カテゴリー: 寺本 雅一(てらもと まさかず)

  • うらおもて7

    今年も今日で1年が終わろうとしている。

    振り返ると、生活のなかで、

    「内臓」のことに意識が向くことが多い一年だった。

     

    私たちが飲んだり食べたりすることと、

    からだの方でそれを必要としているかどうかは、

    全く別の話なんだ、というのも感じることが多かった。

     

    年末年始は、いつもの生活リズムが余計に変わりやすいものだ。

    食のリズムも、口にするものや量、タイミングなどが変わって、

    例年だと三箇日が過ぎる頃には、内臓もだいぶお疲れの状態になっていることが

    多かった。

     

    そんなときは、普段、陰で支えてくれているからだのことが自然と意識にのぼってくる。

    からだのなかにおさまっている内臓の存在感を強く感じる。

    「今年もやってしまった。。」と反省することになる。

     

    人間の生活や風習に、からだはリズムを合わせてくれている。

    本来は、からだの営みの支えがあって、人間は生活ができている生き物なのだと痛感する。

    「七草粥」を食べてお正月でお疲れの内臓を労わる知恵に加えて、

    来年は「私」は少し裏方にまわる機会を増やして、からだのリズムとともに新年を迎えてみようと思う。

     

    今年も一年、東京操体フォーラム実行委員ブログを支えていただき、ありがとうございました。年が変わって、明日からは友松実行委員のブログがスタートします。

    よろしくお願い致します。

  • うらおもて6

    人が眠っている時にみせてくれる、からだの呼吸。

    たしかに、呼吸は人間が意識的に行おうとしなくても自然とからだの方で営んでくれているんだということを感じる。

     

    非常に静かに、また深く充実したリズムがある。

    こういう瞬間を眺めていると、眠りの時間と空間が人間のからだにとってとても大切な間になっているのを考えさせられる。

     

    目が覚めて活動を始めると、からだのリズムに、人間のリズムが色濃く加わってくる。

    あの深い呼吸は人間の生活リズムによってわかりづらく隠れてしまう。

     

    人間にとっては起きている時がおもてのような感じがするが、からだにとってはどうなのだろうと、改めて考えてしまう。

  • うらおもて5

    裏と表という概念は、結構あいまいなものかもしれないなと思う。

    人間のまなざしから生まれた常識が当たり前のようにインストールされているだけで、視点が変われば裏か表かなんてひっくり返ってしまうこともありうる。

     

    例えば、地球から見えるお月様の顔はいつも片側しか見えないという。

    「月の裏側」は地球からは見えない、と聞くけれど、それは視点が地球にあるからで、

    宇宙空間からみれば地球基準の月の表側と裏側という捉え方はどこかへいってしまう。

     

    常識は視点が変われば、変化もする。

    自然に目を向ける時、やはりもう一度、まっさらな感覚で味わってみることが

    どこまでいっても大切なように感じる。

     

    そうでないと、それこそ物事の片側だけをみつづけていることになるのではないかと思う。

  • うらおもて4

    その昔、どんな御縁で出会ったのかはすっかり忘れてしまったけれども、

    磁石を使ってからだを診る方にお会いしたことがある。

     

    興味があったので、お互いの住まいからちょうどいい場所にある小さな公園で、

    その方の手技をうけさせてもらった。

     

    私はただただ立って背中を向けているだけだったと思う。

    手の平サイズ(またはもっと大きいものであったかもしれない)の超強力な磁石をその方は使用していると言っていた。

     

    背中越しだったのではっきりとはわからないけれどその磁石を少し離れたところからからだに向けて撫でる様にしてアプローチされていた。

     

    何も知らない人は気功でも受けているのだろうと感じたに違いない。

     

    受けていると触れてはいないのに、たしかになんらかの「圧」もしくは「流れ」の作用をからだが受け取っているような感じがあった。気のせいかもしれないけれど、ものすごく低い周波数の音のようなものがボワーッっと聴こえてくるようでもあった。

    初めての感覚で、その時の不思議な体験を思い出そうとすると、今でもその時からだを通して感じた不思議さを思い出すことができる気がする。

     

