カテゴリー: 三浦 寛(みうら ひろし)

  •  最終日。

    バルの戒め(一)

    一. 頑張らない
    一. 欲ばらない
    一. いばらない
    一. しばらない

    バルの戒め(二)

    一. 自慢しない
    一. いばらない
    一. 名のらない(なにかを成し遂げても)
    一. 偉ぶらない

    一日七時間臨生に臨めば
    その分、自分の学びの時間も七時間はとる。
    七時間とってもまだ十時間も残っている。

    全くの休日は十時間は自分と向かい合う。
    それが大人の実入りの孤独がある。

    一人きりの孤独は人生の最高のプレゼントである。
    たとえ十時間使っても十四時間も残っている。

    まだ八時間も残っている。
    人生は時間と共に流れていく。
    人生は生命時間だ。
    生命(いのち)時間と共に
    人生の賞味期限ある。
    時間を浪費するのはもったいない。


    一週間ありがとうございました。

    三浦寛

  • 人生は編集である(3)

    人生はせつ実である。

    多くの人達は見返りを求め、
    翻弄(ほんろう)されて生きている

    つまり己の人生を支配しようとしている
    人達である。

    支配しようとすれば、
    もう一人の自分は奴隷(ドレイ)である。

    人生はせつ実である。

    この世に生まれてきたという
    せつ実なる真剣さ

    人生を歩むせつ実さ
    学びつづけていくせつ実さ。

    それを知った悲しみと
    後戻りできない豊かさと・・

    それが賞味期限限定の人生である。


  •  人生は編集です(2)

    人生は
    せつ実なものである。

    人生と生としてとらえるか
    性としてみるのか

    性としてとらえることのできる
    人生は 成者のものである。

    人生の成功者は報いの報酬だけしか受け取っていない。

    それらはちっぽけな報酬である。

  •  人生は編集です(1)

    その編集とは、手段を本質にかえていくことです。

    人生は自分ごときの「おもてなし」です。

    イイ加減なもてなしを受けても
    気分がイイ訳がない。
    それは自分に対しても同じである

    きちんとおもてなしをすれば
    きもちがいいものです。

    人生の編集も自分に対する
    おもてなしです。

    自分を丁寧に
    日々もてなして
    迎え入れることです。


  •  とんでもないことがあたりまえになってくるのが真の学問である

    たびたび口にすることだが、修業時代
    「先生がやっていることに名称があるのですか」と
    聞いたことがある。

    すると、デカイ声で
    「名称なんてどうでもいい。真理こそ大切なんだ。
    真理が真理の力で立てるように励みなさい」と言われた。

    この言霊は、50年経った今でも、忘れない。

    今にして思えば
    「とんでもなく途方もないことを、いきなり聞かされたものである」

    わかるはづがなかったのに、私は
    「ハイ わかりました」と答えている。

    わからなくても ハイわかりましたと
    返答できるスナオサがあればいいのだ。


  • つながってくる

    橋本先生の元で学びに入った若き頃の思い出に、
    先生が神代文字をひろい、ホツマツタエを学び、晩年相似象に出会い、
    宇野先生との交流を深めていった。
    その一端が解けてきたのである。

    密接にみんな一つ一つがつながっているのであった。

    橋本哲学は生命哲学であり、その源流の元にあるのは、
    青春時代の深き苦悩にあった。
    その究極のところは、
    「神を呪ってでも救われる道はないものか」
    「罪の意識」の解放にある、と私は思っている。

    その上で、師自身が、己の人生のなかで、
    問いかけつづけてきたことが、相似象を学ぶなかで
    「間違っていなかった」との確証を得たのではなかったか・・・。

    私が再び、これらの書物を引き寄せ、
    共振するヒビキを、波動を受けとっていることは、
    師がなし、なさんとしてきたこと(原究)に深く触れている思いがする。

    師が原究しつづけていたことの先が、ありがたく読み取れるように
    なってきた・・・のである。

  • 時元のトキを越えた宇宙人

    若い人材がブログを塗りかえてきた。
    真剣に熱い思いをかきたて、自分自身と向かい合っている。

    その熱い思いを「告白」している。

    その告白は誰れにむけている訳でもなく、
    自分自身にむけている。
    自分に正直にむけている。
    彼らの中には、あの若さで
    なんと、なんと「神代文字」から「ホツマツタエ」そして
    カタカムナの相似象」を、
    当然、当たり前のごとく平然として読んでいる。

    彼らは「時元のトキを越えた宇宙人」だ。

    当時の若き日の自分をふり返ってみれば
    そんな彼らの姿は驚きである。
    信じられない光景を見ているようだ。

    これらの書物は修業に入った当初から、私の手元にあった。
    大切に保管しているだけで、見て見ぬ振りをしていたのである。

    ・・・三ヶ月ほど前、私に一冊の書物がプレゼントされていた。
    それが、ごく最近出版された「相似象」であった。
    目をとおしているうちに、私自身に異変が起こった。

    グイグイ引き寄せられていく。
    ヒシヒシと手応えのあるヒビキが伝わってくるのだ。

    そんな自分自身に素直に驚いた。

  •  師匠の残して下さった言葉

    医師は自然から来て、その下僕であり
    主人ではなく、自然の意思に従い範とする。

    医療人としての役割は何であろう。

    健康人が病気にならないようにすることではないか。
    これが医の倫理である。

    しかし、その範となるべき医療人は、治療に日々没頭しているありさまだ。
    それはおかしい。
    当の医療人は、そのことに全く気づいていない。

    「治療ばかりしていると脳ミソがくさるぞ」

    これは師匠の残して下さった言葉である

    一週間ありがとうございました。
    明日からは三浦寛幸が担当致します

  •  像は像を写し出す

    見えない像(実相)は、その似姿を現象にあらわす(虚相)

    「私を感じなさい」と、問いかける。

    橋本敬三先生が書き残した文献に、
    力学的医学の構想 ー 求学備忘録 ー がある。

    ここに橋本哲学の神髄がある。
    生涯心に刻んでほしい言葉である。

    神、その像(かたち)の如くに人を創造(つく)りたまえり。
    人は神の像なのである。
    神の像なる人間が、なぜ病気をしたり、死んだりせねばならないのか。
    これは医学の範疇外ではあるが、重要な関係がある。
    人が神性を自己に発見し、よくよく、これを思い、全く神人合一した
    状態においては、病も死も問題の外に置かれる。
    そして、その神性が発揮されればされるほど人は健康である。
    神に病や死がないのと同様に、その像である人にも、
    その通りであるべきはずである。

    神と人とが同じ像であるとの信念から離れるほど
    完全な像から遠ざかってくるのは当然のことである。
    これを迷いというのであろう。
    迷いが深まるほど、人の生活は神性顕現から遠ざかる故に、
    健康を害する因子を積み蓄えることになる。
    像も歪んで来たらざるを得ないわけである。

    橋本先生は、
    「人は神の像である」と断言している。
    なぜ、そこまで言いきれる人なのだろうか。

    「神と人とが同じ像である」とも言いきっている。
    そこまで公言する師の信仰とは、師とはいったいナニモノなのだ。

    そんな師の元で、
    真弟子として迷いがなく生涯学ばせていただいている自分も、
    いったい何者だったのであろうか。
    と、しみじみ考えてしまう。

  •  英語での操体指導

    先の東京操体フォーラム
    実行委員のグレゴリー・ローゼンによる
    英語での操体指導を披露した。
    言葉の方向性が正しければ
    言語を越えて通じるのである。