カテゴリー: 友松 誠(ともまつ まこと)

  • 感覚を磨くことで。

    おはようございます。

     

    人は大病したりとか、何か日常とは違う困難に直面し、それを乗り越えた時、人間的に強くなったり一段と成長するという話をよく聞きます。

    なにか痛い事や苦しい事を経験しなければ、気づけないことや得られないものがある。確かにそうかもしれませんが、それは感覚とか感じるとか、思考概念と相容れないものを無視してしまうから、そう思ってしまうのだと思います。

     

    しかし、感覚というものに目を向ければ、つらい事を経験しなければ得るものがないとか、成長できないという図式は成立しなくなります。

    ひっぱたかなければ、ひっぱたかれた人の痛みが解らないという子供なら、痛みの経験は必要でしょう。ですが、子供から成長すれば、他人が痛がっていれば、その痛みがわかるはずです。それは感覚をとおして識っているからです。だから、他人の痛がる事、嫌がる事はしたくなくなる。

    だったら、感覚をもっと鋭敏にして、他人が痛がる事、嫌がる事を未然に防いで、他人をよろこばす事、うれしくなる事を察知してあげれば良いのではないでしょうか。そしてそれを行動に移す。それも正義だと思います。

     

    実際それは程度の差こそあれ誰でもやっている事です。そして、それを高め、からだに当てはめれば未病医学につながるのです。

    「上工は未病を治し、下工は病を治す」という言葉がありますが、これも感覚を鋭くしなくては、「このアンバランスな状態では、ここが病気の火種になるぞ」という病の芽を先に摘む事はできないのです。

    上工、下工という診る側のことだけでなく、診られる側も感覚をなおざりにしてはいけません。

    診る側、診られる側と区別せず、皆からだと共に生かされて生きているわけですから、感覚は大切です。感覚をとおして、からだにききわける、魂にききわける、良心にききわける。そういう事をとおしていれば、自分の行いが必ず変わります。

    そこに自然の法則の理解が加われば、自分で未病を実し、健康維持、増進ができるのです。健康維持、増進ができれば、自分の描く正義も実行しやすくなる。その正義は皆の根底でつながっている正義でもあります。

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    2018年春季東京操体フォーラム

    4月30日(月)昭和の日に開催致します。

    テーマは「スポーツ障害と操体」です。

     

  • 本当に悪?

    おはようございます。

     

    症状疾患を何とかしようとする考え方。そこには症状疾患を悪と決めつけ、やっつけるという考えが見え隠れする。

    しかし、その症状疾患現象は本当に悪なのでしょうか?

     

    誰だって痛い思いや、ツライ思いはしたくないと思います。しかし、それはからだからの重要なサインでもあるのです。

    痛みを感じなかったらどうでしょうか?そのほうが楽かもしれませんが、からだの異変に気づけず、エントロピーは増すばかり、早くにその生命活動は営めなくなるでしょう。

     

    あまり自分中心になってはいけません。からだあっての自分であり、自分自身なのですから。

    からだの声に耳を傾ける。一番身近なからだの声を蔑ろにして、世の為、人の為に(今回のテーマでもある)正義をとおす?

    自分ばかりが、もてはやされる事ばかり考えていると、後でしっぺ返しをくらうことになります。あまり独り善がり、自分善がりにならないほうが身のためです

     

    身のためといっても、その為に消極的で良いとか、御身大事で他人様お構いなしでも良いという事ではありません。それでは正義はとおらないでしょう。

    イタイ、ツライはからだのサインであり、例えば、動作に当てはめてみれば一旦止まって、自然の法則に背反していないかどうか、からだと向き合ってみるべきなのです。

    わざわざ痛くなる様な動きをとおしていて、痛いからやらなくていい、では生活が立ち行かなくなります。そうではなく、そのイタミは、からだの使い方が何か間違っており、それを正してほしい、というからだからのサインと受け取め、改めてみる。それだけでも現象は随分と変わってくる。

     

    症状疾患も悪ではなく、それでも生命活動を継続させようとする一つのバランス現象という見方もできます。だったら悪を生じさせないバランスに自分自身が変化していけば良いのではないでしょうか。その為に、からだと向き合う。結果的に生じている悪としているものも消滅していく。

