カテゴリー: 寺本 雅一(てらもと まさかず)

  • からだ は しっている ひだり の せかい 3

    「ひだり」について操体を通して学んでいると、改めて「睡眠」について興味が沸いてくる。

     

    学んでいることを試していると、気が付くとスーッと眠りの世界に入り込んでいることが多い。以前から、臨床中に瞬間的な眠りに入ったり、「意識飛び」と呼ばれているようなことが起こることはあったけれど、味わってみるとまた眠りの「質」が変化しているような感じがある。

     

    眠りの間の中で、からだにどんなことが起こっているのか。
    わからないけれど、わからないなりに何かが変化していることは伝わってくるから面白い。

     

    ただ眠りについたときと、呼吸やからだのうごきを介して眠りに入るとき。
    それはまた違うんだと、そういう風に感じられる。

     

    睡眠そのものが、からだにとっては、究極の癒しの時間。
    それは誰しもに備わっている日々の臨床の間。

     

    毎日訪れ、営まれているこの無意識の過ごし方についても
    「ひだり」は、「からだ」は、多くのヒントを教えてくれるのではないかと思う。

  • からだ は しっている ひだり の せかい 2

     「からだ」は、わたしの知りたいことを、しっている。

    そういう実感のなかにいて、では、どんなことから

    その情報にアクセスできるのか。

    これが最近の操体を通して学んでいる大きなテーマとなっています。

     

    未だ手探り状態ですが、からだと向かい合う時間には

    何かを「予測すること」や「想像すること」のプロセスを

    事前に持ち込まないように、気に掛けるようにしています。

     

    まず左脳のエンジンを噴かせるような学習の仕方はひと休み。

    前もって「頭」が働いてしまうのを、

    できれば、できるだけひかえてみるところを大切にして。

     

    これから触れていく情報は、未だ言葉になっていないこと、

    まだ「認識」の外にあること。

     

    感じることで、初めてあらわれる。

    何かを感じている、のかもしれない。

    なんとなく、でもいい。

    無理に、いそいで、ことばにしてしまう必要はない。

     

    日常生活の流れていく流れのなかに、

    そんな「間」の時を少しずつ、育てるようにして

    操体を味わいなおしています。

     

     

  • からだ は しっている ひだり の せかい

    おはようございます。
    瀧澤さん一週間の投稿ありがとうございました。
    本日から、寺本がブログを担当致します。
    テーマは引き続き「ひだり」です。
    よろしくお願い致します。

     

    操体という学問と出会い、学び続けて10年程になりますが、
    この年月の間に操体は学問としての大転換期に突入し、今まさに再編集・再編成の最中にあります。気が付いたら、学びの大海原のなかを進んでいた、ラッキーなタイミングに出くわしたと思っています(笑)。

     

    今回テーマになっている「ひだり」。
    これも私が学び始めた頃には、(少なくとも私には)このような捉え方に移行するとは想像もできていませんでした。

     

    橋本先生が創始した操体・操体法(『からだの設計にミスはない』や『生体の歪みを正す』などの書籍が有名ですね)。
    そしてそこから引き継がれて、さらなる発展を遂げていた操体(三浦先生の『操体法治療室』や『快からのメッセージ』、『皮膚からのメッセージ』などに代表されるように操体は進化してきました)。

     

    操体独自の「からだ」の捉え方に触れ、また実際に体感するだけでも相当感動し、またそのことだけでも充分に面白かったので、まさか更なる変化(深化)が起ころうとは夢にも思わず。

     

    ある意味、操体はいま「ひだり」について学問しているとも言えると思います。
    からだはしっている「こと」。
    いままでことばを与えられていなかった「こと」を見つめ、言葉にしていく作業。

     

    そんな過程に臨み、今までとは学び方も変わってきていることを感じ、
    私も今までに学んだことを、ひとつ、またひとつと手放しながら「ひだり」について学んでいます。

  • 当たり前を、めくる

    からだが教えてくれること。

    操体を通して受け取ることのできる、様々な気付き。

    こういうことは、何年学ぶことを続けていても尽きることがなく、

    逆に、よりシンプルに、また新鮮な情報として学習の機会となる。

    そういう循環のなか、脈々と継承されてきた操体、そして操体法。

     

    この、からだから学ばせていただけることや「気付き」と呼んでいることは

    「当たり前」だと感じていたことのなかにある。続ければ続けるほどに、その想いは強くなります。

     

