カテゴリー: 寺本 雅一(てらもと まさかず)

  • 表現すること、されているもの6

     

    からだから受け取れるものの世界は実に豊かだ。

    いままでは受け取れていなかった世界もあることが、操体の深化に伴い、日々のからだとのお付き合いによって感じられる。まだまだ奥が深い。

     

    昨日のような捉え方をすれば、からだが表現する「アート」を鑑賞するにも、「”観る”(感じる)(診る)」側に問われていることがある様にも感じられる。姿勢や作法にも深く関わる重心。この重心のおきどころ如何により、受け取れる世界が変わる。

     

    わたしたちはからだという生命体から何を受け取っているのだろうか。

    からだが受け取っている世界を受け取っているのではないだろうか。

    2021年秋季フォーラム

    2021年11月23日(火)勤労感謝の日 ハイブリッド開催

    テーマ「アートと操体」 

     

    www.tokyo-sotai.com

  • 表現すること、されているもの5

    からだが表現する世界には様々な表情がある。

     

    はっきりしている激しい印象のときもあれば、

    ほんのささやかな、静かな声で語りかけてくることもある。

    後者のバリエーションに興味をもつようになると、実に豊かで静かなからだの表現世界が拡がってくる。

     

    その「鑑賞者」となり、日々からだとお付き合いをしていると、

    なにかいつもとは違う「違和感」、程度のことでも、

    からだが表現している何か、と感じるようになる。

     

    からだという生命体の繊細な表現力。

    この極上のアートをゆっくり堪能することの積み重ねが

    操体の臨床家にとっては大事な目を磨くことに繋がっているような気がする。

     

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  • 表現すること、されているもの4

    こどもはよくケガをする。

    先日も知り合いの子が家の中で家具にぶつけたか何かして左目の上に立派なたんこぶをこしらえていた。

     

    できたてのたんこぶは見事なピンボール玉くらいの大きさだったらしいが、30分後くらいの写真を見せてもらったらそれが少しおさまって垂れ下がるような状態になっていた。

     

    ぶつけて1時間後くらいに本人に会ったらまた写真の印象とは変わっていて、青アザがジワリと滲み始めていた。

    その後の経過も写真で見せてもらったが、昨日の様子からもまただいぶ変化をしてアザの滲み方、下がり方が変化していた。

     

    こういった場に立ち会うと、からだでは黙々と、そして刻々と変化が起こっていることが伝わってくる。普段目に見えないからだの営みを感じやすくなる。

     

    臨床家が何かをしようとする以前に、からだの方では何かが起こり続けている。

    「からだの治す力」や「自然治癒力」と呼ばれているからだの表現力を前に、臨床家にできることはどんなことなのだろうかとしみじみ思う。

     

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  • 表現すること、されているもの3

    無意識のうちにただただ表現されているからだの営み。

     

    「呼吸」というマクロな現象は、意識せずとも意識の外で表現されている。

    同じように「消化」という営みも知らぬところでリズムをもって営まれている。

    もっと縮尺をズームアップして、細胞ひとつひとつのことを考えれば、その細胞内で営まれている活動、表現されている世界というのはどんどん多様なものに思えてくる。

     

    特別な表現活動をせずとも、生命体は表現体そのものだと言えると思う。

    この誰しもが有する生命宿りし「からだ」のアート。

    このからだの表現活動を信頼しているからこそ、操体独自の臨床は成り立っているのだと思う。

     

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  • 表現すること、されているもの2

    何かを表現しようとするときに頼りになるものは、

    既に表現されているもののなかにある。

     

    「からだ」という自然を前に、この表現されている世界に耳を傾ける。

    からだの声をきく、からだの要求をききわけるために、どんな方法があるだろうか。

     

    からだにとって何をなすべきかといった表現力を学ぶ以前に、受け取る姿勢について学んでいるのが、操体という学問だと思う。

     

    2021年秋季フォーラム

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  • 表現すること、されているもの

    瀧澤さん一週間のブログ投稿ありがとうございました。

    テーマは引き続き「アートについて」。本日より寺本がバトンタッチして担当致します。よろしくお願い致します。

     

    今年の11月にオンラインも含めたハイブリッド形式で開かれる秋季東京操体フォーラム。テーマは「アートと操体です。今回の実行委員ブログはフォーラムに向けての道中のような気がしています。

     

    「アート」について思い浮かべる時、私は「表現」というイメージが浮かんできます。

     

    私事ですが、以前、演奏活動などをしていたときのことを思うと、自分が表現の場に立ち会う瞬間というのは何かを「表現する、している」といった意識が多くを占めていたと思います。

     

    そういう活動をしていて変な話なのですが、その「表現する」という感触にいまでも何か腑に落ちない、何か納得できていない感覚があります。何か全然違うような気がする、といった感じがずっとあるのです。

     

    その違和感のヒントになるようなことが、操体のなかにある、特に最近の操体の進化のなかにはあるように感じています。

     

    自分が何かを「表現する」という行為の以前に、「表現されている」営みがある。

    それも、静かに、豊かに在る。

    操体はこの「表現されている世界」のことについて学んでいる学問だと思うのですが、これも「アート」に触れていること、なのではないかと思うのです。

     

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    2021年秋季フォーラム

    2021年11月23日(火)勤労感謝の日 ハイブリッド開催

    テーマ「アートと操体」 

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  • からだ は しっている ひだり の せかい 7

    (きのうのつづき)

     

    『数学の歴史は測量に大きく関わっていますけれど、古代に測量学が発展したのは、領土を正確に測ることを通して、人間の争いを減らすことにもつながっていたんです。』

     

