カテゴリー: 寺本 雅一(てらもと まさかず)

  • 感境5

    からだと、からだの外の環境。

    目を開けると視覚情報として入ってくる世界があり、

    また目を閉じたとしても、この外部環境に常に皮膚を介して触れている事実がある。

    本人の意識の有無に関わらず、からだの方で、情報のやりとりは更新され続けている。

     

    それは、何かを求めることをあえてしなくても、常に何らかの情報をいただいているということに他ならない。

     

    これはからだの内の環境にとっても同様に言える事だと思う。

    からだの内部感覚情報も常時情報のやりとりが行われ続けている。

     

    それは、普段はほんとうに微細な変化としてしかとらえられないものかもしれない。

    でも、私たちには感覚というからだとのコミュニケーションを結ぶ上で大切なことばのようなものが与えられている。

     

    環境やからだがいただいている情報を受け取る。

    そのときに、感覚は大事な接点となる。

     

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  • 感境4

    昨日の続き

     

    何か知りたいことがあるときに、真っ先に頼りにするのが、スマホからの情報アクセスになって数年経つ。

     

    もしこのデバイスを充電できない環境になったら、どんなことが起こるのか、

    生活観もかなり変化しそうな予感がある。

     

    携帯電話、スマートフォンだけじゃない。

    電力の恩恵によって動くさまざまなインフラに支えられて今の人間は生きている。

    人間自体に充電は必要ないけれど、機械に機能拡張を支えられている面においては、

    見えないコンセントが人間に出現しているのと変わらないとも思う。

     

    わからないことを機械に相談して回答を得られる場合と、本を読んで調べたり、あるいは人に相談してみて何かを得るときとでは、情報授受のプロセスが変化する。

     

    改めて考えてみると、後者では無意識に作動しているわたしたちの皮膚感覚が、前者の情報授受の道中には乏しい。ストレートに求めている回答を得られるし、頭に働きかける刺激的な情報はあふれているように見えるけれど、からだを介した予期せぬ感覚情報からは少々分断されているプロセスのように思える。

     

    予期せぬ感覚情報こそ、面白いのではないかと最近改めて思う。

    感じることの境界線に存在している、生命に与えられし究極のデバイスである「皮膚」というもの。そのまだ知られていない可能性も含めて、もう少し人間は面白がっていけたらいいなと思う。

     

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  • 感境3

    人類の歴史は縄文時代から考えると1万数先年続いていると言われているが、この百数十年で加速的に変化しているように思う。

     

    文明が発展することで、多くのものごとが個人から他者に「代行」されるようになり、

    近年ではその担い手がどんどん「機械」に委ねられている。

     

    技術を使いこなすことにはスッと順応できているようでいて、肝心な部分は他者(機械)任せになっているようにも思う。

     

    機械のほうで「自動的」に感じ取って、スイッチひとつで物事が進んで行くことはとても便利だし、大いに活用できるといい。

    その背景で、何かを感じ取るという役割の多くを、誰かに任せきりになっていることは人間という生き物にとっては大きなことなのではないかと思う。

     

    ソロキャンプやDIYにふと気持ちが動いて、下手でもなんでもいいからちょっと

    自分でやってみたいという方が増えているのも、

    誰かに何かを委ねる生活から離れて、感じる時間に身をおきたいことの現われなんじゃないかとも感じる。

     

    便利を味わいつつ、感じることからも離れない、いい塩梅の生活というものもあるのではないかと思う。

     

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  • 感境2

    からだの外で起きている出来事を、本人は気が付いていなくても、からだの方ではしっかりキャッチしている。

     

    季節がくると、頭を悩まされる人も多い「花粉症」も、

    いち早くからだの方でその到来を感じ取って、本人に体調変化として伝えてくる。

    花粉症ではないけれど、私も季節の変わり目は体調を崩しやすく、

    恥ずかしながら、体調を崩し始めて、「あ、季節が変わり始めて来たな」と後から気が付くこともある。

     