     

    その為には自然の法則の理解が必要です。理解は必要ですが、アタマで解っただけでは不十分。やってみなければ。しかし、やってみてそのとおりにできるかというと、そうもいかない。アンバランスの度合いが激しいほど、一人では上手くいかないでしょう。

    はじめは、操体臨床家、指導者のサポートを受けた方が良いと思います。正義をとおそうとする人の味方ですから。

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    2018年春季東京操体フォーラム

    4月30日(月)昭和の日に開催致します。

    テーマは「スポーツ障害と操体」です。

     

     

  • 正義を学んでいる。

    おはようございます。

     

    施療を施す側は誰でも、病んだ人を助けたい、弱った人の味方になりたいと思っている筈です。その為に病み(症状疾患)に対しての治し方を学び、研鑽を積む。

    そして、病みを抱えた人も、そうした研鑽を積み、少しでも評判の良い人に診てもらおうとするでしょう。

    施療者、病みを抱えた人、双方の思惑は相対的に一致し、それが当然と思われることでしょう。しかし、両者の思惑には相対的な物事を超えた大切な事柄が欠落している。

     

    それは症状疾患現象の元を正すという事。操体臨床は、ここに重点を置いており、だから常識的に考えれば難しいとか、無理と思われることも可能となるのです。

    勿論これは人間の欲の範疇の事柄ではなく、大自然の叡智に準ずる範囲のものです。自分勝手な欲と自然の理とは相容れませんから。

    症状疾患現象の元となるもの。それはボディの歪みに表されるアンバランス。それはつまり、自ら責任を持って営まねばならない生命活動が、環境に上手く適応できていないという事。それがボディの歪みとして現れている。

    だから、単にボディのカタチだけ整えるのではなく、そのプロセスが大事。動き一つ、呼吸一つでからだのツクリは変化するのだから。

    動きや呼吸が、重力をはじめとする自然環境への適応に向かうほど健康回復につながり、ツクリもそれに応じて変化し、結果的に症状疾患という現象も露と消えるという事。

     

    自然の叡智というのは、人間の知識での決まり事(症状疾患への対処)の枠を超えた計り知れないものだと思います。からだの持つ自然良能作用、自然治癒力というものも計り知れない。

    人間同士のやり取りには、必ず良い悪いとか、善悪とかが絡んできます。その相対的な枠を超えた絶対的大自然。その自然の理を学ぶ事こそ、真の正義を識ることにつながると思います。

    そして、その学びこそ道(タオ)であり、操体の学びに終わりはないのだと思います。

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    2018年春季東京操体フォーラム

    4月30日(月)昭和の日に開催致します。

    テーマは「スポーツ障害と操体」です。

     

     

  • 義を正す。

    おはようございます。

     

    東京操体フォーラム実行委員ブログ、今週は友松が担当いたします。

    どうぞよろしくお願いいたします。

     

    さて、今回のテーマは「正義」ですが、操体の門をたたき、学び続けている人というのは、正義感が強い人だと思います。 

    操体は救いの生命観に基づいた絶対的な真理の探究であり、世間一般の相対的な物事の考え方からすれば、なかなかその真意がわかりづらい、という事があるかもしれません。

    例えば、からだの不調を何とかしたくて来る人は、私達にそれを治してほしくて来る筈です。

    しかし、治すのはその人自身であり、その人のからだなのです。いくら高等と呼ばれる施療を受けようとも、からだが応えてくれなければ、どうにもならない。これは紛れもない事実です。

    からだが応えてくれねば、どうにもならない。この事実を踏まえ、からだのこと、イノチのことの絶対的な真理を探究し、からだが最大限に治しをつけてくるよう手助けする。そうやって臨床効果をあげているのが、操体臨床家なのです。

