カテゴリー: 三浦 寛(みうら ひろし)

  • 温古堂を追い出される

    おはようございます。同志の皆さん起きてますかー。今、真夜中の午前3時です。(バカ言うんじゃない、静かにしてくれ・・と怒声がとんできそうですね。失礼しました)
    二日目のブログです。

    話しが少し前後してしまいますが、私が橋本敬三先生のところで、デッチ奉公を終え東京で開業したいきさつも、先生の一言で決まってしまったのです。5年あまりの修行時代を過ごしたのでしたが、まだまだ先生の側にいて学んでいたかった、というのが私の本音でした。先生の側にいれれることが最高に幸せだったのです。ところが私の思いは一瞬にあわい期待だけで打ち砕かれてしまったのです。私は鍼灸の学校の卒業を目前にしていました。鍼・灸の国家試験にもなんとか合格させていただき、卒業後の進路もボチボチ考えなければならないという矢先に、温古堂を追い出されてしまったのでした。
    (悪【ワル】をして破門されたという訳ではないので、誤解しないで下さい。私は先生に可愛がられ、愛されていましたから・・・・)

    卒業を目の前にした三月のある日、大きな火バチを囲んで、先生と私はおいしいお茶を飲みながら、向かいあっていました。突然、先生は「こんなところにいつまでも、いる必要はない!佐助、おまえは東京で開業しなさい」と切り出されてしまったのです。一瞬絶句です・・。
    佐助とは、先生が私につけて下さったあだ名です。どうして佐助かと言いますと、「おまえはいつもワシの話を最後まで聞かずに飛びだしてしまう、まったくおっちょこちょいですばしっこいヤツだ!」ということで、佐助というあだ名がついてしまったのでした。

    定禅寺通り 旧温古堂医院(昭和20年〜25年頃)

    じつは、話が前後しますが、私が弟子入りする時、先生は神戸にいる私の父を仙台に呼んで、「当分の間、息子をあずかるが、それでいいか」と、承諾させたというのです。そこまで配慮して下さった先生に、心から感謝です。
    このことは開業してから父に聞かされてはじめて知ったことでした。そうして5年間の修業がスタートしたのでした。スタートするに当り、先生は私に「ワシのことに気をつかうことはないからな。どうか家族の者に嫌われないように心してくれ」と言われたのでした。その先生の励みの言葉を胸にして、私は修業の毎日に入ったのでした。幸いにも先生の奥さまに私は気に入られ、順風に着々と志をまっとうしていくことができたのです。奥さまの心づかいは、とってもあったかなもので、身に入るものでした。食事にも気を配っていただいて、なによりもありがたく感謝したのは、ご家族の方々と同じ食事を一緒にとらせていただいたことです。それも腹一杯にお腹を満たすことができたことでした。
    そして、奥さまは私の耳元で「三浦さん、何一つ心配しないでいいのよ。オジイチャンが目をかけ、弟子にとったのだから、安心して、思う存分学びなさい」と言って下さったことです。これは奥さまが先生にむけた、信頼のきずなでもあったのです。
    奥さまは照れやの方でしたが、こよなく先生を信頼され、愛されていたのでした。
    それが、私に対して「何一つ心配はないから、思うぞん分、おじいちゃんの側で学びなさい」という言葉にあらわれているのではないでしょうか。

    ★晩年の奥さま。中庭にて(撮影:三浦)

    先生と奥さまの日常を5年余り、肌で感じ見させていただき、先生と奥さまのエピソードが私の脳裡にたくさん、つまっています。それはまたの機会にお話できるでしょう。

    橋本敬三先生に耳を診てもらっている奥さま(昭和50年)

