カテゴリー: 日下和夫

  • 神経症15

     前回からの続き「神経症」について、もう少し続けてみる

     神経症にかかっている人間がはじめて精神分裂を起こすとき、視覚、聴覚、触覚でとらえた情報を一時的に蓄える働きをしている脳の記憶組織である海馬からその周辺の神経回路、さらに大脳皮質の連合野にも分裂が起こってくる。そんな記憶の内には、苦痛な感情とともにしまい込まれた現実の記憶の他に非現実的な体系と結びついている記憶も存在している。この非現実的な体系に結びつく機能というのは、苦痛につながれている危険性のある記憶について、それをこし分けて、ふるいにかけ、99%の情報は阻止する役目を担っている。

     だから子どもたちが新たに原始的な苦痛の情景に直面するたびに、そんな経験をより多く消し去ることを強いられることになる。その結果、それぞれの原始的な苦痛のまわりには、完全な意識からふるい落された連想がまとわりついている。このように精神的な外傷が強ければ強いほど、脳の記憶のいくつかの面に影響を与える度合いも当然強くなってくる。

     記憶というのは苦痛な感情に密接につながっており、人間の本能でもある健忘的な記憶は、意識的に合成し受け入れるにはあまりにも苦痛が伴うようである。したがって、神経症にかかっている人間の場合、いくつかの重要な領域の記憶が不完全であることもわかっている。

     原始的な情景にはじめて直面したときに、非現実の記憶の体系が芽生えるとする考え方は、いくつかのことを意味している。たとえば神経症の人間は、日時、場所、歴史的な事実、さらには自分の過去についてすら、恐るべき記憶をもっているが、それは「えっへん! どうだい、俺はすごく頭がよく、よく覚えているだろう」と言っている非現実の外面を支える働きをしているにすぎない。それは神経症患者の記憶の深い部分においては、全面的に阻止されているに違いない。非現実の自己の記憶は選択的で、緊張を和らげ、「自己」を助長するために心の奥深くにある闇の部分に絡みついているのだ。要するに、神経症の人間のすばらしい記憶なるものは、本質の記憶をはねつけるための防御にすぎないということが言える。

     そして緊張を伴わない神経症など絶対にあり得ない。ここでいう緊張とは、不自然な緊張のことで、これは正常な心理状態の人には無縁なものだ。いうまでもなく正常な緊張は、我々が生きていくうえで必要なものであるが、不自然な緊張とは慢性的なものであり、否定された感情と要求、あるいは未解決のそれらがおよぼす圧力なのである。神経症患者の臨床でいう緊張とは、いつの場合にも神経症的な緊張を意味しており、緊張の程度が弱ければ、その分だけ気分がよいのがふつうで、緊張が高いほど、気分は悪くなる。要するに神経症患者が見せる行動は、少しでも気分をよくしたいと自ら望んで行なっているものである。

     緊張が生ずる原因、それにその効用とはいったい何なのか? 神経症の一部を形成している緊張は、必要を満たしたり、破滅的な感情から人間を守ったりする方向に肉体を動員する、いわば生存のためのメカニズムであると推論することができる。いずれの場合にも、緊張はその人間の継続性と統合性を保ち続けようとする。たとえば、お腹がすくと、緊張が生じ、食べ物を探し、その必要を満たす方向に我々を向かわせようとする。

     小さな子どもの場合には、抱いてもらえず、元気づけてもらえないと、そこに緊張が生じ、必要に駆られて行動を起こす。また、いつも必要を充たされることがないと、満足感にありつけないことが耐え難い苦痛となって、その痛みを抑圧するために要求が抑圧され、それが緊張として残ってしまう。

     このように充たされない思いは、意識と統合され、解消されるまで、緊張としていつまでも残ることになる。要するに、小さな子どものときに経験した運動や感情面での重大な抑圧は、それが感じとられ、解消されるまで、要求として残るのである。

     こうして心の分離は、恐れによって保たれ、苦痛の原因となる要求や感情が、意識に近づくことで信号を発するようになる。そんな恐れは防衛機制に行動をとらせ、要求をしりぞけたままにしておくためにありとあらゆる手段を講じてしまう。その恐れは生きていくためのメカニズムの一部であり、自動的に反応する。ちょうど我々が注射を受けるときに緊張するのと同じように、それは打撃に対して守りかためる体制をとる。その体系がうまく苦痛を払いのけることができないと、意識的な恐れ、すなわち、不安が生ずることになる。恐れもまた、通常の意識に感じとられることがない。それは蓄積された緊張の一部となってしまう。

     不安というのは、感じととることが出来るが、きちんと焦点が定まっていない恐れのことであると、定義することができる。不安は防衛機制が弱まり、恐れの感情が意識に近づくときに呼び覚まされ、その感情が結合していないために、不安の焦点は定まっていない場合が多い。不安の根源は、愛の欠如、すなわち誰からも愛されていないという恐れにこそある。大抵の人間は、自分は愛されていないのだという感情を脇に押しやるために「人格」というものをつくりあげ、それで不安そのものをふせぎ止めているのである。

    明日につづく

  • 神経症15

     前回からの続き「神経症」について、もう少し続けてみる

     神経症にかかっている人間がはじめて精神分裂を起こすとき、視覚、聴覚、触覚でとらえた情報を一時的に蓄える働きをしている脳の記憶組織である海馬からその周辺の神経回路、さらに大脳皮質の連合野にも分裂が起こってくる。そんな記憶の内には、苦痛な感情とともにしまい込まれた現実の記憶の他に非現実的な体系と結びついている記憶も存在している。この非現実的な体系に結びつく機能というのは、苦痛につながれている危険性のある記憶について、それをこし分けて、ふるいにかけ、99%の情報は阻止する役目を担っている。

