カテゴリー: 寺本 雅一(てらもと まさかず)

  • 「からだ」が「動く」にあたっての取扱説明書

    おはようございます。

    瀧澤さん一週間のメッセージありがとうございました。

    本日からバトンを受け取って寺本が担当します。

    今期ブログのテーマは「般若身経を解説」です。

    宜しくお願い致します。

     

    操体に興味のある方や橋本敬三先生の著作に触れたことのある方ならば

    どこかで一度は目にしたことがあると思います、この「般若身経」というキーワード。

     

    4つの「息(呼吸)」・「食(飲食)」・「動(身体運動)」・「想(精神活動)」という基本的に自分以外の誰かに変わってもらうことのできない営み。そのなかの特に「動(身体運動)」に関わる事柄に関して、橋本先生が長年かけて学問し、解き明かしてきた「からだ」が「動く」ことにまつわる基本的なルール。これをできるだけシンプルにまとめあげたものからスタートしています。

     

    前述のブログでも触れられていますが、創始者の編んだ内容をベースにして、この「般若身経」は練り上げられ、必要があれば変化を続けています。過去の遺物として大事にされているわけではなく、現在に至るまで、からだという生命存在に照らしあわせながら大切にされてきました。

     

    私はこの「般若身経」を想う時、「からだ」が「動く」ということに関するとてもシンプルな「取扱説明書」のようなものを連想します。私自身、操体を通してからだについて学習するまでは、からだの使い方や動かし方にルールがあるなんて思いもよりませんでした。そのルールの基盤の存在に、橋本先生は目を向けた先駆者だったのではないかと思います。

     

    私たちがこの世に生まれたときに、一緒に「取扱説明書」が送られてくればいいのですが、誰もそのようなものは与えられません。操体では「般若身経」を通して、操体に出会った人に「からだ」と「動き」に関する取扱説明書のようなものを伝授しているのだと思います。

     

     

  • 目に見えないものに、目にみえないもので、

    今回のブログは今日で最終日となります。

    「この時代の暮らし方・私の免疫力アップ法」をテーマに、自然と自分の中で興味の対象となっていた他者のこと、それを踏まえたときのいまの自分自身のことについて、書いてきました。

     

    最後は、ちょうどこういったことを考え始めていた時に大きな示唆を与えていただくきっかけにもなった、私の尊敬する能楽師の大蔵流狂言方で人間国宝の山本東次郎先生が配信した動画を紹介したいと思います。

     

    www.youtube.com

     

    恐らく東次郎先生がこういった動画を「配信」することは初めてだと思いますが、このコロナ禍のなか、様々な動画がアーティストや芸能関係者から配信されている中で、ストレートに、いまこの瞬間を精一杯生きている人たちに向けてのメッセージを、「狂言方」という立場から発信しているところが、東次郎先生らしいと感じます。

     

    動画の中で「ああ、自分はこういう話が聞きたかったんだ」と感じたのは、「ソーシャルディスタンス」についての捉え方です。見えないウイルスと向き合う中で、私たちが取らざるを得なくなっているこの他者との距離感を、東次郎先生は「礼節」という、切り口から語られています。

     

    「礼儀」や「礼節」は、古い日本人が大切にしてきたもの。能や狂言という伝統ある芸能の中にも、決して軽んじられることなく、今もなお暗黙のうちにその芸の随所に宿っている姿勢です。私のようなものが言える事ではないので、東次郎先生の言葉を借りれば「舞台の上から、観客に対しての礼儀」であり、また能舞台の上で描かれている「古い日本人の人と人との接し方」の中にも自ずと表れていたりと、あらゆるところに見え隠れしています。

     

    こういった「礼節」という視点から、他者との距離感を見直してみることで、少し発想を変えて、「ソーシャルディスタンス」とよばれているある種の生活様式を捉え直すことができるんじゃないだろうか、というような視点が語られています。

     

    興味のある方は、動画を覗いて、直に感想をもっていただけたらと思いますが、私はこのメッセージを聞いて、自分が「自分」のことばかりに気を取られていたんだということを教えてもらいました。そういう時って、逆に息苦しくて、窮屈で、しんどいもの。

    「自分の為に」から出発するんじゃなく、「相手を尊ぶ」というところからスタートすることで、気付かないうちに心のどこかで相手を拒絶しようとしかけていた自分が消えて、変な言い方になってしまいますが、寧ろ「相手」がいるからこそ感じらるものが生まれ、「他者の存在」が在っての自分の振舞い方に意識を向ける、という流れの中に身を置くことに繋がるんだと思います。