    その方自身の呼吸音も特徴的だったので、ご本人自身もその磁石の影響を受けているような印象もあった。

     

    磁石というと、SとNという対になっている極があり、

    異なる極は引き合い、同じ極は反発し合うという性質を誰しもが知っている。

    砂鉄などがあれば、その性質を可視化することができるように、

    目にみえない力の流れが存在しているのがわかる。

     

    当時は、何となく、強い磁力をもった磁石の影響で、からだにも何らかの変化が起こっているのかなと思う程度であった。

    目にはみえないけれど、流れはたしかに存在している。

    今思えば、あの方は目に見えない流れをいかして、からだを診ようとされていたのではないかと感じられる。

  • うらおもて3

    年末年始が近づいてきて、シンプルで面白いゲームと言えばオセロが思い浮かぶ。

    8×8の盤上に、裏と表がある同じ白黒の石を使って遊ぶ。

     

    こどもも感覚的に遊べるし、大人も熱中して遊べる。

    私はこのオセロの戦略がいまだによくわからない。

    四隅を打てれば有利、くらいのことしかわからない。

     

    きっと、熟練のオセロマスターには様々な打ち方があるのだろうけれど、

    わからないながらも面白く遊べるのも魅力だと思う。

     

    そして、白と黒のせめぎ合いが後半にさしかかって、

    一手にしてひっくり返りはじめるのも、面白いというか興味深い。

     

    いままでの状況がひっくり返ってしまって、景色が変わってしまうのだ。

    わからないながらに遊んでいる身としては、いつもこの予想のつかない展開がやってくるのを少し期待もしてしまう。

    これは自分が勝っていても、負けていても、口惜しさと驚きと不思議さに満ちているプロセスだ。

     

    白と黒が何かをきっかけにくるりとひっくり返ってしまうことを、遊びのなかで体感できる。

    8×8の舞台の上で、同じ石が白になったり、黒になったりする。

    その変化の有様を遊びながら、

    物事の視点の変化のことをくるくると遊んでいるようにも思えてくる。

  • うらおもて2

    先日、部屋の整理をしていたら、埃をかぶったカセットテープが出て来た。

    そういえば、小学生の頃はラジカセに空のテープをセットして、

    ラジオにかじりつきながら、録音ボタンを押して、自分の好きな曲を集め、

    オリジナルのテープを作成していたものだ。

    好きな曲は何度となく巻き戻しては聴いていた。

    A面とB面をひっくり返すのも、当時は当たり前だった。

    片面が終わりに近づいていき、テープをひっくり返す前のあの感じも

    結構好きだった。

     

     

    まだ、レコードも普通に家の中にあった(今もあるが)。

    針をおとし、表面を聴いて、今度は裏面へ返す。

    裏表がセットでひとつの作品というのも自然なことだった。

    音楽をたのしむうえで、いろいろな「間(ま)」が溢れていた。

     

    CDもすでに身近になりつつあった。

    初めて自分でCDを購入し、再生した時に(たしか、すぎやまこういちのドラクエのサントラだったと思う)、曲を意のままに飛ばせるというのに、感動したことを憶えている。聞きたかったあの曲が、巻き戻すことも、針を動かすこともなく、ボタン任せに「ピーピピピ」と読み込んで適ってしまうのだ。この味をしめてからは、カセットテープを再生する機会はパタリと減っていった。

     

    CDの盤にも表と裏はあるけれど、裏面にひっくりかえして再生する必要はなくなった。スマホやパソコン、ブラウザで音楽を聴く現在は、表と裏という概念ももはやなくなった。

     

    今思えば、表と裏を行き来しながら循環するのと、

    再生が自動的にループされるのとでは、だいぶ違うのではないかと思う。

     

    音楽の記録メディアから「表」と「裏」が消え去って、

    音楽をたのしむ空間で、表と裏をつないでくれていたあの「間(ま)」も一緒に消えてしまったことを想う。

  • うらおもて1

    おはようございます。

     