    先生と奥さまの間には6人のご子息がおられますが、この奥さまの力は絶大で、どのご子息も「肝っ玉母さん」と尊敬し、親しみ、家族愛に満ちたものでした。

    その中で、年に何度か三男のホテルオークラ勤務の保雄さんが、東京から帰省され(のちにホテルオークラの副社長を勤める)、私をつかまえ「三浦君、オレが一番おそれるバアサンにすごく可愛がられているようだな。バアサンのどこをくすぐったらああなるんだよ。オレにも教えろ!!おまえ、とにかくバアサンの目にかなってよかったなァー、バハハハ・・・」と、豪快に笑い飛ばしたあの笑顔が今も忘れられない。その保雄さんも06年の夏に他界されてしまった。私が開業するにあたって、淡島の治療室を紹介してくださったのも保雄さんであり、人体構造運動力学研究所の看板(木製)をプレゼントして下さったのも、保雄さんであり、開業して7年後、ホテルオークラのヘルスクラブの顧問に迎えて下さったのも、保雄さんであった。
    それも、これも先生が「弟子の三浦の面倒を見てやってくれ」とのご配慮があっのであろうと感謝せづにはおれないのである。人のご縁はとくに大切にしなければならない。切るのは簡単である。このご縁を大切にしたければ、「こたえていく」以外にないのである。ご恩を忘れず、こたえていくこと、それが一番の誠意であろうか、それが自分がみがかれることであり、自分が自分として立っていけることなのだろうと思う。
    保雄氏は先生のよき理解者となり、NHKのドキュメンタリー、NHKの「人生読本」への働きかけを実現され、又、先生の意志をくまれ、ホテルを利用する大切なお客様の健康をねがい、日本で最初のヘルスクラブをホテルオークラにオープンさせたのである。保雄さんが定年退職を迎えられた年に、副社長室によばれ「三浦君、オレは退社するがおまえはどうする。しばらくいてくれないか、おまえのためにもいいはずだ」と言って下さった。私はオークラの顧問を保雄さんから託され、30年になる。
    当初は橋本先生への恩返しのきもちで、保雄さんが他界された後は保雄さんへの恩返しのきもちで、ご奉仕させてもらっている。生前、保雄さんが、三浦君、もっとオークラを利用しなさい、とハッパをかけられたこともあるが、たとえ、世界のオークラであっても、自分のために利用するきもちにはなれなかったのである。
    ひたすら、師のご恩に報いることだけを考えていたからこそ、奉仕に励んでこれたのです。
    もう、お前さんには用はないよ、と言われれば、だまってオークラを去るだけのことで、何も最初から私には失うものはなかったのですから、十分に満たされてオークラを去ることができるのである。

    三浦寛

  • いろ〜いろ気づくままにムニャムニャに・・

    5月18日(日曜日)午前3時20分
    日曜日に入り、3時間20分が経過しました。島根の福田さんの後は、三軒茶屋の仙人こと、三浦がブログを担当します。一週間どうぞよろしく。

    今、三茶のモスバーガーでブログ用の書き込みをおこなっています。頭はスッキリしてるんですけど、おめめが眠っていて、パッチリしないんですよ。コーヒーを飲みながら一服して暗やみの空をポーッとながめています。5月も、中旬。寒さもやわらぎ、朝の外気もからだにやさしいですネ。
    うんじゃあ、ブログ、書きはじめます。

    「いろ〜いろ気づくままに、ムニャムニャに・・・・」

    私は23歳の時に、5年間の修行をおえて大東京にでてきました。そて居場所を世田谷に定め、現在三軒茶屋に拠点をすえ、腰に深く深く根っ子をはやし、そして張りついて、日々操体に想いを寄せ、その渦の中心にいて、発信しつづけてきました。

    私の治療室は、三軒茶屋の三叉路を150mほど玉川通り(246号線)に入り、一つ目の信号を左側に入ります。入るとすぐそこが栄通り商店街。商店街に入って二つ目の路地を右側に入った2つ目の建物の、一階の一番奥の部屋にあります。

    看板はかかっていません。ただ名刺が一枚かろうじて玄関の戸の中央に貼られ、治療室の存在を示しているだけです。

    三軒茶屋の地下鉄の駅、南口から徒歩3分ほどでしょうか。駅から近くてとても静かなんですよ。驚くほど静かな空間を保っている、私、お気に入りの治療室です。

    さて、三軒茶屋の街をすこし紹介しましょうか。

    三軒茶屋には大きな三叉路が走っています。その一つは若者が住んでみたい街ベスト1、下北沢に抜ける茶沢通りと、環状7号線から狛江に抜ける世田谷通り、東名インター(東京インター)に入り厚木に抜ける玉川通り(246号線)です。玉川通りにそってその上を首都高速が走り、その交通量たるやハンパじゃないし・・この三叉路の騒音のひどさは日本一なんですよ。島根の福田さんこと、坂本龍馬が住む島根の環境とくらべたら、想像を絶するような不健康きわまりない都心空間のなかで、排気ガスをたっぷり吸い込みながら、しぶとく生きつづけているんです。この、マァこんな三軒茶屋もなかなか愛着がある街なんです。気さくな街、気取りがなくて肩が張らない、イイ街なんです。このこよなく愛する私の街、三軒茶屋の由来を少しお話しておきましょう。