    『宇宙は長い年月をかけて膨張していますけれど、誕生する瞬間に、一旦クシャクシャに折りたたまれてしまったらしいんです。その折りたたまれた部分がどうなっているのかは、誰にもわからない。その折りたたまれた部分を説明(表現)するために、芸術が生まれたんです。』

     

    なんで勉強をしているのか。目的不明の状態で受験勉強に埋没していたその当時のわたしにとって、某予備校の数学と物理学のアシスタント講師のこのモノガタリは、どんな丁寧な公式の説明よりも深く、生き方にも貫通する「学ぶこと」や「表現すること」の土台にある世界を伝えてくれたように感じたものだった。

     

    宇宙が拡がる前の、折りたたまれて重なり合って、隠されている何か。
    認識されなければ、誰からも気づかれることのないままの未開の世界。
    それでも、宇宙の一部であるわたしたちは、その何かと無関係ではいられない。

     

    目に見えないことがあって、認識されていないこともあって、
    からだはききわけていて、それをことばにすることは、各々の「わたし(たち)」にはできること。

     

     必要なものはあった 手を伸ばさずともすぐ傍に
     枕のその裏側に 圧縮された記憶の重なりに

     使っていなかった道具を手に取る
     錆びてはいないけれど、使っていなかったことは伝わった

     手に取ればわかるし、手にも取らなかったのだ
     手には取れなかったのだ
     でもいまは、たしかに触れている 

     あとは使ってみればわかること
     それでも使ってみなければわからないこと

     

    というわけで、最近あまり使っていなかったことばと向かい合う一週間。

    お付き合いいただきありがとうございました。

    明日からは友松実行委員の登場です。明日からのブログどうぞおたのしみに!

  • からだ は しっている ひだり の せかい 6

    (きのうのつづき)

     

    誰かの言葉で理解することから離れて、自分のことばでからだがききわけている世界を表現してみたい。

    操体を学ぶ師や同志の紡ぎだすことばを聞いていると、なんだか「詩」のようだ、と感じることが増えた。詩人が二人で物語を紡いでいるときは、即興演奏を味わっているようにも観えてくる。

     

    こういう場面に遭遇すると、これでいい、というか、これがいい、と強く感じてしまう。
    からだ、細胞、生命、宇宙、人間、日常、空間、呼吸・・・。
    そういうものを学問するなかで、生まれることばの表現が、自然と花開いている様子にいたく感銘を受ける。

     

    誰にでも分かりやすく伝えること、その努力はあきらめたくはない。
    そしてその前段階には、まだ認識されていない世界、ことばになっていないことを言語化する流れが存在していることは無視できない。その充実のための時間をいま過ごしているように感じている。

     

    そんなことを感じていると、もう10年以上も前の話になるけれど、わたしが通っていた某予備校でのエピソードを思い出す。人生で何度か人のことばに助けてもらった経験があるけれど、これもその一つ。
    なんで勉強しなくてはいけないのか。そういうことに焦点も当たることもなく、誰からそういわれたわけでもないけれど、「やらされている」受験勉強のなかで、学習意欲を失いかけていた。そんなわたしを見かねてか、数学と物理学の質問に個別で応えてくれていたアシスタント講師の先生がこんな物語をしてくれたのだった。

     

    (あしたへつづく)

  • からだ は しっている ひだり の せかい 5

    (昨日のつづき)

     

    年に2回、春と秋にわたしたちは東京操体フォーラムというイベントを開催している。
    以前から、その内容はマニアックな会ではあったけれど、特に最近参加していて感じるのは、そこで語られることばが変化してきているということだ。

     

    誰かから借りてきた言葉ではなく、その人が語ることばとして何かが物語られている。
    アタマで考えただけの言葉とはちょっと違う。
    からだという生命体がききわけている世界が、ことばによって表されてる。

     

    ことばによってここまで表現できるのか、と。
    その内容も、もちろん身(み)がつまっているけれど、師や同志のことばでの表現力に関しての感動を参加していて随所で味わっている。

     

    この経験、体験をしているからこそ、わたしのなかでも、ことばの可能性が開かれたのだと思う。
    今は、誰かの言葉や知識を吸収したいのではないのだろう。
    わたしのことばと出会いたいのだ。
    そしてそれは、からだがききわけている世界、からだのことばのなかにある、と感じているのだと思う。

     

    (もう少しつづく)

  • からだ は しっている ひだり の せかい 4

    あたらしいこころもちで、操体を学問する。
    その過程で、矛盾したふたつの感触に出会っている。

     

    ひとつ目は、この新しい捉え方について、何かを調べようとしたときに感じること。
    色々な本を読んだり、調べたりしようとしても、なかなか以前のように本が読めない自分がいることだ。

     

    今年の春の東京操体フォーラムの前くらいからか。
    いや、もしかしたらそれ以前から、本を通して知りたいことを知るということがうまくいかない状態が続いていた。
    知りたいこと、その内容は求めてもそこにはない、そんな感じがあった。

     

    でも、本は好きな方なので(笑)、懲りずに手にはとってみるだけとってみる、ということは続けていて、最近ある著作と出会うことができた。
    若松英輔氏の「本を読めなくなった人のための読書論」という本だ。

     

     

     

     

    この本に描かれていることばは、しみ込むようにいまのわたしになじんだ。
    「読書論」というタイトルがついているけれど、その表題以上の手引きを受けているような気持ちになった。

     

    自分は「ことばに出会う」ことについて、いま改めて対峙しているという状態なのかもしれない。そのことに本書はスーッと光を当ててくれた。

     

    ことばとの出会い方を変えたいと思っている自分がいて、
    そして、それが学び方が変わることにもとても繋がっている。

     

    なんで本を読めない日々がつづいていたのか、なんとなく腑に落ちた感じがあった。

    (つづく)