カテゴリー: 三浦 寛(みうら ひろし)

  • 一日目

    ブログは忘れた頃にやってくる。
    どうも人生の本業が忙しい時にめぐってくるようだ。

    新年早々のブログの打ち込みになるが、よろしく。
    来春こそは是非、弟子に迷惑をかけないように自分自身でパソコンを自分自身で打ち込めるようにしたいと思っています。

    先週の月曜日、医道の日本社から正式に出版のゴーサインが出ました。
    編集会議にかけ、ふるいにかけられ、出版が決まるらしい。
    内容によりけりだろうけど、正式なゴーサインが出たことは、とてもありがたいことだ。
    発刊まではまた三茶の仙人生活が続くと思うけど、コケないように、通常の生活にも気を使いたいものだ。
    いつも必ずオチがつくんだ。電話を止められたりしているからね。

    医道の日本社とのご縁は、40年以上前になる。
    当時の医道の日本社、社主、戸部宗一郎

    先生の時代からのことである。
    橋本敬三先生の時代からのことである。
    橋本敬三先生の仕事で、横須賀にある戸部先生のご自宅まで伺ったこともある。
    橋本敬三先生の当時から、ご縁がつづいていた。
    橋本先生も医道の日本誌に原稿を寄稿されていたし、私も何度か寄稿させていただく。
    しかし先生の時代に、同社から本の出版はない。
    なんとか操体法の専門書を一冊でもいいから出版したいという私自身の希望を持ち続けていたのだ。
    それが2003年に叶うことになる。
    その時は確か、手関節と足関節へのアプローチ、「連動」であった。

    操体法入門 足関節からのアプローチ

    操体法入門 足関節からのアプローチ

    操体法入門―からだの連動のしくみがわかる 手関節からのアプローチ

    操体法入門―からだの連動のしくみがわかる 手関節からのアプローチ

    そして2007年に三冊目の「操体臨床の道しるべ」を出版となった。

    操体臨床への道しるべ―快適感覚に導く診断と操法

    操体臨床への道しるべ―快適感覚に導く診断と操法

  • 五日目

    本気で生きるとは本音で生かされていくことです。
    「本気で生きる」ということは、若い弟子にとっても加齢を加えた私にとっても本気ごと。
    何故なら明日のことは分からぬ命ですから。
    そうするとわずかな残り時間で何が 出来るのか、を必死で考える。
    やり残したことは臆せずにさらしてやればいい
    明日の命はあるのかどうか分からないのだからやる。死を意識する、すれば人の人生は否応なく正しきを導き正解を導き出すはづである。やるなら月並みでおわらせないこと、月並みの考えで止めぬ事。

  • 四日目

    毎年10月10日に高校時代の同窓会地元博多である。毎回参加する。参加のたびに当時の先生や同窓生から「寛(かんちゃん)東京からよくきてくれたな」と感謝される。
    私は自分でできないことをかわってやってくれる仲間の気持ちがうれしいから喜んで参加する。ここにこんな言葉がある。『人であることの最上の喜びは、尽くしたいもののために尽くせること」人が人である理由は「心」にある、そして人は人の心に触れることによってのみ、そこに進むべき道をみつけることができます』
    高校生活の三年間、見も知らずの仲間が三年間ともに学んできたのである。
    仲間とは尽くしたいもののために尽くせる最適な環境である。今に思えば尽くしがたい存在のご縁として受け取っていたのである。
    それは心にふれあっていたのだ。だからこそ何十年も経ってこうして年に一度は会うことができ、ふれあうのだ。そおいうことであれば、私は橋本先生とのご縁を得たことは、先生の心に触れることによって、そこに進むべき道を見つけていったことになる。「尽くしたいもののために尽くせる」
    自分は本当に幸せだと思う。

