カテゴリー: 寺本 雅一(てらもと まさかず)

  • やまのはなし4

    昨日に引き続き、山登りを通して不思議に感じていること。

    その一つに、アウトプットのことがある。

     

    山を登っているときは、全身をつかう。

    そして、登山と下山の道中で何時間も歩き続ける。

    からだの方は疲れたりするけれども、休み休みしながら何かトラブルが起きない限りは

    なんとかやり通せてしまうものだ。

     

    これが、「山」ではなくて街中で同じような活動を行おうとしたらどうだろうか。

    例えば、地下鉄のホームから改札までの階段を昇っているときなどにこんなことを考えたりする。何時間も動き続けていられるだろうか。

     

    自然の中で活動をしている時と言うのは、単なるアウトプットにはならないように思う。

    無意識に何かを受け取りながら、活動を行いやすい環境が自然のなかにはある。

     

    自然の山々のなかでは感じられやすい「循環」のイメージが、都会のビル群のなかでは感じられにくい。

    感じられないのではなくて、感じられにくいだけなのだろうけれど。

  • やまのはなし3

    少ない山登りの経験のなかで、不思議に感じていることがいくつかある。

    その一つに、インプットのことがある。

     

    山中で湧き水の恩恵にあずかる。

    登山の小休止に、板チョコをひとかけら口にする。

    また腰を落ち着けて、一人用のバーナーを取り出して湯を沸かし、

    インスタントコーヒーを淹れる。

    ザックに忍ばせたおにぎりやパンを口にする。

     

    これらのことが、平地で何かを食べたり、飲んだりするときとはまた異なり、格別な味わいに感じられる。

    気のせいか、食べるペースも穏やかで、量も少しずつに変化している。

    自然と食べ方が変わっているのが面白い。

     

    汗を流してからだを使っているから、また格別に感じられることに加えて、

    山の中にいるうちに、からだの「感じること」のスイッチがONになっているのではないかと思う。

     

    もしくは、ただ自然な状態に還った、という表現の方が適切なのかもしれない。

  • やまのはなし2

    学生時代、探検部に所属し訪れ登った山のなかで、新潟県の巻機山(まきはたやま)のことが時たまふっと思い出されることがある。日本百名山の一つでもある。

     

    冬の巻機山でかつて命を落とされた先輩の慰霊を目的に、部員全員で年に一度この山に登ることが部の大切な行事となっていた。自然を前に、命を失うこともあることを年に一度感じる節目の日であった。

     

    早朝、日の出前から登山口を出発し、各部員自分のペースで歩みをすすめる。

    前半のルートが結構きついわりに地味なルートがしばらく続く。

    そして山頂まで順調に登っても片道4時間くらいはかかるので、初めて巻機山に登った時は、正直これから毎年慰霊登山でこの山に登ることを億劫に感じていたことを覚えている。

     

    しかし、不思議なもので、2年目に訪れ、また3年目に訪れてみると、この山の良さを感じていることに気が付く。地味な山道を抜けて標高が高くなってくると高山植物が見渡せるひらけた景色になっていて、その地点に来ると、「あぁ今年もここまで来たなぁ」と何とも言えないじんわりした気持ちになったものだ。今では私にとっては特別な山の記憶となっている。

     

    そして、意外なもので、こうして日常生活を送っていて思い出されるのは、実は前半の地味なルートを黙々と登っている時のことだったりする。

     

    重い荷物を担いで、自分のペースで歩みをすすめる。

    足運びのリズムと、それに重なる呼吸の音。

    そのバランスがくずれてきたら、しばしの休息。

    腰を下ろしてぼーっとしているときに感じられる風のきもちよさ。

     

    片道4時間の「マイペース」と向き合う時間。

    忙しくしているときに、その時の記憶、

    間のときのことが、ふっと思い起こされてくる。

  • やまのはなし

    瀧澤さん、一週間の澄みきった投稿ありがとうございました。

    呼吸がからだに入ってきました。

    本日からはテーマ「山」を引き継いで寺本が担当します。

    よろしくお願い致します。

     

