐れるどころか協調しながらそれを保持し、継続させようとするなら、非常に微妙な喜びの要素が徐々にこれらの瞬間の中に入ってきて、未来の 「明晰な意識」 を前もって味わうことができるのである。

     

     ところが 「道徳」 の概念には普遍的なものは何も無い。  なぜなら、道徳は自己の内にある緩衝システムによってできているからだ。  だから、普遍的な道徳というものは皆無である。  例えば、日本で道徳であるものはドイツでは不道徳で、ドイツで道徳であるものは日本では不道徳である。  東京で道徳であるものは大阪では不道徳で、また大阪で道徳であるものは東京では不道徳である。  社会のある階層で道徳であるものは他の階層では不道徳であり、その反対もしかりである。

     

     道徳は常に、どこにおいても人為的な現象である。  それは種々の 「タブー」、つまり、制限やさまざまな要求から成っており、それらの根拠は時には筋が通っていることもあるが、時にはまったく無意味になっていたり、もともと何の意味もなかったりする。  さらには誤った基盤の上に、つまり迷信や偽りの恐怖の上につくられていることもある。

     

     そんな道徳というものは自己の内にある緩衝システムでできている。  そして緩衝システムには多くの種類があるために、また異なった国や時代、さらに、社会のさまざまな階級における生活状態が多様であるために、それらによってつくりだされる道徳も非常に異なり、矛盾している。  つまり、すべてに共通な道徳など存在するはずがない。

     

     道徳に対する何らかの普遍的な観念が、たとえば日本に存在するということは不可能でさえある。  欧米の一般的な道徳は 「キリスト教道徳」であると思われる。  しかし、そのキリスト教道徳という観念そのものが非常に多くの異なった解釈を許し、また多種多様な犯罪がキリスト教道徳によって正当化されてきている。   

     

     いずれにせよ、もしキリスト教道徳やイスラム教道徳が現に進行している戦争を世界にもたらしたのだとすれば、現代日本においては、それらの道徳をどう理解しようと、それと共通するものはほとんどない。

     

    明日につづく

  • 正義➀

    テーマは 「正義」。

     

     「正義」 は 「道徳的」 な正しさや 「良心」 に適った概念であるということに一応はなっている。  しかし、通常の生活では 「良心」 という概念はあまりにも簡単に考えられすぎている。  まるで誰でもが良心をもっているかのようだ。  実際は、感情の領域における 「良心」 の概念は、知性の領域における 「意識」 の概念と等価なのである。  そして我々は知性の意識をもっていないのと同様に感情の領域においても良心などもっていようはずがない。

     

     知性の意識とは、自分が普段知っているすべてのことの全体を同時に知る状態を言い、また自分の知っていることがいかに少ないか、いかに多くの矛盾がその中にあるかを見ることのできる状態のことである。  そして、良心とは、自分が普段感じること、あるいは感じられるすべてのことの全体を同時に感じる状態のことである。  

     

     ところが、誰もが自分の内に多様な、何千という矛盾した感情をもっている。  自分は無であるという深く隠された認識やあらゆる種類の恐怖から、最も馬鹿げた種類の自己欺瞞、自信、自己満足、自己賛美に至る感情をもっている。  そのために、これらすべてを一緒に感じることは苦痛なだけでなく、文字通り堪えがたいことなのである。

     

     もし、その内的世界全体が矛盾から成り立っている人が、突然これらの全矛盾を自己の内部で同時に感じるとしたら、「良心」 と言える。  またもし、自分の憎んでいるものすべてを愛しており、愛しているものすべてを憎んでいると急に感じるとしたら、「良心」 と言える。  あるいは真実を話しているときに嘘をついているとか、嘘をついているときに真実を話しているとかを感じているとしたら、「良心」 と言える。  またもし、このことすべてから生じる恥ずかしさと恐ろしさを感じることができたら、これこそが 「良心」 と呼ばれる状態なのである。

     

     ただし、人はこのような状態で生きることはできない。  矛盾を破壊するか、若しくは良心を破壊するかしなければならない。  ただし、良心は破壊することはできないが、眠り込ませることならできる。  つまり、自己に対する一つの感情を突き破れない障壁によって他の感情から切り離し、決してそれらを一緒には見ないように、あるいはそれらが両立しがたいことを、すなわち一つの感情がもう一つの感情と一緒に存在することの不条理さを感じないようにすることはできるのである。