  • 三日目

    人生が本業となると、確かに学ぶことが増えてきます。学んできたことがますます深化し進化してきます。そうなると損得の欲が消え本物の愉しさがわいてくる。すると自分にかまっていられなくなる。かといって一日中ネマキやジャージで過ごすことにはならないんです。いい加減にできなくなる。台所には使いっぱなしの茶碗が転がりゴミがたまっていることはないんです。 部屋にはゴミがたまらず清掃され、着るものにも気配りがなされるのです、
    自分の身勝手をそぎ落とせるのです。
    自分の生活が改まっていくわけです。めんどくさいことがなくなってくるのです。面倒くさいとは自分がめんどくさいんです。今の自分に飽きているのです。どうでもよくなるのです。その上無意識に愚痴を言っています。
    不平不満は間違いな気運が落ちます、それがことばの法則です。人生の成功者と成幸者の大きな違いです。成功者は求め続けますが成幸者は受け取っているのです

  • 二日目

    自分に無頓着になれる、とは、自分を極端にそぎ落とし、見えていない、見ていない新たな自分が見えてくるということです。
    無心に我を忘れてやり通し続ける愉しみごとの学びが
    、自分を越えた、つまり自分自身の姿なのです。自分越えが本来の自分自身なのです。それが無我無心の無垢です。刻時から空時の時、時間から間(マ)の時間への変換です。時元をこえていくと、空間です。
    空間を越えると次元です。それが意識転換です。自分と離れる。距離をおくこと、そして自身との距離を近づけていく、それが自分を極端にそぎ落としていくことになる。そのことが自在の次元と共鳴し、共有するという生かされ方の状態である。生きている自分から生かされている自身への意識の転換が時元を越えるということです。自分を映し出している自分の姿が変わるというのです。意識が変われば瞬時に変わるということです。自分がかわる、現実が見えてくる。自分をみているとは、自分しかみていない、見えていないということです。

  • 初日。

    今週は三浦が担当します。
    猛烈な暑さもやっと静かに落ち着き、早朝は秋らしい涼秋がただよいます。
    私事ですが、先日私は65歳を迎えました。人間は未知の時の間に足を踏み入れます。
    今日を迎えることも、年齢を重ねることも、私にとって年を重ねることも、未知の時空に踏み込むことなのでしょう。

    私にとって年を重ねるってことは、重ねてきた年そのものが消えていく、忘れていくということでもあるのです。
    一年一年生きている限り年を減らす訳にはいきませんが、いつ頃から意識したのでしょうか、
    年齢の加算が止まっているな、と感じているんです。
    その大きな原因は「意識は年を取らない」ということに気づいたからです。

    肉体には形としての現象がありますが、意識には無いんです。その分、加齢していくことに無頓着になれる。
    かまってはいられない訳ですね。赤子と一緒なんじゃないかな。
    人生本業となせば我を忘れて無欲無心にやりつづけていくことがある。そして学ぶことがますます増えてくる。
    そうしたプロセスをたどっていくと、自分にかまっていられなくなる。
    自分に関与しない一定の距離感を保っていける。生活のシミやにほい(生活臭)がそぎおとされてくるということではないでしょうか。

  • 人生の持ち時間

    五月の末に、ふと思い立って橋本先生の墓参りに行ってきました。
    初夏の新緑が朝光を浴びて、瑞々しい。
    定禅寺通のケヤキ並木も、新緑のエネルギーに満ち満ちて、なんとも
    すがすがしい。
    このケヤキ並木を、私は四十七年間見とどけている。
    霊気さえただよう。大きく大きく成長したものである。

    お墓の一画に松の木が植え込まれている。
    新芽をふいて、まわりの雰囲気が変わっている。早朝六時半、
    「先生、おはようございます。もうすでに目覚めていますか、
    先生、また足をむけました」と、報告する。

    今回は三ヶ月ぶり、その間、春のフォーラムもあったし、
    ヨーロッパへ伝道にも行ったし、報告することは山ほどあるけれど、
    先生はすっかりお見通しのようだ。スペインに行ってもトルコに
    寄っても、身近に先生の存在を感じているからだ。
    先生はどう思いをはせていたのか、うれしかっただろうな・・・

    ここ数年来、若い優秀な人材が数多く育ってきた。頼もしい限り
    である。すでに陽の時代から陰の時代に突入し、操体も新たな
    局面に入り、人材も、この時代にふさわしい有志が加わり、
    そして世界に羽ばたける環境も整ってきた。
    スペインには操体の協会が設立され、
    西ドイツのボンにも拠点ができた。

