カテゴリー: 寺本 雅一(てらもと まさかず)

  • わたしにとっての、からだにとっての3

    自分にとって何が必要か、といった考え方に

    からだにとって、という新しいキーワードが加わる。

     

    そのことで、今まで模索してきたことが、ひとつひとつ納まるべきところに納まっていくような印象がありました。

     

    改めてそれまでを振り返ると、良かれと思っていろいろなことを吸収しようとしていたことが、軸となる考え方がなかったために、ひとつひとつがそれぞれバラバラなままになってしまっていて、結局はそれが迷いにも繋がっていたのだと思います。

     

    わたし以外に、からだという軸が意識され始めることで、

    色々なことがシンプルになっていくのを感じていました。

     

    (続く)

  • わたしにとっての、からだにとっての2

    私が考える自分の体の健康といった意識の間に、

    「からだ」というキーワードが投げ込まれる。

     

    操体の学習を始めたわたしにとって、この新しい捉え方は意識の変化が生まれた瞬間だったと思います。新鮮ではあるけれども、実はとっても身近に感じていた存在のこと。

     

    「自分にとって」から、「からだにとって」という眼差しの移行が行われると、

    今まで求めていた情報は、もしかしたら、自分自身の外側にあるわけではないのでは、と思えるようになりました。

     

    何か知りたいことがあれば、いつも身近に在る「からだ」という存在にきいてみればいい、確認してみればいい。

     

    こうして、生まれてから二十数年を経て、わたしとからだとの新しい関係が始まりました。

     

    (続く)

  • わたしにとっての、からだにとっての1

    おはようございます。

     

    からだ瀧澤さん、7日間の投稿ありがとうございました。

     

    アフターフォーラムの本日から、

    テーマ「はじめての操体法」を引き継いで寺本が担当致します。

    よろしくお願い致します。

     

    操体を知る前のわたしは、自分にとって、どんな「情報」が必要か、

    そのことに頭がいっぱいだったような気がします。

     

    例えば、頭痛や肩こり、疲れに悩まされていた私に、

    知人が「これいいよ」と教えてくれた、マッサージやサプリや治療法などを

    試してみては、その日その日をなんとかこなしていく。

    そんな風に、毎日を過ごしていたように思います。

     

    自分に必要な情報を「本」やネットの情報の中に探していた面もありました。

     

    当時は「健康」という意識は微塵もない生活をしていたのですが、いま振り返れば、身体と心の両面についての健康を模索していたのだと思います。

     

    はじめて操体を学び始めたとき、目から鱗のような世界を感じました。

    それまで、「自分にとって」という視点で情報を求めていたところに、

    「からだにとって」という新しい眼差しが生まれたからです。

     

    色々な情報に迷っていた私でしたが「このことがききたかったんだ」と、

    強く納得した瞬間があったのを憶えています。

     

    (続く)

  • あずかりもののいかしかた7

    操体の創始者、橋本敬三先生の遺した文章のなかに、「人間悲願の達成へ」という味わい深いものがある。立石電気(現在のオムロン)がSINIC理論を基に描き、昭和46年に「プレジデント」に投稿した「社会進歩曲線」が傍らに掲載されているのが印象的だ。

     

    www.omron.com

    (SINIC理論も進化して、当時の曲線よりも立体的な動態として感じられる)

     

    20の項目から成り立つこの言葉の連なりは、操体を学ぶ上でひとつの指針のようなものになる。学んでいることが、今どの段階にあるのか、橋本先生と言葉を交わしながら確認しているような気持ちになる。

     

    書かれたのが昭和52年。今から40年以上前に遺された言葉ではあるけれど、人間の未来を見据えて書かれたであろうこの文章は、色褪せていない。

     

    『1、生きる限り、快適に満足して、充分に生きたい。』

     

    という1文から「人間悲願の達成へ」ははじまる。

    この短いワンセンテンスによって「人間悲願」というものを見事に集約して表現していることに改めて驚く。

     

    人間にとって「平均寿命」がいくら延びても重要な要素が欠けていることをこの頃から見据えているように思う。生きるなら、健康なからだで、寿命を全うしたいという健康寿命の概念が既に文中に内包されている。

     

    そして、最後の20番目に、知っている人は知っている有名な1文がある。

     

    『20、しかし、このメカニズムを可能にも不可能にもする超エネルギーは確かにある。その制御の見通しは未だ立たない。』

     

    19の項目を通じて、ひとつひとつたどってきた人間悲願の達成に向けた軌跡。

    その最後に遺された文章だが、確認してきた足跡をひっくりかえすような可能性と不可能性の存在を暗示して終わっている。

     

    以前は、この最後の文章がだいぶ飛躍した内容のように感じられていた。

    なんで橋本先生はこのような謎かけのような文章を最後に遺したのだろうと。

     