     

     しかし、人間にとって、つまり自分の平和と眠りにとっては、幸いにも、先ほど述べたような良心の状態は非常にまれである。  小さな子どものときから緩衝システムが自己の内部で育ちはじめ、強力になり、自分から自己内部の矛盾を見る能力を奪い去ってきているので、自分には突然の覚醒などという危険はまったくない。

     

     覚醒は、それを探し求めている者、それを得るために長期間、飽きたり気を緩めたりしないで自己と闘い、自己修練をする準備のできている者にのみ可能なのである。  そのためには緩衝システムを破壊すること、つまり矛盾の感覚と結びついているあらゆる内的苦痛と直面することを由として進んで歩み出る必要がある。

     

     さらに、緩衝システムの破壊自体が非常に長期間の努力を必要とする。  そして自分の努力の結果として、良心に適った正義の覚醒から生じるありとあらゆる不快と苦痛を舐めることを了解した上で、この努力に取り組まなければならない。

     

    明日につづく

  • 正義➀

    テーマは 「正義」。

     

     「正義」 は 「道徳的」 な正しさや 「良心」 に適った概念であるということに一応はなっている。  しかし、通常の生活では 「良心」 という概念はあまりにも簡単に考えられすぎている。  まるで誰でもが良心をもっているかのようだ。  実際は、感情の領域における 「良心」 の概念は、知性の領域における 「意識」 の概念と等価なのである。  そして我々は知性の意識をもっていないのと同様に感情の領域においても良心などもっていようはずがない。

     

     知性の意識とは、自分が普段知っているすべてのことの全体を同時に知る状態を言い、また自分の知っていることがいかに少ないか、いかに多くの矛盾がその中にあるかを見ることのできる状態のことである。  そして、良心とは、自分が普段感じること、あるいは感じられるすべてのことの全体を同時に感じる状態のことである。  

     

     ところが、誰もが自分の内に多様な、何千という矛盾した感情をもっている。  自分は無であるという深く隠された認識やあらゆる種類の恐怖から、最も馬鹿げた種類の自己欺瞞、自信、自己満足、自己賛美に至る感情をもっている。  そのために、これらすべてを一緒に感じることは苦痛なだけでなく、文字通り堪えがたいことなのである。

     

     もし、その内的世界全体が矛盾から成り立っている人が、突然これらの全矛盾を自己の内部で同時に感じるとしたら、「良心」 と言える。  またもし、自分の憎んでいるものすべてを愛しており、愛しているものすべてを憎んでいると急に感じるとしたら、「良心」 と言える。  あるいは真実を話しているときに嘘をついているとか、嘘をついているときに真実を話しているとかを感じているとしたら、「良心」 と言える。  またもし、このことすべてから生じる恥ずかしさと恐ろしさを感じることができたら、これこそが 「良心」 と呼ばれる状態なのである。

     

     ただし、人はこのような状態で生きることはできない。  矛盾を破壊するか、若しくは良心を破壊するかしなければならない。  ただし、良心は破壊することはできないが、眠り込ませることならできる。  つまり、自己に対する一つの感情を突き破れない障壁によって他の感情から切り離し、決してそれらを一緒には見ないように、あるいはそれらが両立しがたいことを、すなわち一つの感情がもう一つの感情と一緒に存在することの不条理さを感じないようにすることはできるのである。

     

     しかし、人間にとって、つまり自分の平和と眠りにとっては、幸いにも、先ほど述べたような良心の状態は非常にまれである。  小さな子どものときから緩衝システムが自己の内部で育ちはじめ、強力になり、自分から自己内部の矛盾を見る能力を奪い去ってきているので、自分には突然の覚醒などという危険はまったくない。

     

     覚醒は、それを探し求めている者、それを得るために長期間、飽きたり気を緩めたりしないで自己と闘い、自己修練をする準備のできている者にのみ可能なのである。  そのためには緩衝システムを破壊すること、つまり矛盾の感覚と結びついているあらゆる内的苦痛と直面することを由として進んで歩み出る必要がある。

     

     さらに、緩衝システムの破壊自体が非常に長期間の努力を必要とする。  そして自分の努力の結果として、良心に適った正義の覚醒から生じるありとあらゆる不快と苦痛を舐めることを了解した上で、この努力に取り組まなければならない。

     