    当たり前のことが、当たり前でなくなった時というのは、毎回、驚きと、まだ触れられずに目覚めを待っていた学ぶことの意欲がくすぐられるような悦びを感じます。

    気付かなかったら、そのまま。

    当たり前のこととして、生命の不思議は静かに営まれ続けていくだけ。

     

    それも素敵なことですが、

    無数の気付かれていない生命のリズムや流れについて、

    からだからいただける「情報」を、一番の参考文献として、学ばせていただく。

     

    自分が意識できている認識の、それ以外の世界で営まれている生命感覚の世界について、

    まずは、受け取ってみて、味わってみる。

    理解するのは、あとで大丈夫。

    ゆっくり、少しずつ。例えば、その味わったことを言葉として表現できたとしたら、どんなに重要と言われている情報より、その人にとって大切な「生命由来の情報」に立ち会った瞬間なのではないかと感じています。

    操体はそういう場となる学問だと思うのです。

     

    一週間のお付き合いありがとうございました。

    明日から友松実行委員の投稿がはじまります。

    どうぞ、おたのしみに。

  • ゆだねる、を学ぶ

    自分が思い描くイメージ、ヴィジョン。

    そういったものを先行させるのとはまた違って、

    例えば、からだの無意識にゆだねる、というところから自らの振る舞いを描いていく。

     

    これも最近になって、また操体から教えていただいていることのひとつです。

    人間には、強く願ったり、言葉にしたり、思い描いたりすることで、物事を具現化、現実化する不思議な力がある様に思います。私自身も、こういうことの力を、知らず知らずのうちに(また途中からは意識的に)お借りしてきたように感じていますが、時に、こういった姿勢は、自分自身に対して大きなプレッシャーとなってしまうこともあるように思います。

     

    程よいプレッシャーはむしろ大歓迎ですが、やりすぎてしまうことが続くと「消耗」に繋がってしまう。その辺の塩梅については、実は私自身もまだ手探りの状態です。

     

    どんなことを思い描いて、実現しようとしているか。

    そういったことも関わっていることかと思いますが、少し、そのプロセスを変えて、自分から何かを発信するのをいったん落ち着けて、まず自身の置かれている状況などを受け取るところからスタートする。

     

    いま、この状態のなかで、それを最大限たのしんだり、生かしたりするためにどんなことができるだろうか。そこから、思い描くことのエネルギーを循環させていく。意識はあとからついてくる。

     

    最近の操体の臨床を受けながら、まだ言葉になれていない世界の中で、

    こういった流れの在り方もあるよ、というのを、間接的に学習しているような気がしています。

  • アタマにも、休んでもらって

    操体は「からだ」の要求、「からだ」の悦ぶことってどんなこと?

    というのを大切な着眼点として扱い、進化と深化を続けてきました。

     

    そんなからだの状態のとき、本人の「思考」や「頭」の活動からみると、

    バランスとしては程よく休まっている状態なのではないかと思います。

     

    「からだ」のことを学問することと同時に、

    最近の操体は、この本人の「頭」の活動にも大いに関係のあることを

    扱っているように感じています。

     

    先日、開催された春季フォーラムでは「セルフケア」が一つのテーマとなっていました。このセルフケアという言葉は、「こころとからだのセルフケア」とセットで言われることも多いように、メンタルヘルスの分野にとっても大きな関心事となっているように感じます。

    それだけ、日常生活のなかには脳のある側面を使うこと、刺激する要素が溢れていて、アタマとからだのアンバランスに悩んでいる方が多いのではないかと思います。

     

    からだが悦ぶこと。

    そして、常に働き続けていてオーバーヒートしがちなアタマにとっても、

    ホッと力が抜けて、休むことができている。

    こういった循環に携わっているように、最近の操体を通して感じています。

  • こんなことも、語り合える

    前日の記事に引き続き、私事から始まりますが

    昔はどうも同世代の人と話が合わず、

    年上の人と話をするのが好きでした。

     

    いま、思えば、自分が興味をいだいていることについて、

    私の言葉が追い付いていなくても、受け止めて、ちゃんと返してくれる。

    それが無性に嬉しく、またそういう会話がたのしかったのだと思います。

     

    私が操体を学んでいる理由のひとつに、

    この「受け止めて、ちゃんと返してくれる」学問としての器の大きさを感じることが挙げられます。

     

    今のところ、自分の好奇心と、探求心を思う存分に開放しても、

    「操体」のなかで話ができています。

    今まで生きてきて、いまが一番、遠慮のない創造力を動かすことができていて、

    そういったことを、お互いの言葉で語り合える同志がこの学問の下に集まっている。

     

