カテゴリー: 寺本 雅一(てらもと まさかず)

  • 飛ばしあう2020春季東京操体フォーラム

    おはようございます。

    昨日は春季東京操体フォーラムが開催されていました。

    当フォーラムとしては、初めての試みでしたが、

    「Web配信」という方法を用いて「場」を開放しての開催でした。

     

    各々の立場から、

    思っていることや感じていることを

    こういうご時世でも飛ばし合える。

    同じ空間にいることはできなくても、

    たしかな場を共有できる。

     

    今回はZoomの力をかりましたが、

    それを可能にしてくれるツールがあり、

    今回のようなフォーラムをこうして実現することができたことを

    本当に嬉しく感じました。

    思っていたよりも気持ちは軽く、

    予想以上に充実した空間を感じました。

     

    文化的な「営養(情報・表現)」を提供して、

    当フォーラムを支えて下さっている相談役の面々やブレインの皆様。

    朝から晩まで皆さんほぼ丸一日立ち会っていただきました。

     

    普段接することのできない言葉や意見をたくさん聞かせていただいて、

    個人的にも「操体」にとっても

    長期的に取り組みたい宿題をもらいました。

    それがこのタイミングだったことも、とても意味があることだと感じます。

     

    各々の立場で、皆さん色々なことを考えていることを感じます。

    今回のフォーラムに参加してくださった皆様、

    また今回はちょっと参加を控える、見合わせる事を決断された皆様。

    そんな操体を支えて下さっている皆様に、感謝したくなる一日でした。

    皆様ありがとうございました。

  • 立ちどまることは、動くこと

    少し前の話になるけれど、

    朝の通勤途中、時間に追われて最寄り駅に向かう途中で遭遇したこんな光景。

     

    3歳くらいの男の子だろうか、

    ベビーカーを押しているお父さんに向かって、

    「ちょっと、とまって~」

    としきりに伝えていた。

     

    それまで保育園に向かって、急いでいたのかな。

    お父さんもほとほと諦めたようで、ベビーカーを押す手をいったんとめた。

     

    「どうしたの?」

     

    すると、男の子はこんな風にこたえていた。

     

    「くもがうごいてるの、みたいの」

     

    その日はたしかにきもちのいい晴天で、雲はもくもくいきいきとしていて、

    何かしばらくその様子をみつめていたいような素敵な空が広がっていた。

     

    その瞬間、それまで急いでいた気持ちやら

    肩の力やらが、妙にストンと抜けたような、

    そんな空間が生まれたような気がした。

     

    時間にしてほんの数秒かもしれないけれど、

    お父さんも「なるほど」と言った感じで

    男の子としばらくの間、一緒に空を眺めて、

    呼吸を整えて再びベビーカーを押し始めていた。

     

    たしかにそうだ。

    ベビーカーが動いていては、雲がうごいているの見えないよね。

    いったん立ち止まることで見えてくる、

    感じられることもあるよね。

     

    今日はこれから春季東京操体フォーラムが、はじめてWeb配信という方法で開催される。

    一旦足をとめて、雲を眺めて、何かを感じるような

    そんな一日になればいいなと感じている。

     

    2020年春季東京操体フォーラム はWeb配信で開催致します。

  • 書くことは、動くこと

    普段ほとんどラジオを聴く習慣がないけれど、

    連日のテレビを介しての過情報に少し疲れたところで、

    試しにラジオのチューナーをひねっている自分がいた。

     

    波長の良く通る局にとめたところで

    作業をしながら、しばし耳をかたむけていると、

    それはちょうどシンガーソングライターの平松愛理さんが

    ゲストでトークしているラジオだった。

     

    最近どんな生活を送っているかという話で、

    とにかく最近よく「書いている」というようなことを話されていた。

    昔感動したことを思い出してみてそのことをノートに書いたり、

    こういった状況のなかで今感じている事や頭の中にあることなども、

    とりあえず書き出すようにしている、というような話だったと思う。

     

    普段から「日誌」を書くことにはこれでも一目をおいていた。

    なにせうちの師匠がとにかく日誌を欠かさず書く人だし、

    きっとそこには何かあるだろうと踏んでいた。

    自分でも時間を見つけてメモ書きでもいいから書く

    ということは生活の中に取り入れていた。

     

    ラジオでそんな平松さんの近況を聞いていて、

    なんかその気持ちすごくわかる気がする、とただその時は思っていたけれど、

    今そのことを思うと、そのプロセスは何かを「感じること」を思い出すこと

    に繋がっていたのではないかとも思えた。

     

    日誌を書くことはある意味で自分自身と向き合っているようなところもあり、

    それは自分自身が何かを感じていることに支えられて、成立する営みでもある。

     

    「何かを感じていてもいいんだ」

    という当たり前のことではあるけれども、

    そういった目に見えない動きの在り様を

    自分で肯定していることに繋がっていると思う。

  • 感じることは、動くこと

    気のゆるせる人と言葉を交わす。

    とてもシンプルな方法だけれども、

    モノを考えられなくなっていた自分にとっては

    久しぶりに何かが動いているように感じられる、

    なんとも魅力的なこととして感じられた。

     