    明日につづく

  • 意識の波動とネガティブ・エネルギー

     我々が意識を拡張していくとき、すべてのものに対して、より気づくようになり意識的になる。 それは、ネガティブなもの、ポジティブなものに、より気づいていくようにもなる。 そのとき、誤解しやすいのは、そういったいろいろな新しいものに気づくようになって、感受性が一段と強くなってくることだ。 そうすると、それが自分の人生の中ですべて現実化されるのではないかと思ってしまうところに問題が起こる。 

     

     自分の意識がより拡張されていくとき、ポジティブなものと同時にネガティブなものにもたくさん気づいていくようになる。 しかし、それは創造の自然な動きではあるが、自分が気づいた新しいものであり、それ自体は自分の意識を持つことはないのである。 つまり、それ自体が勝手に動き出すとうことはないということだ。 

     

     肉体を持っている意識や肉体を持たない意識にしても、ネガティブな方向にエネルギーを持っていることがある。 しかし、それがあると気づいたからといって、それが自分の目の前に現実化して現われるということではない。 

     

     それが現実化されるためには、強い感情的な執着が必要になる。 強い感情的な喜び、エクスタシー、ポジティブな恍惚感は、自分にとっていいものしか引きつけない。 

    逆に、強いネガティブな感情、つまり、怖れや罪悪感、無価値観は、自分にネガティブなものを引きつけるようになるということだ。 どちらにしても感情がそれらを活性化するための源になっている。 我々にいま必要なのは、執着がない状態に執着することである。

     

     我々は、この創造の中ですべてのものを自分で見ることができる。 ポジティブなもの、ネガティブなものも全部を知ることができる。 一番素晴らしいものを知ることも、一番怖いものを知ることもできる。 ここではっきりしていることは、自分の人生の中に現実化するものは、自分でそれを現実化しようと決断したものである。 

     

     すべての現実は波動であり、振動である。 すべての次元、すべての段階の根本には、ある結晶のようなものがある。 その根本にある振動が現実化したものが 「物質」 である。 呼び名は違っても、もとは同じ波動からきている。 そこにあるのは、波動の違いだけであるということだ。 たとえば、氷と水は同じものからできているが、違う状態にある。 すべての物質、人、空間そういったものは全部、根本のエネルギーが物質化したものである。 

     

     時間や空間すら、この周波数からできている。 そういった時間や空間というのは、「いつ」 「どこ」 ということを意味しており、その中に自分が存在しているものと、我々は認識している。 でも我々は 「いつ」 や 「どこ」 も単なる性質の違いにすぎないものであると理解することもできる。

     

     

    明日からはポジティブ・シンキングの香実行委員です。

  • 意識の波動とネガティブ・エネルギー

     我々が意識を拡張していくとき、すべてのものに対して、より気づくようになり意識的になる。 それは、ネガティブなもの、ポジティブなものに、より気づいていくようにもなる。 そのとき、誤解しやすいのは、そういったいろいろな新しいものに気づくようになって、感受性が一段と強くなってくることだ。 そうすると、それが自分の人生の中ですべて現実化されるのではないかと思ってしまうところに問題が起こる。 

     

     自分の意識がより拡張されていくとき、ポジティブなものと同時にネガティブなものにもたくさん気づいていくようになる。 しかし、それは創造の自然な動きではあるが、自分が気づいた新しいものであり、それ自体は自分の意識を持つことはないのである。 つまり、それ自体が勝手に動き出すとうことはないということだ。 

     

     肉体を持っている意識や肉体を持たない意識にしても、ネガティブな方向にエネルギーを持っていることがある。 しかし、それがあると気づいたからといって、それが自分の目の前に現実化して現われるということではない。 

     

     それが現実化されるためには、強い感情的な執着が必要になる。 強い感情的な喜び、エクスタシー、ポジティブな恍惚感は、自分にとっていいものしか引きつけない。 

    逆に、強いネガティブな感情、つまり、怖れや罪悪感、無価値観は、自分にネガティブなものを引きつけるようになるということだ。 どちらにしても感情がそれらを活性化するための源になっている。 我々にいま必要なのは、執着がない状態に執着することである。

     

     我々は、この創造の中ですべてのものを自分で見ることができる。 ポジティブなもの、ネガティブなものも全部を知ることができる。 一番素晴らしいものを知ることも、一番怖いものを知ることもできる。 ここではっきりしていることは、自分の人生の中に現実化するものは、自分でそれを現実化しようと決断したものである。 