     だから子どもたちが新たに原始的な苦痛の情景に直面するたびに、そんな経験をより多く消し去ることを強いられることになる。その結果、それぞれの原始的な苦痛のまわりには、完全な意識からふるい落された連想がまとわりついている。このように精神的な外傷が強ければ強いほど、脳の記憶のいくつかの面に影響を与える度合いも当然強くなってくる。

     記憶というのは苦痛な感情に密接につながっており、人間の本能でもある健忘的な記憶は、意識的に合成し受け入れるにはあまりにも苦痛が伴うようである。したがって、神経症にかかっている人間の場合、いくつかの重要な領域の記憶が不完全であることもわかっている。

     原始的な情景にはじめて直面したときに、非現実の記憶の体系が芽生えるとする考え方は、いくつかのことを意味している。たとえば神経症の人間は、日時、場所、歴史的な事実、さらには自分の過去についてすら、恐るべき記憶をもっているが、それは「えっへん! どうだい、俺はすごく頭がよく、よく覚えているだろう」と言っている非現実の外面を支える働きをしているにすぎない。それは神経症患者の記憶の深い部分においては、全面的に阻止されているに違いない。非現実の自己の記憶は選択的で、緊張を和らげ、「自己」を助長するために心の奥深くにある闇の部分に絡みついているのだ。要するに、神経症の人間のすばらしい記憶なるものは、本質の記憶をはねつけるための防御にすぎないということが言える。

     そして緊張を伴わない神経症など絶対にあり得ない。ここでいう緊張とは、不自然な緊張のことで、これは正常な心理状態の人には無縁なものだ。いうまでもなく正常な緊張は、我々が生きていくうえで必要なものであるが、不自然な緊張とは慢性的なものであり、否定された感情と要求、あるいは未解決のそれらがおよぼす圧力なのである。神経症患者の臨床でいう緊張とは、いつの場合にも神経症的な緊張を意味しており、緊張の程度が弱ければ、その分だけ気分がよいのがふつうで、緊張が高いほど、気分は悪くなる。要するに神経症患者が見せる行動は、少しでも気分をよくしたいと自ら望んで行なっているものである。

     緊張が生ずる原因、それにその効用とはいったい何なのか? 神経症の一部を形成している緊張は、必要を満たしたり、破滅的な感情から人間を守ったりする方向に肉体を動員する、いわば生存のためのメカニズムであると推論することができる。いずれの場合にも、緊張はその人間の継続性と統合性を保ち続けようとする。たとえば、お腹がすくと、緊張が生じ、食べ物を探し、その必要を満たす方向に我々を向かわせようとする。

     小さな子どもの場合には、抱いてもらえず、元気づけてもらえないと、そこに緊張が生じ、必要に駆られて行動を起こす。また、いつも必要を充たされることがないと、満足感にありつけないことが耐え難い苦痛となって、その痛みを抑圧するために要求が抑圧され、それが緊張として残ってしまう。

     このように充たされない思いは、意識と統合され、解消されるまで、緊張としていつまでも残ることになる。要するに、小さな子どものときに経験した運動や感情面での重大な抑圧は、それが感じとられ、解消されるまで、要求として残るのである。

     こうして心の分離は、恐れによって保たれ、苦痛の原因となる要求や感情が、意識に近づくことで信号を発するようになる。そんな恐れは防衛機制に行動をとらせ、要求をしりぞけたままにしておくためにありとあらゆる手段を講じてしまう。その恐れは生きていくためのメカニズムの一部であり、自動的に反応する。ちょうど我々が注射を受けるときに緊張するのと同じように、それは打撃に対して守りかためる体制をとる。その体系がうまく苦痛を払いのけることができないと、意識的な恐れ、すなわち、不安が生ずることになる。恐れもまた、通常の意識に感じとられることがない。それは蓄積された緊張の一部となってしまう。

     不安というのは、感じととることが出来るが、きちんと焦点が定まっていない恐れのことであると、定義することができる。不安は防衛機制が弱まり、恐れの感情が意識に近づくときに呼び覚まされ、その感情が結合していないために、不安の焦点は定まっていない場合が多い。不安の根源は、愛の欠如、すなわち誰からも愛されていないという恐れにこそある。大抵の人間は、自分は愛されていないのだという感情を脇に押しやるために「人格」というものをつくりあげ、それで不安そのものをふせぎ止めているのである。

    明日につづく

  • 神経症14

     原始的な苦痛の底流には、生き延びようとする生命の要求が横たわっている。小さな子どもは両親を喜ばすために、やらなければならないことを行なう。あるクライエントはその点について語った。「私は自分自身から自分を取り除いてしまった。私は自分を殺した。なぜなら私は気性が荒っぽくて手がつけられず、心も騒がしいのに、両親はおとなしくデリケートであることを望んでいたからだ。こんな不自然な気違いじみた両親と一緒に生きていくためには、自分自身を追い払わなければならなかった。しかし私はかけがえのない自分を殺してしまった。それは割の合う取引ではなかった。しかしそうするしかなかった」と。

