カテゴリー: 友松 誠(ともまつ まこと)

  • まずは、からだに。

    こんにちは。

     

    今日から友松が担当いたします。よろしくお願いいたします。

     

    今回のテーマは「感謝」ですが、操体という学問は、どう生かされて生きているのかという事を学ぶ学問でもありますから、操体を学んでいれば必然的に感謝することが多くなると思います。

     

    まずは、からだ。からだがなければ私たちの存在はありません。当たり前といえば、当たり前なのですが、それほど大切な存在をどう捉えているでしょうか。

     

    心身という言葉があります。昔は心身を身心と書いたようですが、現代では心身と書くのが当たり前のようになっています。

    それだけ心の方を優先的に捉えているということであり、からだの方は心に従属しているものとした捉え方、そんな風潮があるように思えます。

     

    からだは言葉をしゃべりません。心の意思決定に対して、文句は言わない。だからといって、自分の道具のようなものではない。

    文句を言わないからと、つけあがってやりたい放題では、いつか破綻を招きます。人間関係でもそうですね。

     

    もの言わぬからこそ意識を向けてみる。からだの身になって素直に向き合ってみる。

    調子のいい時も落ち込んだ時も、常に自分を支えてくれている、このからだ。生かされて生きているという実感。

    そう気づいたとき、日々の自分の生き方を問うてみる。

    からだや、からだを存在させている空間(大自然)の懐の広さと深さを、まざまざと感じるでしょう。感謝するしか、しようがないですね。 

    空間、時間、万物万象、そしてそれらの親の親に感謝。それが操体の学びの源流となっている。

     

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    2017年秋季東京操体フォーラムは、2017年11月23日(木)に開催致します。
    テーマは「生エネルギーと性エネルギー」です。
    2017年秋季東京操体フォーラム開催!

     

     

  • 自然からしてみれば。

    おはようございます。

     

    今回の担当も最終日となりました。

    今回のテーマは「ミタテ」ということで、お付き合いいただいております。

     

    昨日は、重力場とか量子といったことに、ちょっとだけ触れました。

    これは、先日行われた操体曼荼羅で、三浦寛先生が紹介していた「世の中ががらりと変わって見える物理の本」という書籍を参考にしました。 

    世の中ががらりと変わって見える物理の本

    世の中ががらりと変わって見える物理の本

     

     
    この本は、物理学の本としては大変読みやすい本だと思います。

    昔の物理学の本というと、すぐに数式が出てきたり、難しい言葉も多く、数式の記号の意味や言葉の意味を調べているうちに「あれっ、何をやろうとしていたのだっけ?」となってしまったり、非常に取っ付き難いものという印象がありました。

     

    しかし、この本は取っ付き難いというより、なにか親しみやすさを感じました。著者はイタリアのカルロ・ロヴェッリという人ですが、西洋思想による物理学の本というよりも、調和に向く東洋思想、哲学のようなものを感じました。なにか橋本哲学につうじるようなものを感じます。だから、私のような数式ぎらいな者でも共感しながら読み進めたのだと思います。

     

    相対性理論量子力学は相容れないものとされてきました。どちらの理論が正しいか、という観点に立てば、対立したままでしょう。しかし、大自然からの観点に立てば、どちらも正しいし、両立すべきものなのだと思います。

    この本はイタリアではベストセラーとなったそうですが、著者である物理学者が自然を畏敬し、自然の観点から両方の理論を調和させる理論を提唱していることから、読者自身の自然性にヒビキ、共感を呼び、誰もが親しめる書物になっているのだと思います。最後の章では著者の自然観に圧倒されてしまいます。

     

    ミタテでも、自然の観点、自然からしてみれば、という観点は大事です。

    臨床の場での自然、それは「からだ」です。施術者の思惑、クライアントの思惑に自然は無いです。あるのは「からだ」。からだとからだの空間を介してのヒビキ。これがミタテにつうじます。

    自然の観点に立てば、何事もスムースにいくと思います。その為の学びは遠大で限りのないものでしょう。しかし、その分、愉しみがあるといえます。

     

     

    一週間、お付き合いいただきありがとうございました。

    明日からは畠山先生の担当となります。

    明日からも、どうぞ宜しくお願い致します。

     

    友松 誠。

  • 目に見えないものにこそ・・・2。

    おはようございます。

     

    昨日からのつづきとなります。

     

    私たちは、いつ、いかなるときも空間と関わりを持っています。そして、目には見えなくとも、空間との相互作用、御縁によって自然の構成要素の一つとして存在しているという捉え方ができます。