     

     すべての現実は波動であり、振動である。 すべての次元、すべての段階の根本には、ある結晶のようなものがある。 その根本にある振動が現実化したものが 「物質」 である。 呼び名は違っても、もとは同じ波動からきている。 そこにあるのは、波動の違いだけであるということだ。 たとえば、氷と水は同じものからできているが、違う状態にある。 すべての物質、人、空間そういったものは全部、根本のエネルギーが物質化したものである。 

     

     時間や空間すら、この周波数からできている。 そういった時間や空間というのは、「いつ」 「どこ」 ということを意味しており、その中に自分が存在しているものと、我々は認識している。 でも我々は 「いつ」 や 「どこ」 も単なる性質の違いにすぎないものであると理解することもできる。

     

     

    明日からはポジティブ・シンキングの香実行委員です。

  • 痛みとネガティブ・エネルギー

     

     

     今日は、ネガティブなエネルギーに関係の深い、からだの痛みについて考えてみる。  基本的に痛みは、単なる抵抗である。 それは古いネガティブな考え方を、自分の中でいろいろとプロセスしているかも知れない。 そういうものをクリアーにしようとすると、ブロックとか、ひっかかるものが出てきたりする。

     

     このような痛みをヨーガ的に診ると、背骨に沿って出てくることが多い。 いわゆるクンダリニー・エネルギーと呼ばれているものである。 このクンダリニー・エネルギーが上がったり下がったりして、所々でひっかかったり寄り道をしたりすることもある。 

     

     そんな痛みが起こったとき、そこの部分に息を吸い込んでみる。 そして自分の観念も少し変えてみるのである。 新しいエネルギーが自分の中に入ってくるとき、それが痛みを伴うのは、いま受け取っているエネルギーより、本当の自分のエネルギーが低いと思い込んでいるときだ。 それは新たなエネルギーと自分のエネルギーがまだこれだけ違うのだと決めつけているとき、対処できないと思っているものを、受け取ることができないことになってしまう。

     

     それじゃ困るので自分の頭の中で決めている定義づけを、少しリラックスさせ、ゆるめてみよう。 そして、自分は、入ってくるエネルギーと同じもの、対等なものだと再定義づけしてみる。 力学を知っている人は、摩擦は二つのものが擦れるときに起きることを知っている。 だから、新たなエネルギーを受け取れないと思ったときには、二つの間に摩擦が起きていると考えられるのである。 

     

     それが自分のからだの内臓から、いま自分が直面している問題にまで出てくる。  そして社会がどう考えているか、自分のからだがどうエネルギーを受け入れるかということからも摩擦は出てくる。 ゆえに最初にやることは、自分がそのエネルギーと対等だと知ることである。 それによって摩擦が減ってくる。

     

     摩擦が起こるのは、自分のエネルギーと新たなエネルギーを対等にすることを怖れているからである。 たくさんの人がこれをやっている。 自分がそうなってしまったら、どこか未知の分野に足を踏み込んでしまうという怖れだ。 

     

     しかし、なぜ未知のものを自動的に怖れてしまうのか。 それは我々が長い間、未知のものは怖いもの、ネガティブなものと教えられてきたからである。 でも我々は、すべて間違いなく創造者である。 自分の考えていることを、自分の外に創りあげていくことができる人類なのだ。 だから、未知のものをポジティブなものだと考えれば、ポジティブなものしかやって来ないということになる。 どんなことが起きても、それをポジティブに使えないということはないのである。 怖れる対象が問題なのではなくて、怖れること自体が問題なのだ。

  • 痛みとネガティブ・エネルギー

     

     

     今日は、ネガティブなエネルギーに関係の深い、からだの痛みについて考えてみる。  基本的に痛みは、単なる抵抗である。 それは古いネガティブな考え方を、自分の中でいろいろとプロセスしているかも知れない。 そういうものをクリアーにしようとすると、ブロックとか、ひっかかるものが出てきたりする。

     

     このような痛みをヨーガ的に診ると、背骨に沿って出てくることが多い。 いわゆるクンダリニー・エネルギーと呼ばれているものである。 このクンダリニー・エネルギーが上がったり下がったりして、所々でひっかかったり寄り道をしたりすることもある。 

     