     我々は統合された存在であり、現実の自己はたえず表面に立ち現われ、精神的な結合をしようとする。仮に本来の性質をすべて持ち備えていたいとするやみがたい要求がないならば、現実の自己を永久に退けておくことも出来よう。それは我々自身の内部におとなしくとどまり、我々の行動の中に割り込んでこようとは一切しないはずである。神経症の人間を駆り立てている要求は、ふたたびすべてを備えた人間に、すなわち本来の自分に立ち帰ろうとする要求である。非現実の自己は障害であり敵であって、最終的には破壊しなければならないものである。

     原始的な苦痛の最も重要な一面は、それが始まったその日のままの強さを持って内部に閉じ込められていることである。それは当人のいかなる生活環境や経験によっても、触れられることはない。50歳になるクライエントたちが45年以上も前に受けた小さなときの痛みを、あたかも現に経験しているような破壊的な強度をもって始めて経験する。その苦痛が全面的に経験された例は、それまで一度もなかった。その全面的な衝撃を感じそうになると、それは食い止められ、押し隠された。しかし苦痛は非常に忍耐強い。それは毎日の生活の中で、自らの存在を主張するために、我々の注意をひこうとする。しかし滅多に解放を求めて叫んだりすることはしない。苦痛が人格体系のなかに織り込まれてしまい、感じとられることがなく、ほとんど認識されることもない方が多い。

     そのとき神経症的な体系は、苦痛を無意識な行動にすり替えてしまう。それは実に自動的に行われる。認識されるかどうかに関わりなく、苦痛は何らかの吐け口を持たずにはおれないからである。吐け口は「私につらくあたらないで」と訴えかけるようにいつも微笑みを絶やさない形をとって、「私の世話を看てください」と要求する肉体的な病気の形をとる。あるいは、「私に注意を払ってください、お父さん!」というために、社会的な集まりの席で声高に行動するとか、立派に振る舞ったりする。

     しかしどんな社会的な地位に就いていようと、どれほど謹厳で「成熟」した人格者であろうとも、少しばかり引っ掻くと、その装いの下から傷ついた子どもが顔を覗かせるのが確実に見てとれる。原始的な苦痛の経験とは、ただ単に苦痛について知ることではないことを、理解しなければならない。それは苦行と化すことである。我々は精神物理的な存在であるので、その統合を分離するいかなるアプローチも成功できるはずがない。神経症は感情の病気でもなければ精神の病気でもない、それは間違いなく両方の病気である。そして本来の自分を全部取りもどすには、その分裂を感じとり、認識し、人間をふたたび統合する結合を声に出して叫ぶことが必要である。それにはカタルシス、すなわち浄化作用を必要とするのだ。逆説的ではあるが、分裂を強く感じるほど、統合をもたらす経験はいっそう強烈で本質的なものとなりうる。
    次回につづく、かも?

    2014年4月27(日)
    東京操体フォーラムが開催決定!
    会場は東京千駄ヶ谷津田ホールです。

    「入眠儀式 快眠・快醒のコツのコツ」
    是非お越し下さい。

    http://www.tokyo-sotai.com/?page_id=644

  • 神経症13

     原始的な感情は、深い井戸のようなものであり、我々はそこから感情を汲み出している。神経症は、いわばその井戸の蓋の役目をしている。それはほとんどあらゆる感情を抑圧する働きをする。それに、苦痛というのは言うまでもなく喜びまでも抑圧する。それだからこそ、ブレスセラピーによって原始の苦痛を感じ、自分自身を開放したクライエントは一様に、「私はまた感じることができるようになった」ということができるのだ。クライエントらは子どものとき以来はじめて本当に感じ取れる喜びを口にする。

     神経症の人間の内部に苦痛の深いスペースがあるとするこの考え方は、単なるたとえではない。表現の方法こそ異なれクライエントが口にしていることは、自分の内部に痛みのスペースを持ち歩いているということだ。たとえば、父親にぶたれるたびに子どもは、「お父さん、お願いだから優しくしてちょうだい。お願いだよ、こんなに恐い思いをさせないでよ」という気持を持つ。しかし子どもはいろいろな理由から、そんなことは言葉に表しはしない。ふつうそうした子どもは酷い闘いの状態にあるので、自分の感情に気づかない。かりに気づいたとしても、そんなことを言ったりしたら、「恐がらせないで、お父さん」などと言おうものなら、父親にあらたに懲らしめられかねない。そこで子どもは無意識のうちに、探りを入れ、すぐに謝り、でしゃばらず、礼儀正しくきちんと振る舞うことによって、口にできないことを表現しようとしている。

     このように原始的な苦痛は一つずつ蓄積され、吐け口を求めて張りつめている緊張のあらゆる層に入り込んでいく。それはその寄ってくる原因と結合したときにのみ、解消されることになる。それぞれの出来事が追体験されるとか、結合される必要はないが、多くの経験の下に横たわっている共通の感情は感じとられなくてはならない。だから父親にぶたれた子供は、漠然とした感情が自分の内部にある痛みのスペースの中に蓄えられている父親と結びつけられると、父親に恐い思いをさせられた記憶が次々によみがえってくるのだ。

     このことはとりもなおさず、主要な原始感覚的な情景の存在を証明している。それは中心的な感情につながらずにはおかない数多くの経験を代表するものである。しかし恐い思いの感覚は、脅威と思われる出来事を解決するために必要な感情の動きでもある。それは闘うか、逃げるか、あるいは変容によって成長を遂げるかの本質である。したがって恐れを深く感じていけば、それだけ知性的でバランスのとれた対応ができるようになって自らを癒すものとなりうる。それには深くて途切れることなく続ける意識的な呼吸を通してその瞬間を感じることができる。原始感覚的とも言えるこの手法は自分の内部にある苦痛のスペースを手順よく踏んで、空にすることができる、そしてスペースが空になったとき、その人間は本物に、あるいはよくなったと、見做すことができるのである。
    明日につづく