    今も、玉川通りと世田谷通りの交差点の三角地に道標が立てられています。その道標を改めて、先程見てきました。

    『大山道 寛延2年(1749年)文化9年(1812年)再建される。大山道は矢倉沢往還の俗称である。この道標(大山道)は、旧大山道(代官屋敷前経由)と、文化・文政期頃に開通したといわれる、新大山道との分かれ道にあった石橋楼(三軒茶屋地名のおこりの茶屋の一つ)の角に建てられた。大山は古い民俗信仰である石尊信仰と、山岳仏教の信仰とが結合し、相模の修験道場として、重きをなし、将軍をはじめ多くの人々に尊崇された。とくに文化文政期以降は、江戸町人の大山詣りが盛んとなり、その案内のため大山道沿道に多くの道標が建てられた。』

    当時の三軒茶屋は中馬(ナカウマ)引沢村、太子堂村、上馬(カミウマ)引沢村と、野沢(ノザワ)村の四集落からなり、これが現在の下馬、上馬、三軒茶屋太子堂、野沢の町名なのです。

    この三軒茶屋、今は地下鉄の開通によって渋谷まで5分、急行で3分、なんてったって交通の便はバツグンで、どこにでも抜けられるのです。東京駅に出るにも成田に出るにもとても便利です。この地下鉄が開通する十数年前は、陸の孤島といわれ、交通網はバスの路線だけでした。
    私が最初世田谷で開業したのは、今の三軒茶屋から下北沢に抜ける茶沢通りを走り、その中間地点にある淡島(三茶から徒歩15分)でした。そこで開業したのです。
    文化・文政の時代で言えば、太子堂村淡島と呼ばれていたのでしょうか。その治療所は太子堂中学のスグ裏手にあり、近所には聖徳太子をまつる神社があります。
    太子堂とは、聖徳太子の太子をとったものと思われます。太子堂中学も、かなり昔からあったのでしょうね。この中学校で思い出しましたが、歌手のEPOさんをご存じでしょうか。
    EPOさんは私の顧客でした。頻繁に通院していただいて、とても心のかよいあえる方でした。EPOさんの澄みわたる、きれいな歌声がとても印象的です。

    ところで、私が淡島で治療所を構えたお屋敷は『窓際のトットちゃん』で有名な黒柳徹子さんが、あの当時住んでいたお屋敷だったのです。

    この近所ではかなり目を引く屋敷で、ゆったりとした敷地の中に立てられた日本風家屋で、中庭は日本庭園風で、徹子さんのご両親が丹精をこめて育てた四季折々の草、木、花が植えられて、とてもきもちのいい空間でした。私はよくこの中庭で昼寝をしていました。

    私に治療室として与えていただいた空間は、16畳ほどの洋間でした。その洋間の中央に大理石で造られた暖炉が埋めこまれ、天井はさくらの木をふんだんに使った二段づくりの天井、そして床はやはりさくらの木にモザイク模様が一面に埋め込まれた、すばらしい一室だったのです。私はこの太子堂村淡島で15年間患者さまを診させていただくことになったのです。

    ところで、私自身とても居心地のよい環境だったのですが、患者さまがこの陸の孤島まで足を運んで下さるのか少し心配でした。それに『人体構造運動力学研究所』とうい看板でした。この看板をみて、いったいここは何をなさるところやら、まったく不親切・・。開業した立地条件といい、この看板といい、今にしてみると、「おまえさんは何も考えていなかった・・」ということになってしまうのですが、それは若さゆえのこわいもの知らずがなせること、何にもなくて、何も失うものがないところからのスタートだったのでした。