     そんな痛みが起こったとき、そこの部分に息を吸い込んでみる。 そして自分の観念も少し変えてみるのである。 新しいエネルギーが自分の中に入ってくるとき、それが痛みを伴うのは、いま受け取っているエネルギーより、本当の自分のエネルギーが低いと思い込んでいるときだ。 それは新たなエネルギーと自分のエネルギーがまだこれだけ違うのだと決めつけているとき、対処できないと思っているものを、受け取ることができないことになってしまう。

     

     それじゃ困るので自分の頭の中で決めている定義づけを、少しリラックスさせ、ゆるめてみよう。 そして、自分は、入ってくるエネルギーと同じもの、対等なものだと再定義づけしてみる。 力学を知っている人は、摩擦は二つのものが擦れるときに起きることを知っている。 だから、新たなエネルギーを受け取れないと思ったときには、二つの間に摩擦が起きていると考えられるのである。 

     

     それが自分のからだの内臓から、いま自分が直面している問題にまで出てくる。  そして社会がどう考えているか、自分のからだがどうエネルギーを受け入れるかということからも摩擦は出てくる。 ゆえに最初にやることは、自分がそのエネルギーと対等だと知ることである。 それによって摩擦が減ってくる。

     

     摩擦が起こるのは、自分のエネルギーと新たなエネルギーを対等にすることを怖れているからである。 たくさんの人がこれをやっている。 自分がそうなってしまったら、どこか未知の分野に足を踏み込んでしまうという怖れだ。 

     

     しかし、なぜ未知のものを自動的に怖れてしまうのか。 それは我々が長い間、未知のものは怖いもの、ネガティブなものと教えられてきたからである。 でも我々は、すべて間違いなく創造者である。 自分の考えていることを、自分の外に創りあげていくことができる人類なのだ。 だから、未知のものをポジティブなものだと考えれば、ポジティブなものしかやって来ないということになる。 どんなことが起きても、それをポジティブに使えないということはないのである。 怖れる対象が問題なのではなくて、怖れること自体が問題なのだ。

  • テレポーテーションとネガティブ・エネルギー

      今日は、エゴイスティックなネガティブ・エネルギーとテレポーテーションについて話してみたい。 

     

     テレポーテーションというのは、実際に存在しているものだ。 それは我々がいつもやっていることである。 我々が 「動き」 と呼んでいる考えは、本当は幻想であり、実際にはひとつの位置から次の位置へとテレポートしていることになる。 

     

     テレポートは、ゆっくりとした連続性を作り出すために、非常に小さなジャンプを積み重ねている。 もちろん、途中を抜かして、東京の渋谷地点から福岡の博多地点まで飛ぶこともできる。 博多に着いたとき自分が持っている波動に、いまの自分の波動を合わせたとき、博多に現われることができる。 

     

     今、渋谷にいる時の自分の固有振動数に自分を強く一致させることにより、博多地点における自分の波動となることができる。 そのあとは、ただ、自分を行かせてあげればいいのである。 しかしながら、我々は、社会の中で自分のネガティブなエネルギーであるエゴにしがみつくということを長い間訓練してきた。 だから、ほんの一瞬でも 「今の自分」 から離れることができなくなってしまったのである。

     

     エゴというのは、物理次元の構造の中にしか存在できないものだ。 だから、そこから一時でも完全に退くということは、自分自身がまったく消滅させられると思い込んでしまう。 テレポートするためには、もしくは、自分を異なる場所に再生するためには、瞬間的に肉体を持たない状態になることが必要である。 だから、ネガティブなエゴの部分を無条件の愛をもって、安心させてあげる必要がある。 そうすれば、エゴを失う怖れがなくなる。

     

     場所を移動するとき、我々の観念では、一番抵抗の少ないところに行くようだ。 水や電気が一番抵抗の少ないところを流れるように、いま自分のもつ最も強い観念に従って移動するのである。 自分がある場所に行くためには、飛行機や新幹線のほか、たくさんの方法があるが、まったく努力なしに楽に行ける方法もある。 それらを除外しないでほしい。

     

     それは、博多地点のバイブレーションである固有振動を感じながら、同時に、時間と空間のない状態、それでいて中心はしっかりと定まっている状態にする。 自分の魂の目を、すでに博多の場所に置いて、そこから見始めるのである。 ときには、これを二か所同時に行なうこともできる。 つまり、二つの異なる地点で同時に歩いていたりすることもできるのである。 これは 「バイロケーション」 という、肉体を伴った幽体離脱であるといえるものだ。