    2014年4月27(日)
    東京操体フォーラムが開催決定!
    会場は東京千駄ヶ谷津田ホールです。

    「入眠儀式 快眠・快醒のコツのコツ」
    是非お越し下さい。

    http://www.tokyo-sotai.com/?page_id=644

  • 神経症12

     苦痛に対するクライエントの反応の仕方は我々療法家にとって非常に重要である。そこでこの苦痛における理解を深めるのに役に立つ調査研究を取り上げてみる。一定の原始感覚に対する「瞳の収縮と拡張」について調査したE・H・ヘスは、感覚が快の場合に瞳が拡張し、不快な場合には収縮することをつきとめた。それによると拷問の絵を見せられた被験者の瞳はひとりでに、無意識のうちに収縮した、というような実験結果であった。

     子どもが不快なシーンを目撃したときにも同じことが、しかも全身に生ずるはずである。それは苦痛から逃れようとする全身的な反応であり、それにはE・H・ヘスの実験の場合と同じように、各種の感覚器官、脳の働き、筋肉組織などが関係しているものと思われる。これについては操体においても、触診での痛覚から逃れようとする、いわゆる逃避反応から動診、操法につなげていく興味あるメソッドを用いている。進化を続けている操体のことだから、いずれ精神的な療法としても確立することだろう。

     このように強度の苦痛から逃れようとするのは人間の反射的な行動であり、それは熱いやかんから手を引っ込めることや、恐怖映画のぞっとするシーンから眼をそらすこと、それに辛い思いや感情を押し殺すことにまでおよんでいる。この苦痛の原理が神経症の発展に本来つきまとっているものと考えられる。そこで原始感覚的な情景に直面すると、子どものからだは全面的な認識を拒んで機能を停止し、その認識を意識しなくなる。ひどい肉体的な苦痛に苛まれると、このうえなくしっかりしている人でも意識を失うのと同じことである。

     原始感覚的な苦痛は、経験されぬ痛みであり、この観点から、神経症を反射、すなわち、苦痛に対して全身が瞬間的に示す反応だと見なすことができる。また催眠術をかけた被験者の生理学的な実験結果がある。それによると被験者は間違いなく目覚めていたが、「あなたは何も感じることができなくなった」と催眠をかけられたうえで、痛みを伴う刺激を与えられた。そのとき、物理的な測定は被験者がそれに反応していたことを示していたが、被験者は何の痛みも感じないと報告している。しかしこの実験では、催眠をかけられて何の痛みも感じないと報告した被験者の脳波にはっきりと変化が生じていた。

     原始感覚的理論の見地からすると、このことは、苦痛を与えられていることに当の本人が気づいていないときですら、肉体と脳はたえずそれに反応している事実を物語っている。ということは痛覚に対して鎮痛剤を与えられた後でもなお、被験者の肉体が依然として苦痛を伴う刺激に反応していることを、心理的な測定データは示している。苦痛に肉体が反応することとその苦痛を意識していることとは、まったく別個の現象なのである。そこで肉体が耐え難い苦痛を締め出そうとするとき、原始感覚的な苦痛を隠し押さえておくために、何かが必要とされる。それには神経症がその役割を果たすのである。それは苦しんでいる人を苦痛から逸らし、希望へと向かわせてくれる。すなわち、自分の要求を満たすことができる対象に向かわせるのである。

     神経症の人間はそのような切迫した、しかし満たされていない要求を持っているので、その知覚と認識作用は現実から遊離するしかない。それでも苦痛は阻止される、なぜなら感情は有機生命体の統合された総合的プロセスであり、原始感覚的な苦痛のように大きな重大な感情を退けるとき、我々は感じとる能力が全面的に阻害されると信じているからである。
    明日につづく

    2014年4月27(日)
    東京操体フォーラムが開催決定!
    会場は東京千駄ヶ谷津田ホールです。

    「入眠儀式 快眠・快醒のコツのコツ」
    是非お越し下さい。

    http://www.tokyo-sotai.com/?page_id=644

  • 神経症11

     我々は本物の現象として生まれてくる。そして本物の現象であるためには、何の努力も必要としない。現実の自分のまわりに我々が築く殻は、フロイト学派の人ならばさしずめ「防衛機能」とでも呼ぶものであろう。フロイト学派では、防衛機能は人間に必要なものであり、最も強固な防衛機能を備えていることが健全で均衡のとれた人間であると彼らは信じている。しかしとてもそうは思えない。真実はまったくその逆で、無防備な人や非現実の自己と無縁な人こそ正常だと、私は思っている。現実的に言って、防衛力が強いほど、その人の病は重いと云わざるを得ない。すなわち、非現実の自己の要素が異常に強いからである。

     感じる能力を備えている現実の自己が抑圧されている典型的な例として、赤く熾っている炭火の上を歩くとか、針のベッドに寝てみせるとか、そういったアクロバティックなヨーギ(ヨーガ行者)に見ることができる。だが、これは決して宗教的な苦行などではない。そのようなヨーギーは肉体的な苦痛を感じないように、感覚を意識から切り離しているだけのことだ。それと同じように神経症の人間は、苦痛を和らげるために感情を完全に切り落としてしまい、もはや心理的な痛みを感じることができないようにしている。