    今日はこれでおしまいです。明日は
    「温古堂を追い出される」
    の巻です。

    追伸 皆さん、私がブログをひとつ打てないことは了解ずみと理解していますが、この一週間書き込みを行ったものは、まづ、畠山さんに送られ、彼女が私の代わりにブログの打ち込みを手助けしてくれています。畠山さんからは、いくら長い文章になっても気にしないで発信して下さいとの励ましをいただき、気兼ねなく書かせてもらっています。本当にその心づかいに感謝し、三浦センセイはこの一週間トン走いたします。

    三浦寛

  • ◎21世紀の息・食・動・想・環を考える(インタビュー)

    「月刊手技療法」には、「シリーズ操体」が8年に渡って連載されています(08年現在、三浦、今、畠山が担当)。
    この記事は1999年4月の「月刊手技療法」に掲載されたものであり、同年秋に同出版社より発行された「快からのメッセージ 哲学する操体」への伏線となっています。
    (一部畠山編集)

    1999年4月号月刊手技療法
    《巻頭インタビュー》 ◎21世紀の息・食・動・想・環を考える
    三浦寛先生に開く  「快適感覚」の聞き分けこそが操体法

    橋本敬三先生の遺した操体法の本質とは何だったのか
    今回は本記事のテーマ「息・食・動・想・環」の提唱者である橋本敬三先生(1897-1993)と、その創始による操体法について、操体法の第一人者である三浦寛先生にお話をお伺いしました。
    快適な方向へ体を動かして間を置いて脱力する、という操体法は、その安全性と、一人でも実践可能であることから、治療家のみならず一般家庭での健康法としても広く普及してきました。しかし、操体法の本質については誤解されている面も多々あるようです。このインタビューでは三浦先生にそのあたりを中心にお話していただけました。

    恩師・橋本敬三先生との出会い

    本誌:先生が操体の道に進まれたきっかけについてお聞かせください。
    三浦:高校を卒業して仙台の赤門鍼灸柔整専門学校の柔整科に入学したのですが、そこに操体の創始者である橋本敬三先生が講師としていらっしゃっていたんです。
    柔整科には橋本先生の講義はなかったのですが、先生が講義をされている様子をお見掛けすることがあって、「変わったことをお話する先生だな」と思いながらも、何か興味を惹かれるものがあり、それで、「先生の科目は柔整にはないのですが先生の講義を聞いていてもいいですか」とお願いしたら、「おお、一番前で聞け」ということで、先生の講義を受けていたわけです。
    そのうちに「ワシは温古堂という診療所を開いている医者なんだが、お前ちょっと来てみないか」と声をかけていただいて、「お前、ここでワシのやっていることを勉強せい」と言われて。
    僕としては、本当にありがたかったのは、自分が何のためにこの裟婆 (しゃば)に存在して何を為そうとしているのかが、その頃まだ分からなかったのですが、橋本敬三というヒトに触れて、俺のやろうとしていたことはこういうことだったんだ、このためにこの裟婆にうまれてきたんだ」という気持ちになったんですね。そもそも橋本先生が操体をやっているということも最初は知らなかったわけですが、とにかく人間的に惹かれたわけです。

    本誌:弟子入り当初、橋本先生はおいくつでしたか。

    三浦:ちょうど橋本先生70歳で、僕が18歳。

    本誌:本当に孫と祖父という感じですね 。

    三浦:先生にしてみればそういう感じだったんでしょうね。ただ、偉い先生なんだけども威張ったところもないし、「自分も年をとったらこういった枯れ方をしたいな」という生き方を持っていらっしゃる先生でした。自分がどう生きていったらいのかということを先生から学ばせていただいたような気がします。

    操体の魅力とは

    本誌:操体の魅力とは何ですか。

    三浦:操体には、疾患に対してこういう風に診断しなさい、こういう風に治療しなさいということがないのです 。橋本先生の捉えかたは、どんな疾患でも必ずボディに歪みがある、この歪みが疾患現象を引き起こしている元の原因、元の原因を正しさえすればそれでいいんだ、という発想なんです。
    ここにもいろんな病名を付けられたカがいらっしゃいますけれど、僕は病気の治し方は知らないんですよ。知らないけれどもこうやって患者様とご縁をいただいてこういうことをやらせていただいて成り立っているわけです 。そこがやはり操体の面白いところというか、別に疾患を治すという捉えかたをしなくても対処できるということですよね。