    何故だろうと不思議に思ったけれど、

    本音で相手が話をしてくれたことで、

    何かを「感じること」ができたからだと思った。

     

    操体を勉強していて、

    また実践していて、恥ずかしい告白になるけれど、

    この自粛ムードのなか、

    一時の間、無意識のうちに「感じること」からすら

    遠のいていたことに気付かされた。

     

    2020年春季東京操体フォーラムはWeb配信で開催致します。

  • 話すことは、動くこと

    おはようございます。

    瀧澤さん一週間ありがとうございました。本日から寺本が担当致します。

    テーマは「とばす」ということで。

    よろしくお願い致します。

     

    ちょうど連関するように、新型コロナウィルスの存在感のなかで

    ここのところ色々な切り口で「とばせなくなっている」

    →「動けなくなっている」自分がいたことを思う。

     

    日本に漂っている「自粛」しなければ、という空気。

    自分や自分以外の人の健康や命を考えるとき、どうしたって目を背ける事のできないテーマが、ずーっと目の前に在り続けるように感じる日々。

     

    気が付かないうちに、感染症対策に必要な自粛以外でも、

    自分で止めてしまっていることがあることに気が付く。

     

    この状況の中で一時期、モノを考えられなくなっている自分を感じることもあった。

    どの情報を吸収して、どんな行動をすればいいのか、わからなすぎる。

     

    わからないことは、決して悪いことじゃないと思っていたけれど、

    それが不安の方にばかり繋がってしまうのはつらいなぁと思ってもいた。

    そのしばらく覆っていた悶々感は、ある日、仲間と話をするようになってから

    変わり始めた。

     

    それまで、ちょっと誰かと電話で話をすることすら遠慮していた気持ちがあったけれど、仲間と電話で話す機会を得て、その時自分が感じていたことや不安に感じていたこと、なんとなくボンヤリと感じている言葉になっていないこと、本音、などのたどたどしい話を聞いてもらった。

     

    それを聞いてくれている相手がいて、相手もまた本音で返してくれる、というキャッチボールを繰り返すうちに、何かの重みが抜けて、軽くなる感じがした。
     

    あぁ何かを感じたり、本音で話したりしてもいいんだ、と妙に納得してそれをとても嬉しく感じた。

    同時に、自分がどれだけ動きを失っていたか、

    または失っていると錯覚していたかに気付かせてもらったような気がした。

     

    2020年春季東京操体フォーラムはWeb配信で開催致します

  • シンプルに、手近に

    からだには自ずから「ととのう」働きが備わっている。

    これはとても有難いことだ。

     

    この作用に反発することなく、

    あの手この手でいい関係を築いていくことが

    操体の臨床にとっても、大切なプロセスとなってくる。

     

    からだはモノではないのだけれど、

    でも日々の生活の中で、生活時間に引きずられるような空間が続けば

    気が付くとモノのように扱って消耗してしまっている瞬間がある。

    その関わり方は、からだの治せる治癒力の向かい風となりうる。 

     

    つねにからだとの程よい関係を持ち続けるために、

    シンプルに、もっとも手近にできることは、

    やはり、「感覚」をからだにききわけることなのではないかと

    感じている。

     

    感覚は、いうなればからだからのメッセージでもある。

    それを受け取ろうとする姿勢だけでも、

    からだにとっては、きっと追い風となる。

    からだだって、無視されているよりは、ずっと嬉しい。

    一瞬の間でもいいから、一日の中で、こういう空間を自分にもてたらいい。

     

    さて、そうしたくても受け取り方がわからない。

    感覚をききわけるといったって、何だかわからない。

    簡単なようにいうけど、手探りで行うには色々な障壁があることは事実。

     

    それなら、最初は専門家の助けを借りるという方法をお勧めする。

    そのサポートが操体の臨床家にとっても重要な役割のひとつで、

    数多ある引き出しのなかから

    そのからだとその人に適った空間となるようにあの手この手で

    臨床をデザインしてくれるはずだ。

     

    ゆっくり時間がかかってもいいから、

    その人なりの 「間」のつくり方を

    見つけていくことができれば、

    セルフケアの基盤になっていくのではないかと感じている。

     

    一週間のお付き合いありがとうございました。

    明日から友松実行委員が登場します。どうぞ、ご期待ください。

  • 波打ち際にあの言葉

    からだのなかで常に起こっているバランス現象。

    この営みに対して、できる事ならば追い風に、

    少なくとも、余計な邪魔をするようなことは

    しなくてすむのなら、それにこしたことはない。

     

    とはいうものの、理想と現実には大きなギャップがある。

    禅寺の修行道場のようなところに強制的に身をおくようなことをしないかぎり、

    生活の中には誘惑が溢れかえっている。

    健康を維持することは、このある意味ハードな環境のなかで、

    自分自身から沸き起こる色々をコントロールすることと無関係ではない。

    そこに多大なエネルギーを傾注しているようにすら感じる。

     

