カテゴリー: 寺本 雅一(てらもと まさかず)

  • うみのきおく

    瀧澤さん、一週間の間の時をありがとうございました。

     

    本日からバトンタッチして一週間寺本が担当致します。

    テーマは引き続き「海」。

    よろしくお願い致します。

     

     

    小学生くらいまでだったか。

     

    昔、田舎が千葉の内房にあった頃は、「海」がもっと身近だった。

    海水浴や潮干狩りは年中行事であった。

     

    思い出すその光景は、どこか古めかしい写真を眺めているようで、

    遠い遠い出来事のような気持ちがする。

     

    こういう記憶を思い出し、ノスタルジーな気分になっている「わたし」の傍らで、

    めっきり「うみ」に行かなくなってしまったことを、からだの方でも残念に思っているのかな、と感じることがある。

     

    たまには、昔みたいに、海に行ってみようかな。

     

    たまには、むかしみたいに、うみにいこうよ

     

    わたし以上に、わたしの皮膚は、海を懐かしんでいるような気持ちがしてくる。

  • 人間のシテンとからだのシテン7

    生命現象は宇宙空間の事象として貫通している。

    人間が「治癒」と呼んでいるからだがみせてくれる現象も、味付けの無い、そのままの生命現象として捉えなおしてみたい。

     

    風が吹いてくるように。

    呼吸がからだに入ってくるように。

     

    からだが主語になり、人間の視点は、からだの支点となる。

    そんな学びの流れも操体という学問からみせていただいている。

    自然と人間の循環のひとつのカタチ。

     

    手を止め、歩みを止め、宇宙に立つ。

    常にいただいている何かを感じている。

    植物をみていると、そのような生命のスガタが重なってくる。

    一日という管理された時間感覚の中で、人間が宇宙に立つ生命であることを思い出す「間」がわずかでもあるといい。

     

    その間のなかで、人間の視点とは別の情報、例えば生命由来の情報が去来していることに気が付くかもしれない。

    包まれていること、接していること。

     

    気が付いただけでも変化は起こっている。

    それだけ豊かな生命由来の情報に支えられて生きていることに意識が動いたのだから。

     

    一週間のお付き合いありがとうございました。

    テーマ「治癒」は友松さんにバトンを渡して続きます。

    どうぞおたのしみに。

  • 人間のシテンとからだのシテン6

    日常生活には様々な生命活動が溶け込んでいる。

    普段、意識されることもなく、流れる様に営まれているこの活動に人間は支えられている。

     

    呼吸もその一つ。

    目に見えない、当たり前のように人生を包んでいるリズム。

    この営みの重要さに気がついた先人は、様々な方法でこの生命活動に向かい合ってきた。「呼吸法」が様々存在しているのが、その証拠だろう。

     

    操体も呼吸には目を向けて来た。

    呼吸との歴史がある。

     

    人間が呼吸をコントロールすることと、からだの方で呼吸を営んでくれていること。

    からだが主語の呼吸について学ぶ。

    こんなに身近な呼吸でも、人間が主語の眼差しからでは、遠い。

  • 人間のシテンとからだのシテン5

    からだにおける生命活動は、人間の意識の及ばないところでも絶えず営まれている。

    その営みと人間の日常生活とのブレンドがその人のいまを生み出している。

     

    人間の創り出した時間感覚のうち、一日の中で4分の1くらいは「眠り」の時間がやってくる。この時間、人間の生活としてはOFFの営みとなり、ある種の「委ね」の時間に入り込む。

     

    先の「ブレンド」の割合が変化するこの「間」は、非常に大事なのではないかと感じられる。

     

    人間が目を閉じている時に行われている生命活動。

    そして、朝、目が覚めたときに感じられる生命感覚情報の変化。

     

    毎日、眠りの時間があることで、どれだけ人間は助けられていることだろうか。

    この「間」が足りなくなってくると、人間は間に合わなくもなってくる。

     

    でも、安心してほしい。

    夜の眠りの時間以外にも、「間」は在る事をお伝えするのも操体の役目である。

  • 人間のシテンとからだのシテン4

    「痛み」という現象にはネガティヴな印象が付きまとっている。

     

    からだが痛んで、不快が続くのだから仕方はない。

    一方で、「痛み」を感じていることは、からだからのメッセージを受信している確たる証拠でもある。

    先天性由来の例外を除く、ほぼすべての人間がこの「痛み」を介してのからだとのコミュニケーションを体験したことがあるはずだ。

     

    この「痛み」という現象を通じて、からだは何を表現しているのか。

    頭で創りあげるネガティヴな印象の前の、生命現象としての「いたみ」。

     

    「いたみ」にことばを与える。

    からだのことばを受け取って、一方通行でないコミュニケーションが始まる糸口がみえてくる。

  • 人間のシテンとからだのシテン3

    「生活習慣を見直す」、ということがよく言われている。

    これは人間の営む生活の話。

     

    もし見直すことを根本的にトライしてみたいなら、

    「生命活動」の領域に意識をむけてみるのがいいのではないかと思う。

    からだの方で営まれている活動の方に少し意識を向けていき、

    その生命活動のリズムに人間の生活を合わせていく。

     

    人間の活動を見直すこと、その工夫はアウトプットが主体となりがちだ。

    こういうことをすればいい、もしくはしなければいい。

    そういった人間由来の「有益な」情報によって日々の行動を変化させる。

     

    生命活動情報をいただいて、生活が変わっていくことは、まずインプットからはじまり、また情報の質も異なるといった点で、上記の見直しとは大きく流れが違ってくる。

     