    本誌:操体はあまり効果がないという方もいらっしゃるのですが、それは何かやり方がまずいのでしょうか。

    三浦:我々が操体の中で、そして生きることの中で絶対視しているのが「きもちが良いという快適感覚にしたがう」というルールです 。それは操体のルールではなく、命あるものは必ず快に向く、という法則があるのです。実際に臨床の場でどういう具合に快適感覚を活かすのかという快の方向性を橋本先生が示しているわけですが、みんなは橋本先生のやり方しか見てないし、創始者がやっているやり方だからそれをまねていればいいだろうと思っているわけです。しかし、奥が深いんですよ。快適感覚を聞き分ける手段はまだ沢山あるわけで、その探求がまだ不十分ではないかと思います。
    私自身も橋本先生のされていたことを肯定はしてはいるのですが、100%鵜呑みにして理解しようとしているのではないのです。創始者のやっていることだからこれは間違いないことだろうとなると、それ以上深めることができず、ただ真似しているだけということになってくる。そうなると操体そのものをよりよく活かしていけないわけです。

    本誌:具体的にはどういうことでしょうか 。

    三浦:操体を体系付ける前に橋本先生は正体術(*)というものを見ていました。正体術に橋本先生が興味を示したのは「痛くない方に動かして治すことが可能であれば、こんな素晴らしいものはない」という考え方があったわけですね。
    ただ、操体の診断や治療の中で、楽な方に、痛くない方にという風に臨床を進めていくとやはり間に合わない点が出てくるわけです。楽な動き、または痛くない動きに「きもちが良い」という快適感覚が実際にある場合とない場合があるんですね。きもち良いという快適感覚がある場合には操法が非常に有効なんです 。そういったことが分かってきたんですね。逆に楽な方、痛くない方に動かしても「きもち良い」という快適感寛がない場合はそれほど効果がないんです。

    快適感覚の探求

    本誌:関節可動域の差や動作痛の有無で操作方向を判断している方も多いと思いますが。

    三浦:操体法を本格的にやっている先生でもそうなんです 。楽な方、痛くない方へという操法の問いかけ…は、操法の選択として最少最低限の受容感覚なんですよ。
    たしかに基本的には間違ってないですが、「きもち良い」という快適感覚でバランスが取れ歪体が正体に戻るいうことを橋本先生もおっしゃっているわけです。
    これは言葉でごまかされている部分があるんです。楽な動き、痛くない動きは「きもち良い」ものだという先入観がある。しかしそうではないんですよ。ただ単に楽というだけで快適感覚がないケースが結構あるんですね。
    そのきもちが良いという快適感覚があるかないかという感覚分析ができてないから内容が乏しい。「なんだ効かないじゃないか」ということになってしまうわけです。そこの気づきを持っている先生が少ない。

    本誌:きもちがいいということが重要ということであれば、可動性が少ない側であってもその動きに快適感覚があれば、その方向に動かすこともあるわけですね。

    三浦:そうなんです。きもちよさで治るんですから。だから、動きが目的ではなく、快適感覚を聞き分けさせるために動きを手段にしているわけです。多くの人たちは動きがメインで感覚をおざなりにしているところがあると思います。
    橋本先生も晩年は「操体というのはどうでもいいんだ、とにかくきもち良さを楽しめ。それしかないんだ」ということを言われていました。

    本誌:実際の臨床ではその快適感覚が全然わからない方もいらっしゃると思いますが。

    三浦:そういう場合、ひとつのプロセスとしてきもち良さがわからなくても比較対照的に動きを分析すれば、楽か辛いか、痛いか痛くないかぐらいは分かるんです。だから一つの方法として、それだったら辛い方から楽な方に、痛い方から痛くない方にやりながら、そういった感覚の聞き分けを、体を通して学習していく訳です。一方、「きもち良い」という感覚が分かる患者さんには一つ一つの動きにきもちの良さがあるのかどうかを聞き分けさせていくのです。つまり、「一つ一つのどの動きにきもち良さがあるのか」を聞き分けさせていくという、新たな操法の問いかけもできるのです。さらに、きもち良さの質的要求として、快適感覚があっても、からだがそのきもち良さを要求してくる場合と、そうでない場合が出てくるんです。つまり、きもちの良さにもなんとなくきもちが良いケースもあれば、無上にきもちが良いケースも出てくる訳ですね。そこで、からだが要求し、選択してくるきもちの良さを聞き分けるという試みも生れてくるのです。つまり、からだの要求感覚ですね。
    そうなるとただ「きもち良い」ではだめなんです。なぜなら快の質というものをからだは求めており、からだが要求してくるきもち良さを通すのが一番理にかなった操法の選択となるんです。