     

    空間には常に重力が作用しています。アインシュタイン重力場こそが空間そのものだと考え、これが一般相対性理論の概念といわれています。

    これによって、空間も世界を構成する「物質的な」要素のひとつであり、波のように揺れたり、曲がったり、ゆがんだりするものだと解ってきた。

    空間とは、何も無い不動の入れものではなく、動的であり、私たちは動いている巨大な軟体動物のなかにうずくまっているようなものだ、とも言えるようです。

     

    この「物質的な」という表現は抽象的であり、物質であって物質でないような含みを感じますが、この精緻な分野を研究しているのが量子力学から発展している学問です。

    それによると、あらゆる場は例外なく量子でできており、空間はそれぞれの重力の量子の相互作用によってつくりだされているという。その観点に立てば、この世界は物体からできているというよりも関係性からできているように思われる、との事。

     

    人間は70兆の細胞からできているといわれますが、細胞を細かく突き詰めていけば原子となり、原子は量子と必ず関わっていますから、目に見えないところでの相互作用というのは、とても大事です。電磁場、そして重力場、その重力場こそが空間。

    この空間、つまり重力場に私たちは包み込まれて、生命活動を営んでいるわけですから、私たち自身の重心の適正化というのが、ものすごく大切になってくるのです。

     

    重心の適正化。これは我々の師である三浦寛先生の新たな提唱であります。

    臨床のミタテでも、これからは重心の適正化に適うミタテというのが、必要となってくるでしょう。

     

    詳しくはこちらをどうぞ。

      ↓

    2017年 新規操体法特別講習会開催「40周年記念特別養成コース」
    2017年操体法講座開講のご案内 | 操体 三浦寛 人体構造運動力学研究所

     

  • 目に見えないものにこそ・・・1。

    おはようございます。

     

    操体創始者である橋本敬三先生は著書のなかで、

    【 自分は神仏の庇護の手のうちに摂取されているという信念、心裡に立つことができたら、神仏は全智・全能・全愛だと信じられたら、何もこの世の中に恐いものはなくなるだろう。

    肉体を自我だと思い、現象を実在だと思えば、たえず自己防衛の恐怖心から離れることはむずかしい。「顚倒妄想を遠離すれば云々」という般若心経の言は、無いものを有ると思い込んでいるのが妄想であって、有るように見える現象は実は無いのだ、そこにとらわれている心を放せ、ということなのだそうだ。 】

    と書いています。

     

    これは、心の在り方に関しての提言でありますが、物理的な捉え方からも当てはまるものがあり、物理学が進歩して様々な現象が解明されていくほど、この心の在り方への提言は物理学的裏付けが成されたうえで、輝きを増してくるのでは、と最近感じています。

     

    空間に対する認識も、ニュートンの時代から近年では随分と違ってきているようです。もう空間には何も無く、物質とは区別すべきものという考え方は通用しないようです。

    目に見えないから何も無いわけではなく、空間に在るものとの絶えまない相互作用によって、この現象、この世界は構築されているという捉え方。

     

    私たちの目に写る世界というのは、非常に大雑把でピントのずれた、自我に向く世界のようです。

    通常の私たちの世界観から離れて、ミクロのミクロそのまたミクロの世界では、過去→現在→未来という時間の流れの概念も当てはまらなくなると言われます。

    自我優先で考えてみると、自分の肉体や様々な物は、時間の経過と共に老化や消耗、エントロピーが増大するといった漫然たる想いを浮かべるのではないでしょうか。

     しかし、自我を省いた、からだからみた世界では、絶えず空間との相互作用が起きていて、エントロピー(消耗)に傾いたりネゲエントロピー(回復、改善)に傾いたりしている。

    その一番ネゲエントロピーに向かう時空というのは、無意識になる睡眠のときだというのは、なんとも皮肉なことだと思います。

     

    それだけ、私たちは普段エントロピーに向いた生活を営んでいるのです。「息、食、動、想」を自然法則に合わせるようにするのも大事な事ですが、自然法則は自然環境を元とした様々な環境に適応する為に自在するわけですから、自然環境の大元であり、神仏の意志がヒビキ合っているいるような、そんな空間との関わり、空間との相互作用という事にも関心を向ける必要があると思います。

     

    明日へつづく。

     

  • 思考分断しない。

    おはようございます。

     

    昨日は、ミタテ、ミタテられ、ということを書きましたが、書いていて昔テレビで見た合気道塩田剛三先生の演武が思い返されました。

    私は武道は素人ですので、最初に見た時はビックリしました。戦いを見るつもりでいたのに、そういう感じではない。なにか相手が勝手に吹っ飛んでいったり、当てられに来たりといったように感じました。