    でも、気が付いたら、現在、操体を通して学んでいること、

    「新重心理論」はこの20番目の文章と無関係ではない、と素直に思える。

    橋本先生が予感していた新しい学問の可能性と新重心理論をこの文章はつないでくれている。

     

    「人間悲願の達成へ」もこの20番目の項目を踏まえて、また新しい輝きをもって現代にリロードされる可能性を感じている。

     

    www.sotai-miura.com

     

    一週間ありがとうございました。

    明日からは友松さんの投稿がスタートです。

    どうぞ、おたのしみに。

  • あずかりもののいかしかた6

    このブログを読んでいるみなさんは、今まで大きな怪我や病気をしたことがあるだろうか。

    一度でもそういう経験をすれば、何かしら自身の健康について、

    またこの「からだ」のことについて考えを巡らせるきっかけとなり、

    人によってはがらりと心変わりをして、生活意識も変化する方もいるかもしれない。

    寿命という言葉も、急に身近な語感をもって受け取られるかもしれない。

     

    私について白状するならば、幸いなことに今まで大きな怪我や大病をしたことがないせいか、こんな健康体がいつまでも続くような気持ちがこころのどこかにある。

     

    そんな人生の油断を見透かされてか、はたまた単なる普段の生活のしっぺがえしからか、数年に一度くらいのペースで突発的なからだの不調が現れることがある(からだの不調というものは大抵そのようなものかもしれないが)。

     

    例えば、前日に特別からだを激しく動かしたわけでもないのに、急に膝が痛くなって歩くことすらままならなくなることもある。呼吸法やからだのうごきを通したり、色々とからだに向き合っているうちに気が付くと数日のうちにあれは何だったのかという感じでその痛みはどこかへいってしまう。

     

    また、とあるライブハウスで演奏中、急に頭痛がして貧血みたいな感じでヘロヘロになってしまい、それでもなんとか最後まで演奏しきったということもあった。

    頭のことだったので、念のため検査などしてみたが、特別、脳に異変は見られず、肩こりの薬が処方されて終わった。これも1日2日してケロリとどこかへいってしまった。

     

    こういったいつものリズムとは明らかに異なる体調の変化が、数年に一度、油断した頃にやってくる。前は、この不可解な異変に驚いたり、焦ったりするしかなかったけれど、最近は流れる日常のなかでのある種のきっかけとして、少しありがたいこととして思えるようになってきた。

     

    大抵、こういうときは「わたし」の意識というのはチーンと静かになって、ただただわたし以外の要素に耳を傾け、委ねている時間と空間を送ることとなる。

     

    こういった「いつもと違う感じ」は、当たり前に日々を送れること、流れていくことがどれだけ緻密なバランスによって成り立っているかということを身を通じて痛感させてくれる。

     

    当たり前に流れていくことは、健康という大きな循環のなかに支えられているからはじめて実現できていることで、その大いなるバランスのなかでは、わたしという存在もほんの一部の要素でしかない。

  • あずかりもののいかしかた5

    モノの寿命について想うとき、

    「おさがり」という習慣は以前に比べるとだいぶ減ってきたように感じられる。

    私自身も姉や親戚のおさがりによって幼少期を過ごした経験があるし、

    大人になってからも師や先輩のおさがりの恩恵をいただくこともある。

     

    個人的には「おさがり」という文化は消えてほしくないものと感じている。

    モノに宿りしいのちが継承され、いのちがつながっていく。

    おさがりになるようなモノは、大切に使い込まれてきたものが多い。

    年長者から年少者やモノを介していのちのやりとりがそこに見え隠れしているように思う。

     

    モノを大切に使い込んでいく時代から、モノを消費する時代に移り変わり、

    リサイクルとかSDGsとか叫ばれながらも、生活の根底には、自分の欲しいものを必要な時に自分で買うというスタンスが主流になっている。

     

    便利だったり、安かったり、とても楽だったりする反面、

    現在の生活のなかで触れられているモノのいのちは、

    以前に比べれば短命であるモノが増えているように思う。

     

    大量のモノが日々のなかを通過しているので、

    モノの寿命なんて考えることが少なくなっているだろうと思う。

     

    巡り巡って、その生活意識は自身のからだに対する意識にもつながっている。

    それが自身の健康にとっても、大小なんらかの影響を及ぼしているように感じられる。

  • あずかりもののいかしかた4

    昨日に続き、モノの寿命について。

     

    人が生み出したモノにはいのちが宿る。

    宿ったいのちは辞書的に言えば、「物が使用にたえる期間」の寿命をもって全うされる。

    一方で、このモノのいのちというものは、人の手のかけようによって、伸びたり短くなったりするようである。

     

    まず第一に、そのモノにもいのちがあることを忘れていないことがミソだ。

    モノだって私たちが気づかないだけで、呼吸しているかもしれないのだ。

     