    本誌:体が求めている快適感覚の聞き分け自体が診断であり治療なんですね。

    三浦:ただ、寝たきりの人とか動きを通せない患者さんもいらっしゃるわけで、そういった方にどうやって快適感覚を聞き分けてもらうか 。あと、もう一つは、動きはとれるけれど感覚の分からない患者さんにどう対処していくのか 。これは操体をやっていて長年の課題だったんです.そして、操体というのは運動系(骨格・関節)を動かして診断しているわけですが、それが不可能な患者には、運動系の一番外枠である皮膚に、快適感覚の問いかけをもたせていけばいいのではと考えたわけです。快適感覚の分からない人でも皮膚を動かしているとそれが分かってしまうんです。以前やっていたものはこれだけいいけれど、今こういった観点から捉えていった方がより活かせるといった発展的な考え方から僕は操体というものを捉えているわけです。

    自分を愛せない現代人

    本誌:先生から見た現代人の問題とは何でしょうか。

    三浦:ひとりひとりの心が塞いでいるという印象ですが、これは何かというと自分の命を軽く見ているということなんです。そうすると人の命も軽くみてしまい、人を傷つけたりといったことも起きてくる 。自分を愛せない自分が存在しているわけで、相手も愛せないからすぐ傷付いてしまう。

    本誌:自分を愛せない人は生きていても快適な感覚がないでしょうね 。

    三浦:それは、快適感覚を自分の外に求めているから。そうではなくて自分の内側にあるという捉え方ができないんですね。そういった中で味わえる快というのは薄いでしょうね。

    本誌:一般的に快といえば、お酒やセックスなどの連想があるかと思いますが。

    三浦:要するに依存症を伴うような刺激ですね。でも、本質的に人間が求めている快適感覚ではないですよ。刺激性を伴わない、ヒトがヒトらしく生きていくために本質的に心とからだが求めている快というものがあるわけです 。そういったものに気づいていかないといけない。
    心とからだが本当に求めてくる快適感覚が分かると、心とからだは素直になるんです。やはり自分自身を愛せないと、また自分がきもち良くないと人を愛せないし、人に親切にしようというきもちも起らない 。きもちよさに対しては委ねていたいと思うから、患者さん自身心もからだも素直になれるんです。
    それは快(きもちの良さ)の学習なんです。学習を通し味わっているうちにだんだん心とからだが要求している本質的なきもち良さに触れることができるんです。そうすると本当に素直になる。その本質的なきもち良さが無上のきもち良さというのかな。それに触れることによって自分の人生観、世界観が変わってくるんです 。たしかに患者自身は膝が痛いとか、胃にポリープができたとか、肉体に疾患を抱えて「なんとかしてくれ」と来るんだけど、一番我々が望んでいるのは、快適感覚を味わうことによって生き方が変わるということ。人生観が変わるということなんです。

    本誌:操体の世界というのは、入口は入りやすいですが、中に入ると果てしなく深く広いという感じですね。

    三浦:橋本先生は我々のような内弟子には「お前ら、よくこんな難しいものに首をつっこんでやってくれているな。難しいけれど、これは一生やってても面白いぞ」と、そういったことをポツポツと言うわけです。決して「簡単」なんて言いませんよ。難しいのだけれど一生楽しめる、と。操体の本質は「感覚」なんです。だから難しいですよ。難しいけれども、きもち良いという快適感覚に従うということが、生きていく上での無上、この上ない生かされし道(タオ)とすれば、それを探求していく面白さというのは尽きません。だから、僕は他のこと(治療)はしないで、快適感覚にしたがうという、大生命の理に委ねてみせていただいているだけなんです。

    本誌:息・食・動・想・環にわたってその原理は生きているんですね。本日はお忙しい中、本誌のために時間を割き、体の治療に止まらない操体の奥深い世界を語っていただきありがとうございました 。

    (*)ここでいう正体術とは高橋迪雄(みちお)先生によるものを指す 。関連書籍『正体術健康法』はたにぐち書店より発刊されている 。