    そしてその結果として、「自分も尊ばれていられる」という自身に対して向けられる「礼節」としても自然と循環して還ってくるんだということを感じました。

     

    目に見えないウイルスに対して、これもまた目にはみえませんが、様々な「意識」の持ち方によってこの局面に対応する術を、「人間」だったらとれるんじゃないだろうか。そんなことを教えていただいたように感じています。

     

    一週間のお付き合いありがとうございました。

    明日からは友松実行委員が登場です。私もたのしみにしています。  

  • 交流して、共存して、

    他者とのつながりのなかで何かをするというのは、まだ試行錯誤の最中だけれど、

    「ゆだねる」ことと、「理解しようとすること」は大切なように思っている。

    ゆだねるというのは、相手をコントロールしようとしないことを踏まえてのことだと感じている。

     

    後者の「理解しようとすること」に関しては、先日の半蔵氏のブログに拝見してちょっと感銘を受けたことが書かれているので紹介する。

     

    blog.tokyo-sotai.com

     

    橋本先生の現役時代、親交のあった野口三千三先生や竹内敏晴先生のことが書かれている。竹内敏晴先生の著書のなかで、自身のメソッドと野口体操の違いを述べている文章が引用されていたが、これをみて両氏の学問的交流の在り方が伝わり、その親交の密度、たしかさのようなものを感じ、感激した。

     

    各々が自身のテーマを掘り下げる事はもちろん必要だが、身近な他者の大切にしているものを自身のテーマと同じくらい理解し(大切にし)、良い悪いの話に帰結せず、言語化し、議論ができる。テーマは断絶せず、同じ地平の上で、共存できている。

     

    これはなかなかできることじゃないと思うけれど、何かを学んでいる人間にとっては理想的な姿だと感じた。テーマとされているその内容も勿論興味深いことが満載だったけれど、竹内先生からは、この交流の姿勢を教えてもらったと感じている。

  • 間に合わなくなって、つながって

    昨日の「結界」云々の続きになるけれど、

    マスクをつけたり、他者との距離感を気にかけてみたり、

    自己と他者との間の連絡はたしかに物理的にも精神的にも

    希薄になりやすい状況の中にいるように想う。

    望んでいなくても、みんな半ば自動的にそういう生活に置き換わらざるをえなかった。

     

    先のブログにも記録した通り、あくまでも個人的な経過の報告でしかないけれど、そんな中で自分のことだけ考えていたのでは間に合わなくなった自分は、結果的に自分の延長に在る身近な他者のことをもう一度、考えざるを得ない状況におかれていた。

     

    捉えようによっては、他者との連絡、つながりを意識せざるをえない状況になったようにも思える。自分以外の存在が在って、その中で、どうやって振舞えるか、のようなことを自然と考え始めていた。やってみると、これがなかなかいい。

     

    状況的には、見た目には離れつつありながら、裏側ではつながろうとする。これもひとつの自然な流れ、バランス現象なのかもしれないと思う。

     

    「間に合わなくなった」という感覚は、その瞬間は結構シンドいように感じられたけれど、それもひとつのバランス現象の語りかけだったんだと感じた。

  • 結界を解いたときに

    このブログでも何度か書かれている話題になるけれど、

    新種のコロナウイルスの影響によって、「マスク」という道具が

    日常生活のなかに組み込まれた。

     

    他者の健康を慮り、また自分の防衛の為でもあるそれは、

    目に見える境界線であり、ある種の「結界」を身に纏っていることのようにも思える。

    そういうもの同士が接し合うときには、マスクをしていないとき以上に、コミュニケーション力を要する気がする。

     

    このマスクについては様々意見をもたれると思うけれど、

    逆転の発想で最近いいかも、チャンスかもと感じる事もあった。

     

    マスクを纏っていると明らかに呼吸がしずらくなる。

    当たり前のことながら、それはフィルターの役割を果たしているので

    ウイルスは勿論のこと、それ以外の空気の「旨味」のようなものまで取り除いているように思う。

    現に、散歩中にちょっと息苦しくなってマスクを外してみると

    やけに空気のおいしさを感じる事がある。

    早朝の新鮮なものは別として、いままでマスクなしに日中散歩していた時には、都会の空気をおいしいと感じられることなんてなかった。

     

    マスクをつけている人は少なからず、外した時のこの「空気おいしいな」感を味わっているのではないだろうか。結界を解いたときに、何を感じているのだろうか。

     

    息苦しいという不快感も、呼吸が楽になったという感覚も、空気がおいしいという気付きも、目に見えない、当たり前の、でも生き物にとって最重要な「呼吸」という営みにハッと気が付くきっかけになっているんじゃないかと感じている。