    だから、操体を臨床に用いている人は、自分が治したなどと主張しない。治しているのは紛れもなくからだなのですから。

    そこのところを隅に追いやり、自分が治したと自分の手柄のように利を主張する。それは、からだからしてみれば理不尽であり、義が捻じ曲がるのではないでしょうか。

    正義には、義を正す心の持ち方と行動が求められる。

     
    その人のからだを尊重し、生命の叡智を感じる。

    治してほしいという人は、往々にして自分が病ませてしまったという自覚がない。そのままでは心とからだはアンバランスのままであり、義が立たない。からだあっての自分なのに。

    少々、本人に煙たがられようが、面倒くさがられようが、からだ(生命)の要求として感じた事、言うべきことは言わせていただく。

    それも操体指導者として、義を正す事だと思います。

     

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    2018年春季東京操体フォーラム

    4月30日(月)昭和の日に開催致します。

    テーマは「スポーツ障害と操体」です。

     

     

  • 当たり前?

    おはようございます。

     

    今日で、今回のブログ担当も最終日となります。

    今回のテーマは「感謝」でした。

     他人に何か良くしてもらえば、誰だって気分が良いし、感謝もしたくなるでしょう。「ありがとうございます」というお礼の言葉も言い易いと思います。

    しかし、家族をはじめ近しい人ほど、良くしてもらっても「ありがとう」は言わなくなっているのでは、と思います。

    それにつれて感謝の気持ちも薄れていき、それが当たり前という風に変わっていってしまう。

    そして、当たり前と思っているいる事に、不具合が生じれば、今度は即、不満や不平を口にするようになってしまう。荒い波風が立つと思いますし、不和が生じてくるでしょう。

     

    自分と自分のからだ、ひいては自分自身を生かしてくれているこの空間との関係についても、いえる事なのではと思います。

    自分が息をしていられる、地面に立っていられる。そんなの当たり前と言われるかもしれません。しかし、その当たり前の事に少しでも不都合、不具合を感じれば、途端に不安になってしまうでしょう。

    当たり前と思う、その心はものすごく自分勝手なものなのかもしれません。

     

    自然界に生まれたものは、その適応性を付与されているといいます。元々は有難く存在させていただいているのですね。

    しかし、その有難さも当たり前として見向きもしなければ、放蕩息子が親の財産を食いつぶすのと同じで、大自然の恩恵にあずかることは出来ず、後退、退化、自滅の道を歩むしかなくなります。

     

    どう有難く生かされているのか。そこに目を向けて、実践しながら学問にしていく。その学びには、感動あり、感謝あり。そして、それはいかようにも応用、貢献が可能となっている。

    調和尽十方。操体っていいですね。

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    一週間お付き合いいただき、ありがとうございました。

    明日からは、畠山裕美先生の担当となります。

    来週もどうぞよろしくお願いいたします。

     

    友松 誠。

     

    2017年秋季東京操体フォーラムは、2017年11月23日(木)に開催致します。
    テーマは「生エネルギーと性エネルギー」です。
    2017年秋季東京操体フォーラム開催!

     

  • 肯定してあげて下さい。

    おはようございます。

     

    現代は飽食の時代と言われるようになって久しい。しかし、食べる事に罪悪感を感じる人も多いという。

    この罪悪感とは、他の生きものを食べているという罪悪感ではなく、「痩せたいのに、また食べてしまった」というような、自分の容姿や体重を気にしての罪悪感。

    ダイエットしたい気持ちも解るが、間に合っていれば良いという心の豊かさを持つことも大事だと思う。

    こういった食への罪悪感はエスカレートすると、自分の意思とは関係なしに、からだが食べ物を受けつけなくなってしまうという。相当に身心のバランスを崩している事だろう。

     

    そこまで至ってしまう人は、若い女性、特に自己否定感が強く真面目な人が多いという。

    年頃の娘さんが容姿を気にする、周囲に認めてもらいたい、という気持ちも解る。それが原因でイジメを受けていれば尚更だと思う。

    しかし、それでは本人以上に、その人のからだがあまりに気の毒だ。

    まず、自己を肯定してあげてほしい。自分の意向を、いつも肯定してくれている、自分のからだの身になってほしい。

    からだだって、それなりのエネルギーのインプットがなければ身がもたないのだ。

     

    自分自身で責任をもって営まなければならない生命活動を、最小限に絞り込めば「息」「食」「動」「想」となる。この中の「食」は、自分にも自分のからだにとっても、エネルギーのインプットとなる。