     ときに神経症の人間が、自分自身を垣間見ることがある。病に伏せっているとか、休暇で非現実の自我の闘いに引きずり込まれるようなことが殆どない状態におかれると、自分自身の中へ投げ込まれてしまう。ときにそれは精神病的な症候につながることもありうる。すると、突然、無意識のまま動作を繰り返しているような「人間喪失感」や「奇妙さ」を感じることがある。この人格喪失感は往々にして現実の始まりなのであるが、神経症の人間は自分の非現実を信じているために、自分の現実の自己を何か異質な力と感じてしまう。一般にそうした人間は、慣れ親しんだ自分の非現実の世界に引きこもり、そのとたんに現実の自己を取りもどしたように感じてしまうのである。

     もしももう一歩踏み込めたら、もしも突き進んでいって自分の非現実性を確認できるならば、その人間は現実の自分を取りもどせるはずである。そこで神経症にかかった人間の場合には、現実の感情を伴った自己は、最初の苦痛を受けたときにしまい込まれてしまう。自分自身を解放するために最初の苦痛を感じる必要があるのは、このためである。苦痛の否定が非現実の自己を生みだしたのとちょうど反対に、苦痛を感じることがそれを叩き潰す。非現実の自己は二重の体系であるために、肉体は苦痛があたかも異質の要素でもあるかのように拒否するようである。このように衝動は常に現実を指向している。

     神経症的な両親は子どもたちが本物であることを何としても許そうとしないので、子どもたちは現実に到達するために迂回ルートをとることになる。すなわち神経症を選ぶのだ。神経症とは本物であろうとしてとる非現実的な方法であるにすぎない。非現実の体系は、肉体の状態も狂わせ、生成を阻害し、発達を止める。それは本物の内分泌系を抑圧したり、過度に刺激したりする。それは弱いさまざまな器官に不当な緊張を強い、周期的な「機能停止」の原因となる。要するに、非現実の体系は総合体であり、単なる特定の行動ではない。神経症だということは、全面的に現実ではないことを意味している。したがってすべての面で、スムーズに正常に機能できないことになる。神経症は正常と同様に、無限のものである。それは人間が行うすべての面に及んでいる。

     このような神経症の人間に、ただひたすら速くて深い呼吸を導いて、自分を駆り立てているさまざまな苦痛に直面させる精神療法がある。なぜそれが効果的なのかといえば、それは神経症の人間が、より強い感情をもっており、湧き上がってくる感情に対するもっとも基本的・自動的な反応が、からだを緊張させ、呼吸を抑制することだからだ。それが好ましくない感情に対するための効果的な闘いであるからだ。その感情は神経からなり、神経は呼吸を通じて流れている。だから、味わいたくない感情は、神経の動きを止める、つまり呼吸を止めることで、感じなくなれる。そして呼吸をほんの少しでも抑えれば、自分の中のあらゆるレベルで神経の動きを減少させるので、神経の「ボリュームを絞り、感情を意識している部分のスイッチを切ることができるからである。

     そこでひたすら呼吸を連続させ、出てくるあらゆる感覚をひたすら肯定するように導く。そういったブレスセラピーの中で現実の自己に加えられた最初の攻撃が新しい人間の状態、すなわち神経症を生み出すのとまったく同じように、非現実の自己に対する組織だった攻撃は、新しい性質の人間、すなわち正常さをもたらすことができるようになる。苦痛は内部に入り込むばかりでなく、外部へ出てくるものであるからだ。
    明日につづく

    2014年4月27(日)
    東京操体フォーラムが開催決定!
    会場は東京千駄ヶ谷津田ホールです。

    「入眠儀式 快眠・快醒のコツのコツ」
    是非お越し下さい。

    http://www.tokyo-sotai.com/?page_id=644

  • 神経症10

     子どもたちの原始的な情景として、笑いものにされ、拒否され、無視され、恥ずかしめられ、駆り立てられることなど、無数の小さな経験、すなわち、小さな原始感覚的情景を経ている。そしてついにある日、子どもはこうした有害な出来事の一切が持っている意味を悟り始める。ある決定的な出来事が、こうした過去のあらゆる経験が持っている意味を要約するようである。「両親らはありのままの自分を愛していない」という思いのそれは、子どもらにとって破滅的な意味を持っている。したがって決定的な出来事は否定され、葬り去られ、非現実の自我の闘いがそれにとって代ることになる。その後、その経験はこの覆いによって緩和されるので、自分が現に苦しんでいることに子どもが気づかぬことがしばしばある。

     しかし非現実の自我の闘いが子どもを心の苦痛から守ってくれるのである。小さな原始感覚的情景のクライマックスである決定的なシーンを思い出させるクライエントもいれば、それ自体としては取るに足らぬ小さなクラック、亀裂が、ゆっくりと単調に蓄積されていき、それがある日突然に大きなクラック、亀裂を生む場合もある。このクラックが原始的な大きな原始感覚的情景といった劇的な形をとって生ずるにしろ、小さな原始感覚的情景の蓄積の結果にすぎないにしろ、子どもが現実から非現実の世界にすべり込む日が必ずやってくる。