    先日、兄弟子から教えていただいたが、気候や気圧の変化によって体調を崩す現象を「天気痛・気象病」として、診断治療の対象として診ることもすすんでいるとのこと。

     

    目に見えない変化やからだから物理的に離れている現象を由来にして、それをからだの方でキャッチしていることの確かな証拠。

     

    花粉症や天気痛は現象としては、結構シンドイことに感じられる。

    一方で、ある面においては機械よりもよほど正確に環境情報を受け取る、からだに備わっている感受性の可能性を感じさせてくれているようにも思う。

     

     

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  • 感境

    おはようございます。

    瀧澤実行委員、一週間のブログ投稿ありがとうございました。

    本日からテーマ「環境」のバトンをいただいて、寺本が投稿致します。

    よろしくお願い致します。

     

    「環境」には「からだ」という切り口から眺めてみると、その外側での出来事と、内側での出来事があるように思います。この両環境は見えないところで、連絡を取り合い綿密に影響を受け合っています。

     

    からだを使わせていただいている「本人」は、その環境に、もうひとつ影響を与えている存在です。生活態度の影響が、からだの外側では自然環境につながり、またからだの内部の環境にも様々な影響を与えることになります。自分で書いていて耳が痛いですが、自然のバランスと相容れないような人間の振る舞いは、環境問題につながります。からだの内部環境のバランスに調和の取れないような振る舞いをすれば、同じように内部環境問題に発展します。

     

    どちらの環境に対しても、その情報を適切に「受信」する能力が人間側の方でうまく機能していない状況があり、それが当たり前になりつつあるのではないかと思います。

    これには鈍感だけではなく、受信するためのアンテナが敏感になりすぎていて大変な思いをしている場合もあるでしょう。

     

    適切な受信がなされていないと、それは発信することにも影響します。

    感じるということのバランスについて、からだの外と内の両面から、もう少し向き合ってみることが必要になっているのではないかと思います。

     

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  • 道中いったりきたりの記7

    何かを「身につける」ために、以前は繰り返しのなかで

    学習している実感が多くありました。

     

    今でも「身につける」ということについて

    何度となく考えます。

    これだけ学び続けていても、いまだに身についていないことを

    痛感することも相変わらず多々あります。

     

    一方で、矛盾するようですが、最近は身についたものをおとすようなことが

    必要な場面にも多く遭遇するようになりました。

     

    学びの中で変わるものがあり、そのことに対応しているということもありますが、

    そこに訪れている変化が、より「からだ」の素直な学習の結果から生まれているもので、そのことを学習しているときは、からだからいただいている情報のなかで、学びなおしている実感があります。

     

    すでにからだのなかにあり、

    それを確認することがまた新鮮な身につける学習となっている。

     

    「からだ」を身近な「師匠」の様に慕い、

    今まで身につけてきたものを、ひとつひとつ確認しているようです。

    いったりきたりは続きますが、今はこれがたしかなことだと感じています。

     

    一週間ありがとうございました。

    明日からのブログは友松実行委員にバトンとタスキを渡して続きます。

    どうぞ、おたのしみに。

     

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    2022年4月29日(金)祝日 
    ハイブリッド開催(会場参加は、一般社団法人日本操体指導者協会会員優先)

  • 道中いったりきたりの記6

    修業、修業、修業・・・。

     

    なぜだかわからないのですが、昔からこの「修業」というものに

    興味を抱いていて、憧れる部分がありました。

     

    例えば、こどもの頃から読んでいる漫画のなかには数々の「修業」の場面が登場していましたが、グッとくる修業のシーンは繰り返し繰り返し読み齧っていました。

    小説、映画、ドキュメンタリー、自伝、エッセイ、芸談なども好みです。

     

    今思い返せば、生前の父親が修業好きな人だったのではないかと感じます。

    家にいる時は、大抵、生涯現役で学んでいた雅楽の龍笛の稽古か、書道のために黙々と静かに時間を費やしているタイプの人でした。

     

