カテゴリー: 寺本 雅一(てらもと まさかず)

  • 道中いったりきたりの記2

    「あ~、また行ったり、来たりしている」と思うことは、学んでいると、何度となくやってくる。

     

    修業中であったはずの「ON」が、気が付いたら「OFF」られている、

    なんてことは日常度々起こる。

     

    常にスイッチONでいるとへとへとになってしまうこともある。

    何事も自分からOFFのスイッチを切れるというのは、必要な技術、素敵なことだ。

     

    そうではなくて、気が付いたらスイッチが消えていて、

    その消灯具合にすら気が付いていないことが多い、というのがちょっと悩ましい。

    慌てて、「しまった」と褌を締めなおす。

    これも私のなかで頻出する、行ったり来たりの典型。

     

    こういうとき、以前、師匠から伝え聞いたある禅僧の逸話が何度となくリフレインされる。

     

    どこかの国にこんな禅僧がいたそうな。

    彼は行き交う人の目を見にせず、道端に立ちつくし、独り大声で何かを叫んでいる。

     

    「おーい、人生の主人公よ!目覚めているか。」

    「おーい、人生の主人公よ!惑わされていないか。」

     

    という短い物語。

     

    現代新宿の雑踏の中で、こんな独唱をしようものなら、変人奇人扱いされてしまうだろう。

    たしかに、だいぶ強烈に変わっていた人だと思う。

    でも、この禅僧の声には何度となく助けられた。

    行ったり来たりの中で、自分なりのスイッチを編み出した人なのだと思う。

     

    www.tokyo-sotai.com

    2022年4月29日(金)祝日 
    ハイブリッド開催(会場参加は、一般社団法人日本操体指導者協会会員優先)

  • 道中いったりきたり

    おはようございます。

    瀧澤さん一週間のブログ投稿ありがとうございました。

    テーマ「修業」のバトンとタスキを受け取って、本日より一週間は寺本が担当します。

    よろしくお願い致します。

     

    何をするにも長続きしなかった私にとって、気が付いたら10年も続いてきたこの操体の学びの時間。

    「修業」という時間軸からみたら、この年月はまだ入り口付近なのかもしれませんが、続けられているということは、自分にとって必要な何かがあるからだと感じています。

     

    師匠と、兄弟子と、また共に学んでいる同志と、

    「からだ」という別次元の師匠に学んでいる感覚になることがあります。

     

    そのなかで、「変化」に遭遇したり、以前学んでいたことをいったん手放したり、何かを「再構築」することに直面することがものすごく増えました。

    でも、この瞬間に立ち会えたりすると、大変ではあるのですが、続けていてよかったなぁと思います。

    以前は、いったりきたりするのは嫌いだったのですが、最近はそうでもないのです。

     

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    2022年4月29日(金)祝日 
    ハイブリッド開催(会場参加は、一般社団法人日本操体指導者協会会員優先)

  • 言葉をもたない生き物に重ねて7

    草木を眺めていると、植物のからだには「正面」というものはあるんだろうかと思う。

    また、枝葉を伸ばしているあの地上部の拡がりには、右手や左手などの区別が存在するのだろうか、地中に伸び拡がっている根には右足、左足のような区別は、、、などと考える。

     

    植物たちにとってはこんな問いかけはナンセンスなのかもしれないけれど、操体でからだのうごきについて学習していると、こういうことが気になってくることがある。

     

    直立した人間のからだを正面からみれば、ぱっと見の外見は左右対称にみえる。

    植物の正面をどこに定めればいいかは分からないけれど、その立ち姿はどの方向から見ても、その左右の関係は非対称にみえてくる。

     

    この植物の姿・かたちにはうごきが宿っているように思う。

    ぼーっと眺めていると、長い時間をかけて表現されてきた植物のうごきの軌跡がふわーっとみえてくる。

     

    からだに宿っているうごきや「自然体」というものについて学習するものにとって、この植物の「立位」にはひょっとしたら見逃すことのできない秘密がつまっているのではないだろうか。

    言葉にならないことばを介して、生命の記憶の部分に語りかけてくるように。

     

    一週間のお付き合いありがとうございました。

    テーマは「植物」のバトンとタスキを明日からの友松さんに渡します。

    どうぞお愉しみに。

  • 言葉をもたない生き物に重ねて6

    植物を見ていて、しみじみすごいなぁと思うことがある。

    一所に根を下ろしてから次世代の種子を産出して新天地に旅立つまでは、その環境で起こることにすべてに相対し、適応しながら生きているその姿だ。

     

    動物とはまた違う、植物なりの「逃げ方」はあるのかもしれない。

    けれども、基本的にはその場で起こっていることはある種の「全肯定」の姿勢で臨んで適応しているように見える。

     

    いや、植物には肯定という捉え方も否定という捉え方も、そもそもないのかもしれない。

    ただただ、起こること、与えられた状況をいただいて、そのことに素直に対応しているだけなのかもしれない。

     