    学ぶことに関しての器の、懐の大きさ。

    これも、創始者から脈々と受け継がれている、操体の魅力のひとつだと感じています。

  • からだの、もう少しそばに

    このブログの場で何度か振り返ってきたことではありますが、私が操体(操体法)に興味を抱いたのは、それまで20数年生きてきて、いまいち自分の体に対して実感が持てていない、よくわかっていないという漠然とした想いがあったからでした。

     

    20歳代を後半に迎える頃、その当時はお芝居をしている仲間や演奏家の仲間と活動を共にすることが多く、彼らの身体に対しての向き合い方や、滲み出る身体性にどこか羨ましさを感じることも多かった、そんなことを思い出します。

     

    身体を使う活動をしているのに、やってもやっても、何となく虚しい。

    その虚しさは、活動後の疲労感や、後味として体にとって無理をしている感じが拭えない感触が残ったり、また結果的に慢性的にどこかしらに不調を抱えていたりと、色々な現れとして感じていたことでした。

     

    ずっとこのままでは、いられない。その空虚な感触を埋めていくのに、何かはまるものはないだろうかと思っていたところで、尊敬する音楽家の方に何気なく相談し、紹介していただいたのが操体(操体法)でした。

     

    その当時と、今とで変わったこと。

    「体(身体)」は「からだ」であったこと。

    思っていた以上に、からだは生命観に溢れていたこと。

    自分と自分自身のからだとのコミュニケーションは、

    羨む必要なんてないほどに、誰しもに宿っている感覚の世界だったこと。

    そういうことを知ったり、実際に感じたり、考えたりする。

    そのきっかけを伝えていただいたことが、
    自分にとっては、とても大きい出来事だったように感じます。

     

    からだのことに興味があって、もう少しそばに、と感じていたら

    操体がそのきっかけになるのではと思います。

     

  • ゆっくり、を味わいたい人に

    動き(うごき)や感覚について、からだを介して学問している操体、そして実践のスガタとしての操体法。

    それ故に、からだを通して「ゆっくり」という時空を体験していただきます。

      

    操体でいうところのこの「ゆっくり」は、想像しているスピード感とは、

    ちょっと異なるかもしれません。

     

    思っていたよりも、もっとゆっくりなんですね。

    自分ではゆっくり動いているつもりなんですが。

    ゆっくりってよくわからないなぁ。

     

    色々な感想をいただくことがありますが、

    操体もこのキーワードと長年付き合ってきたので、

    感じを掴んでいただくために、また新しいアドバイスもお伝えできるようになってきました。

     

    「ゆっくり」というのは面白くて、

    その感じを味わって体感していると、

    いつしか「間(ま)」の時空を味わっていることに気が付きます。

     

    目まぐるしく働いてくれているからだの動きのことであり、また頭の回転速度を少し緩めてみることでもあり。

     

    自分には「ゆっくり」が必要だなぁ、味わいたいなぁと感じている人、

    そういった要求に適う間を、操体から味わっていただけるかも、と思っています。

  • 言葉になっていない世界に、こんにちは

    おはようございます。

    瀧澤さん、一週間のブログ担当ありがとうございました。

    からだが悦ぶことってどんなことなのか、

    瀧澤さんの語りから、考えるヒント、たくさんいただきました。

    本日からバトンを受け取って一週間、寺本が担当致します。

     

    テーマは引き続いて「あなたに操体・操体法をお薦めする理由」になります。

    どうぞ、宜しくお願い致します。

     

    操体の門を叩いて、もうすぐ10年。

    この不思議な学問を学び続けてきて、特に最近になって感じ入ることは、世の中に潜んでいるまだしっかりと言葉になっていない様々なことについて、からだを通して出会い、学んでいるのが操体なのではないかということです。

     

    僕は本を読むのが好きな方だと思いますし、インターネットを使って自分が必要としている情報を見つけ出すことも割と好きです。

     

    自分以外の誰かの言葉によって語られた(る)情報を知り、そこからまた新たに考えたりすることも好きなのですが、操体でまずとり扱っている大切な情報というのは、こういった身の回りに存在する無数の情報源とは異なり、身近な「からだ」を経由して受け取ることのできる感覚情報から始まります(東京操体フォーラム実行委員ブログの内容は、まさに「感覚情報」由来の内容となっています)。

     

    この非言語情報に出会い、受け取り、何らかの言葉にすること。

    知るのも、いただくのも、言葉を与えるのも、からだがあっての自分自身。

     

    「感覚」をいろいろな意味において大切にとり扱ってきた、操体の独自性と面白さは今また新たな局面にさしかかり、操体だから学ぶことのできることに繋がっていると思います。