    そういう生き方をしている存在が身近に、そして当たり前のようにいたので、

    何かのことをひとつやり続けることが生活に含まれている感じに、自然と興味が沸いたのかもしれません。いつかは自分も、何かを学び続けるのかもしれないと、そんなことを、こどもながらに感じていたのかもしれないです。

     

    いつも学びの先をみている師匠、またその師匠を感じながら学びの道を歩んでいる先輩、そして同志のひとりひとりが、いまは身近にいます。

    何かを学び続けているひとが身近にいてくれるというのは、ありがたいなと思います。

     

    修業そのものに興味がある部分もありますが、どんな日常を送っていても、学び続ける人の存在を身近に感じながら生活をしていたい、という気持ちがあるのではないかと今は感じています。

     

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  • 道中いったりきたりの記5

    日常生活のなかで、このからだというものが「重いなぁ」と感じることがある。

     

    修業中の身ゆえに、与えられている特権かもしれないけれど、

    「これも修業」というマジカルワードを唱えると、

    動きやすくなる感がある。

     

    この重さを感じながら、「えいや、」と立ち上がり、

    動くに前向きになるスイッチが入る。

    先日投稿した禅僧の言葉のように、

    修業のスイッチを入れること、確認することのようなものかもしれない。

     

    この呪文に少し言葉を追加して、

    「これも修業でありがたい」と感じると、

    からだの重さの質感がまた変わる。

    重さの質が変化して、軽くなるような感じがある。

    さっきまでの重さ、あれはなんだったんだろうか。

     

    この「感謝」というこころの働きと、

    からだのことを重く感じていることは、

    無関係ではないように感じている。

     

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  • 道中いったりきたりの記4

    一度丁寧に作り上げたものを、一回分解してまた作り直す。

    こういう「やりなおし」もどうも苦手なこととして過ごしてきた。

     

    でも、勉強を続けていると、この作業こそ必要なことのように感じられてくる。

     

    近年、注目されている、からだのなかで起こっている「オートファジー」という現象がとても面白い。

     

     

    このプロセスでは細胞内のたんぱく質における合成と分解が、このからだが動かなくなる日まで、何度となく営まれている。そして、この過程が寿命と老化、免疫を左右する要因にも繋がっているらしい。

     

    細胞で営まれているこのオートファジーを見習えば、「作りっぱなし」は老化に繋がっていくものとも考えられる。同じもののように思えても一旦分解して、再構成することには大きな意味がある。それが小さな細胞のひとつひとつで起こり、全体としての長寿にもつながる。本当に興味深い。

     

    「学び方」にもイノチの永い学び方と、そうでない学び方があるのかもしれない。

    そして、よくよく考えてみれば、うちの師匠なんて、まさにオートファジーの如く、分解と合成を繰り返す学び方の人だ。いつまでも若々しい学びのなかにいる。

     

    だから操体という学問も、今も進化をし続けていられるのだと思う。

     

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    ハイブリッド開催(会場参加は、一般社団法人日本操体指導者協会会員優先)

     

  • 道中いったりきたりの記3

    書いては消しての繰り返し。

    さっき「通った」ばかりのところなのだけど、

    見逃していたことがあることに気が付いて、数秒後にまた逆戻り。

    それも、笑ってしまうくらい、何度も何度も反復、往復。

     

    一度で済ませればいいものを、一回で気が付いておけばいいものを、

    短い距離感でなんだか随分と余計な動きをしているなぁと思う。

    嗚呼、繰り返し、繰り返し。

     

    そういう場面。

    「億劫だなぁ」と感じながら、でも「あぁまた来たか」とも感じることが増えた。

     

    ツルツルとしているところに、傷がついて、

    少しだけ何かが刻まれる。

    次に思い出す時のきっかけになってくれる、「溝」がうっすら彫られていく。

     

    記憶に残らないことが本当に多い中で、

    うっすらとでも記憶に残る体験を味わっているのだと思う。

     

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