    今、進化を遂げている操体は、三千年先、五千年先の人達に
    お役にたてることを学び伝え、後世に残そうとしている。
    それだけの良心をもちつづけて私は学んでいる。


    「人生の持ち時間」

    一人独りの人生には、一人独りの持ち時間がある。
    人によっては七〇年。八十年、九十年の持ち時間が与えられている。
    この持ち時間は、人生の長短があっても、平等に与えられている。
    与えられてはいるが、自分自身の為に、どれだけ自由に使える
    時間を受け取れるかである。
    時間の生かし方が人生を大きく左右する。
    独り一人が、この時間をいかに管理しているのか(自主管理)が
    問われてくる。
    自分自身の生き方のあとについてくる時間と、刻む時間に追われる
    生き方と、時間に対する意識のとらえ方は、とても重要だ。
    成せる者は、時を先取りしているにちがいない。
    成せている者は、時間を無駄にしないし、みさかいなく他人に
    時を渡すことはしない。成している者は、平等に与えられている
    時間を、何倍にも生かした使い方をしている。
    そこが成功者と成幸者の違いでもある。
    たいがいの成功者は、人生の成幸者にはなれないのである。

    7月15日(月)海の日千駄ヶ谷津田ホールにて「操体マンダラ 2013」を開催致します。三浦寛による操体イリュージョンの世界をお楽しみ下さい。

  • 人生の主人公よ

    人生の主人公よ、ちゃんと目覚めているか。
    まどわされてはいないか。
    いろいろ暮らしの中には、使い捨てが多いけど、
    ただ人生だけは、使い捨てはできないのだよ。
    オレがオレがに執着していると、自分しか見えず、
    なかなか生かされていることに気がつかないものです。
    生かされていることを知れば、使い捨てにできない、
    貴重な人生がみえてくる。
    使わせていただいて、いただいて、そして生かせる人生が
    天望できる。
    使って生かす、それがとだえることのない
    豊かな潤いに育っていく。
    枯れ細らない、みずみずしい人生(いきかた)が生きてくる。

    それが自在に生かされているという法則(生かされ方)です。

    存在は自分ごと、自在は自身ごと良心です。

    7月15日(月)海の日千駄ヶ谷津田ホールにて「操体マンダラ 2013」を開催致します。三浦寛による操体イリュージョンの世界をお楽しみ下さい。

  • 気導溝

    手根、つまり手関節の小指側に豆状骨がある。
    ここは支動軸の意識点に相当する部位である。
    身体運動の法則、からだの中心骨盤を要とした
    からだの使い方、
    (一)手は小指を運動作用点とする。
       
    その際、豆状骨をその意識点とし、肘を安定軸となし、
    肩を回転軸とする。そして副動軸である肩甲骨を作動させる。
    上肢の動きは、いかに肩甲骨を円滑に作動させるかにかかっている。

    この豆状骨には。呼気が流れる溝、洞が存在するようだ。
    呼気が流れる呼道である。
    この呼道動が、肩甲骨に通じ、動軸芯棒のT12からL2に
    つながっていることだ。
    このことは、いかに小指を生かし、全身形態の
    連動性につなげていくかのヒントになる。


    7月15日(月)海の日千駄ヶ谷津田ホールにて「操体マンダラ 2013」を開催致します。三浦寛による操体イリュージョンの世界をお楽しみ下さい。

  • 横足根洞

    「横足根洞」をご存知であろうか。
    私もごく最近耳にしたのであるが、とても重要なポイントとして
    改めて再認識するところである。
    この部位は、足関節の距骨溝と、踵骨溝とでできる。
    血管と神経終末、触圧受容器に富み、足部をモニターし、
    足底からの路面の変化をとらえ、下肢の運動中枢として
    考えられているのである。

    診断的には、横足根洞にかかる構造運動力学的なストレスを
    無視してはならない、ということである。
    このことは、足底筋の異常緊張と関与していると考えるべき
    ではなかろうか。

    7月15日(月)海の日千駄ヶ谷津田ホールにて「操体マンダラ 2013」を開催致します。三浦寛による操体イリュージョンの世界をお楽しみ下さい。