    あまりにもスパッスパッと決まるので、見ているほうはそれを受けた人は演技をしているのではないかとも思ってしまいます。

    しかし、これは演技をしているのではなく、相手はそのように対応するしかないようになってしまうのだと思います。

     

    人間は自分の意思でからだを動かしているように思い込みがちですが、その動きは無意識によるところが多いようです。この無意識の領域に精通しているのが名人、達人と呼ばれる人たちなのだと思います。

    からだの無意識。からだは自然の構成要素の一つであるという観点に立てば、個人個人とその他のものは別々でも、無意識には全部つながって関係性をもっているという見方ができます。

     

    元々は全部つながっている。それを分断してしまうのが思考であり、自我です。操体臨床の場でのミタテでも、この思考がわからなくさせ、迷わせる。

    自分自身も相手自身も無意識ではつながっていて、相手のからだは診てほしいところを感覚をとおして示してくれている。それを受け取れなくしているのは自我であり、病んだからだと対立してなんとかしようとしている自分の思考です。

     

    塩田剛三先生は、「合気道で一番強い技は何ですか?」と問われ、「それは自分を殺しに来た相手と友達になることさ」と答えたといいます。臨床のミタテでも、調和和親が元々成るこの世界なのだ、と意識することも大事だと思います。

    症状、疾患は人間の思考がつくりだしたものであり、それは無意識の領域の世界ではアンバランスの表れの一つに過ぎない筈です。病んだからだに対立意識は持たないようにしたほうが良いと思います。

  • ミタテ、ミタテられ。

    おはようございます。

     

    昨日は、感じるミタテということを書きましたが、感じるミタテは奥が深いです。

    感じとるという事は誰でもできる事なのです。ですが、臨床に応用するとなると、からだのことを相応に識っておかねばなりません。

    最低限、からだの動きは8つあり(8つしかなく)、どこがどう動けば、全身にどのように連動するかという事が、わかっていなければ、からだがその要求を示してくれていても、それをキャッチすることはできないでしょう。

    そして、わかっていても、自分自身で実際にやってみて体感していないと、病んでしまっているからだに共感することはできないでしょう。

     

    ミタテる側の感じとる能力。これは人それぞれです。しかし、それは優劣とか、そういう比較対象するものではないと思います。他の人のミタテ方と自分のミタテ方が違うからといって、自分が間違っているとか、そうことではないのです。

    相手のからだとの極性というものがありますが、相手のからだだってミタテる側をミタテているのです。相手のからだも操者をミタテて、その要求を表してくれる。

    「この人だったら、このような要求にも応えてくれる」「この人には、今日のところは、こういうところをサポートしてもらおう」といったように、その要求はミタテる側に応じて変化する。

    操者も資質や熟練度を相手のからだにミタテられているんですね。熟練度が増すほど、相手のからだの要求もより本質をついたものになるでしょう。未熟であれば、今日のところは・・・となるでしょう。

    ですから、その空間を介して感じとった事というのは、間違いはない筈なのです。その時空での関係性に於いて最適なミタテであり、そこから操法につなげれば良くなることは確かなのです。

    この良くなることを、もっともっとより良く高める為に、操者は自分自身、精進するしかないのだと思います。

    その精進は苦に向かうものではなく、快に向かうもの。それが操体の善いところなのであります。

  • 感じるミタテ。

    おはようございます。

     

    昨日は去年の夏にオーバーヒートした時に感じたことを書きましたが、やはり何事にもバランスというものがあるようです。

    車でも、年数が経ってくると相応に故障しやすくなってきます。まだ新しい状態の時であれば、突発的に一部のパーツが破損しても、その部品交換だけで済むことが多いでしょう。

    しかし、ある程度の年数が経ち、全体的にくたびれてくるとそうもいかなくなる。

     

    一部のパーツを交換して、そこだけ力強くよみがえっても、他がその力強さについていけなくなるという事がある。一部が力強くなった分アンバランスを招き、かえって他のパーツの消耗、破損につながってしまう。

    系統的にもみて、こちらもそろそろかな、というところは損傷が見られなくとも、交換しておいたほうが良いようです。

     

    では人体に関してはどうでしょうか。こちらは車のように、壊れたら交換とか壊れる前に交換しておくというようにはいきません。

    病んだ部分を交換という了見ではなく、からだが回復、改善をより良く行えるよう、サポートする必要があります。

    治すのは、からだなのですから、どのような治療法でも、からだのサポートという観点をおざなりにはできないです。

     