     大きな原始感覚的情景のおりに生ずる分裂は、子どもが統合性を備え、結合している人間であることに終止符を打つ。このような大きな原始感覚的な情景は、子どもの生活で起こるただ一つのもっとも破壊的な出来事である。それは氷のように冷たい孤独の無限の奈落に落ち込んだ瞬間であり、あらゆる認識のなかでもっとも過酷なものである。それは、あるがままの自分は愛されていないし、この先も愛されることはないだろうと気づきはじめる瞬間である。

     大きな原始感覚的情景は、ふつう五歳から七歳の間に起こる。この時期は、子どもが身体的な経験から一般化を覚える頃である。この時期は、これまでに自分に起こった異質な出来事のそれぞれが持っている意味を、子どもが理解し始めようとするときでもある。客観的には、大きな原始感覚的情景は必ずしもトラウマを伴うものではない。それは衝撃的な出来事である必要はない。むしろそれはある了解であって、どちらかというと日常的な出来事を経験しているときに、子どもが、真実をちらっと、一瞬、垣間見ることである。

     たとえばある男性のクライエントは、小さなときにお母さんを呼ぶと、母親ではなくいつも怖い思いをさせられている父親がやって来たことを覚えている。そのとき、「自分が必要としているとき、お母さんは決して来てくれない」という思いが心をよぎった。また夜に寝床についてから、童話などの本を読み聞かせて欲しいとお母さんに頼んだことが何度もあった。しかし母親が来たためしはなかった。来るのはいつも父親だった。ある日彼は、自分の母親は必要なときに来てくれないことに気づいた。母親に来て欲しいしいと思うと、呼び求めることを厳しく叱りつける恐ろしい父親が来るので、彼は途方にくれてしまった。彼は母親を必要としていないふりをし、二度とお母さんを呼び求めることはなかった。その後、彼が母親を呼び求めたのは、大人になってから私の臨床で行なったリバーシングというブレスセラピーでの苦痛の最中に、「お母さん!」と呼んだのがはじめてである。

     ある日、大きな原始感覚的情景に直面し、緊張のために自我にクラックが生ずる瞬間まで、小さな原始感覚的情景は本当の自己を襲う単なる小さな出来事、批判や屈辱にすぎない。大きな原始感覚的情景は、生まれて間もない時期に起こりうる。それは本質的にひどく破壊的なことが起こり、小さな子どもが自分を守り切れず、その経験から分裂するしかないときに生ずる。こうした出来事は取り返しようのない分裂をもたらすので、その強さをそっくり追体験するまでつづくことになる。生まれてからいくらも経たないのに、両親から引き裂かれて孤児の施設に入れられることなどが、その一例である。

     大きな原始感覚的な情景が重要なのは、それぞれに苦痛を意味している何百もの他の経験を、象徴しているからだ。したがってそうしたシーンをリバーシングなどの精神療法を受けているときに再び体験すると、その直後に関連のある記憶が大量によみがえってくる。すべての出来事を結びつけているものは、「自分を助けてくれる人は一人もいない」というような思いなのである。こういった不快な感覚について、操体でも肉体レベルにおいて、原始感覚を非常に重視している、が、決してそれは偶然なことではない、それが肉体における感覚の大小の情景を伴っているからだと私は思っている。
     明日につづく

    2014年4月27(日)
    東京操体フォーラムが開催決定!
    会場は東京千駄ヶ谷津田ホールです。

    「入眠儀式 快眠・快醒のコツのコツ」
    是非お越し下さい。

    http://www.tokyo-sotai.com/?page_id=644

  • 神経症9

     子どもというのは、いつも自分の両親に気に入られようとする試みをもっている。それはまさに闘いと言ってもよい。その闘いはまず両親との間にはじまり、その後、家庭の枠をこえ、世間一般に及んでいく。なぜなら、子どもらは奪い取られた要求をいく先々に持ち込み、そのような要求は吐け口を求めずにはいられないからだ。そこで両親の代わりを見つけ出すことになる。その人たちを相手に神経症的なドラマチックな役柄を演じたり、自分の子どもたちを含め、誰でもおかまいなしに、自分の要求を満たしてくれる親代わりに仕立てあげたりする。

     たとえば言語的に抑圧されていて、一度として、喋ることを許されたことのない父親をもっている子どもは、聞き役を努めざるを得ない境遇にある。そんな子どもは、もううんざりするほど聞き役をさせられたために、自分の言うことに耳を傾けてくれる人を求める抑圧された欲求をもった大人になってしまう。そして多分、聞き手にはまず自分の子どもを間違いなく選ぶことであろう。

     基本的な要求が否定されることで精神的な要求が生じて、闘いの場は現実の要求から神経症的な要求へ、それは肉体から精神へと移動するのである。しかし精神的な要求は、現実の要求ではない。事実、純粋に心理的な要求などというものはひとつもない。心理的な要求というのは病的で神経症的な要求である。なぜなら、それは有機生命体が持つ本当の要求を満たさないからだ。

     たとえば、自分の重要さを感ずるためにホテルのいちばんよい部屋であるVIPルームに入れずにはおれない人は、今まで愛されたことがなく、生きるための自分の真剣な努力が無視ないしは抑圧されたために生じたある要求に、そうした形で吐け口を与えているのである。その人がホテルの支配人から名前で識別してもらう必要を持ち合わせているのは、子どもの時に、「息子」あるいは「娘」という十把ひとからげな呼び方でしか呼ばれなかったせいかも知れない。