    人間が頭だけで考えていては、間に合わない。

    必要な情報は、身近に在る。

  • 人間のシテンとからだのシテン2

    からだの設計にミスはない。

    と、操体・操体法の創始者の橋本先生は言う。

     

     

    こういった捉え方の基に、操体の哲学、臨床観は成り立っている。

    『病気』に対する捉え方も「からだの設計にミスはない」という言葉と深く向き合っているうちに、変化せざるをえない。

     

    次第に、人間の捉え方の方に、根本的なブラッシュアップが起こり始める。

    それは、からだとの信頼関係が深まっている証拠でもある。

     

  • 人間のシテンとからだのシテン

    瀧澤さん(からだ)、一週間のメッセージありがとうございました。

    本日からつながる寺本がテーマ『治癒」を受け取って投稿します。

    よろしくお願い致します。

     

    からだの要求に適うこと。

    これは人間が「治癒力」と呼んでいる生命現象につながっています。

     

    「病む」、そして「治る」といったプロセスは、人間からみた色をつけた捉え方。

    からだからみれば味付けのない、そのままの生命現象として営まれています。

     

    わたしの要求を満たしていくことと、からだの要求に適うことはまったく別のこと。

    わたしが何かを施して、治しているのとは違うのだなと、改めて思います。

     

    普段、「わたし」という存在に当てているスポットライトの照明の方を落としていくと、わたしの見かた、捉え方というのは一旦弱まっていく。

     

    すると自然と、「からだ」という生命体が静かに営んでいる生命現象の方に光があたっている。

     

    視点から支点に移行して、その間(ま)のなかで、入ってきているもの、いただいているもの、いままで感じられなかったこと。

     

    生命感覚情報をいただきながら、ことばをもたないからだのことを学習していくことはできるのです。

  • 感境7

    昨日の続き

     

    人間の可能性について想う。

    からだを経由して、いただいたことのなかから学ぶ操体という学問は、

    ある意味で、この生命の本来持っている可能性に触れ、

    人間の可能性を発掘しているようなものだと思う。

     

    それは、人間にとって、より本来の人間らしく、また生命らしく生きることにつながるのではないだろうか。

     

    そんななかで、「感じる」ということの大部分を、からだを経由せずに機械に委ねる生活に慣れてしまっているということを、ハッと気が付かせてくれる機会が先日あった。

     

    師匠と兄弟子にご一緒して、当フォーラム相談役の川崎隆章氏のご紹介で、落語家の立川生志師匠と桃月庵白酒師匠の二人会(「生酒の会」)に伺った時の事だ。

     

    前編、後編ともに、豊かな空間を味わう機会をいただいたが、特に最後の生志師匠の「百年目」が響いた。この落語は初めて聴かせていただいたが、六代目三遊亭圓生の「淀五郎」を一時ききまくっていた私にとっては、途端に大好きな演目におさまった。

    帰り道に知ったことだが、この「百年目」が圓生の得意な演目であったことも嬉しかった。

     

    噺の内容も、生志師匠の芸から伝わる空気感にも完全に引き込まれて、ジーンと響きをいただいていたが、味わっていて驚いたのは、この演目の中に登場する人々の感受性豊かな生活の姿だった。

    携帯電話もない、インターネットもない、電気の通っているインフラも乏しい生活環境の中で、人間の有している感受性をフルに使って人間同士が情報コミュニケーション豊かな生活を送って生きていることが伝わってきた。

     

    そんな姿を味わっていると、いまの便利な生活のなかで、大切な人間の可能性を機械の可能性に委ねきってしまっているような気持ちがしてきた。

    SDGsもいいのだろうが、人間側の感受性に目を向けることなしに、自然とのいい関係を考えるのは少し遠いように思う。

     

    日本の古典と呼ばれている世界には日本人が感受性をフル動員して生きていた姿が残っている。それを味わうには、舞台から生まれる空間の生の空気に触れ、皮膚感覚を介して言外の体験をするのが一番だ。

    気持ちが動いたら、古典を味わいに足を運んでみることをおすすめする。

    時空をこえた人間の姿に、きっと皮膚感覚も悦んで、何か遠い記憶に触れているような気持ちが味わえるはずだ。

    わからなければ、ただただ味わうことから始めればいい。

    それはすでにアウトプットの始まりなのだ。

     

    一週間のお付き合いありがとうございました。

    明日から友松実行委員の登場です。

    どうぞ、おたのしみに。

     

    www.tokyo-sotai.com

  • 感境6

    からだには、まだ人間の方で理解できていないだけで、可能性が満ちている。

     

    それは生命の可能性であり、人間の可能性につながる。

    操体を通して学んでいる最中にそのような生命現象に遭遇し、

    生命感覚に貫通している真理と呼べるようなものに触れているようなきもちになる。

     

    改めて考えてみると、そういった微細な出来事に気付くきっかけとなっているのは、

    普段意識することのなかったことに意識を向ける機会が増えること、そして感覚というものに対してあらゆる角度から向き合う機会が「からだ」からの学びのなかで必然的に増えたからではないかと思う。

     

    この向き合い方、あるいは受け取り方というものにも恐らく作法があって、

    生命感覚情報の大きなインプットのサイクルにスイッチが入るようなことを、特に最近の操体では学んでいるのではないだろうか、と感じる。

    それが今までの「感覚」を重視する操体のスタンスとも、また一味違うのだ。

     

    「アウトプット」はひとまず置いておくことにして、

    「からだ」から、また環境から、いただいていることがある。

    いただいているから自然と生まれている表現活動がある。

     

    そのあたりのことを息(呼吸)を介して学んでいるように感じる。

     

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