    そのうえで、モノの規格に理解をもって、適正に使用されること。

    そのモノの有している道理に適った使われ方をすることで、寿命はのびる。

    そして、その適正な使われかた自体がメンテナンスにも繋がっていたりする。

    結果、使い込まれたモノには「味」が宿ってくる。

     

    日常のメンテナンスで間に合わなくなってきたら、修理、修復、修繕を施す。

    そういう節目を越えて、モノのいのちはまた繋がっていく。

     

    当たり前のことながら、こういったことが人の健康と寿命にもそのまま重なってくるようで興味深い。

    そこでも大事なのは、このからだそのものにいのちが宿っていることを忘れていないこと。

    人の健康を考えようとするときに、このキーワードが抜け落ちていることが多い気がしてならない。

  • あずかりもののいかしかた3

    「寿命」ということばを辞書で引くと、

     

    (1)命のある間の長さ。命数。齢。生命。

    (2)転じて、物が使用され得る期間。

    (3)[理]素粒子・放射性元素・分子などが、ある特定の状態に存在する時間。

    (広辞苑)

     

    (1)生物のいのち。生命の長さ。命数。

    (2)物が使用にたえる期間。

    (3)素粒子や原子核、分子やイオン・遊離基などが、ある特定の状態にとどまっている時間。一般には平均寿命をさす。

    (大辞林)

     

    とある。

    寿命という概念は、(3)のように素粒子の領域にも及んでいて、最新の物理学ではいのちのことをどのように捉えているのか気になるところである。

     

    ところで、モノの寿命については昔から気になっていることがたくさんある。

     

    小さい頃から古書が好きだった私は、町の古本屋に足しげく通っていた(いまではこのような小さな古本屋は残念ながら消え去ってしまった)。

     

    ある日、店主に向けて以前から気になっていた素朴な疑問を聞いてみたことがある。

     

    「古本なのに、値段が全然下がらない本があるのはなんでですか?」

     

    「そうだね、そういった本は命(いのち)がながい本だね」

     

    この店主からの返答に、こども心に妙に納得してしまったことを憶えている。

    「本にもいのちがあるのか」と、意識し始めた記憶がしっかりとある。

     

    人が創り出したモノにもいのちが宿る。

    そのいのちの長さを決めているものは、いったいなんであろうと、今でも不思議に思っている。

  • あずかりもののいかしかた2

    操体を学んでいて出会い、影響を受けた言葉はたくさんあるけれど、

    そのなかでもいのちについてあげるならば、

    「このいのちを、何のために使うのか」

    が思い浮かんでくる。

     

    このことばをあじわっていると、「わたし」という存在がすーっと消えていく。

     

    「いのち」というものを、やはり一時的にお預かりしているようなきもちになってくる。きもちになってくるというより、忘れていたことを思い出す、といった方が適格かもしれない。

     

    伝統芸能の世界でも、演奏家でも、小説家でも、職人でも、尊敬を抱くようなひとは、自身の活動の陰で、自身の健康についての眼差しを持っている。

     

    いのちを使って活動をする上で、健康であることが大切であることを、決して忘れていない。その活動がハードであればあるほど、見えないところで健康には人一倍気をつかっている様子が伝わってくる。

     

    「このいのちを何のために使うのか」と問いかけ続けることで、

    自分から離れて、いのちがよろこぶことはどんなことなのか感じることができる。

    忘れそうになっても、思い出すことができる。

  • あずかりもののいかしかた

    おはようございます。瀧澤さん、間の投稿をありがとうございました。

    本日より一週間、テーマ「健康と寿命」をつないで寺本が担当致します。

    よろしくお願い致します。

     

    わたしたちは、この世に生きている間は「健康」というテーマと、いつもともに生きている。

     

    若い頃は「当たり前」だった健康。

    それがひとたび病気をするならば、当たり前ではなかったことに思い当たり、そして年齢を重ねれば、尚の事、身近な現象として迫ってくる。あまりにも近しいテーマではあるけれど、まだまだ未知数な要素に溢れている。

     

    言葉としては誰もが知っていて、

    でもその言葉が何を指しているのか、いまいちはっきりしない、

    不思議で壮大なテーマ。

     

    本当のところ、「あれがイイヨ、これがダメダヨ」の外部からの情報などに一喜一憂、色々と模索を続けながら、自身のからだを通じて健康と向き合うことが多いのではないか。

     

    からだと向き合う。

    これはいのちに意識を向けている瞬間でもある。

     

    この世に生まれ、預かったいのち。

    この預かりモノを、様々な生命力を受け取りながら、いただきながら、

    次のいのちにつないでいく。

     

    その、「いのち」のことと、我々が「健康」と呼んでいるものは切り離せない関係があるように思う。

     

    いのちのことについて、からだと向き合いながら模索することに、

    自身の健康を創造し、成していくヒントがある。

     

    次のいのちに渡していくまでに、まさに一生学べる学問の種がそこにある様におもう。