    操体臨床では、このサポートをどのようにするかというミタテが重要です。からだの歪みを系統的に診て、今の症状、疾患にこうつながっているから、こうしよう、という診立ても大事ですが、それを踏まえたうえでもっと大事なのは「からだは、今、どのようにしてほしいのか」という要求を感じとって対応するという、感じとるミタテも大事なのです。

    症状、疾患が多岐にわたっているほど、この感じとるミタテというのは重要であり、最小エネルギーで最大の効果をもたらす為にも、なくてはならないものなのです。

  • オーバーヒートより。

    おはようございます。

     

    今週は友松が担当いたします。どうぞ宜しくお願い致します。

    今回のテーマは「ミタテ」です。

     

    最近は雨や曇りの日が多く、夏だというのに肌寒い日もありますね。今年の夏は暑くなると言われていたのに、去年のほうが暑かったように感じます。

    そういえば、去年は車がオーバーヒートして、一か月ぐらい不便なおもいをしていましたっけ。

    田舎なものですから車がないと何をするのでも不便なのです。

     

    なぜ、一か月も不便なおもいをしたか。それはミタテと関係していました。

    はじめにオーバーヒートした時は、ウォーターポンプやファンベルトなどのパーツを交換すれば大丈夫とのことだった。

     

    しかし、整備が済んでテスト走行も終え「バッチリです」と納車された車は、1キロも走らないうちに再度オーバーヒート。

    ミタテが甘かったということだろうか。

     

    ある程度の年数を経てくると、その他の部品も同じように劣化が見通せる。ゴムやプラスティックを含むパーツは特にそうだ。その時はなんとか間に合っていても、時間、空間のかかわりのなかでエントロピーが増大してしまっている。

     

    点検しなおすと、今度はファンが破損して回っていないとのことだった。初めの点検では、ここも異常はなく、テスト走行でも不具合はなかったとの事。

     

    しかし、私が乗ったら壊れてしまった。間が悪いというか、このタイミングで壊れると道路の他の車両にも迷惑をかけるし、レッカーも呼ばなければならない。

    修理するにしても、壊れたパーツを取り出すのに、また最初と同じように他のパーツも取り外さなければならない。手間もかかるし、その分工賃も上乗せされる。

     

    はじめに、ファンも破損するだろうとミタテて、一緒に修理しておけば、手間もかからず、費用も嵩まなかったのに。

    その時の目に見える状態だけでなく、他との相関関係によって、どう変わるかをミタテる。それが肝要だと思います。

     

  • 最終日。

    おはようございます。

     

    今日で、今回の担当も最終日となります。

    今回のテーマを振り返ってみますと「プロ意識とプロ根性」でした。

     

    今回のブログで、私は当初「根性」という言葉を使うのを躊躇っていました。

    私の子供の頃は、「巨人の星」をはじめスポ根漫画が全盛でしたが、なにかスポーツをする度によくシゴカレましたから。

    その時、よく耳にしたのが根性という言葉であり、自分の中でも根性という言葉が浮かび、それをバネにして頑張り、からだに無理を強いていたと思います。

    今になって思い出すと、何でもっと効率的で理に適った指導がされていなかったのだ、という気持が強くなります。

    シゴキは限度を越すと、からだを壊してしまうんですね。壊すまでに至らなくとも、そのスポーツ特有のからだのアンバランスを招き、それが原因となって、時間空間のかかわりにつれ、健康を損ねることにつながります。

    ですから、根性という言葉にはあまり良いイメージはありませんでした。

    そして、「頑張るな」「威張るな」「欲張るな」「縛るな」というバルの戒めに反する事にもつうじると思っていました。

    しかし、それは「根性論」からの自分のイメージでしかなかったのですね。

     

    「根性」の本来の意味は、その人が持って生まれた性質とか、あるものに特有な性質のことですから、この意味からすると「根性論」の根性とは別物といった感があります。

     

    本来の根性の意味を考えていて、植物が思い浮かんできました。

    木は何百年、何千年と生き、幹や枝葉を伸ばし、その呼吸は私たちの呼吸を支えています。大変有り難い存在ですが、その存在を存在たらしめているのが、大地にしっかり根付いた根っこです。

    根っこが大地から養分を吸い上げるから,木は生長し何百年も生きることができる。この根っこの能力や素地。素地という事を人間に当てはめ、元々備わっているものを考えれば「感覚」は外せないです。そういった「根」。