    そして、自分自身というのは一つの存在ではなく、一にして二、二にして一の存在という事を踏まえれば、「想」つまり精神活動は、本来はエネルギーのアウトプットだが、自分が自分のからだに向けた想いは、からだにとってはインプットになるだろう。

     

    自分が自分のからだに向き合う時に「なんで、こんな姿なんだ」とネガティブな想いや言葉を投げかけるのか、「いつも、ありがとう、これからもよろしく」と、感謝と前向きな想いや言葉を向けるのかでは、インプットとして受け取る自分のからだは、どう感じ、どんな反応を示すだろうか。

    自分がネガティブな言葉を周りから投げかけられて、ストレスを感じるように、一番身近で信頼している自分からネガティブな言葉を投げかけられる、そのからだのストレスは相当なものだろう。
    それでは外見的うんぬん以前に内面的に消耗してしまう。

     

    まずは、からだとの信頼関係。自分がからだに支えられ、ともに歩んでいることは紛れもない事実なのだから、まずは感謝の想いと言葉を向けてあげて下さい。状況は変わるはず。
    その内面から、本来の美しさが発揮されてくるはずです。

     

    2017年秋季東京操体フォーラムは、2017年11月23日(木)に開催致します。
    テーマは「生エネルギーと性エネルギー」です。
    2017年秋季東京操体フォーラム開催!

     

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  • いただける事へ。

    おはようございます。

     

    私達は、からだが無ければ、この世で生きていけない。そして、この生身は他の生物の生命をいただき、食さなければ保つことができない。

     

    他の動植物を殺して、食べる。子供の頃、豚のと殺を見た時の事を思い出したが、あの場面は凄絶だった。 雰囲気を察知して、大きな悲鳴を上げ、逃げ惑い抵抗する豚。やがて悲鳴が断末魔となって・・・それ以上の描写は控えますが、非常に生々しい現場。

     

    スーパーでパック詰めされ、食品となった肉からは、あのと殺の場面は連想されない。しかし、それまで間違いなく生きていた。

    肉に限らず魚でも野菜にも当てはまると思うが、それまで生きていたものも食品となってしまうと、途端に自分達の物という見方になり、イノチが忘れ去られてしまうような気がする。

     

    食品は、食の欲望をかきたて、どんどん消費するようアピールしてくる。「お金さえ払えばいくら食べてもいいよ」という具合に。その場面になると、もうイノチを受け継ぐとか、つなげるという感じはなくなり、自分達の都合だけで物事が動く世界となる。

    他の動植物の生死とか、断末魔の叫びとか、そういったことは見えなくして新鮮で活きが良いとして食欲に訴えてくる。そして、売れ残れば廃棄処分。

    日本では、年間約2000万トンともそれ以上とも言われる食品廃棄物が出て、そのうちまだ食べられる状態での食品ロスというのが500万トン以上あると言われている。

     

    「食」というのは、生命活動の入出力として考えた場合、入力エネルギーとなることは確かなのだが、呼吸のようにすぐに生命にかかわるといったものではない。「食」の入力が無ければすぐに動けなくなるとか、思考停止になってしまうものではないという事。自動車がガス欠したら、すぐに動かなくなるのとは違うのだ。

    人間の食には品性が求められるのではないだろうか。肉食動物だって、やたらと他を捕まえて食っているわけではない。動物の方が慎みを識っているかも知れない。

     

    食事の時の「いただきます」は本来「私は○○の命をいただきます」という意味だという。そういう意味も踏まえて、「いただきます」「ご馳走様でした。有り難う御座います」、という感謝の言葉とともに、イノチを受け継げることを、からだと偕に味わいたい。

     

    2017年秋季東京操体フォーラムは、2017年11月23日(木)に開催致します。
    テーマは「生エネルギーと性エネルギー」です。
    2017年秋季東京操体フォーラム開催!