    瀧澤さん、からだ主語のスイッチ&メッセージをありがとうございました。

    本日から引き継いで一週間、寺本が担当致します。

    テーマは「うらおもて」です。

    よろしくお願い致します。

     

    トゥバ共和国の伝統楽器「イギル」は擦弦楽器で、「弓」を使って束ねられた二弦をこすって音を生む。この弓の動きが、途方もなく奥が深いように思う。

     

    他の擦弦楽器と同じく、弓元から弓先、また弓先から弓元へとダウンとアップを繰り返しながら音を奏でるこの楽器に触れていると、それぞれの動きの移り変わりの「間(ま)」に非常に興味がわいてくる。どこまでがダウンで、どこからがアップなのだろうかと。

     

    例えば、イギルの名手の弓さばきを見ていると、ダウン・ボウだったものが気がついたらアップ・ボウに、またアップだったものがダウンヘと途切れることなく変化し続けている様に見惚れてしまう。まるでメビウスの輪のようである。

     

    陰極まれば陽、陽極まれば陰。

    呼吸するように、弓の流れが循環しているのが伝わってくる。

  • やまのはなし7

    一日が始まる前の時間。

    夜が深く更けていって、いつのまにか朝へと変化していく

    グラデーションの時間。

     

    そういう時間に目が覚めていて、外に出て、その間のときをあじわう機会は

    そんなに多くはないけれど。

     

    静けさの中、キリっと澄んだ空気を感じ、

    今日一日の呼吸が始まろうとしているような気配に包まれていると、

    朝早くから山に登るために、登山口の近くにキャンプを張って休み、

    まだ薄暗い闇の間の中、山を登り始めるときの朝の景色が思い出されてくる。

     

    自然がいっぱいでないようなところにいても、朝がやってくる前の空気は、

    なんとなく似ているのだ。

     

    そもそも、自然がいっぱいってなんだろうか。

     

     

    からだのそとで「呼吸」している、おおきなリズムのようなもの。

    そんな目にみえない自然を感じて、きょうの一日もはじまるのだ。

     

    一週間のお付き合いありがとうございました。

    明日からはテーマを引き継いで友松実行委員のブログが始まります。

    それでは友松さん、よろしくお願いします。

  • やまのはなし6

    人から感じる第一印象というのは、「なんとなく」の世界ではあるけれど、

    ある意味で的を得ているときがあるものだ。もちろん外れることもあるが。。

     

    そのなんとなく感じる印象のなかに、

    「あ、この人、『山登りのひと』かもな」というのがある。

     

    「山登りのひと」という言い方も変かもしれないが、その意味するところは、

    現在も、山登りをしている、もしくは、以前、山での活動をやっていたなど、

    多少のブランクはあってもそういったアクティビティに親しみをもった経験のある人。

    そういう人物には特有の雰囲気があるように感じる。

     

    なんとなく、そういう人の纏っているリズムには、

    いい意味での隙間が満ちているように思う。

    山や自然のなかに満ちているなにかが、その人のなかに宿っている、

    残っている、とでも言えばいいのか。

     

    街の奏でているリズムのなかにあっても、

    そういう人の振る舞いには、ゆったりとしていて、ほどよい間が含まれている。

     

    「山登りのひと」と接しているだけでも、なんだか呼吸が深くなる、

    からだのなかを風が吹きぬけていく。

     

    山登りに限ったことではなく、人に宿る自然というものがあること、

    そういった不思議を、最近大事に思っている。

  • やまのはなし5

    目にはいるところに「時計」のない場所では、

    いまが何時なのか、考えることも忘れてしまう。

     

    日の光の変化と生きものの「こえ」に包まれ、

    皮膚は空間をただただ味わっている。

     

    光を、闇を、

    ひびきを、

    あじわっている。

     

    普段明るすぎて見えなくなっているものも、みえてくる。

    あったものが、あることを感じられる。

     

    時間がゆっくりと流れているように感じるのは不思議だ。

    (実際に、まだこんなに早い時間ではないか)

     

    何もしない時間がひろがっていく。

    じかんが、きえていく。

     

     

    いくつかの

    やまのきおく