    大学時代、探検部に所属していたけれど、もっぱら川下りに時間を費やしていたので

    「山」の経験はほんのわずかしかない。

    縦走もしたことはないし、過酷な冬の山のことも知らない。

    沢登りも数えるくらいしか経験していない。

     

    それでも、なぜか無性に山を訪れたくなるときがある。

    大学卒業以降、「山登り」なんてものはほとんどできていないのだが、

    そろそろ本当にまた山歩きをしたいと思うようになってきた。

     

    からだのうごきと、

    感覚を通してうけとること、

    呼吸のこと。

    そういうことに出会っている今、

    山登りをしてみたらどんなだろうと思う。

     

    街中を歩いていても随分変化を感じられるから、

    山の中を歩いてみたらまた新鮮な発見があるかもしれない。

    意外と街中でいただいているものと変わらなかったとしても、それはそれで面白い。

  • うみのきおく 7

    海を前にして、感じさせてくれるリズム。

    ついついボーっと眺めてしまうその水のうごきのなかで、

    岸に打ち寄せてきた水が砂にしみわたり、再び沖の方にかえっていく、

    そして、沖にかえっていったうごきが、流れをかえてまた岸に水を運んでいく、

    そのどちらにも豊かな間(ま)が含まれている。

     

    リズムに内在しているこの間が、からだを通じて何か大事なことを感じさせてくれるようである。

     

    油断すると、どうもこの「間(ま)」というものが、生活の中からすっぽりと抜けてしまう。これも大切なメッセージ。

    間の抜けた生活のリズムは、からだに内在している生命活動のリズムとはずれていってしまうのだろう。

     

    からだという自然は、このリズムの不調和のなかで、それでも調和の方向へと図ってくれているのではないかと、感じずにはいられない。

    少しでも人間の意識の方で間をおもいだすことができれば、からだのオーバーワーク

    もだいぶ軽減されるはずだ。

     

    ついつい忘れてしまいがちな、この間(ま)の記憶に委ねる。

    「間抜け」なリズムから離れて、からだの奏でているリズムに重なる。

     

    海・産み・うみ。

    大いなる、という言葉が相応しい、自然の奏でるリズムの表現。

    生命活動のリズムの流れのなかに入っていくイメージを、

    「うみ」はおもいださせてくれる。

     

    一週間のお付き合いありがとうございました。

    明日から友松実行委員の「海」が始まります。

    どうぞ、おたのしみに。

     

  • うみのきおく 6

    (昨日の続き)

     

    からだを診させていただいているときに、「海」のリズムを感じる。

    ひとつには、「足趾の操法🄬」を通しているときに被験者の足元からみえる景色がそれを連想させる。

     

    操法を通して、変化は様々起こっているけれど、

    やはり呼吸の変化は印象的だ。

     

    最初は速く浅かった呼吸のリズムが、気が付いたら深くゆったりとした状態に変わっている。呼吸の変化に伴って、からだの動きも変わっていく。

     

    そのリズムが変化していく様子が、からだを通じて波の変化のように感じられる。

     

    操者の方でコントロールしたり、また被験者の方で意図的に表現しているようなからだの動きではない。からだに宿っている自然がみせてくれる、からだのうごきである。

  • うみのきおく 5

    呼吸は意識的にしようとしなくても、吸って、はいてを自然におこなってくれる。

    からだの方で絶えずしずかなリズムがおこっている。

     

    海の水のうごきはこの呼吸を連想させる。

    ゆったりと、また時に荒々しく。

    よせてはかえす波のリズムは海の呼吸のようにも思えてくる。

     