     

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  • 受け継いでいる。

    おはようございます。

     

    昨日、ブログを書き終えたところで、ふと「信仰心」という言葉が降りてきました。

    日本人の7割ぐらいは無宗教だといわれます。私も「何か信じている宗教はありますか?」と質問されれば、「無宗教です」と答えるでしょう。

    特定の神を崇めて、毎日祈りを捧げている訳でもないし、なにかの宗派に所属している訳でもないので、そう答えるでしょう。だからといって、無神論者ではない。

     

    昨日書いたように、人間や生物を含め万物、自然現象をさかのぼれば、神や仏とされるものが不可欠だと思います。

    橋本敬三先生は、若い頃キリスト教に傾倒していたそうですが、古代の日本人の思想観、信仰心というのは素晴らしいと書いています。

    古事記」の、元初に成りませる神の御名はアメノミナカヌシノカミ、次に成りませる神の御名はタカミムスビノカミ、カミムスビノカミ・・・で始まる文章からは、元初に無極無限の神様がいて、その神様が「愛と調和」の意志で陰(-)の神様と陽(+)の神様を設定して、この世が発展、進化、拡大して栄えていくようにしたと読み取れます。

     

    一神教の神様とは違うんですね。元初の神様だけではなく、その神様が設定した(+)も神様であり、(-)も神様である。ということは、この三柱から生まれた我々はみんな神の子ということになります。そのへんに落ちている石にも神が宿るという事ですね。

    バカバカしいと思われるかもしれませんが、すべては神性を相続して、つながっているという事。人間の心のもち方、思考だけが自我と他として分けているだけかもしれません。

     

    古の日本の人たちは、心情豊かで感動的で、どんなものにも神を感じ「有難い」と想う事ができた。そういう心持であれば、あんまり惨い事はする気にならなくなると思います。

    悪い事をしようとすればできるかもしれない、しかし、やらない。感情的になっても、歯止めがしっかりかかる。

    自分自身に貫通する「愛と調和」という神様の意志が、良心となってそうさせるのかもしれません。何かを大切に扱い、感謝して手入れをするという事にもつながっていると思います。

     

    からだとの向き合い方にも似ていると思いますが、からだこそ元初の神々の神性が宿り、古の人達の御霊をも引き継いでいるのだと思います。単なる肉体ではなく、からだとして向き合う。
    からだにききわける、とは本来は凄く崇高な行いなのだと思います。

     

    2017年秋季東京操体フォーラムは、2017年11月23日(木)に開催致します。
    テーマは「生エネルギーと性エネルギー」です。
    2017年秋季東京操体フォーラム開催!

     

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  • 生みの親の親へ。

    おはようざいます。

     

    昨日、最後に秋季東京操体フォーラムについて少し書きましたが、今回のテーマは「性エネルギーと生エネルギー」です。

     

    ブログのテーマである「感謝」という面から捉えた場合、先に思い浮かぶのは性エネルギーの方です。

    私たちが、今ここに存在しているということは、父母という親の存在があるからです。感謝ですね。

    そして、その父母という親にも、また父母という親がいて、ずっとさかのぼっていくと、人間はなぜ人間として生まれたのか、とか、そもそも生物はどうやって誕生したのか、とか、生物は有機化合物の世界から、有機は無機から、無機は分子、原子、素粒子というようにそのルーツを突き詰めていくことになります。

    そして、素粒子は陰(-)陽(+)波動からなり、陰(-)陽(+)は太極の意志によって設定された、ということになるようです。

    太極とは無極無限であり、その意志とは? 操体創始者橋本敬三先生は「愛と調和」であり、これが「宇宙現象創世の中心理念」と説いています。

     

    私たち一人一人は、この太極の意志と陰(-)陽(+)波動によって、目に見えない世界から、聖別と祝福のプロセスを経て、一人の人間として生まれてくるという事。自分のからだの細胞一つ一つも、そのプロセスを経ているんですね。そして、個性をもった一人の人間となる。

    この世に生まれてきただけで、本当に凄いことであり、有難い事であり、感謝すべきだと思います。

     

    そして、この世に生まれてくるときは、性をもって生まれてきます。男性、女性。この性をもって生まれてくるという事は、新たなものを生み出す可能性を持って生まれてくるということです。