    それから「性」は石田梅岩が言ったように、人間をはじめ全てのものが、生まれてくるときに天から授けられた理(原則)、もしくは天地があらかじめ備えている道理(宇宙の摂理)の事。

    この「根」と「性」を合わせるような捉え方でもいいのではないかと思いました。

     

    そうなると、無理や無駄というものがなくなってくると思います。根性論のように、何が何でも結果を求めようとするのとは、まるで違います。

    理に適うように感覚をとおして学び、そして務め、能力を高め生長していく。そしてそこには、木がそうであるように他への貢献、自分も生き、他も生かすということが伴います。

    「プロ根性」ということも、それを元にそれぞれ特有の分野で、感覚をとおして理に適うように、自分も活き、他も活かしていく、というものだと思いました。

    そして、その性質は木の根っこがそうであるように、年輪を重ねるごとに、深みを増し、広がりをみせるものだと思います。

     

     

    一週間お付き合いいただき、ありがとうございました。

    明日からは、畠山裕美先生の担当となります。

    来週もどうぞ、よろしくお願いいたします。

     

    友松 誠。

  • あるがまま、正直に・・・2。

    おはようございます。

     

    石田梅岩という人は、大きな開梧を2度体験しながら、その思想をより確かなものとしたといいます。

    はじめの開梧も素晴らしいものだったが、天地自然、宇宙、大自然というものを、まだ自分の目で見ていたところがあった。つまり、自分からみてどうかという、対象性の含みがあった。だから、自分でもいまひとつ腑に落ちないところが残っていた。

    しかし、2度目の開梧の時には、見ている自分を離れ、対象との一体化、大自然との一体化を感じ、見て考えるという、自我から解放され、自由になった自分に気づいたという。

     

    梅岩は、この自然との一体感をつうじて開梧し、そこに「性」をみた。

    性(本性)というのは、人間をはじめ全てのものが、生まれてくるときに天から授けられた理(原則)の事。言い換えれば、天地があらかじめ備えている道理(宇宙の摂理)の事であり、それは人間をはじめ、植物にも鳥にも魚にも、太陽や月にも、万物万象に与えられている。

     

    梅岩はこうも言います。

    「天は万物を生み出し、生み出されたものはおのずから養われるもの」

    天は万物を生み出し、生み出されたものはおのずから養われるのだから、その天地自然が備えもち、そこから万物に授けられたあるがままの理を自覚し、その理に沿ってあるがままに生きていくのが生命にとって最善だという事。

    万物の中には、もちろん人間も含まれ、人間にとっても天地自然は大いなる母であり、その摂理にもとづいて人の命はこの世に生み出され、その理に従って人の身体や姿形、仕組みや機能もつくられている。

    人は疑いもなく、天の子であり、人は天と一体の存在である。

    ですから、人間はそもそも正直な存在である、とも説いているのですね。

     

    人間はそもそも正直な存在である。しかし欲の衣を纏うがために、その本来の崇高な性を覆い隠し、自身のもつ可能性を狭めてしまっている。だから梅岩は倹約を説き、本来の崇高な性を呼び覚ますよう提唱した。

    操体を学び、実践している私達は、天の理に従って身体の姿形、仕組みや機能もつくられている「からだ」に注目し「からだにききわける」ということをとおして、自然治癒力、自然良能作用をはじめ、本来の崇高な性を呼び覚ますようにと提唱しています。

    アプローチの仕方は違えど、どちらも大自然、またその生みの親を畏敬し、その子である人間に神性をみいだし、その無限の可能性を導き出そうということなんですね。

    字に書いていない天地の書を読めと教えられた二宮尊徳、素直な心を提唱した松下幸之助、そして操体創始者橋本敬三、みんな言葉の表現は違えど、同じように真理を説いていると思います。

     

    心とからだは、2は1であり1は2であり、2元的に捉えることはできません。

    「からだにききわける」本来的には崇高な行いなんですね。「良心にききわける」「御霊にききわける」とも同義であり、心の根っこに問いかけるという含みもあるのです。

    しかし、一般的にはまだまだ行き渡っていません。臨床の場でも、初めての方に「からだにききわけて」と言うと、「ポカ~ン」とされる事も多いです。それでも、体感をとおして何となくわかっていただけるようになるんですね。

    その時どう思われようと、理に適う事をあるがまま根気善く。それもプロ根性だと思います。

     

    参考文献 

    魂の商人 石田梅岩が語ったこと

    魂の商人 石田梅岩が語ったこと