    静かにからだからのメッセージを受け取ろうにも、

    油断していると刺激的な情報に意識は奪われる。

    からだの本音はなんとなくわかってはいるけれど、

    ついきこえないフリをしてしまうことも度々起こる

    「自分」と「からだ」との波打ち際。 

     

    そんな環境にいて、理想だけが高くなればなるほどに、

    その意識高い感じが自分自身へのストレスになってしまう事もある。

     

    橋本先生はそのへんのことに関して、本当にうまいことを言い放った。

     

    「間に合ってればいいんだ」

    「及第点がとれればいい」

    「60点でいいんだ」

     

    「怠けてもいい」とか「適当にやってればいい」と受け取るか、

    この言葉を味わいながら、自分自身と程よく折り合いをとり続けていくか。

    先生の人間に対しての放言は、現代においてもまったく輝きを失っていない。 

  • のるかそるか

    からだからのメッセージのようなものは、

    特別な場面でなくてもとても身近に受け取っている。

     

    例えば、「風邪をひいて熱が出て、喉が痛い」という類のメッセージは

    よほど、根詰めて何かに取り組んで突っ走っていない限り

    からだに照準を合わせなくても自ずから感じられてくる。

    イヤでも、からだから伝わってくる。

     

    「何となく調子が良くない」というわずかな変化でも

    感じることのできる人は、普段の生活のなかで自然とキャッチできている。

     

    「お腹がいっぱい」というメッセージなら、

    膨満感やげっぷなどから日々のなかで当たり前のように受け取っているだろう。

     

    上記のようなメッセージを受け取っては、

    その内容を踏まえて休息をとったり、時に従わないで食べすぎたりと、

    意識的に、または無意識に振舞うということを繰り返している。

     

    からだは言われなくても、心臓は動くし、小さな傷であれば治るし、

    内臓も各々の役割をマイペースで果たし続けるなど、自然とバランスをとるように絶えず活動してくれている生き物のようだ。

    からだからの様々なメッセージも、ある意味ではこのバランス現象の作用の一つのようにも考えられる。

     

    メッセージに従うことは、ととのうことの追い風になり、

    従わなければバランスが取れてくるまで、

    余計に時間がかかってしまうことだってある。

     

    とてもシンプルに、のるかそるかできればいいのだけれど、

    そうも簡単にはいかないところがもどかしい。

  • サイレンが鳴る前に

    からだにとっての「無視」とは何だろうか。

    からだからのメッセージを、聞かなかったことにすることだとまず浮んでくる。

     

    「病気」や「症状」、「疾患」などはある程度まで行き着いた結果のことであって、

    メッセージとしてはかなり音量や音圧の大きなものと言っていいと思う。

    分かりやすいし、ある程度を越えれば無視することはできない。

    操体ではこれをよく「サイレン」に喩えることがある。

     

    こんなに大ごとになる前に、からだの方からはなんらかのメッセージが送られているはずだ。

    なんとなく、調子が悪いだとか、いつもと違う感じがするとか。

    不定愁訴や微症状と呼ばれることもあるこの「なんとなく」も

    立派なからだからのメッセージ。

    このレベルのことは、気が付いているけど、気付かないことにしてしまう事が多い。

    数日たてば、消え去ったように感じることも多いし、

    そのような些細なことに気をとられている余裕が、毎日の中に潤沢にあるわけでもない。

    そして、何よりも気付いたところで、残念ながらからだに対してどうすることが必要なのか、

    自分で考えてみても他人に聞いてみても、わからないことだったりする。

    そこでからだと向き合うことを少し諦めてしまう。 

     

    からだからのサイレンには、鳴り始める理由がある。

    原因となる何かが、何でもない日々の生活の中で燻っている。

    サイレンとはまた違う微かなメッセージがこのときにも届いているはずである。

  • モノもからだも

    前日テーマに挙げてみた「モノ」に関して感じたことは、

    初日にテーマで触れた「からだ」に向けても同じようなことがいえると思っている。

     

    モノは使い込まれ、人が手をかけていく事などを通して、

    良くも悪くも味わいのようなものが生まれる。

    これは新品には備わり得ない、モノに宿るなにかだ。

     

    結果的に愛着が生まれれば、そのいのちは世代を超えて引き継がれることだってある。

    使い捨ての超消費社会の真っ只中にあっても、

    人の寿命よりも長生きするモノは未だに存在する。

     

    何にせよ、「使う」、「手にしている」という関わり方が、

    初歩的で、重要なメンテナンスそのものになっていると感じる。

    「使い方」を工夫し、手入れをしていく意志があれば、モノの寿命はそれだけでも延びていく。

     

    前日のイギルの一件以降、「使わないこと」の影響について考えるようにしている。

    忘れ去られている、意識に挙がっていないなど、色々な「使わない」状況が在る中で、

    その中でも、「無視している」状況というのは、また独特な態度が在るように感じる。

     

    使い方に多少の難があっても、何とか間に合っていける。

    「モノ」にとっても「からだ」にとっても、

    この「無視する」という態度は一番堪えるのではないかと思う。