  • 色んな自分とともに

    ここ数か月の間に、起こっている変化として、

    自分以外の他者の存在について考える機会が増えた結果、回りまわって、今まで見えていなかった自分の一面を知り、それを踏まえながら先へ進む方向を向いている自分がいる。

     

    これは自分のことだけを考えていたのでは、たぶん感じられなかった変化だと思っている。身体的にも精神的にも、自分の中だけの循環から、「環境」を含めての「循環」をより意識するようになり、その流れのなかで感じられてきたことのように思う。

     

    そこで、いままで言葉になっていなかった考えや感情にも出会っている。これは良くも悪くも、ではあるかもしれないけれど、でも先週の瀧澤さんのブログ

    blog.tokyo-sotai.com

    で登場した言葉を借りれば、「以前よりも色んな自分がいてもいいなと思えるようになってきた。」である。

     

    こういう変化が起こったこと、またそれを生かす方向で、目の前のことを転がしていこうと思えているのは、多分操体で学んでいる事の、その世界観の変化と決して無関係ではないと感じている。いままでの流れや循環の概念とはまったく違った世界を、いまの操体はみようとしているのではないだろうか。

  • 免疫力と寛容力

    自分のからだや自分の都合ばかりを考えているだけでは間に合わず、自分以外の他者という存在について、もう少し改まって考えざるをえない状況にちょうど対峙していたタイミングで、今年の春季東京操体フォーラムは開催された(zoomによる開催)。

     

    その際に、当フォーラムでも相談役としていつも大変お世話になっている太田剛先生《株式会社ギア(編集工学機動隊 GEAR)代表〉から免疫学者の多田富雄氏の「免疫の意味論」という、本を御紹介いただいた。この書籍以外にも、その日の話題を深堀する上で有用な著作をたくさんご案内いただいたが、自分にとっては特にこの一冊が響いた。

     

    免疫の意味論

    免疫の意味論

    • 作者:多田 富雄
    • 発売日: 1993/04/30
    • メディア: 単行本
     

     

    太田先生より「自己」と「非自己」について考える上で、この一冊は読んだ方がいいよと薦めていただいた。自身のからだで真っ盛りに起こっている免疫という現象と、目に見えないウイルスという存在感、そして自分が考えざるをえないように感じ始めていた他者という存在について、あらゆる角度からその点と点をつなぐ手がかりがつまっているような本であるように感じられた。

     

    大変興味深かったのは、免疫という在る種の「拒絶」に関わる人体の現象に関わることを研究されている専門家が、その著作のなかで「寛容」ということをテーマにされていたことだ。

     

    この本を読みながら、免疫や免疫力という事に関しての感じ方が変化したように思う。「免疫力を高める」というと、非自己(例えばウイルス)を適切に排除していく機能が十分に機能し保たれているという印象が今までは強かった。一方で、ひとつの捉え方として、免疫力が高いというのは、非自己に対しての「寛容力」があるかないか、とも言いかえられるんじゃないかと今は思い始めている。

     

  • 点検してみて感じたこと

    おはようございます。
    瀧澤さん、一週間の投稿、ありがとうございました。
    本日から寺本がバトンを引き継いでまいります。
    テーマは引き続き「この時代の暮らし方・私の免疫力アップ法」です。
    宜しくお願い致します。

     

    ここ数か月間、これまでリアルタイムで経験したことのない規模の感染症というものに出会って、そこで感じてきたことを振り返ってみると、そのなかで試してきたことは、今までのことをひとつひとつめくる作業、「点検」する作業だったように思う。

     

    この確認作業は今も継続しているけれども、そのプロセスの中で興味深かったのは、自分以外の他者のことに関して考えることが自然と増えてきたことだった。

     

    それまでは自分自身というある種の最小単位のなかでいろいろなことを考え、感じてきた。

    故に、自身の健康について考えるときには、「自分のからだ」のことについて考え、感じている事が多かった。勿論それは、大事なことであることには変わりがないと考えているけれども、自分自身の健康を考える上で、この最小単位は身近な人の健康ともかなり密接な関係性を持っていることを思うようになった。

     

    心理的な面も同じようなことを感じている。自分の中で、渦巻いているあらゆる心理的な現象は、周囲の人と決して無関係な出来事ではいられない。以前にも、ここで書いた記憶があるけれど、自分に気持ちの余裕がないときというのは、周囲の人に大きなストレスを与えることもある。それが、あからさまに感じられることもあれば、目に見えず相手の中に鬱積していくこともある。そしてそれが、自分からだけの眼差しではなくて、相手の方からも起こっている相互作用なんだということに興味が湧くようになった。