     要するにそのような人は両親に人間性を無視されていたわけで、他の人たちから人間的な反応を象徴的に得ようとしているのである。もし両親に固有の人間として扱われていたならば、この重要さを感じたいという要求は取り払われたことであろう。神経症にかかった人間の言動は、古い無意識の愛され尊ばれることの要求に、新しい重要さを感ずる必要性を貼る作業にすぎないのである。

     そうした重要さを感ずるのが本物の感情であり、それらを追及することが必要だと信ずるようになる。スポットライトに照らし出された名前や印刷されている自分の名前を見るとよい気分になるのは、我々の多くが個人としての認識を強く奪い取られていることを如実に物語っている。名前が出ていることが紛れもない事実であっても、それは親の愛を求める気持ちを象徴的に満たしてくれているにすぎないのだ。聴衆や読者の人気を得ようとすることこそが闘いとなるのである。そのような闘いとは、子どもらを絶望感から守もってくれるものである。子どもが並はずれて勉強し、成績の向上にあくせくし、遂行するとき、それはまさに絶望感から守られていることになる。

     このように闘いというのは愛されようとする神経症的な希望である。自分自身である代わりに、もう一人の自分になろうと子どもは必死に闘っている。遅かれ早かれ、子どもはこっちの方が本当の自分であると、偽りの自分を信ずるようになる。その行為はもはや、自発的で意識されたものではなく、自動的で無意識なものである。それが神経症というものだ。

     こうした行動は始原の、人生の初期においてはじめて両親から受けた傷が後日、トラウマとして神経症が芽生えるのである。そうした傷が、当人の神経症の形態とは関係なく、すべての神経症の人間のあらゆる瞬間にまとわりついてしまう。こうした傷は当人に意識されないことが多い。それらがからだ全体にひろがっているためである。それらはさまざまな器官、筋肉、それに血液とリンパ組織にまで影響を及ぼし、我々は歪んだ行動をとるようになる。これが「生体の歪み」と言われているものだ。
    明日につづく

    2014年4月27(日)
    東京操体フォーラムが開催決定!
    会場は東京千駄ヶ谷津田ホールです。

    「入眠儀式 快眠・快醒のコツのコツ」
    是非お越し下さい。

    http://www.tokyo-sotai.com/?page_id=644

  • 神経症8

     日下が担当する今週のテーマは「神経症」、前回ブログの続き。

     神経症においては自分の感情との断絶という精神の分裂を伴うことになるが、その分裂をもたらしているのは幼児期における、決して愛してもらえないという恐ろしいまでの孤独な絶望感である。たとえどんなことをしても自分の要求は永久に満たされないだろうという希望のない認識を、子どもは否定しなければならない。子どもにとって、自分は無視されているとか、だれも自分に関心を持ってくれていないと知っていれば、とても生きてはいけないからだ。自分に対する批判をもう少し父親に和らげてもらい、母親にももっと優しくしてもらう方法がまったくないなどという思いに、子どもはとても耐えられないのである。

     そこで子どもが自分を守る唯一の方法として、両親の愛に代わる要求を生みだすことである。それがほかならぬ神経症だ。年中両親に痛めつけられている子どもを例にとってみると、その子は学校に行っても教室ではきっと喋り続けるに違いない。そこで、教師はその子に厳しくあたることになる。校庭にいてもその子は、休みなしに自慢話をするので、他の子どもたちは、その子を避けるようになる。

     そしてその子が大人になると、ミシュランの星印がつくような一流ホテルの豪華なVIPルームのように、他人の目には明らかに象徴的なものに対するやみがたい要求を持っているばかりでなく、声高に要求もする。しかし、たとえそのVIPルームのゲストになったところで、自分の重要さを感じたい要求は決して解消されることはない。そうでなければ、外で宿泊をする度に同じことを繰り返す理由があるだろうか。自分は価値ある人間だと認識されたいという意識はされていなくても、現実の要求から分裂しているために、さまざまなしゃれた豪華一流ホテルの支配人から名前を挙げて挨拶されることから、自分の存在意義を引き出しているにすぎないのである。

     子どもたちはさまざまな現実の生物学的な要求を持って生まれてくるのではあるが、どういうわけか、両親らはそれらを満たしてやることはない。それはただ単に子どもの要求を読み取れないためかも知れない。あるいはどんな誤りも犯すまいとする気持ちから、子どもの養育に関する厳めしい権威者の忠告を守り、時計とにらめっこして子どもを抱き上げ、航空会社もうらやむほどの予定表に則ってお乳を与え、マニュアル化した成長図表にしたがって乳離れをさせ、できるだけ早い機会にトイレの躾をしているのであろう。

     しかしながら、歴史が始まって以来、実に多くの人間が神経症にかかってきた原因を、無知や手順を重んずる熱意だけで説明できるとはとても思えない。子どもたちが神経症にかかる大きな原因は子どもたちの両親が、自分たちが子どものときに満たされなかった要求にあまりにもとらわれているためであるということがつきとめられるのである。

     そんなわけで、自分を大事にしてもらいたいがために妊娠する女性もいる。自分を大事にしてくれることを彼女は生まれてこの方ずっと望んでいたのである。だから妊娠して自分が注目の中心にいるかぎり、彼女は幸福である。しかし、いったん子どもを産んでしまうと、酷く気が滅入ることになる。妊娠していることは自分の要求を満たす手段であって、この世に新しい人間を送り出すこととは何の関係もなかった。新生児が生まれ出てきて、その母親から他人の心配りを引き出すことができた一時期を奪ったために、赤ん坊がその母親に苦しめられることすらある。そして母親になる準備ができていないのでお乳が出ず、自分自身が生まれ落ちてすぐになめた剥奪の苦しみを同じように新生児に与えることになる。このようにして、両親の罪は、永遠に終わることがないと思える円を描いて、子どもたちを見舞うのである。