    その積み重ねによって生み出される「からだ」が植物の姿。

    身近に植物や樹木を訪ねて、その様子にしばらく目をうばわれる、また様々な想いが湧いてくることもある。

    何かがうごいてくる感覚になることがあるのには、こういう植物の生き方も関係しているのかもしれないと思う。

  • 言葉をもたない生き物に重ねて5

    「食べる」ということを考える時も、最近思い浮かんでくるイメージは「植物」である。

    以前にもここで吐露したことがあるが、食べることが好きな私は油断するとついつい食べ過ぎ状態になることがある。

     

    「土と内臓」という本の中で「ヒトの消化管をひっくり返すと植物の根と同じ働き」という非常に興味深い眼差しの紹介されている章がある。

     

     

    ともに微生物の織り成す豊かな生態圏あっての環境である。

    同時に、外側からしたら見えない、隠れている空間でのこと、という点も似ていると思う。

     

    人間には手があり、足がある。

    食べたい時に食べたいものを手に入れようとすれば、それが口の中に納まるのは時間の問題だろう。

    芽吹いて、その場所に根付きながら、与えられているものをいただいている生き物とはだいぶ違う。一日に3度食事をとっている人間はそう考えるとよく食べる生き物だなと思う。

     

    食べ過ぎるということを、植物に置き換えてみる。

    土の中に水をガバガバ投入し、肥料をたっぷりと与えて栄養過多で過密な状態になっているというところだろうか。植物の根にとって、こういう環境は健やかな生育に逆効果に働くこともあるし、何より土着の微生物たちは困ってしまうだろう。

     

    肥料も水もたっぷりある。

    わたしが与えたいのか、ハラワタが必要としているのか。

    そして、どのくらいの与え方が適切なのか。

    食欲の為だけではなく、オナカのなかの見えない世界の為に、手と足を使う。

    食べることが、ある側面から見れば植物の栽培のようにも思えてくるので、

    からだを育てることをもう少し考えてみようと思う。

  • 言葉をもたない生き物に重ねて4

    操体を学んでいると新鮮な「からだ」の感覚に遭遇する。

    最近では、自分が植物的な生き物になっていくような感覚を味わうこともある。

     

    普段の人間ver.が「動物」であるならば、学んでいることをからだとともに学習するときは動物のからだから、植物のからだに変化しているような気持ちになる。

     

    以前はこんなことを感じることはなかった。「皮膚」の面白さを学び始めて、「アメーバみたいなうごきだな」と思うことはあった。操体の学びは「動き」の学びでもある。

    そういう想いで学んでいた頃の「からだ」は、今思えば動物のからだだったのではないかと思う。

     

    最近の日課は、道端の樹木を前に、操体で学んでいることを実践すること。

    何をいっているか分からないかもしれないけれど、いま学んでいることを実践しているときのからだは、日の光を浴びて天を仰いでいる樹木のそれと、なんだかとっても似ているなぁという気がしてくるのだ。

     

    巨木とかそういうものが好物でもある私は、その樹皮に触れてみたり、目の前でぼーっとしてみたり、対話できたらいいのになぁ、なんて思い描いていたりしていた頃もあった。

    気が付いてみたら、また違った方向から対話をたのしんでいるのかもしれない。

    こういう関わりあいも、なかなかいいなぁと、動物のからだと植物のからだを行き来しながらあじわっている。

     

     

  • 言葉をもたない生き物に重ねて3

    我が家の小さな庭には誰が植えたのか、はたまた勝手に生えてきたのか、由来知らずの柑橘類が一草、ひっそりと暮らしている。

     

    不勉強な私には本当の名前すらわからないこの生き物は、時期になるとあおむしたちの一時の住処となる。今年もアゲハの幼虫が3匹ムシャムシャとその葉っぱを食んでいた。

     

    与えるのはお水くらいなもので、それ程大きく育っているわけでもない、この植物に今年は3匹のあおむしが同居しているのを見て、「はたして葉っぱは持つだろうか」と心配しながら毎朝観察していた。アゲハの幼虫は一日で予想以上に成長する。朝会うたびに大きく、また姿も変化していく。そして、葉っぱはどんどん食べられて減っていく。

     

    小さな草丈の残りの葉っぱがほんの数枚になった頃、気が付いたら幼虫がいなくなっていた。いや、よく見ると、いなくなっていたわけじゃなくて、その茎や根本や葉っぱの陰に、同じ色をしたさなぎになってつかまっていた。

     

    幼虫たちのおなかを、今年もうちの一草はなんとか満たしたらしい。

    でも、残る葉だけで、己のいのちをつなぐことができるだろうか。

     

    そんな勝手な想いを抱きながらも、やる事と言えば気が付いたときに水を与えるくらいなもので、そのまま様子をみていた。それから数か月、葉っぱは見事に復活した。

     