     

    自分の中で何かしらがうまくいっていないときに、相手を観てみれば、相手も同じように間に合っていないことがある。そういうときに、自分を顧みてもいいし、相手を気遣ってもいい。

     

    息(呼吸)、食(飲食)、動(身体活動)、想(精神活動)の自己責任の営みは、いままでも考えて実践してきたことだった。その自己責任の最小単位に常に触れていて、それを陰ながら大きく支えている存在、「環(環境)」の領域に関わることについて考えるようになったのだと思う。

  • うごくことは、ゆだねること

    ウイルスはそれ自身では細胞を持っていないそうだ。

    細胞を持っている生き物のからだに侵入し、細胞に入り込むことで

    活動を広げたり、増えたりすることができる。

    そして、周囲にその影響力を拡げていく。

     

    これ、「ウイルス」を「不安」と置き換えてみても

    その様子とても似ているなと感じた。

     

    「不安」もそれ単体で存在しているわけじゃない。

    それを抱く人がいて、その人の想念のなかに不安が入り込んで場合によっては増殖する。

    そして、その膨らんだ不安は、周囲の人にも影響力を持つ。

     

    そんなことを痛切に感じることも、この数週間多かったように思う。

    気が付かないうちに自分だって、周囲に色々な影響を飛ばしているんだなと。

    そんなことを考えていると、自分を包んでいる周囲の存在感というものが

    また一層ガラッと変わってくるように感じられた。

     

    自分を取り巻く環境に現れる出来事が、調和しているように感じられても

    また不調和なことのように感じられても、そのどちらもは「局所的」に起こっている事じゃないんだと思わずにはいられなかった。

    自分と切り離した他者の振舞いだけで帰結することは済まない。

    自分自身の振舞いともおおいに関わり合っていて、もっと空間的な出来事なのだと思うようになった。

     

    手始めにではあるけれど、ここ最近、何か自分の周りに不調和に感じられることが起こっているときは、少し間をおいて「自分」を点検してみることをしている。

     

    大抵そういう時は、何かしらの「無理」や、「がんばり」をしているときが多く

    そこに「仕方がない」という言い訳が必ずセットになっているから面白い。

    何かを自分の思い通りに実現させることで頭がいっぱいなのだ。

     

    周りが見えていない、脳内が低酸素状態の時に、はたと身に沁みて感じることは

    操体で何度も耳にしてきた「ゆだねる」という「うごき」の意味が

    わかってなかったんじゃない?という発見だった。

    このことに関してのヒントは既に何度も操体から教えてもらっていた。

     

    ゆだねることで、うごくこと。

    うごくことは、ゆだねること。

     

    このことをテーマに、操体からのヒントを種にして

    また新鮮にこれからに生かしていけたらと感じている。

     

    1週間のお付き合いありがとうございました。

    明日からは友松実行委員の「とばす」が始まります。

    どうぞ、明日からまたおたのしみに。

  • うごきは失われていない

    いのちをまもるための「自粛」期間のなかで、

    気が付いたら社会的にも、肉体的にも、精神的にも

    もしかしたら必要とされていること以上に縮こまっていたんじゃないか、

    そう感じている。

     

    自分の「せいかつ」ってなんだろうか。

    生活であり、動でもあり、また動でもある。

    そこからあらゆる動きが、自粛の名のもとに

    失われてしまっていたように感じていたが、

    失われた動きに関して意識するようになって

    あれ待てよ、と気が付いた。

     

    生命活動はどうだろうか。

    こころとからだは相関しているので、

    食欲がなくなったり、呼吸が浅くなったりは当然しているかもしれない。

    でもそれでも、心臓は動き続けているし、呼吸が動きをとめることもない。

    細胞や、人間のからだを支えてくれている微生物群も活動をやめることはない。

    もしそれらが一つでも動くことをやめてしまっていれば、

    こうして朝を迎える事はできていないはずだ。

     

    僕らがどんなに自粛ムードのなかにいて

    いつもの「リズム」を乱されているように感じていても、

    生命活動の営みの「リズム」は、

    もしかしたらいつものようにそれほど変わらず営まれ続けているんじゃないか。

     

    そんなことを感じていると、失われているわけじゃなくて

    それは単なる錯覚だったのだと思えるようになった。

     

    「自粛」について、少しシンドクなってくるようなことがあったら、

    その陰で、このいのちを変わらず支えてくれている

    生命活動のリズムのことを、思い出す時間をもってみるのはどうだろうか。