    からだの営みに、海に通じる大いなるリズムが感じられる。

    からだにも、うみの記憶が宿っているのではないかと思わずにはいられない。

    からだを診るというのは、自然をみていることに通じているのだと思う。

  • うみのきおく 4

    海の水はしょっぱい。

    このことがとても不思議だなと思う。

     

    忘れもしない、小学校のプールの授業。

    プールの水はしょっぱくなくて、塩素がしっかり効いているあの感じ。

     

    泳ぐのがあまり得意でなかったので、プールサイドを足の裏で感じるあのザラザラした記憶。思い出すと独特な想いが蘇る。そういえば、今でもたまにプールサイドは夢に見ることがあるような気がする。

     

    このプールの授業が少しイヤなものでなくなったのは、父親に連れられて学外のプール教室に短期間通ったことがきっかけだった。その教室で「浮く」ことを教えてもらえたことが転機になる。

     

    バタ足、クロール、平泳ぎにまるで手ごたえのなかったところに、「背泳ぎ」という表裏が入れ替わるトリッキーな変化球がやってきた。

     

    これが妙にからだにしっくりくる感じがあって、「これだ」と飛びついた。顔が水から常に出ているので、呼吸もしやすいのが嬉しかった(今、思い返せば、当時クラスで2番目くらいにぽっちゃりしていたので、ある面では沈みやすく、またある面では浮きやすくもあったのだろうと思う)。

     

    背泳ぎという武器があったおかげで、プールの授業でクロールが遅くても、平泳ぎが全然進まなくても、へこたれてしまうことはなかった。

    (跳び箱は高いの飛べないけれど、伸膝前転はなぜかできる、という感じに、実感としては近い。これも手が長くて座高も高くて、足が短かったからだよな、と今では納得している)。

     

    にしても、泳げなくても、浮いてはいられるよね、という実感が、その当時どれだけ救いになったことか。

     

    「背泳ぎ」を通して「浮く」ことを覚えた私は、そのあと海でもこの「浮くこと」を試してみる。

     

    プールとは違って、海にも支えられているようなプカプカ感が不思議だなぁと、ぼーっと空をながめながら浮かんでいたのを思い出す。

    海の水がしょっぱくなければ、くるっとひっくりかえって、あの海に支えてもらっている感じも味わえないのだ。

  • うみのきおく 3

    海から離れた場所で生活していても、海を思い出すことがある。

    都内の川沿いに住んでいて、こんな不思議な現象が起こる。

     

    朝、川沿いを歩いていると、何故か「磯の香りのようなもの」が感じられることがあるのだ。昔からたまにこういうことがあって、こどもながらにふしぎを感じていた。

     

    上流で起こっている現象に起因するのか、もしかしたら、川の水の状態が原因なのか。

     

    理由はわからないけれど、このふわりと漂う海の気配のようなもの(少なくともわたしにはそのように感じられる)に遭遇すると、川沿いを歩いていたはずが、瞬間的に意識は海岸にいるような気分になる。

     

    人にとってはこういう現象は不快に感じることもあるかもしれない。

    けれど、わたしは妙に得した気持ちになる。

    からだにも何かスイッチが入るような気持ちがして、それだけで海の記憶の追体験がはじまっているような気持がする。

  • うみのきおく2

    海はリズムそのものだと思う。

     

    海岸の砂をぬらす波の跡。

    寄せては返すその様子をみているだけでも面白い。

    小さい頃、波の動きに魅せられて、ぼーっとその様子を眺めていたのを思い出す。

    このリズムは変化に溢れていて、見ていても飽きないのだ。

     

    同じようにリズムに魅せられるということが、

    からだを診させていただいているときにも感じるのだ、ということに出会った。

    からだに触れる、

    その指先から伝わってくる、からだがみせてくれるリズムの世界があると知り、その変化の豊かなさまにただただ圧倒されてしまう。

     

    自然がみせてくれる景色には、「飽きる」ということとは程遠い、

    何らかの秘密のリズムが貫通しているような気がしてならない。