    あの小さな深緑に、3匹のいのちが間借りをすることとなり、そして、絶妙な食べ残しをしてくれて、トゲトゲのからだはまだいのちをつないでいる。

     

    これが偶然なのか、それとも目に見えない生き物たちのバランスなのか。

    今年お世話になったアゲハの親類が、来年訪ねてきたら、また観察してみようと思う。

  • 言葉をもたない生き物に重ねて2

    公園の樹木など眺めていると、この木は一度種子が発芽してからは(またはこの場に人の手で植えられてからは)、一所に根をおろしてここまで成長してきたんだなとしみじみと感じます。

     

    目に見えているところでは、雨が降っても風が吹いても、葉っぱを食べる虫が近づいてきても次世代の種子を生み出す以外は、その場に居続けながら環境に依存して生命活動を続けているように見えます。植物にも多種多様な生存戦略を身につけている種類がいるようですが、一般的な植物は、この地上部では「受」の姿勢が色濃く表れているような感じがします。

     

    人間だったら、のどが渇いて、お腹が空いたら、自分の足で動いて必要なものを手にすることが容易にできます。植物も目にみえない地下の領域で「根」のうごきで、対応しているのかもしれませんが、人間や動物のようなスピード感とは随分と異なる動きです。

     

    植物を見ていると、既に環境のなかにあるもののなかで、それをいただいている様子が感じられてきます。

     

    生活環境のなかで、身の回りにないものを自然と求めることの多い日々を送っている人間からすると、この樹木の生き様は素直な生命の循環を思い出させてくれるような気がしてきます。

  • 言葉をもたない生き物に重ねて

    おはようございます。

     

    Mr.植物の瀧澤さん、一週間の「ことのは」の数々ありがとうございました。

    テーマは「植物」のバトンとタスキを受け取って、本日から一週間、寺本が担当します。よろしくお願い致します。

     

    私事からのスタートとなりますが、今年は特に「言葉」のことについて考える一年でした。

    現在、学んでいる操体を消化、反芻する過程で、今までの考え方や感じ方、そしてそれを表現する方法のことを思うにつけ、間に合っていない感触を感じるようになりました。

     

    そこを埋めるために、ヒントを探そうと「本を読んでみようかな」と思っても、なかなか本が読めない時期が続くなかで、同志の学ぶ姿から、やはり ”からだ” からいただいているもののなかで、時間をかけてでもいいから、自分のことばというものと今一度出会いなおしていくしかない、という心境のなかにいます。

     

    すると、次第にまた本と向き合えるようにもなってきて、特にいまは詩人のことばにヒビクものを感じたりしていますが、ちょっとゆっくりと「ことば」を紡ぐきもちになっている私にとっては、今回ブログのテーマとなっている「植物」という生き物はいまとても居心地のいい存在となっています。

     

    人間のような「言葉」をもたない植物ですが、

    それは私が感じられていないだけ、のことだったらいいなと思います。

    植物を前にすると、何かを受け取っているスガタの前にいるようなきもちになりますが、その沈黙のなかには目に見えないなにかが満ちているような気がして、それをききわけているスガタが、わたしのからだとヒビキあっているように感じられるのです。

  • ひょうげんすること、されているもの7

    「アート」と呼ばれているものに触れることは、自分自身の表現と出会うことに繋がっている。

     

    美術館やギャラリーに足を運び、他者が創り出したものを鑑賞することで味わえるもの、養われるものがある。

     

    そして、少し切り口を変えて、このブログの場をお借りしてお伝えしてきたように、誰しもが有している「からだ」という生命体も、常に何かを生み出し、表現している身近な表現体であると言える。

     

    様々なアートを通して、結果的に自分の表現と出会う。

    表現されているものを通して、表現することに向かう。

     

    自分の表現の第一歩は、ゆっくりと、味わうことからはじまる。

    そして、それを連鎖させるように、たしかなことばを与えていく。

     

    表現することは、舞台に立つ特別な職業の人の専売特許ではなく、

    誰しもが表現しなくても、表現されているものに常に支えられている、

    生まれながらの表現者である。

     

    臨床は「からだ」を介した表現の循環。

    それを介助・補助し、促すこと。

    操体は単なる健康体操や、治療法の枠を越えていく。

    表現という営みを経由して、アートと呼ばれているものとも、深く関わりあえるエッセンスが操体には溢れていると感じています。

     

    アートについての7日間、続きは秋季東京操体フォーラムで表現致します。

    今年はオンラインも交えたハイブリッド開催です。

    アートと操体についてもう少し深入りされたい方、是非お待ちしています。

     

    それでは一週間のお付き合いありがとうございました。

    明日から友松実行委員の「アートと操体」がスタートします。

    どうぞ、おたのしみに。

     

    2021年秋季フォーラム

    2021年11月23日(火)勤労感謝の日 ハイブリッド開催

    テーマ「アートと操体」 

    www.tokyo-sotai.com