     そんな哀れな子どもたちが大人になって立派な神経症を抱え込んでしまうようになるのであるが、このような神経症に対して効果的な療法は見当たらないのが現状だ。しかしまったく皆無というわけでもない、私が試みた神経症に対する精神療法で思った効果がでなかったとき、自己催眠誘導による「心地よさ」を味わったことでいちじるしく改善したクライエントがいる。今後、こういった「快適感覚」というものがこの分野でも大きく期待されるものと私は信じている。
    明日につづく

    2014年4月27(日)
    東京操体フォーラムが開催決定!
    会場は東京千駄ヶ谷津田ホールです。

    「入眠儀式 快眠・快醒のコツのコツ」
    是非お越し下さい。

    http://www.tokyo-sotai.com/?page_id=644

  • 神経症7

     昨日のつづき
     子どもらは、現実の体系に加えられる攻撃が蓄積するにつれ、現実の意識が押しつぶされはじめる。ある日起こった、ある出来事がきっかけで神経症になることもある。たとえば、ある日、子どもを託児所へ預ける。それはもう何十回目かのことで、それ自体、決して精神的な外傷を与える性質のものではない。しかしそれが、現実と非現実のバランスを逆転させ、子どもは神経症になってしまうこともある。こうした出来事を原初的情景と呼んでいる。そのとき小さな子どもは、これまでに積もり積もってきた軽蔑され、拒否され、剥奪されてきたという思いから、「あるがままの自分では愛してもらう望みがまったく持てない」と、はじめて悟ることになる。その時その子どもは、自分の感情から分裂することによって、破滅的な認識から自分を守り、ひっそりと神経症の世界に滑り込んでいくのである。しかしこの認識は意識されるものではない。

     子どもは両親の周りで、やがて他の場所でも、両親が期待している線にそって振る舞うようになっていく。子どもは両親の言葉を口にし、両親のやり方で物事を行い、見かけの行為をしているのである。要するに子どもは、自分の本当の必要や望みにしたがって行動しているのではない。わずかな期間のうちに、神経症的な行動が自動的に行われるようになる。神経症には自分の感情との断絶、すなわち、分裂が伴ってくるようだ。

     両親が子どもに攻撃を加えるたびに、現実と非現実との間の溝が深まってくる。子どもは自分を感じないために、自分の体の禁じられた部分には触らず、活気を漲らすことも、悲しげな様子を見せることもなく、ただただ与えられた筋書き通りにものを言い、行動しはじめる。しかし分裂は攻撃に弱い子どもには必要なものである。それは有機生命体が自らの健全さを維持するための反射的、自動的な方法である。したがって、神経症は有機生命体の発達と精神物理的な統合性を破滅的な現実から守るための防衛でもある。神経症の人間はまがい物の人間であり、そうなったのは、存在しないものを獲得するためである。愛が存在していれば、子どもはあるがままの姿をとるであろう。愛とは、あるがままの姿を認めることであるのだから。そこで、ひどい精神的外傷を受けるようなことが何ひとつ起こらなくても、神経症にかかる。

     両親が自分たちの上品さを証明するために、子どもに対して各センテンスの終わりに、「お願いします」とか「ありがとう」という言葉をつけるように強要するだけで神経症が芽生えることもある。面白くないときや泣き出したいようなときに、ぶつぶつ言うのを許されないことが原因で神経症になる場合もありうる。自分たちが落ち着かないので、すすり泣きを急いで止めさせようと両親はしがちである。自分たちが立派な人間であることを証明するために「ちゃんとした女の子は、かんしゃくを起こしたりしないものです」とか「ちゃんとした男の子は、口答えなどしないものです」とか言って、腹を立てることを許さない両親もいることだろう。

     学校で詩を朗読させられるとか、難しい問題を解かされるために、子どもが神経症にかかる場合もある。どんな形をとっているにしろ、子どもは自分に何が要求されているかをきわめて素早く読み取ることができる。それを実行するか、それとも別の道を選ぶか。両親の望み通りの人間になるか、それとも別の人間を選ぶか。愛情のない世界を選ぶか、それとも、愛情とされている承認、微笑みをとるか。最後には見せかけの行為が子どもの生活を支配するようになる。それは両親の要求に仕えるための儀式の実践であり、言葉によるおつとめなのである。

     このようなプロセスで発症した神経症を医学や医療は今後、どのように考えてくれるのであろうか。神経症であれ、何であれ、人間が自分の病気や身体障害から回復しようと思えば、自分自身である程度責任を負わなくてはならないということを自覚すべきである。この「患者の責任」という観念はもちろん目新しいものではない。しかしこの観念の背後に潜む思想全体を、操体の快理論ほど見事に解き明かしたものは稀である。操体は西洋医学に関しては素人だが、その見解はいくつもの医学界でも受け入れられるようになってきた。ストレスの性質について、あるいは病気に対する人体の抵抗力を引き出す精神の力についても主な医学や心理学研究者の重要な発見と一致している。これらから言えることは、操体も着実に日本医学としての道を歩んでいるということだ。今や操体は人体の化学作用を変化させ、障害や病気に対する人体の自衛力の発動を促す正真正銘の治療手段となっている。