    一番わかりやすいのは性交、SEXです。SEXをすれば新たな生命を授かることができます。これは、他の動物の性交、交尾でも同じです。

    しかし、人間と他の動物ではちょっと違います。動物は、ある一定の期間しか発情せず、性交は限られます。ところが、人間は一年中性交が可能です。

    人間の性のエネルギーは特別であり、繁殖ということ以外にも、生きるエネルギー(生エネルギー)と交わうことで、新たに何かを生み出す創造力につながるのだと思います。

     

    しかし、生きるエネルギーが太極(創造主)の意志に反して、勝手に先走ってばかりだと、性エネルギーは生み(創造)のエネルギーとはならずに、消耗や破壊、破滅へと向かってしまうでしょう。陰(-)陽(+)はひきつけ合ったりもするが、反発し合ったりもするという事。

     

    太極(創造主、神)の意志は「愛と調和」。何かを願い、それを創造、実現しようとするならば、太極の意志に想いを照らし合わせ、生かされて生きていることに感謝してからの方が、善き事が成ると思います(時間がかかる場合もあるでしょうが)。

     

    操体は、「快適に、そして満足して、健康長寿を全うしたい」という全ての人の願いを叶えるため、太極の意志に学び、実践をとおして真理を究明していく学問でもあります。

     

    11月23日(木)は、何かが生まれます。

     

    2017年秋季東京操体フォーラムは、2017年11月23日(木)に開催致します。
    テーマは「生エネルギーと性エネルギー」です。
    2017年秋季東京操体フォーラム開催!

     

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  • もの言わぬからこそ。

    おはようございます。

     

    よく肝臓は沈黙の臓器などと言われたりします。文句も言わずに、せっせと働き、ダメージを受けていても痛みを訴えることはあまりなく、異変に気づいたときには相当深刻化しているようです。もの言わぬからこそ、気を使ってあげるべきですね。

     

    私も、毎日のように酒は飲んでいますから、注意が必要です。ですから、からだにききわけるということは常に行っています。自分の楽しみばかりを優先していては、それなりの報いを受けても仕方がありませんから。
    からだとその五臓六腑と偕に愉しめる範囲で味わう。酒は百薬の長と言われますが、そう言わしめる為には、からだにききわけるということが大切です。その日によって、からだの恕限量は違いますから。

     

    文句を言わずに、せっせと働く存在としては、足趾も外せません。こちらも重労働だと思います。しかし、あまり気にも留められない。

    からだの使い方、重心のかけ方の不正によって、足趾のストレスは想像以上のものとなります。しかし、そういうことを意識している人は少ない。

     

    臨床の場でも、クライアントは腰が痛いとか、肩が、頭が、と色々と言いますが、クライアントのからだは、足の方からなんとかしてほしい、癒してほしい、という要求を感じさせていることが多いです。

     

    建物でも、土台がグラグラしていれば、上の方まで不安定となり、建付けが悪くなります。上の方を修理したとしても土台がしっかりしなければ、また不具合が生じてきます。

    だからといって、足を修理して、その次に腰や肩と修理すれば良いのかというと、そうではありません。

    建物とからだは違いますから。全体的なバランスが大切です。そして、何より本人が、もの言わぬものに対して「今まで無理をさせて、すまなかったね」というような気づきを得ていただくことも大切です。

     

    そう気づきを得ていただくには、刺激を与えてバランスを調整するということでは不十分と思います。刺激を与えず、気持ちよく。そして、その気持ちよさのなかで、からだへの感謝の想いが湧き起こる方が、気づきを得やすいし、こちらのアドバイスにも耳を傾けてくれると思います。

    そういった意味でも、操体の足趾の操法®というのは非常に有効です。

     

    今回の秋季東京操体フォーラムは、足趾の操法®にも重点を置き、足趾の操法公開講座と題してたっぷりと時間を割り当てたプログラムとなっております。

    また、今回は足趾の躁法公開講座のみの受け付けも行っておりますので、どうぞ宜しくお願い致します。

     

    2017年秋季東京操体フォーラムは、2017年11月23日(木)に開催致します。
    テーマは「生エネルギーと性エネルギー」です。
    2017年秋季東京操体フォーラム開催!

     

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